「パリの風を感じて」斉藤 尚

「ええっ? 帰国は明日じゃなかったの? 聞いてない。もう晩御飯食べて、みんな寝ちゃったよっ」
 1年ぶりの感動の再会を予想していただけに、妻のこの反応は想定外だった。
「予定していた明日朝一番のパリ発の便が、ストライキで欠航になっちゃってね。急いで仕事を切り上げて、深夜便で帰ってきたんだよ」
「で、宏は今どこなの?」
「羽田。最終の22時45分発のリムジンバスで海老名に戻るよ。それじゃ」
 電話を切り、到着ロビーのターンテーブルに流れる色とりどりのスーツケースを眺めながら、ぼそっとつぶやく。
「本当は19時台には羽田に着いて、子供たちが寝る前に驚かしてやる予定だったのだけどな」
 近藤宏・29歳、フランス・パリに海外単身赴任中。久々の長期休暇で、愛する妻と子二人が待つ日本に戻ってきた。
 コンパクトにまとまった羽田空港国際線ターミナルは、リムジンバスのバス停へのアクセスも至極便利だ。今日のフライトは2時間遅れだったが、夜の10時台でも我が家族の待つ海老名への直通バスがあるというのは本当にありがたい。とは言え、パリでの勤務後の深夜フライトは案外体にこたえ、重い足取りでスーツケースを引きずってバス停にたどり着く。HIGHWAY・CRUISERと書かれた真新しいバスに乗り込むと、リクライニングを倒し一息ついた。バスは静かに空港を後にし、みなとみらいの美しい夜景や、昔懐かしい横浜や大和の地名を眺めながら我が家へ向かって快調にクルーズしていく。いつの間にかうたた寝をしてしまったようで、気が付くとバスは定刻で海老名駅に到着していた。

     *

「お帰りっ」
 我が家の鍵を開けると、先ほどの電話のそっけない態度とは打って変わって、穏やかで優しい声が出迎えてくれた。
「千香も祐太も、明日パパが帰ってくるからって昼間からはしゃいでてね。そのせいか、今晩は早く寝ちゃったみたい。静かにね」
 そういうと、里子は小さな体に似合わない力でスーツケースとバッグを玄関から部屋に運んで行った。
「わぁ、パリのマカロン!」
 近藤里子・29歳、幼馴染の勢いで結婚して早7年になる。単身赴任の間、子供たちをしっかり育ててくれているけれど、そそっかしさは相変わらずだ。
 「おいおい、あんまり大きい声を出したら子供たちが起きちゃうよ」
「えへっ。だってマカロン大好きなんだもん」
 里子は悪びれた様子で、頭を掻いているが、目線はマカロンの箱のほうを向いている。
「マカロン、食べちゃう?」
 俺が言うと、慌ててキッチンへ行った里子は、秋らしい赤い紅葉の模様のビールと、たっぷり入った柿の種の袋を持ってきた。
「やっぱり、まずはこれでしょ!」
「おっ、柿の種! その色、その量は松原商店街で買ってきてくれたんだな!」
 松原商店街・別名ハマのアメ横は天王町駅近くにある商店街だ。生鮮から乾物、菓子類まで格安、そして大容量で売られている。里子は満面の笑みで言う。
「ピンポーン。今日、みんなで松原へ行ってきたんだよ。子供たちも駄菓子をいっぱい買って大満足。祐太はいつの間にかイチゴ味とかリンゴ味とか読めるようになってびっくり。千香は掛け算を覚えて、祐太の2倍買うって聞かないんだから」
 メッセージのやり取りは頻繁にしているものの、国際電話で電話代を気にしてか、話きれなかった日々の出来事が里子から無限にあふれ出る。そんな報告を聞いて、やっと我が家に帰ってきたとほっとしながらビールを飲んだ。

