「ハルちゃんと猫又」平田 黒

 私には、尻尾が二本ある。
 いつものように居間のソファで丸くなって眠り込み、目が覚めたら一本だった物が二本になっていた。ヒゲが全部抜けそうな程驚いた。
 しかし25年も生きている猫ならさもありなん。そう、妖怪「猫又」へと進化したハイスペックなオレンジ模様の雌の老猫である。ちなみに名は「トラちゃん」。昭和の長屋を感じさせる名だ。
「へぇー、長生きな猫ちゃんですね。・・・もしやミイラですか?」家に来る人間は私を見る度、愛想笑いしながら少し引きつった顔をする。
(ミイラだと失礼な!)首をもたげ、濁り始めた老眼でカッと睨む。
「ヒッ、この猫、人の言葉がわかる?」
 当然である。25年も生きていれば、人間の発する言語など自然とマスターできる。でもこちらから喋ることは喉の構造上、不得意らしい。
 以前ママに朝一番「お早う」となんとか頑張って挨拶したら、「えっ!今トラちゃん『オハニャン』て鳴いた?もしかして喋れる?」とママは狂喜乱舞。
「ただの変な鳴き声だろう」
 その後、パパにさっぱりと否定され、ママはがっくりした。どうやらママは、動画に投稿して、一儲け狙っていたようだった。ママは結構がめついのである。
 しかし、私の二本の尻尾はどうやら人間には一本にしか見えないらしい。新たな一本の尻尾は、以前からあるようにお尻に付いており、結局一本であろうが二本であろうが大差ないので、私はそのままにしている。たまに庭を横切る新参者の外猫が二度見してくるが、むしろ誇らしげに見せつけてやる。
 特に変わらず穏やかな老猫人生を楽しんでいる私に、ある日事件が起こった。

 ハルちゃんが、初めて己の力のみで「乗り換え」をするというのだ。
 ハルちゃんは、今年10歳のこの家の一人娘だ。小学校から帰ってくると、いつも猫の私を相手に、人形遊びやおままごとをして楽しむ、言うなら人見知りの女の子。以前、私が集会や縄張り確認の為、頻繁に外を出ていた時から、周り近所には子供が少なく、またハルちゃん自身も自ら声をかけるタイプでは無かったので、いつも一緒に遊ぶ人間の友達はいなかった。
 そこで、まだオギャと泣いていた時から見守り続けたこの私が、当然遊び相手をしなければならなかった。ハルちゃんは、私に向かって「最近お腹に肉が付いた」とか、「アレがそれでね~」等ママの真似をしたり、「トラちゃん!ダメヨー落ちていた物を食べたら」とお姉さんぶる。
 しかし一歩外に出て、近所の人から声をかけられると、ママの背後へ瞬間移動する内弁慶。ママの手をギュッと握るハルちゃんを私は塀の上から心配しながら見ていた。
「この子はちゃんと巣立つのか」と。
 その後、私は足腰も弱くなり、外には行けなくなった。しかし馴染みの外猫から窓越しに報告は受けており、やはり最近の外でのハルちゃんは、相変わらずのハルちゃんであった。
 そんなハルちゃんが、明後日ピアノ教室へ一人で行くというのだ。
「これは一大事!」
 ソファの上で目を瞑りながらも、耳をピクピクさせ家族の会話を来ていた私はそう思った。
 半年前から通い出したピアの教室には、電車を2つ乗っていく。最寄りの瀬谷駅で相鉄線の電車に乗り、次の大和駅で小田急線に乗り、鶴間駅で降りるのだ。つまり、乗り換えが必要なのである。
 数週間前、一人でピアノ教室へ行けるかどうか、わざとハルちゃんを先に行かせて、ママがこっそり後ろから着いて行った。ハルちゃんは、乗り換えの大和駅構内で、一人ウロウロして遅刻しそうになった為、それまで柱の陰から見ていたママが、急いでハルちゃんをピアノ教室まで引っ張って行ったのだった。
「まだ、10歳じゃ一人で行けないのね。」ママはパパに仕方が無いわと言っていたのが、ちょっと前の話。
 今回はどうしてもママの実家である中華料理店の手伝いで帰りが遅く、ピアの教室にハルちゃんを連れて行けない。ピアの教室の発表会も近く、休むわけにはいかない。だから、ハルちゃんが一人でピアノ教室に行かなければならない。
 私が見上げると、ハルちゃんは顔を青白くさせ、首をブンブンと横に振って、絶対嫌だの意思表示をしている。
「今日キャンセルの電話をしても、一回分のお月謝代は戻って来ないの。それに発表会の参加費用も払っているし。ハルちゃん、もう10歳のお姉さんだから一人で行けるわよね」ママは笑顔でハルちゃんに語りかける。
 ママは鬼である。節約家という鬼である。
 ほんの少し前「ハルちゃんはまだ10歳だから~」発言が無かったことになっているではないか。ハルちゃんは、不安を通り越して、恐怖感で固まっている。
「わからなかったら駅の人に尋ねるのよ」
「何かあったらパパの携帯に電話するんだぞ」
 ママは元気づけるように、パパは涙目でハルちゃんの行く末を案じている。
 言葉を降り注がれ、ハルちゃんは人形の様にコクリコクリと頷いているが、心は北極に行って、ブリザードに埋もれているかの様だった。私は彼女の手を温めるため、ザリザリと舐め続けていた。

