「フルサト」さかい なるみ

 初めて相鉄に乗ったのは、就職してすぐの一九七二年(昭和四十七年)の終わりごろだったと思う。その頃、日吉に住んでいた。
 仕事帰りに川崎で飲んでいるうちに係長に「俺の家に来い」と言われた。終電にはまだ時間もあったので、調子が良いだけの愚かな男は、酒の勢いで「はい」と言ってしまった。京浜急行で横浜まで十分。そこから、当時の京急横浜駅とは国鉄横浜駅をはさんで対角線上にある相鉄横浜駅まで、けっこう歩いた。たぶん、相鉄という名前を初めて聞き、初めてその電車に接することになったせいでもたらされる、気おくれが、そんな気持ちにさせたのかもしれなかった。国鉄横浜駅を出て砂利の上に簀の子が引いてある、簡単な屋根に時々チカチカと点滅する蛍光灯で照らされた通路を、慣れた様子で大股に歩く係長の後をへっぴり腰で追いながら歩いていると、次第に酔いも冷めてきて、まずいことになってしまったのかもしれないという憂鬱な感情が浮き出してきた。改札口まで来て、切符を買い、プラットホームに入ると、少し小さく感じられる黄緑色で車両の一番下にオレンジ色の線がある電車が待っていた。なんだか明るさが足りない気持ちだった。
 乗ってしまうと思いのほか早く大和駅に到着し、十分ほども深夜の住宅街を歩いて係長の家に着いた。町名は深見だった。もうその時間には帰りの電車は数本しかなくて、係長の家でお銚子を一本開けると、もう終電の時間は過ぎていた。
「まあ、泊まっていけ。風呂にでも入って」
 そう言われ、電話を借りて、恐る恐る妻に連絡すると、彼女は歩いてでも絶対に帰って来いと言って、ひどく怒った。結婚してから外泊するのは初めてで、妻に怒られるのも初めてだった。
 翌朝は、朝食をごちそうになってから、今度は坂道を降りていき大和駅からよりは少し余計に歩いて、といっても「行きはよいよいと反対だな」などと短く感じられたのだったが、瀬谷駅から横浜に出た。瀬谷からは始発電車が出ていたので座って行こうというのだ。
 その時には、自分がその相鉄線で通勤するとは夢にも思っていなかった。

 にもかかわらず、それから三年後の一九七五年に、三歳と一歳の娘と妻を引き連れて神奈川県のちょうど真ん中にある、くだんの大和に移り住むことになった。
 それには、二つ理由があった。
 一つには転勤族だった親の関係で、故郷と呼ぶような愛着を持てる人間関係や場所を持てなかったことが、いまいち踏ん張りの利かない自分に欠けているものの一つだと感じていたので、生まれたばかりの子供たちには、良くても悪くても、故郷を感じる可能性を持たせたいと思ったからだ。運よく地方公務員であったから転勤があっても引っ越すほどのこともないはずであったことも、その定住するという決断に寄与していた。
 もう一つは、当時横浜の青葉台に住んでいた父親が、一緒に建売住宅を二軒並べて買おう、という話を持ち込んできたからで、あまり折り合いの良くなかった両親と和解する時期に来ていると考えたからだった。
 おまけに、大和駅近くに住まいを持つということは、川崎市内に職場を持っている僕には便利だった。大和駅から、相鉄で二十五分の横浜に出て、川崎までは、京浜急行でも東海道線でも十分で到着する。東海道線が不通になっても、京浜東北線が走っていて、それでも十五分で川崎駅である。武蔵小杉には、やはり相鉄で二十五分の横浜から東横線で二十分。溝口には大和から小田急で五分の中央林間から田園都市線に乗り換えてやはり二十分で着く。新百合ヶ丘には小田急線で乗り換えなしに四十分、登戸まででも一時間とかからない。
 結局、一九七五年から二〇一〇年まで、通勤の出発点として大和駅を利用し、定年退職後の今も、住み続けている。指折り数えてみると今の住所には半世紀近くも住んでいる。今の住まいは建直して十三年、上の娘は建直す前の家から嫁に行き、下の娘は家を建て直してほどなく結婚して家を出ていった。妻も、今は、家に落ち着くようになった。