     *

「ぐぇっ」
 突然の腹の痛みに言葉にならないうめき声を発しながら起きると、お腹の上に祐太が満面の笑みで飛び乗っていた。
「祐太ぁ、やったな」
 1年前より明らかに大きくなった祐太のいがぐり頭をぐりぐりしながら、起き上がる。
「パパも祐太も朝ごはんだよぉ」
 キッチンのほうから里子と千香の大きな声が聞こえてきた。
「おはよう、みんな早いなぁ」
 負けずに大きな声で言うと、すかさず里子が応える。
「パパが遅いんでしょっ! もう、千香も祐太もお腹を空かせて待ってたんだから」
 時計はもう9時を回っていた。日曜日とは言え、やはり時差ボケのせいかずいぶん長く寝入ってしまったようだ。
「ママ、卵焼き焦げちゃうよ」
 久々のパパの帰宅に、子犬のようにじゃれてくる5歳の祐太とは違い、千香は照れ隠しか少しクールな反応を見せる。7歳の千香は里子とお揃いのエプロンを着て卵焼きを焼いていた。フランス流のふわっとしたオムレツも悪くないが、里子の作る黄味がカチカチの少し焦げた目玉焼きがやはり一番うれしい。
「千香の卵焼きも美味しいなぁ。いつかパパのお嫁さんになってくれよな」
 1年前はパパのお嫁さんになるという約束だったが、今日の千香は少し生意気そうな顔で答える。
「パパのお嫁さんはママでしょっ。それより、ご飯食べたらママとピアノのレッスンにいかなきゃいけないの。ほらっ祐太、黄味を残さないで早く食べてっ」
 そそっかしくて、それでいてのんびりな里子に育てられているはずの千香だが、いつの間にか我が家の主のようになっている。
「ピアノが終わったら、パパのお土産と千香のおやつをもってみんなで公園にピクニックに行こうってママと話をしていたの。パパの大好きなキナコ棒もあるよ。当たりが出たら千香のだからね。ピアノが12時までで、その後先生と発表会のお話があるから1時に公園で待ち合わせね。お昼ご飯はそのあと。それまでパパと祐太はお留守番だよっ」
 千香は満面の笑みでピクニックの計画を披露してくれた。いつの間にか大人のように言葉が達者になった千香だが、キナコ棒の当たりを気にするのを聞いて、しっかり子供であることも分かり安心した。

     *

 ピアノ教室へ行く千香と里子を見送り、里子から任された皿洗いを終えると、祐太が電車のおもちゃをもってキッチンに現れた。
「パパ、でんしゃみにいこう!」
 千香のしっかりぶりは誰に似たかわからないが、祐太の鉄道好きは間違いなく俺ゆずりだ。
「よおし、ママと千香との待ち合わせまで3時間もある。パパの秘密の場所に行こう!」
「ひみつのばしょっ? でんしゃみれる?」
「いーっぱい電車見れるぞぉ。よし、そうと決まったら出発しよう」
 電車のおもちゃを大事に持った祐太と海老名駅に向かう。休日の海老名駅は、駅を囲むようにできたショッピングモールへ向かう家族連れでにぎわっていた。
「えっと、西谷はと・・・」
 二百六十円を券売機に入れ、切符を買う。フランスではホームに入る前に扉の付いた改札は無く、代わりにコンコース等に置かれた小さな機械で入鋏を示すスタンプを切符に入れる。フランスなら列車に乗る日でなくても、ホームに自由に出入りできるので祐太も喜ぶなぁなどと考えながら改札を通る。2番線には急行・横浜行の9000系電車が停車していた。小走りになる祐太に手を引かれるがままに、定位置である先頭車両まで歩いて電車に乗り込む。間もなくドアが閉まった。
「出発、進行!」
 祐太は目をキラキラさせて、乗務員室の扉から電車の前方を眺めている。自分自身の懐かしい感触がよみがえってくるが、5歳の頃の記憶があるとは思えない。よく考えてみると、俺が子供の頃走っていた、6000系や7000系の前面の窓は、大人の目線の高さにしか開けてはいなかった。そう、運転席が見えたあの感動は、小学校に入ってからの記憶だ。9000系は前面の非常扉の窓も大きく、祐太にも見えるお子様サービス仕様なのだ。
 