 乗り換えは明後日。
 あの時からハルちゃんの言葉数が少なくなり、何だか動作も鈍い。テレビに流れる大好きなアニメ番組にも、ハルちゃんは上の空。横に座っている私には、彼女の頭の中が盛大にパニックっているのがわかった。こんな状態で乗り換えなんて、出来るわけが無い。悲惨の結果が猫の目に見える。
 しかし、司令塔のママは絶対。パパは・・・使えない。
「わたしがハルちゃんをサポートしないと」
 私はそう決心した。しかし、足腰が弱い老猫一匹では何も出来ない。やはり人間の力が必要だ。そして、その候補の人間はいる。
 トラの二本の尻尾は、力強く揺れていた。

 尻尾が増えたこと以外にも、驚くべき進化があった。自分の体から抜けて、好きな場所に行けるのだ。言うなれば「幽体離脱」というのであろうか。
 私は、本体をソファに残し、近所でも評判の大きな一軒家へとふわふわ浮きながら向かって行った。外国式のアーチ型の門前で、一匹の黒猫が二本の前足を揃えて、トラを待っていた。
「トラ姉さん、お久しぶりです。うぁ、マジで飛んで来たんですね」
「ふふ、ジジ、今回の件は迷惑をかけるわね。」
「何を言っているんですかい。あっしが風来坊の頃、姐御にこの家へ連れて来てもらって、おかげで今は飼い猫として、お腹いっぱい食える生活を得られたんですから」
 この黒猫の名は「ジジ」。一時期なぜか多くの黒猫に付けられた名前である。この大きな家は、特に黒猫を好んで飼い続けていた愛猫家であった。三代目黒猫が死んだ時、食うか食わずの野良猫生活であったジジに、トラはこの家の前でわざと倒れるように仕向けたのだ。結果ジジがこの家の者に拾われ、4代目黒猫におさまった。その為、ジジはトラを命の恩人として慕っている。トラは猫又でもあり、野良猫斡旋屋でもあったのだ。
「こっちですぜ。ついて来てきくだせい。」
 ジジは裏手の縁側に行き、猫一匹が入れる程度の隙間がある窓からスルッと中に入り、二階へ行く階段へとトラを誘導する。二階のある部屋の前に着くと、ジジはガリガリと数分間辛抱強くドアを引っ掻く。すると、ゆっくりドアが開いた。
 サッと入っていくジジに続いて、トラも部屋に滑り込むと、その部屋は昼間なのに雨戸を閉め、薄暗く、酷く拒絶している空気が充満していた。
 トラが丸い瞳を凝らすと、白い灯りがポツンと、その前でカチカチと音を立てて座っている人間がいるのがわかった。
「ジジのご主人って・・・ネトゲ廃人?」
 そこには、眼鏡をかけ、長髪をボサボサにして、「このスキルで・・・」と独り言を言いながら一心不乱に、昼間からパソコンゲームをしているアラサー女子がいた。
「ご主人は、数ヶ月前から自宅警備をしているんです。こうやって、日々悪者がやって来ないか、見張っているんでやんす。」
 ジジは得意げに胸を張って言う。「あっしも、ご主人を見習って、縄張りを頑張らなくちゃって思ってるんです!」
(いや、どうみても痛いニートだよ)
 トラは思い出す。ハルちゃんが生まれる前、パパがゲームに夢中で、休みの日部屋から一歩も出ず、ママと大喧嘩したことを。
「・・・取りあえず、あなたのご主人様とお話しをしたいんだけど」
 トラがジジを促すと、「了解」とジジはパソコンのキーボードの上に乗り、腹を出して寝転んだ。必殺「邪魔して、そしてかまって」戦法だ。しかしジジは、無言で外された。
 ジジは、カチカチ鳴らしている手を必死に甘噛みして、こちらに視線を向かせようとしているが、敵は全く気にしてない。二人の攻防を静かに見ていたトラだったが、最終ジャッジを下すことにした。
「ニャッ」
 トラは机に飛び乗り、キーボードの上に青く光っているボタンを肉球でポチッと押したのだった。
「イヤァー!!!」
 ブーンという機械音の後、近所中にアラサー女子の断末魔が響いた。

