「ピクトグラム」実嘉

 相鉄線大和駅の改札窓口で、マタニティーマークを貰った。妊娠五カ月を迎えた私のお腹は、見た目で妊婦とわかるほどにはまだ膨らんでいない。
 結婚を機に、越してきた。夫の通勤事情も考慮して、相鉄線沿線で住まいを探していたのだけれど、今まで全くと言っていいほど縁がなく、各駅停車に乗ったときなど、うっかりうたた寝をしてしまうと、はっと目覚めた瞬間の停車駅が、目的地まであと何駅かがわからず、慌ててしまうことがよくあった。
 そういえば、私の好きなミュージシャンが、歌いながら軽快に踊るミュージックビデオで使われていたのが、相鉄線のホームだった気がする。
 「あれは、どこの駅なんだろうなぁ。」
思わず独り言が口を出てしまって、すれ違った高校生と目が合った。
 今日は休日だ。相鉄線の横浜駅改札前で待ち合わせをしている。遅めのランチをしようと、友人と待ち合わせているのが一三時半。
会社からの呼び出しを受けて、休日出勤になってしまった夫と、同じタイミングで家を出た。待ち合わせまで時間があったので、図書館に寄った。大和市文化創造拠点「シリウス」。図書館のほかにも、芸術文化ホールや、生涯学習センターなどが入っていて、雰囲気も良くとても気に入っている。入ってすぐのスターバックスで、カフェインレスのコーヒーをテイクアウトした。そのまま、図書館内をふらふらと歩いて、妊娠・出産の本を数冊手に取って、さらっと目を通した。
そこで気が付いた。
 「あ、ついてないや。」
 またしても、声に出してしまった。今度は誰にも聞こえていなかったみたいだ。妊娠届出書を提出した時に、役所から母子手帳と一緒にマタニティーマークを貰った。普段よく使う鞄に着けていたのだけれど、今日は違う鞄を持ち出してしまったのだ。なんとなくそわそわして、携帯電話でぽちぽちとキーワードを打ち込んでみる。「マタニティーマーク」「配布」「場所」といった具合に。
 そこで、どうやら相鉄線の駅の窓口で無料配布しているらしいということがわかった。
 「すみません。マタニティーマークいただけますか?」
なんとなく緊張してしまい、上ずった声でおずおずと尋ねると、駅員さんは戸惑うことなく、すっと手渡してくれた。それからひとこと、
「お気をつけて。」
と。
 とても嬉しかった。そして、電車を待つ間に早速鞄に着けた。まもなくして電車がホームに到着し、私は乗車口付近に立った。ドアがしまる。反対側には、学生だろうか、私服の男性が二人立っていた。乗客がいなくなったホームに一人ぽつんと立つ女性がいた。肩にかけた鞄にはマタニティーマークがぶら下がっていた。ぽっこりしたお腹が見てわかる。何カ月くらいなのかなぁ、とぼんやり眺めていると、隣の学生が言った。
 「俺、初めて見た。マタニティーマーク。」
「本当だ!これ見よがしに着けちゃって何様だよ。」
「妊婦様だろ?」
発車のベルが鳴り、電車がホームを出発した。普段の私なら「ふざけんな」と憤るところなのに、最初に抱いた感情は「怖い」だった。
 ドアが閉まるまでには充分な時間があったから、きっとホームの彼女は、混雑している特急電車を見送って、次の電車に乗ろうとしていたのだと思う。
 少し前に、インターネットのニュースサイトでもいくつか記事を読んだ。マタニティーマークは、周囲に妊産婦であることを視覚的に知らせることで、安全性に配慮してもらうためのものなのに、いやがらせを受けたり、危険な目にあったりするケースがあるという内容のものが多かった。
 席を譲ってもらって当然。気遣ってもらって当然。だって妊婦だから。そんな風に思っている妊婦さんが世の中にどれだけいるというのだ。途中で具合が悪くなったらどうしよう。転んだりして赤ちゃんに何かあったらどうしよう。みんな不安を抱えながら、周囲に迷惑をかけないようにと思いながら、電車に乗っているのに。中には、マタニティーマークを着けることで、かえって危険だと警鐘を鳴らす記事まであった。
 男子学生達の話題が別のものに切り替わったあとも、胸の奥はざわざわしたままだった。右手でぎゅっと握ったマタニティーマークを、気付かれないように隠してしまった自分も嫌だった。
 ほどなくして車両を移動した。
 そういえば、いつからか電車の中では座らないようになった。つわりで具合が悪くなったときに、すぐ降りられるようにという思いもあるし、座席の前に立ってしまい、座っている人に無言のプレッシャーを与えてしまっても嫌だな、と思うようになった。だったら、着けなければいいと言われそうだが、それでも何かあったときに、いち早く周囲に気付いてもらい、手助けしてほしい。そんな思いもあった。私のことはいい。でも、お腹の赤ちゃんは、守りたい。
 幸い、つわりも軽いほうであったし、数十分の電車移動で不便などなかった。それでも、先ほどの心無い言葉たちが忘れられずに、心を支配していた。ざわざわとした気持ちを引きずったまま電車に揺られていると、二俣川で、乗客がどどどっと押し寄せてきた。勢いに押され、手すりを手放すと、そのまま車内の中ほどに押しやられてしまった。
 「どうぞ。座ってください。」
「えっ。」
