「ベッドタウン」米田淳一

 彼は本厚木のマンションから、小田急の朝の地下鉄直通の特急ロマンスカーで通勤している。
 早足で鉄橋を渡るその青い車体のロマンスカーのヴァーミリオンの椅子は、少しずつそのテーブルのメタルに施された木目の印刷が削れて地の銀色が見えて、どこか悲しげである。
 マンションから出て本厚木駅まで徒歩4分。その途中のコンビニで買った栄養剤を飲む。電車の席のテーブルの上に載せた小さなノートパソコンには、せっかく斜めから見てもよく見える高級液晶パネルをスポイルするプライバシーフィルタを貼ってある。なにしろ液晶に映る文書があまりにも重要な書類でほかの誰かに読まれる訳にはいかないのだ。もちろんこのパソコンが盗難にあってもいけないので、内蔵ディスクは彼のそばから五十メートル以上離れると、特殊なガスをディスク面に噴射して情報が読み取れなくなるユニットが使われている。大昔のスパイ映画でスパイへの命令を再生した後『なおこのテープは自動的に消去される』と流してシューッと煙を吹いて消えるカセットテープに似ている、とはいえ、そもそも今は『カセットテープ』自身がもう絶滅種である。
 絶滅種、絶滅、か。
 彼はそのノートパソコンを起動するための指紋認証をしながら、ロマンスカーの窓の外を過ぎていく曇り空の下の海老名駅を、しばしぼうっと見ていた。真新しいネービーブルーの車体色にリニューアルされた相鉄の電車が小田急海老名駅の駅名標越しにちらりと見えたが、ロマンスカーはジョイント音のピッチを上げて東京へ急ぐ。
 ーー昔、自分は海老名から横浜の学校に通っていた。
 そのあと、自衛隊に入り、そしていま……。

 時代は残酷に変わっていく。
 彼が子どもだったころ、横浜で博覧会があった。1989年のことである。いまのランドマークタワーのあたりが会場だった。関内の駅前にJR東日本の誇る豪華客車が展示され、会場内には日航のリニアモーターカーが走り、パビリオン『三菱未来館』では明るい夢の未来が立体視CGアニメで放映されていた。
 それを見るために子どもだった彼は何度も相鉄線で横浜に通ったものだった。相鉄のモデルチェンジした真新しい電車に乗ることもあった。
 それが28年後、この2017年になって、こうなってしまった。
 彼の目の前のプライバシーフィルタの向こうの液晶には、『主に朝鮮半島を対象とした周辺事態への対応指針(案)』という非情なタイトルが游ゴシック体で黒々と浮かんでいた。