「ひっ!尻尾が2つ・・・リアルモンスターがいる」
 万年床の掛け布団を被り、ジジの主人三谷真梨がブルブル震えながらトラを見つめる。
 そう、このアラサーニートは霊感が強いのである。
 そのことにトラが気付いたのは、尻尾が二本になって間もない頃、出窓で外を見ていると、瀬谷駅に向かって歩いていた真梨と目が合った。その瞬間、真梨は青ざめ、ダッシュで駅へと逃げたので、霊感有りとトラは確定したのであった。
『ジジのご主人、あなたに頼みがあって来ました。私のお願いをどうか聞いて欲しい』
「えっ、頭の中に声が」
 猫の喉では人語は発音できないので、直接脳内に話しかけることにした。
「そんな・・・馬鹿な。はっ!ホラゲの中に転生?」
 何やら布団の中でオロオロし始め、そんな主人に触発され、ジジは部屋の中を走り回っている。
「二人とも落ち着いて!ほら、爪研ぎでもして」
 一方、トラも心を落ち着かせようと、部屋の柱をバリバリと爪研ぎを始めた。結局、三者が落ち着いて話し合うまで、少しの時間が必要であった。

「つまり、そのオレンジ妖怪猫の家の子をサポートして欲しいと。でもね今、忙しくて部屋から一歩も出れないのよ。幼い子一人で乗り換えは確かに心配だけど、無理なのよね」
「ご主人は24時間年中無休この家を守っているんでやんすよ!」
『ニートですよね。仕事を辞めて、無職で、ゲームばかりしている人間ですよね』
「へっ!ほっ!?」
「ニート?ご主人、ニートってなんすか?」
 真梨は、トラにはっきりと言われ動揺し、ジジはニートの意味がわからないようで、真梨の膝の上に乗って、質問している。
『ジジがニートの意味を知りたがっていますよ』
「うっっ・・・それは・・・」
 やはり真梨は、ジジの前では格好良い主人でいたいらしい。トラは最後に一押しをする。真梨の前に青色のカードを出す。
「こ、これはアマ〇ンカード。一万円分だと?」
「どうです?このカードがあれば、家から一歩出ずにお買い物できますよ」
 その魔法のカードは、パパが引き出しに隠していたへそくりである。ハルちゃんの為なら、トラは悪い事だってする。だって、生まれて来た時からずっと見守ってきた可愛い子の為なのだから。
「日給よりいいなんて・・・ムムム」
『この家の家族を守る為に会社を辞めて警備なんて、素晴らしい犠牲愛です。ぜひその慈悲深い心でハルちゃんをお助け下さい』
 トラはジジの前で真梨を持ち上げる作戦に出た。
「ご主人様、あっしからもお願いしやす。姐御を助けてくだせい」
「ま、ジジのお願いなら、飼い主としては引き受けなくちゃいけないわね」
 ジジは前足の間に頭を入れ、お願いのポーズ。さすがに真梨もジジの言いたい事がわかり、ジジの為にも了承するのであった。真梨もジジには甘いのだ。
 トラは真梨と綿密な打ち合わせをして、翌日を迎えた。