 
     *
 
 
 二俣川で各停に乗り換え、数分で目的の西谷に着く。西谷に祐太を連れてくるのははじめてだっただろうか。祐太は興味津々にまわりをきょろきょろしている。その時だ。
「あれっ? 宏?」
 聞き覚えのある男女の声が聞こえてきた。
「やっぱり宏だ。久しぶり! フランスから帰っていたんだな」
「近藤君、元気だった? 昨日里子に会ったとき、帰ってくるって楽しみにしているのを聞いたんだよ。祐太君、天王町で会ったの覚えてる? 柿色のコート、今日も秋らしくキマってるよ!」
 現れたのは真鍋直人・美穂夫婦。俺と同じ29歳、みんな幼馴染。そう言えば西谷に住んでいたのだった。祐太は照れ臭そうに俺の後ろに隠れた。
 「おっす。二人とも、偶然だね。ほらっ祐太、ご挨拶は」
「こんにちはぁ」
「こんにちは、祐太くん。ところで、近藤君、元気だった? 柿の種、美味しかったでしょ」
 美穂は松原商店街で里子と会っていたようだ。幼馴染とは言え、昨日の晩酌のツマミまで当てられると少し恐ろしくなる。
「二人とも、久しぶりだな。こんなところで会うなんて本当にびっくりだよ」
 俺が言うと、直人が間髪入れずに返す。
「それはこっちの台詞。海老名に住んでいるはずの宏が、帰国して早々なんで西谷に来てるんだ?」
 直人の質問はもっともだ。西谷にはショッピングスポットがあるわけでもなく、乗換駅でもない。ここで降りるのは住人以外そう多くないだろう。こちらの答えを待たずに、直人は思いついたように言った。
「あっ、祐太を連れているということは、もしかしてあそこだ。僕等の【秘密の場所】に行くつもりだろう?」
 流石、趣味の合う幼馴染である。なんだか分からなそうにしている美穂を見て、直人と俺は得意気にアイコンタクトをとって言った。
「正解、直人と昔よく通ったもんな。一緒に行く?」
 直人は美穂に少しだけ寄り道して出かけよう、と言い四人は一緒に歩き始めた。秘密の場所は駅から数分だ。
 
 
     *
 
 
「わぁ、しんかんせん! あっ、そうてつせんもきた! あっまたしんかんせん!」
 興奮した祐太の叫び声が歩道橋にこだまする。西谷第二歩道橋、俺たちの【秘密の場所】。国道十六号線を跨ぐ、一見何の変哲もないこの歩道橋はたぶん世界で唯一の場所だ。下には相鉄線、正面には東海道新幹線を見渡せる場所にあるのである。行き交う電車を眺めながら、直人は思い出したように言う。
「懐かしいなぁ。小学生の頃、よく自転車に乗ってきたっけ。あの頃、宏は電車を見ながら、運転手になるって言ってたよな」
「それは直人も同じだろう」
 少し恥ずかしくなって直人に言い返すと、美穂がくすっと笑って言う。
「へぇ、二人とも昔から仲が良いと思っていたけど、こんなところに来ていたんだね」
 交通量の多い国道十六号線だが、駅から少し離れたこの歩道橋は、日中さほど人通りも多くない。鉄道好きの二人には、絶好のスポットだったのだ。二人は残念ながら運転手にはならなかったが、ここに来ると当時の思いが溢れ出す。直人も言う。
「懐かしいなあ。あの頃と何も変わってない」
「ああ、フランスの景色も良いけど、やっぱりここが一番良いなぁ。新幹線、そして相鉄線の電車。あの頃は気にも留めなかったけど自然の溢れる横浜の丘、今年は紅葉もきれいだ」
 俺はしみじみ言った。電車より紅葉に心奪われるのは、歳のせいだろうか。いや、大人になったということにしておこう。祐太は歩道橋の手すりをしっかりつかみ、電車が来るのを今か今かと待っている。
「でも、あの頃と何も変わっていないわけではないね。直人は毎日見ているので違いに気付かないかもしれないけど、丘の向こうに見える鶴ヶ峰には立派なタワーマンションが建ったし、ほらっ、今通った9000系はいつの間にかネイビーブルーの塗装に変わっている。駅の周りは随分大きな工事をしている。何の工事だろう」
 そう、久しぶりに来た西谷駅はあちらで工事をしているようだった。
「なんだ、知らないのか。相鉄線、西谷から分岐して東急線やJR線と直通運転をするんだよ」
 昔から鉄道のニュースは我先に入手をしていたが、さすがにフランス生活を1年もすると、地元の話題にも少し疎くなっているのに気づいて言う。
「そうだった。神奈川東部方面線計画。かなり工事が進んでいるんだね」
「そう、僕が西谷に住んだのは、秘密の場所に近いからというのもあるけど、都心に直通したら通勤が断然楽になるからね」
 自分の街に新しい鉄道路線ができるというのは、さぞかし気分が良いことだろう。新幹線を誘致した地方都市の政治家の如く直人は胸を張って言った。
 直人と俺は変わりゆく街の姿を見て感傷に浸りながら、秘密の場所からの景色をしばらく眺めた。祐太は変わらず、瞬く間に走り去る新幹線に歓声を上げ、目の前を行き来する相鉄線に手を振っている。