 それにしても変ってしまった。
 移り住んで十年ほどもたった頃には、僕は一人前に偉そうな口を利く男になっていたが、毎日帰りが遅く、休みの日は寝てばかりいるぐうたらな夫であり親だった。
 子育てに一段落した妻は大学に再入学した後、大学院に合格していた。長女は、日本に返還された後、不発弾を除去して建てられた引地台小学校を卒業し、中学生になり、次女は同じ小学校の高学年になっていた。その次女が「例の場所で」と親友と待ち合わせの電話をしていた。「例の場所」というのがどこなのだろうと、そっと後をつけると、それは家の前を走る県道を渡ったところにある駐車禁止の標識だった。それはフルサトの標識かもしれないと思った。
 チェルノブイリ原発が爆発した年に、大和駅の駅の再開発のための工事が始まった。
 プラットホームや改札口の場所が数回にわたって移動し、家から十二分でプラットホーム上に立っているという予定が、二十分近くかかるようになってしまったりもし、常に寝坊気味の身としては、恨めしかった。しかも、八年間という長期にわたる工事だった。
 駅の工事前は、小田急線も、相鉄線も名前は同じ大和駅でも別の駅で、それぞれ改札口があり、連絡通路にもつながっていたせいで、朝の通勤時間には人ごみになってしまい、ノロノロとしか前進できなかったことは確かだ。
 地上を走る相鉄の線路を地下に移して駅のプラットホームを新設し、盛り土で土手を作ってその上に線路やプラットホームを形成していた小田急線も、盛り土の土手の一部を取り払って高架駅を作り直し、連絡通路と乗り換えのための改札口をなくして、地上を相鉄と小田急とで共同使用する駅にする、というのはいいアイデアではあり、今は人が渋滞して前進が困難になるというようなことはなくなった。
 そして、工事をしている間に、地域そのものも変わってしまった。
 大和駅前には、引っ越してきた当初には、イトーヨーカ堂、忠実屋、東急ストア、相鉄ローゼンと、大型スーパーが揃っていて、藤沢方面からも買い物客がやってきていて、多くの人でにぎわい活気があった。そんな状態が永遠に続くものと信じていた。
 が、世の中というものはそんな固定されたものではない。そう思い知らされたのは、周辺の中核都市の再開発が始まり、街が閑散とし始めると、スーパーが一つずつ撤退していき、更に駅周辺の商店街も寂れていったことだ。
 その後起こった一九九一年のバブルの崩壊は、決定的だった。三軒あった町の書店、おもちゃ屋、金物店、洋品店、やはり三軒あった文具店が消え、その跡に、ゲームセンター、飲み屋、ラーメン店が進出してきた。
 少し後に営業を始めたビジネスホテルはパチンコ屋に替わった。さらに、駅前商店街全体が薄汚れてしまい、最後に残ったイトーヨーカ堂も、鶴間駅前に巨大化して移転し、大和駅前は大和市の商業の中心ではなくなってしまったのだった。
 
 小田急と相鉄の駅が一つになった一九九四年には、アーケードになっていた街並みは煤け、もう過去の光景を正確に思い出すことはできなくなってしまった。
 ただ、僕には、もう見ることのできない景色が、一つだけ、目の奥に焼き付けられたように残っていた。
 最も利用した相鉄のかつて大和駅の駅舎は、プラットホームが一本で、改札口を入ると、一度階段を、ホームを見下ろす通路まで上がり、それから階段を下りてプラットホームにたどり着くという形になっていた。朝寝坊でいつもぎりぎりの時間に駅にたどり着くと、その通路が小田急線への連絡通路につながっているために、人の渋滞した階段をゆっくり上がり通路に出ようとすると、階段の上り下りの間に、乗車するつもりの電車が発車してしまうこともあった。
 それでも、天気の良い日には富士山が、階段を上り切った通路の真正面の窓枠の真ん中に、雄大な姿を見せてくれていた。それがいつも、一日の始まりに勇気をくれたのだった。窓の外の、なだらかな丹沢山塊のシルエットを下にした大きくて美しい山容だけが、今でも目の奥に焼き付いている。富士山は、秋の初めには青黒くそびえ、秋の半ばからは山頂部が白く冠雪し、冬には真っ白になり、春になると山裾の方から黒くなり始め、山頂部だけが白くなっていく、その頃から富士山の姿はおぼろげになっていき、晴れていても青がすみになって、富士山は青い空に溶け込んでしまう。
 平成という年号になって三十年にもなろうという今は、もう線路は地下と高架を走っている。危険な、開閉器のない踏切もなくなった。プロスという名の駅ビルも、思っていたよりは小さかったものの完成し、かつて線路があったスペースは、駅をはさんで南北に長い公園のようになって、骨董市や市民祭りのステージ、屋台を並べた催物などが行われたりもしている。
 しかし、富士山はもう見えない。ただ、プロス四階の蕎麦屋からは、真正面に横浜のランドマークタワーが見える。相鉄がまっすぐに横浜駅の向かっていき、大和市深見の南端から横浜市瀬谷区になるあたりでガクンと土地が下がっているのがわかる。
 
