「バイバイが伝えたかったこと」露木利光

 モーターが奏でる力強い音が近づいてくる。
「ママ~、電車が来るよ~」と娘の瀬名が叫んで教えてくれた。
 程なくして、電車が勢いよく走ってきた。
 私は、娘と一緒に電車に向かって手を振った。
「バイバ~イ」と娘の瀬名は声を上げる。
「早いね~」と興奮するのはいつものことであった。
 思えば私もそうだったなと記憶が蘇る。
 幼い時、祖母に連れられて、ここまで散歩に来ていた。そして、走り行く電車に一生懸命手を振っていた。今の瀬名の様に。
 それは祖母との大切な思い出であった。
 そして、この場所は一番のお気に入りであり、特別な場所でもあった。
 この道は、相模鉄道線に沿って走る坂道で、坂道を上り下りする事によって、隣の相模鉄道の電車を、上から、横から、下からと見え方が変わっていく。

 祖母と私は、電車を横から見える場所で手を振っていた。
 幼い私が電車に乗っている人の顔が見える位置で、「少し休憩」と言って祖母は歩くのを止める。
 そして、電車が走って来ると幼い私に、
「手を振ってごらん」と言って、自らも笑顔で手を振っていた。
 幼い私は、祖母に負けまいと一生懸命に手を振った。
 すると、電車に乗っている人たちが、にこにことほほ笑んでいる様に感じたものだった。  
 電車の一番前に居る運転士さんも、一番後ろに居る車掌さんも笑顔で応えてくれていた。だから楽しかった。祖母とここへ来るのが好きだった。
 何本かの電車に手を振った後、
「望ちゃん、お家へ帰ろうかね」と祖母は言って、幼い私の手をつないで坂道を家に向かって歩いた。

 電車に乗っていると、安心して風景の移り変わりを楽しむことができる。
 現在は朝日が映し出す風景と、日が落ちて人工の明かりが照らす暗い風景を見るのが日常となっている。
 それでも車窓を見るのが好きだ。同じ風景でも見飽きることはない。見飽きないのだから、同じ風景などないのかもしれない。
 幼き日から一度も。

 久しぶりに相模鉄道の電車に乗った。
 幼かった私は母に連れられて横浜まで出かけた。電車に乗って出かけるのが楽しみだった。
 電車に乗り込むと、空いている座席を見つけては靴を脱いで、座面にちょこんと正座をし、窓から外を見るのが楽しかった。
 色々なものが、早いスピードで次から次へと現れていく。
 そして、それは突然現れた。
「あっ、バイバイしている」
「ママ、バイバイしていたよ」と隣に座っている母に教えた。すると母は、
「幸(こう)君も、今度はバイバイしてあげたらどうかな」と教えてくれた。
 それからは、バイバイしていたら、バイバイをすればいいんだと幼いながらも心に誓い、流れる車窓の風景の中に手を振っている人が居ないか探した。

 深見神社で友だちと遊んだ帰りに、お気に入りの場所で電車が来るのを待っていた。祖母に連れられて通った電車の見える坂道。
 私はいつもの様に、電車に向かって手を振った。
「バイバ~イ」と声を出して。
 気持ちが良かった。
 別の電車が来ると、私は、また手を振った。
 そして、目の前を流れる電車の窓に、それを見つけた。
「あっ、バイバイしていた」
 電車の中から手を振っていた男の子が居た。
 電車のスピードは速かったけど、確かに私を見ていたような気がした。
 なんだか凄く嬉しかった。嬉しくて祖母に報告したくなって、走り出していた。家に着くと、
「おばあちゃん、聞いて、聞いて」
「電車の中にね、バイバイしていた男の子が居たよ」と私は興奮して、祖母にその時の事を話した。
 それからの私は、私のバイバイに応えてくれた男の子が気になる様になっていた。