突然の声かけに驚いて、目の前に座る人を凝視してしまった。高校生だろうか。試合帰りなのか、大きなバッグを足元に置いたジャージの子が、私のカバンに目線を送っていた。
 しまった。外すのを忘れていたんだ。私は慌てて、その子の顔に視線を戻し、礼を述べた。
「ありがとうございます。もう、すぐ降りるので大丈夫です。」
その子は、少しはにかんだように笑い、会釈をして、すぐ目を閉じて寝てしまった。その姿を見たときに、激しい後悔が襲ってきた。
見て見ぬふりをしようと思えば、できたはずだし、これだけ混雑した電車の中で、声をかけることはものすごく勇気のいることだったかもしれない。それなのに、私がその厚意を受け入れなかったことで、恥ずかしい思いをして、目を閉じてしまったのではないか。もし、また同じようにマタニティーマークの女性を見ても、今日のこの瞬間を思い出して、声をかけるのを躊躇ってしまうかもしれない。
そんなことを考え始めたら、居ても立ってもいられなくなってしまった。
 もし、今隣に夫がいたら、間違いなくやめろと言われることも想像できたし、考え過ぎだと私を諫めたと思う。それでも、気が収まらず、目の前で眠る高校生のひざをトントンと軽く叩いた。
 当然の如く、驚いた顔をして私を見つめている。
「本当にありがとう。うれしかったです。」
変な奴だと思われても良かった。どうしてももう一度伝えたかった。すると、照れくさそうに、にやっと笑い白い歯を見せてくれた。
変な奴だとは思われたかもしれない。でも、気持ちは伝わったと思った。
 次の瞬間、ぎゃあっと赤ちゃんの泣き声が車内に響き渡った。混雑した車内では、姿が確認できなかったが、どうやら近くに赤ちゃんがいるようだった。お母さんと思われる女性のあやす声が聞こえる。赤ちゃんは、すぐには泣き止まず、あやすお母さんの声にも焦りがにじみ出ていた。混雑した電車でいらだった人が、泣き止まない赤ちゃんとお母さんに向けて、何か傷つくような言葉を吐き捨てないだろうか、そんなことが心配になり、そわそわしていた。
 すると、近くにいる人だろうか、そのお母さんに向けて話しかけているのか、それとも車内の乗客みんなに聞こえるように言っているのか、とても大きな声でこう言った。
 「ずいぶん元気な子ねえ!赤ちゃんは泣くのが仕事だから、遠慮しないでジャンジャン泣きなさい!」
続いて、消え入りそうなお母さんの声がした。
「ありがとうございます…。」
さらに続けて声がした。
「良かったら座ってください!」
明るく弾んだ少女の声がした。揃いの制服を着て髪の毛を二つに結った女の子が二人、大人の足をすり抜けて、ぴょこぴょこと、こちらに向かってきた。女の子は、二人で身を寄せ合って内緒話のように、ひそひそと話している。
「赤ちゃん、かわいかったねえ。」
「ね!ちっちゃくて、かわいかったねえ。」
くすくすと小さな笑い声をたてて、二人はお互いを見合って微笑んでいる。制服ということは、今日は授業があったのだろうか。
 女の子たちは「赤ちゃん小さい」「かわいい」を何度も繰り返しながら、ずっと笑いあっていた。君たちも、何年か前まで赤ちゃんだったのにね。思わず、話しかけたい気持ちになってしまって、ふふっと笑みがこぼれた。
 そうしてすぐに、電車は横浜駅に到着した。
順番を待って、電車を降りようとしたら、赤ちゃんを連れたお母さんを見つけた。あのあ赤ちゃんは、さっき泣いていた子だろうか。折りたたんだベビーカーを片手で抱え、前には赤ちゃん、背中には大きなリュックを背負っている。前の人に続いて、電車を降りようとした瞬間、うしろからサラリーマンの男性が手を伸ばし、ベビーカーをすっと持ち上げて、降ろした。急いでいたのだろうか、感謝の言葉を口にするお母さんの方は振り向かず、片手をひらひらと翻して、颯爽と立ち去った。ホームとドアの間が広く開いていた。
 妊娠は病気じゃない。でも、自分の中で人間を育てているという異常事態で、予測不可能な事が起こることだってあるし、体調が優れない日々のほうが多い。家で安静にしていればいいのかといえば、そんな風に過ごせるとも限らない。お腹に小さな小さな命を抱えて、たくさんの不安と闘いながら、その命と対面する日を待ち望んでいる。
 だからって、そんな自分を特別だと思って、誰にでも親切に接して貰えるなんて奢ったことは考えていない。それでも。それでも…。誰かに優しくしてもらえると、本当にうれしいし、ありがとうって思う。温かい気持ちに触れて、心が温かくなる。
 電車を降りて、改札口に向かう階段は、特に注意して降りなくてはいけない。それなのに、足元がなんだか弾むように軽やかだった。心を支配していた、ざわざわした気持ちは、いつの間にかどこかにいっていた。
 改札を抜けると、友人がこちらに気が付いて手を振っていた。
「久しぶり!体調は大丈夫?お腹出てきた?性別わかった?」
矢継ぎ早に質問が飛んでくる。それから、
「あ。大丈夫?それ。」
「え?あ、これ?」
マタニティーマークのネガティブなイメージを心配してくれているようだった。私は、車内のできごとを思い返して、少し考えてから言った。
「…うん。大丈夫。大丈夫だよ!」
 くすくす笑う女の子たちの顔が浮かんだ。きっと、大丈夫だと思えた。

著者

実嘉