 自然も大きく変わった。
 我が家で言えば、かつては三月も末になるとアズマヒキガエルが十数匹も池に集まってきては一匹のメスを奪い合うために団子状になっていた。そして、大量の卵を産み、四月から七月までの間は水面が真っ黒になるほどの数のオタマジャクシとなり、梅雨の終わるころになると、いつの間にか五ミリほどの小さなカエルになって、池から消えていった。
 しかし、近隣の自然が宅地開発などによって失われるに従い、アズマヒキガエルは池に集まらなくなり、ついにはいなくなってしまった。
 最後の雄の鳴き声を聞いてからもう十年近くたつ。
 相模原台地の南端に位置し、水利の良くないせいで畑や桑畑の多かったこの地は、一時期工業地帯として栄えたが、住み始めたころから、宅地化されて東京や横浜のベッドタウンとなり、人口は住み始めたころの二倍を超えた。まだ残されていた畑や桑畑のおかげで生き延びていた自然もコンクリートの上に積み木を置いたようなマンションや庭のない小さな戸建ての建設で消されていったのだ。
 住まいはそうしたベッドタウン化の流れの初め頃に、引地川の浅い河岸段丘の斜面に造成された一団の建売住宅の一つだった。子供たちが低学年の小学生だった頃、引地川が氾濫して、川に近い建売住宅が浸水の被害にあったことがあって、それをきっかけとして、大和市の水源地近くにあった市内唯一の田んぼを神奈川県が遊水地にした。河川の改修も行われ水害はなくなり、遊水地を含めた一帯は泉の森、ふれあいの森という名の二つの公園になって市に引き継がれた。
 人々が良く通う公園になり、動植物にとってもオアシスになった。
 自然の花々のほかに、春には桜が咲き、そのあとには花菖蒲、藤、チューリップ、アジサイ、コスモス、など様々な園芸植物が計画されて順に咲き、夏が終わるころに曼殊沙華が咲いた後は、水仙で冬を迎える。
 そのあいだじゅう、弁当を広げたり、バーベキューを楽しむ人たちで公園は混雑するのだった。親子でザリガニ釣りをする人たちも多い。
 昆虫類も、春になればモンキチョウが飛び始め、モンシロチョウに替わり、キアゲハやカラスアゲハ、アオスジアゲハなども飛び始める。小さなシジミチョウ類も飛んでいる。
 また、春先に飛び始めるコバルト色に輝いたイトトンボの後には、シオカラトンボやムギワラトンボが飛び始め、それらを睥睨するようにギンヤンマが池の上をパトロールし始める。公園から流れ出す引地川の川筋にはハグロトンボがひらひらと舞っている。幾種類もの赤とんぼが飛び始めるのは秋口からだ。秋も深くなるとアカトンボたちも弱り始め、人の肩や手の上でも羽を休めるようになる。アブラゼミは夏になると鳴き始め、ミンミンゼミに変わり、ツクツクボウシも加わり、最後にニイニイゼミで蝉の季節が終わり死体をそこかしこに散乱させる。
 カナブンやカブトムシ、クワガタムシやカミキリムシも、よく見かけることができた。
 秋の終わりごろからは遊水池にコガモが飛来し始め、キンクロ、ヒドリ、オナガ、マガモなどのカモ類が加わり、ヒドリガモのピューピューと鳴きかわす声に、カイツブリの鳴き声が重なって賑やかになる。時には凶暴な顔つきのカワウが飛来し、コサギやダイサギとにらみ合ったりしていた。もちろんアオサギは悠々とした感じで池の中に立っていたと思うと、急にふわりと飛び上がって池の周囲に立つミズナラの林の上まで飛んで行ってしまう。
 水鳥ばかりではない。優雅な姿に似合わない鳴き声のオナガや、色鮮やかなカワセミも見かける。
 そんな季節ごとに変わっていく公園を、父と母は毎日の散歩道にしていた。父は七十三歳になってから完全に仕事から引退し、散歩と自然観察に励んでいたのだ。
 楽しそうでもあり、寂しそうでもあった。
 父も二〇一〇年に八十三歳で亡くなり、父の亡くなる数年前に脳梗塞に倒れた母を、父から引き継いで、定年退職した後の僕は、同じ公園を父と同じように散歩するのを日課にした。僕もやはり、楽しくも寂しかった。
 そして、母はもっと寂しかったのかもしれなかった。それでも、散歩に行けば十年以上も同じ道を散歩していた母には、中年から高齢までの何人もの女性や男性の顔見知りもできていて、二時間以上もかけて二つの公園を一周する間に、必ず誰かと立ち話をしたり、写真を写しあい交換したり、家で取れたカキや夏ミカンやキウイなどを渡したりするのだった。
 とはいえ、それは互いに名前も住所も知らずにしていることで、顔見知りに一週間も会えなければ、ただその人の心配をするだけという浅い関係だった。
 