 家族で出かけた帰りに、相模鉄道の電車に乗った。
 小学生となってからは、ドアの脇に立ってドアの窓から流れる景色を見るようになっていた。
 さすがに、電車の椅子に正座して外を見るのは恥ずかしかった。
 窓に寄り添うような姿勢で前方をみていると、手を振っているのが見えた。
 反射的に大きく手を振った。
 近づいてくるその子を目で追っていた。
 過ぎ去る瞬間に目が合った様な気がした。
 それは一瞬の出来事ではあったけれども、手を振っていたのは女の子だった。
 気が付いてくれたかどうかは分からないけれども、気が付いていてほしいと思うようになっていた。
 電車のスピードは速く、その子がいた景色は後ろへと流れていった。なぜだかわからないけれども、ずっと後方を追うように流れる景色を見ていた。
 
 学校からの帰り、決まってあの場所に寄っていた。
 線路の脇道は坂道で、上って行くと電車を見下ろすようになる。横から見て坂道と線路が交差するところは、道を渡って線路から離れて見ると、電車が道路に吸い込まれていくように見える。
 私はいつものように、目線が電車の窓の高さになるところで立ち止まった。
 最近は過ぎて行く電車をボーと見ているだけで、ここでの時間を過ごしている。今日も何本の電車が通過しただろうか。
「よし、元気を貰おう」
 ふと、私は思い立った。
 恥ずかしい思いがそれを阻んでいたけど、体は弾けたいと思っているみたいだった。
 電車の近づく音がしてきた。私は思いっきり手を振った。
「バイバ~イ」と声も出した。
 電車内の私に気付いた人たちは、皆、驚いたような顔をしていた。それを見るのがまた楽しかった。
 最後の車両に手を振っていた男子が居たのに気が付いた。
 電車のスピードは速く、ほんの一瞬だったけど、確かに私を見て手を振っていた気がする。
 嬉しくて気持ちが高揚するのが分かった。
 ドキドキしている。
 それに気が付いたとたん、急に恥ずかしくなって家路を急いで帰った。
 
 電車のドアに寄りかかり、いつものように前方から迫ってくる景色を窓から見ていた。
 あたかも自分に迫ってくるような感覚を覚える時がある。自分が走っているような、その中に溶け込んだような感覚。何気なく見ているだけなのに、不思議な感覚だった。
 暫くその感覚を楽しんでいると、景色の中の一点に引き寄せられ、ズームアップしたように見えた。
 女の人が手を振っている。
 僕は慌てて手を振った。
 彼女は気が付いただろうか。
 その一点は、そこに留まることなく、あっという間に後方へと流れて行ってしまった。
 幼き日に見たあの光景を思い出す。
「まだ手を振っていたんだ」と僕はつぶやいた。
 懐かしさと、会えた嬉しさと、切なさが入り混じって僕を襲った。
 電車はスピードを落として駅に入って行く。
 周りの乗客が、怪訝そうな顔で僕のことを見ているであろうことは、気にならなかった。
 僕のする「バイバイ」は、さよならではなく、相手に伝えたい気持ちの表れではないかと、今気が付いた。
 幼いころから気になっていた「バイバイ」のあの女の子に伝えたい気持ち。
 