      *

「Vous voulez un cafe?(コーヒーはいかが?)」
 突然、後ろから美穂の流暢なフランス語が聞こえてきた。とっさに俺は応える。
「Merci Madame(ありがとう奥さん)」
 男たちが電車に熱中している間に、美穂がコンビニで缶コーヒーやホットレモンを買ってきた。そう言えば大学時代、第二外国語は俺も美穂もフランス語を取っていた。俺も、というがまさかフランスで仕事をするとは思っていなかった俺は、とりあえず単位が取れればいいというくらいの科目だった。それに比べて、当時から料理好きだった美穂は真剣にフランス語を勉強していたと記憶している。それなのに、なぜか俺のほうがフランスで仕事をしている。人生は不思議なものだ。
「近藤君、フランスはどう?」
「うん、すごくいいところだよ。景色も良いし、料理も酒もスイーツも最高に美味い」
「いいなぁ。私もいつかパリやニースで暮らしてみたいなぁ」
「ううん、観光ならいいけど、暮らすにはなかなか大変だよ。コンビニは無いし、ストライキも多い。住むには役所の書類も大変だしね」
 俺が言うと、美穂は疑いの表情を見せる。
「そんなものかなぁ。住んでみないとわからないことってあるもんね。でもやっぱりうらやましい!」
「うん、住んでみてわかったけど、俺はやっぱり生まれ育った相鉄線沿線が、一番良いところだと思うな。相鉄線だって、フランスと同じくらいたくさんの魅力があるよ」
 美穂は意外という表情を見せるので続ける。
「Par example(例えば)、【横浜】にはパリに負けない大きな百貨店が2つもある。セーヌ川のほとりを歩くように、山下公園や元町の散歩は風が本当に気持ち良いね。【天王町】に来ればマルセイユ顔負けの安くて新鮮な魚介が揃う松原商店街もある。【いずみ野】からバスに乗れば、ブルターニュやノルマンディのような美味しいフロマージュやミルクの手に入る牧場もあるね」
 俺が言うと美穂が興味津々に、顔を輝かせて言う。
「相鉄線沿線でそんなにフランスを感じられるなんて思ってもみなかった。近藤君の秘密の場所、たくさんあるんだね」
「ああ。【湘南台】や【大和】で乗り換えれば、プロヴァンス地方のようなマリーナのある江ノ島海岸だってすぐだし、【海老名】からはアルザスより美味しいんじゃないかと思ってしまう、ソーセージやハムのお店も遠くないね。景色だって、【海老名】の我が家から眺める丹沢の山々は、ローヌ・アルプ地方のように雄大だよ。それに、幼馴染の美穂や直人だけではなく、ここにはたくさんの仲間もいる。俺はやっぱり我が家と、この相鉄線沿線が好きだな」
 さっきまで電車に集中していた、直人もこちらに来て分かったようなことを言う。
「なんだかお腹がすきそうな話をしているなぁ。そうそう、【二俣川】にも【瀬谷】にも、【いずみ野】にも、フランス国旗のパン屋があるもんなぁ。僕も相鉄線はどこかフランスっぽいと思っていたよ」
 微笑みながら美穂はダンナに突っ込む。
「さすが食いしん坊、好きなパン屋さんの場所、チェック済みだねっ」
 大人たちが大笑いしていると、電車に集中していたはずの祐太もこちらに近寄ってきた。
「パパぁ、お腹空いたぁ」
 直人と俺は微笑んで顔を見合わせる。
「昔の僕らみたいだ。晩御飯の時間になって、お腹を空かせて名残惜しく家に帰ったっけ」
 直人が言った通りだ。あの頃、俺らは腹ペコになるまで電車を眺め、夢を語り合った。電車の運転手になる夢は叶わなかったけど、あの頃よりこの景色の良さがわかるようになったのは間違いない。そして、この街も、俺も随分大人になったように感じる。
「よぉし祐太、パリでサンドイッチ買って、ママと千香とアルプスのピクニックに向かおう!」
 パリと我が町のどちらが良いかは分からないけれど、1つ言えることがある。それは、俺はこの街がやっぱり好きだということだ。

著者

斉藤 尚