 時間の経過の中で一番の驚きは、人が生まれ、成長し、老いてゆき、衰え、死んでいくことだった。
「カワセミって魚とるのが上手じゃないね」
 何度も水に飛び込んでは、止まっていた枝に戻りキキキッと悔しそうな鳴き声を出している鳥を指さすと
「きれいだけど飛ぶのが早くってね、カメの方がわかりやすいよ」
 母がのんびりと日向ぼっこしている数匹のアカミミガメを指さしたのを覚えている。父の七回忌が近づいてきたころだった。しかし、ある日急に、母は歩くのが遅くなり、普段の時間に家まで戻ることができなくなった。ドキリとした。日によって異なってはいたが、母は長くは歩けなくなり始めていた。
 父の七回忌の日、母の年子の妹がやってきた。膝が悪くなって歩けなくなったという叔母は、それでも母よりもしっかり歩いていた。彼女は母の手をつなぎ、母を支えるようにして席に着いてくれた。
 そんな叔母が、転んで足の骨を骨折し、認知症を発症したという知らせを受けたのは、それから一年もたたない時だった。
 母が亡くなった時、一時は死の間際まで行った叔母は、すんでのところで体力は回復したものの、認知症は進んでしまったということだった。

 先日、その叔母のつれあいである叔父が亡くなり葬式に行った。九十三歳だった。本人は死ぬとは思っていなかったようだと、従姉弟たちは言った。何度も大手術を繰り返して生きて、その都度元気になって大復活したのは確かなことだったから、そうかもしれないと思った。
 でも、最後の瞬間まで、自分が死ぬとは思っていないのが普通ではないだろうか。それに、死は、別にその人の意志とは関係なく、突然やってくるものなのだ。とはいえ、叔父に関しては、「だいじょうぶだよ」という言葉は、家族への思いやりだったのかもしれないと思った。数年前に、母方の祖母の三十三回忌の席で、隣に座った僕に耳打ちしてきた言葉が思い出された。
「手術で何とか生き延びたけど、汗がでなくなっちゃったんだ」

 葬式の帰りに叔母の見舞いに行った。叔母は認知症の悪化に伴い、自宅近くのきれいな施設に入っていた。
 従姉弟たちは、通夜の時には彼女に夫の死を伝えず、告別式の朝に、初めて叔父の遺体と面会させた。
「お父さん死んじゃったの?お父さん死んじゃったの?」
 繰り返し聞く母親の姿に涙が止まらなくなったと言いながら、再び目じりを濡らしていた。その叔母には、仲の良かった姉である母の死をまだ教えられずにいると言った。
 母と叔母は年子の姉妹で、幼い頃からライバル同士だったと従妹たちは口をそろえて言った。
 叔母は、ふくよかだった頬の肉が削げ落ちで表情が失われ、人相が変わっていた。
 そして、そのおかげで晩年の母に似た顔立ちになっていた。認知症は、顔だけでなく声もぶっきらぼうに変え、見舞客が誰かもわからなくさせていた。
 ただ、持参したタブレットに記録した昭和十年代の家族写真を見せると、笑うような表情を見せて「ああ」と言った。
「これワタシ、これ…」
「姉さんこれは僕だよ、わかる?」
 叔母と母の末弟である叔父が続けて言った。叔母は写真に写った十歳ほどの凛々しい顔の少年と八十三歳の老人の顔を何度も見比べた。
「どうも、わからんようだな」
「話しているうちに段々とわかるようになるんじゃないですか」
「そうだね、ありがとう、姉の見舞いにまで付き合わせて。そろそろ帰ろうか」
「初めからお見舞いに来るつもりでこの写真も準備したんですから」
 その叔父も、杖を離せなくなり、その妻は言葉を発することができなくなって入院させざるを得なくなったといった。
 そして、彼女も亡くなった。叔父の四十九日と彼女の通夜は同じ日になったのだ。