「行ってきます」
 ハルちゃんは小さな声で、誰もいない家から歩き出す。
 幼顔ながら眉に皺を寄せながら、駅へと行進する姿は、まるで死地に行く戦士のようだ。彼女の横を通り過ぎる何人かの通行人は、ギョッとして振り返っている。
 その幼女戦士をこっそり尾行している、猫又とニート女子がいる。時には電柱に隠れながら、つかず離れず見守り中。
 結局、ハルちゃんの後をついて行き、乗り換えの大和駅で、真梨が「どうしたのかな~」と近づき、ハルちゃんを誘導するという、とてもシンプルな作戦となった。ちなみに真梨の本日の格好は、長いボサボサの髪の毛を後ろでまとめ、久しぶりに商社勤めだった頃のスーツを着ている。いつものヨレヨレのスエット上下で行こうとしたら、トラに慌てて止められたのである。
「あら、ハルちゃん、一人でお出かけ?」
声をかけてきたのは、買い物帰りの向かいのおばさんだった。しかし、ハルちゃんはひたすら前を向き、おばさんを見事にスルー。
『・・・テンパッテル感が凄い』
「あちゃー、全てが敵のようだね」
 ハルちゃんは緊張感マックスで、ただ足を前に出して歩いているようだった。
『これでは・・・』
 トラは、乗り換えの大和駅で右往左往して大泣きするハルちゃんを想像する。
(ママは本当に鬼母だ。やはり私が、ハルちゃんをこれからも助けなければならない)
 瀬谷駅には、帰宅ラッシュ前ということもあり、人通りも少なく、無事に到着できた。相鉄線の電車もいつも乗り慣れている電車なので、特に問題なくハルちゃんは乗り込んだ。真梨もハルちゃんと同じ車両に乗り込み、数歩離れた場所で見守っている。
「ちょ、ちょっと邪魔!尻尾の無駄遣い!!」
 突然の真梨の焦った独り言に、周りは不信の目を彼女に向ける。人に見えないトラが真梨の肩の上に乗り、二本の尻尾をゆらゆら揺らして、真梨の頬にわざと当てて、こっそり遊んでいた。猫は退屈が嫌いな動物でもあった。
 一方ハルちゃんは手すりに手が届かないので、足を広げて腕を組み、電車の揺れに対応している。ハルちゃんなりの対処法であった。
『あのハルちゃんが、一人で電車に立ってる!』
「あのね、ここはアルプスの山じゃないんだから。ただの電車の揺れに対応するスキルじゃない。スキルと言ったら、あの攻略法は・・・・」
 真梨は一人で何やらブツクサ言い出したが、トラはまるで歩けなかった少女が歩けたような感動を覚える。
 無事に相鉄線大和駅に電車が到着し、ハルちゃんは人混みに押されながらもホームに下りた。ここからが正念場だ。
 地下のホームに到着する相鉄線を下りたら、階段を登り大和駅の改札口がある一階へ。そこからさらに階段を登って、二階に当たる乗り換えの小田急線のホームへ行かなければならない。前回は、その小田急線のホームがわからなかったのだ。
 その為、地下からの階段を登り切ったら、すぐに真梨がハルちゃんに声をかけ、「乗り換えの電車はこっちだよ」と親切な優しいお姉さん風に誘導するという計画を練ってきたのである。
 初めてのハルちゃんの一人行動。ここで失敗するとハルちゃんの性格上、当分の間、一人行動を異常に拒否する事が、いつも側にいるトラには容易に想像できる。
(絶対に、この乗り換えを成功させなければ、今後のハルちゃんによろしくない)
(誰でも最初の一歩が成功すれば自身が付き、次も上手くいく)
 失敗できない緊張感から、トラの肉球が汗で湿っていく。
 ハルちゃんが地下からの階段を登り切り、改札口のある一階に着いた瞬間、トラは「今だ!」と真梨の足をカリカリと引っ掻く。
「うん、わかってる、今、声をかけるから。・・・私は何処にでもいる、と、通りすがりの優しい・・・お姉さん・・・」しかし、真梨の足は一歩も動けない。
『ちょ、ちょっと早く!!』
 ハルちゃんがピタッと止まり、あらぬ方向を見上げた姿を見て、トラは焦っていた。
「美少女育成ゲームで、幼い子と会話できる練習しておけばよかった・・・・」
 真梨のコミニケーション能力は、ここ数ヶ月の間で下がりまくり、自分の年齢よりも遙か下の女の子の会話なんて、とんでもない事であった。
『ハルちゃんの育成なんかまかせられるか!もう私が行く!!』
 トラは自分が見えない事を忘れて、ハルちゃんに駆け寄る。
「ハルちゃん!その階段を登っ・・・」
 ハルちゃんは、スッと前を真っ直ぐ見て、再び歩き出し、躊躇無く乗り換えのホームへと階段を登って行く。ハルちゃんは、問題なく乗り換えが出来たのである。
(えっ・・・なんで?ほんの少し前まで出来なかったのに)
(もしかして、今まで出来ないフリをしていた・・・)
(乗り換えが出来てしまったら、次から一人でピアノ教室へ行かされるのがわかっていた。それが嫌で、わざとオロオロと芝居をして、まだ一人で行けないアピールをしていたんだ)
(そしてママもハルちゃんの行動の意味を薄々わかっていたから、今回一人で行かせたんだ)
 トラは、一人でこの世界を歩き出したハルちゃんを目の前で見て、胸がつまる思いだった。
「へぇ、もう一人でちゃちゃっと行けるじゃん。しっかりしている子だね」
 動けるようになった真梨は、ホームで乗り換えの電車を待っているハルちゃんを見て感心する。
『ジジのご主人も前を向いて歩くべきよ。ジジ、毎日パソコンに向かっているあなたの背中しか見てないって、悲しそうだったわよ』
 トラにそう言われると、真梨は気まずそうに視線を外した。
 それから、次の鶴間駅で下車をして、ハルちゃんは無事にピアノ教室に着いた。もちろん帰りも難なく乗り換えをして瀬谷駅に到着。電車内で車窓を見ていたハルちゃんは、なんだか自慢気で、アニメソングを「ふふふ~ん」と小声で歌っていた。猫又とアラサー女子は、そんなハルちゃんを帰宅するまで見守り続けた。
 無事帰宅したハルちゃんは速攻でママに抱きつき、心配して職場から早く帰って来たパパは、今度は安心感から泣き崩れていた。
「だーっと登って、またバーッと登って行ったの!」ハルちゃんはご褒美のケーキを頬張りながら、興奮した様子で自分の武勇伝を話している。トラはテーブルの下で喉を鳴らしながら、ピチャピチャとミルクを飲んでいた。
 その夜、ハルちゃんはいつもより早く布団に潜り、トラはハルちゃんの枕の横で丸くなり、二人ともすぐに夢の世界へと旅立った。