 久し振りに実家に帰って来た。一人暮らしの自宅とは違った安らぎがあった。
「疲れちゃったな」
 家でごろごろするので、買物を手伝うことを理由に外へ出た。
 生まれ育った街をぶらぶらと歩く。幼かったころとは違って、成長して目線の位置が変わったと改めて思った。
「そうだ、久し振りにあそこに行ってみよう」と私は自分に言い聞かせて、よく祖母と出かけたあの坂道へ行くことにした。
 よく通った坂道。
 電車の窓がちょうど目線に来るように立ち位置を決める。はっきりとは分からないけど、成長するにつれ、立ち位置が下がっている。 
 そこに立つと、夢中で手を振っていた幼き日の記憶が蘇ってきた。
「私、元気だったよね」と一人つぶやく。
 電車の走行音がしてきて、間もなく目の前を通過していった。
 幼き日の記憶が私に語り掛けてくる。
「元気をもらおうよ」と幼い私が言う。
「うん、そうだね」と私はその声に答えた。
 電車の走行音が近づいてくる。
 走って来る電車を確認すると、私は大きく手を振った。
「バイバ~イ」と声も出した。
 気持ちが良かった。
 私に気が付いた人達は皆、驚いたような顔をしていた。
 大人となった私が、子供みたいに電車に向かって手を振っているのだから。
 でも、私は気にならなかった。私の元気の源だからだ。ここで元気を貰い成長してきた。
 また、電車の走行音が聞こえてきた。
 電車が走って来る方向に向いて、来るのを待った。
 先頭車両を確認すると、大きく手を振った。
「バイバ~イ」
 目の前を電車が通過していく。窓には色々な人達の顔が見える。
「あ、今手を振っていた」
 最後の車両の最後の窓で、それを見た。
 いつか見た光景を思い出す。
そう、あの日から何故か気になっていた人。私の「バイバイ」に応えてくれた人。
 私は、走り行く電車の後姿を、ずっと目で追っていた。
 
 通勤以外で相模鉄道の電車に乗るのは久しぶりだった。乗る場所はいつも同じ、最後の車両の一番後ろのドアの所。
 ドアの脇に寄りかかり流れる景色を見ている。眺めているというだけで、子供の時の様な発見がない。それでも飽きることはなかった。進行方向へ向かって前方を見つめる。
 暫くすると、それは目に入ってきた。
 大きく手を振る人物だと分かった瞬間に、僕は手を振っていた。
 その場所を通り過ぎる時、はっきりと女性だと分かった。その人は、記憶の中にあるあの女の子と同一人物だと、何故だか確信できた。
 後方へ流れていった彼女をずっと目で追っていた。
 間もなくして電車は大和駅に着いた。
 ドアが開くと走り出していた。
「あの場所に行かなければならない」と強く思った。
 階段を駆け上がり、改札を出て、線路沿いの道を急いだ。
「あの人はまだ居る」
「いや、待っていてくれる」と強く感じた。
 相模鉄道の電車が走っていく。
 横目で上から見える位置を軽快に走って行く。それを追いかける様に側道を走った。
 息が上がったけれども苦しいとは思わなかった。
 ただ、早くあの場所に辿り着きたかった。
 道路が下り始めると、その先に彼女が立っているのが見えた。

 何本の電車を見送っただろうか。
 私はまだここに居る。
 私の中に、何かを期待する気持ちがあったからだろうか。
 何かに惹かれる様に、線路から坂の上へと目線を向けた。
 坂の上に人影が現れた。
 その人は坂の上で立ち止まってこちらを見ている。
 そして、何かを確認するかのように、ゆっくりと歩き始めた。
 その人の目が、私をみているのが分かった。
 突然現れたその人に恐怖は感じなった。
 本当は分かっていたのだ。その人が電車の中で手を振っていた彼だということを。
 その人は、私の目の前まで来ると歩みを止めた。
不安そうな顔をしてどうしたものかと思案しているようだった。
 そして彼は意を決したように言った。
「バイバイしていましたよね」

 これが夫の幸希と私の出会いだった。
 幼いころから走り行く電車に手を振っていた私。今は、娘の瀬名がここへ来て手を振っている。
 そんな娘を何気なく見つめて思いにふけっていると、
「ママ、今、電車の中にバイバイしていた人が居たよ」と教えてくれた。
「そう。その人は瀬名ちゃんの運命の人かもしれないね」
「運命の人って、なーに」
「瀬名ちゃんが大きくなっても、バイバイしていれば分かるかもしれないよ」
 「ふーん」と瀬名は分かったのかどうなのか、曖昧な返事をした。
 瀬名は次の電車が来ると、また、一生懸命に手を振っていた。
「バイバ~イ」と言いながら。

著者

露木利光