 歴史は繰り返される、一度目は悲劇として、二度目は茶番として、といった人はいるが、
そういう言葉を信じたとしても、体験するのは、難しい。時間が過ぎて行き、周囲のいろいろなものが変わっていき、振り返ってみると、過去にあったものは何一つ残っていないというのが、個人の体験というものだろう。
 何気ない日常の幸福というものがあるとして、などという会話を、テレビを見ながら話していた。
「年を取っていくっていうことは、若い人が育って行って、その姿を温かく見守っていくことが大切なのだ。その人たちに、後のことを任せて退場していく。自分もそういう年齢になった」
 というようなことを、妻が言ったので、思わず吹き出してしまった。
 そう思う瞬間もあるということなのだと、彼女は少しプライドを傷つけられたといった表情で弁明した。
 僕はその時、急に、思い出した。
 妻と、二人の子供たちが泣いているのだった。
 まだ二十一世紀に入る少し前で、子供たちは高校と中学に通っていた。そんな大きくなった子供たちが泣いていた。ヒースロー空港の出発口のところだった。
 妻は見送る位置にいて二人の子供と僕は出国審査のゲートに入ろうとしているところだった。
 それまで肩を並べ歩きながら、笑いながら話していたのだった。それなのに、向かい合ったとたんに、どちらともなく、子供たちと妻が泣き始めた。もう決して会うことができなくなってしまうというように泣き始めた。
 妻はそれから一年間、イギリスに留学する予定であり、子供たちと僕は妻を大学まで送ってきて、数日を過ごし、帰国するところだった。
 周囲の人々が振り返って怪訝な顔でこちらを見ていた。それでも三人は泣き止まない。
 呆然としながら、二人を促して出国手続きの入り口に導こうとしていた。
 泣いている子供たちと妻を交互に見ながら、眼の前の光景とは全く違う光景を思い出していた。
 家の近くの公園で、幼かった彼女たちに、自転車の乗り方や逆上がりの仕方を教えたのを思い出しながら、その時の子供たちの笑い顔や泣き顔や怒りの表情を思い浮かべていたのだ。
 そして、三人の涙が自分にもうつってしまいそうになって、慌てて子供たちの手を引いて大きく手を振りながら出国審査の行列に並んだ。
 そんなことを思い出す。それが転機というものだったのかもしれない。
 今になって考えてみると、確かに、生活は大きく変わっていった。子供たちを泣かせた直感は、当たっていたのかもしれなかった。
 四人家族でハイキングに行き、ドライブや、旅行や食べ歩き、初詣、節分、七夕、クリスマス、誕生日、などを必ずした。一方で、仕事にかまけて自治会や隣近所の付き合いや食事の支度などはすべて妻に任せきりだった。
 しかし、妻の留学後、それは子供たちが成長したからでもあったが、家族での旅行はしなくなり、季節の行事もしなくなった。そして、朝晩の食事と子供たちの弁当を作ることが僕の日課になっていった。自治会などへの出席や学校関係の面談も重要なものになっていき、身体のさほど丈夫でなかった娘たちの具合が悪くなるたびに、学校や駅や病院からの呼び出しに応じて、仕事を打ち切って迎えに行くようになっていた。
 仕事の都合で、子供たちの世話を隣に住む子供たちの祖父母に頼むことも少なからずあった。
 一年がたった時、妻がもう一年留学を続けたいという連絡をよこし、更にその一年後にも、延長したいと言ってきた。仕方のないことなのだろうと思った。
 三年後にようやく妻が帰国した時、成田まで出迎えに行った子供たちは、眼の前に来ても、様変わりしていた母親がわからなかった。
 その後も、ほぼ一年おきに妻はチャリティーをもらってイギリスに渡り研究を続けた。子供たちは大学受験を済ませていた。
 