 次の日からハルちゃんは、率先して自ら行動するようになった。目覚ましが鳴ったらすぐに起きて顔を洗い、自らお茶碗にご飯をよそい、トラの食事を用意をして、行ってきますと元気よく学校へ通う。
 しいてママが困った事は、ハルちゃんが一人で買い物に行くと、こっそり自分の好きなお菓子を買ってきて、こっそり部屋で食べていることであろう。渡されたお金が少しでも余りそうだと、支払いが出来るギリギリまでお菓子を買ってくる。
 小狡さも成長の証なんだとトラはしみじみ思った。
 あの日の翌日から、トラの尻尾は一本に戻った。体力はガクッと落ち、ほとんどソファで丸くなって寝るようになった。正真正銘のただの老猫である。
 「ご主人が、仕事の面接に行った」少し経ってから、ジジが嬉しそうに窓越しから報告してきた。
 彼女も自ら動き出したらしい。おそらくハルちゃんの影響もあるはずだ。
 ハルちゃんはこれから大人の女性になって、結婚して、子供が出来て親となるだろう。ハルちゃんの成長には一抹の寂しさもあるが、嬉しいことでもあった。
(でも、親となるハルちゃんを見る事は出来ない)
 トラは自分の寿命が尽きかけているのを感じていた。しかし、恐れは無かった。
(ハルちゃんは、どんなママになるんだろう)
 トラはハルちゃんが母親となって時に厳しく、そして優しい眼差しで子供を見守っている姿を想像する。そうすると心がなんだかぽかぽかしてくるのだ。
 トラはソファの上で目を瞑り、今日も家族の帰りを静かに待っている。

著者

平田 黒