 柱の細い家が嵐の中の帆船のように揺れ、庭の池が氾濫して川を生み、その川が氾濫して渦巻き、さらにあふれ、そこから巨大な滝が生まれ、結果として巨大化した庭に、おびただしい数と種類の生物が湧き出し、最後には猛烈な嵐の中で、雷に打たれ、すべてが崩壊していく夢というのは、その頃から見始めたものなのだろうか。
 夢の舞台は、私は誰でしょう、という名のテレビ番組を見ていた小学生の頃に、父母と妹、それに祖父母、叔母たちと八人家族で四年ばかりも住んだ鶴見の社宅で、二階建ての家と時々顔を出すカエルのいる広い花壇のあった庭が、はっきりとはわからないのだが、たぶん台風で変容していくありさまだった。
 
 何度目かに、妻が帰国した時、かつての住まいはなかった。家は、彼女の反対にもかかわらず、建て直されていたのである。
 子供たちはすでに大学院で学位をとり働い始め、結婚を契機に家を出て行った。夫はというと、女と遊び惚けていた。
 妻の両親は相次いで亡くなり、妻は仕事場を都心に借りてそこから仕事に通うようになった。結局、建て直して間のない家は一人住まいになっていた。
 同じ時期、母親が脳梗塞になり、その世話をする父親は、持病の容態を悪化させ亡くなり、定年退職した僕は働くのをやめ母親の世話をするようになっていた。
 自分探し、というのが九十年代にはやった。どうでもよい話だと思っていた。サルと玉ねぎの話を思い出してしまうからだ。それはキャベツでも白菜でも、レタスなどでも構わないのだが、何か良いものでも出てくるかもしれないと思って皮を一枚一枚剥いていくと、最後には何もなくなってしまうという話だ。
 あ、このたとえはキャベツには少し申し訳ないかもしれない。キャベツには芯があるからだ。その芯の固い皮をむいて茹でて少し塩をつけて口に入れると、美味しいという人もいるからだ。
 何やかやと考えているうちに、その芯のようなものが故郷というものかもしれない、とフト思った。すでにアラフォーになってしまった娘たちは、おいしいと感じられるのだろうか、そう思った。
 結局、自分探しというのは、少し流行し、その発展形として自分史ブームを形成したが、
時間も手間もかかる作業を最後までやって行こうという人は数少ない。テレビでファミリーヒストリーという名の番組ができたのはそのあとだいぶたってからで、放送局が調べてくれるものだった。勢い、調べてもらう人物の祖先には、調べやすい、名を残した人が多くなるものだ。仕方のないことである、が、面白いとは必ずしも言えなくなってしまう。
 流行とはそういう変容を伴うもので、過渡期という言葉があるが、いってみれば、いつも過渡期なのである。
 たぶん自分探しのようなことを追求していた妻は、最後の留学を終えてから都心の仕事場を引き払って、家に戻ってきた。そして、スポーツジムに通いながら、身体のメンテナンスに集中している。

 昨日の夜、大雨が降った。様子を見に屋上に行ったら、大変なことになっていた。
 家を建て直したときに、陸屋根にして土を入れ、片隅に小さな池を作っていたのだったが、屋上の全面が池になっていた。魚が泳いでいる。
 空が広くて高い。雲がなく、空の色が水にうつっていた。
 驚いて、家人を呼びに階下に降りた。母がいたので声をかけた。
「見納めかもしれないから」
 母はそう言って屋上に上がってきた。階段室を出るとひたひたまで水が来ていた。階段室の横の点検用の梯子のところに真っ白い小さな砂浜ができていたので、母を階段室の屋根の上に上がらせ、砂浜の斜面に座った。様々な魚が泳いでいる。水はきれいに透き通っている。
 魚の形が見える。
 白銀色の魚が飛んだ。そして、水面に落ちる。すると、次々に黄金色や青銀色、赤や黄色や縞模様の魚が水面を跳ね回るようになった。
「母さん、ずいぶん大きいのもいるよ」
 背が銀色で腹の白いエイが水面から飛び上がると、十数メートルか滑空して水に戻ったのだ。相当水深がありそうだ。
 白い砂浜の隅にペンギンがいた。少しおしりを持ち上げてこちらを見た。尻の下に卵があるのが見えた。
「ペンギンまでいるよ。卵を温めている」
 振り返って上の方にいる母に声をかけた。母は黙って涼しげな眼をして風景を見ていた。
 もう一度ペンギンを見ると、ペンギンではないようだった。羽が生えている。大きな目でこちらを疑い深そうに見ると、立ち上がって僕のほうに歩いてくる。鋭そうなくちばしで威嚇するように、ゆっくりと大きな体をこちらに向けて歩いてくる。
「おいおい、卵をとったりしないから」
 大きな鳥に声をかける。足元で鳴き声がする。ヒナが近づいてきていたのだ。親鳥は心配したのかスピードを増して向かってくる。そして、飛び蹴りを繰り出した。
 害を与えないから、と鳥に叫ぼうとしたときに、目が覚めた。

 うたた寝していたのだ。
 目を開けた時、朝なのか昼なのか、それとも夕刻なのか、その上、自分が一体どこにいるのかも、一瞬わからなかった。
 あたりを見回すと、居間にいた。顎が思いっきり胸についていて、猫背になった背中が少し痛い。ソファでうなだれたような姿勢で寝ていたのだ。
「変な夢、見ちゃったよ」
 二階から妻が下りてきたので声をかけた。いやな顔をされた。彼女には先に言いたいことがあったのだ。
「水泳教室、やめた方がいいのかな」
「そんなこと言ったって、結局はやめないんじゃないの」
 少し投げやりに答えた。なんにでも思い悩む性格の彼女は、これまでも似たような悩みを繰り返してきた。
 人は悩んで大きくなる、などという言葉がはやったのはずいぶん前だが、悩まない人間が大きくならないことは真実だ。その見本が自分であることは言うまでもない。
「明日の仕事の準備がまだだから上にいるね」
 いったんは引退したと言っていた妻には、仕事の依頼が入っていた。
 
 どこかで見た夢だった。体の力が抜け、僕は座ったままだった。それにしても、どこか違う。母しか出てこなかったからだ。しかも、八年間の介護の末、そうなることは世の常ではあるのだが、昨年の夏に、母はちょうど切れ目の九十歳で亡くなっていた。夢に出てきた母は、認知症にもなっておらず、ずっと若いようだった。それに、母と同じ屋根の下でいたのは、子供時代から高校時代までの頃は別として、母の最後の数年間に満たない時間だった。
 
 今見た夢の舞台は、明らかに、今住んでいる自宅だった。夢の広さは、最初は建坪の六十㎡で、エイが飛んだあたりでは小学校の校庭程度に広がってはいたものの、以前見た夢よりはだいぶ小規模になっていた。それに、家のつくりを頑丈にしてしまったせいか、崩壊するというところまではいっていない。
 年を重ねるというのは、スケールがだんだん小さくなっていくということなのだろうか。
 母が亡くなってからというもの、気持ちも体力もはかばかしくないというのは確かだ。でも、まだ七十歳だ。
  
 母親が亡くなり一年たって、母の入院中に彼女に見せるために、いつもの散歩道である泉の森、ふれあいの森を、歩きながら撮影したビデオを、久しぶりに再生してみた。
 動くことができなくなった母も、このビデオを見ると、また歩きたい、と言っていた。
 そろそろ北国からカモが渡ってくる時期になった。
 ウトウトとしているうちに夢の中に入っていった。屋上が全部池になっていた。
 僕は水着になって、真っ白い砂浜から池に入っていく。透明で温かい。にぎやかな声がする方を見ると、子供たちや孫たちがいた。妻も準備体操をしている。
 高い空から鳥の群れが舞い降りてくる。目の周りだけがコバルト色のコガモだ。
 池の形がなんだか泉の森の池のようだ。
 子供たちは、大和に住んでいた時にはよい思い出はないなどとうそぶきながら、盆と正月になると、夫や孫たちとやってきて、一週間ほども滞在し、子供時代に戻ってしまう。
 子供たちも、親はいつまでたっても親なのだ。
 聞いたわけではないが、きっと、キャベツの芯が嫌いというわけではないのだろう。
 ソファに横たわっている僕に、誰かが毛布を掛けた。
 

 

著者

さかい なるみ