    *

「おはようございます」
「おはよう。米軍の行動に変化は」
 ロマンスカーを霞ヶ関で降りた先、首相官邸にその彼、草津(くさつ)内閣審議官はいた。官邸の中央吹き抜けにある竹林を抜けて空調の空気が爽やかに届くものの、昨夜もまた事態が緊迫していて、それで夜を徹した官邸スタッフの疲労の空気が、室内をよどませているように感じられる。
「昨日から今朝まではありませんね。米軍機の飛行はいつものパターン朝鮮半島周辺をパトロールして帰投してます。大統領訪日後でさらに派遣勢力強化かと思ったんですが」
 応えるのは審議官としてのペアの内場(うちば)である。早足で歩きながら話す2人の周りもまたそれぞれ早足で人が行き交う。まだ緊迫は極に達していないのだが、官邸勤めのほとんどの人間は早口で早足である。
「もう日韓極東の米軍は充足しているよ。あとは米航空戦闘軍団が合流すれば米軍の通常戦力のほぼ全力を発揮できる。ロシアはそのすきになにか欧州方面で手を打ちたいだろうが、アメリカのほうが手が早い。アメリカも国務省は和平を言っているが、もう北朝鮮に対しての武力行使は既定路線だからな」
「中国も習近平の体制強化でもまだ解放軍軍区の改革は難物のようです。北朝鮮へ行使される米軍武力のとばっちり受けるよりは、いろんなルートで中国にとって望ましい、金正恩に代わる人間を捜して後継させるべく手を打ったほうが合理的と判断しているようです。外務省チャイナスクールだけでなく、他の系統の情報ルートからも中国中南海の具体的なその人選がかなり進んでいる兆候があります」
「米大統領の訪日前には我が国の対応指針を固めておかないとな」
「現在取りうるオプションを具体化の作業を詰めています」
「総選挙もあったが、幸いあの結果で内閣の顔ぶれもそのままですんだ。今のところ危機的だが順調に進んでいる。このまま作業急いでくれ。日本の命運がかかっている」
「わかりました」
 そう早足で歩いて二人は部屋に入った。
 官邸のなかには会議室が5つあるが、6つめの小ホールに密かに情報をとりまとめる部屋が作られ、防衛省、警察庁や公安委員会、外務省などの連絡官が集まっている。
 そのなかで草津は今回の危機の対応指針を立てているのだ。
 そして、そんな作業中に、草津は呼ばれた。
「硫黄島ですか」
 草津は官房副長官にそう言われて、驚いた。
「ああ。あそこの航空基地には自衛隊の全航空機を収容可能な広大な駐機場がある。今回の事態ではあの硫黄島がキーになる。米航空軍の中継基地となるとともに、我が自衛隊の機体も北朝鮮のBM(弾道ミサイル)攻撃を免れうる退避施設として、今回あそこを活用することになるかもしれない」
「でも、あそこにそんな容量が」
「ああ。ある。厚木のNLP(空母夜間離発着訓練)の移転用に作った搭乗員や整備員用施設がそのままだ。ただ」
「ただ?」
「まだその現状を官邸として確認していない。要するに情報として確保したとの『とどめ』を刺してないんだ」
「そうですか」
「そこで、君に硫黄島に飛んでほしい。官邸の人間として、硫黄島を確認し、現地の自衛隊員に今回の予期される事態を説明して欲しい。移動の飛行機は海自に機材を用意してもらった。だが、急ぎだと言うのに厚木基地までのヘリの都合がつかなかった。というわけで陸路で移動してほしい」
「しかし、指針案の作成がまだ」
「ここまでの案で十分概略は通じると思う。それと」
 副長官はその後、言った。
「ちょっと外の空気を吸ってこい。すこし作業の手を離さないと、冷静な指針の立案が出来ない」
 草津は少し考えて、納得した。
「承知しました」
「しかし、君は今、本厚木のマンションに一人暮らしか。君にはもっと都心に近く住まわせたかったんだが。この官邸の緊急参集チームを増員するなら君も入れようとしていたんだぞ」
「そうですか。正直、本厚木からだったら、ここだけでなく有事に立川(予備の防災拠点がある)にも行きやすいかと思ったんですが、実際にはいまいちで」
「あてが外れたか?」
 副長官は笑った。
「そこまでではないんですが」
「そうか。まあ、硫黄島のこと、頼む」

 すぐに荷物をトランクにまとめて出発しようとしたその時だった。
「草津さん、車の手配をしたんですが」
 官邸の事務官が駆け寄ってくる。
「ですが?」
 草津はいぶかる。
「品川方面で昼に発生した東電の変電所の火災関連で移動が難しいと」
 草津は思い出した。官邸情報収集室で品川の地下変電所で火災が発生していたのを聞いていたからだ。しかしなぜそんな警戒されているはずの重要都市インフラに事故が起きたのだろうか。
「そうか。でも鉄道は動いているんだろ?」
「ええ。JRの運転に支障はないようです。でも」
「東京駅まで急いでくれ。そこから電車で厚木基地に向かおう」
 冬枯れの通りを目立たぬようにタクシーで移動し東京駅に着くと、いつもの内場とともに、上野東京ラインのグリーン車に乗った。
 東京駅のホームで感じる空気は、それほど寒くはないのだが、夏に向かう空気と違う、明らかに冬に向かう空気。コート姿の人々の靴音もどこか寒々しい。
 やってきた15両編成の列車の2階建ての車内の2階席。天井が低いそこで、二人はスマホに似た端末を天井のランプにタッチさせて席に着く。グリーン車での改札はこれで省略になる。
 普通はグリーン料金を払ったSuicaやPASMOでタッチして着席するのだが、二人には公用でいちいち払わずチャージもせずに無制限に使える、秘密の端末が貸し出されているのだ。
「品川の変電所火災、嫌な予感がしますね」
「G(ゲリラ)事案?」
「そんな事思っちゃいますよね」
「洒落にならんよなあ」
「でなくても、もう東電も技術関係者も疲弊してますよ。人材不足と言いながら、実際今時の企業が必要としているのは人材ではなく奴隷、みたいな状態ですから」
「否定したいところだが、どう手を打っても厚生労働行政は質的改善にならないものな」
 草津は一度目を瞑って、開いて考え続けた。疲れが溜まっている。
 窓の外を流れる、一見平和に見える日本の風景。
 それでも、確実に危機が迫っている。
 もうこの国を焦土にする訳にはいかない。
 かといって、できることには限界がある。
 無限の人員、無限の予算はありえないし、財政も厳しくなっている。
 楽観論でいきたいところだが、この数ヶ月以内、とくに冬に予想される危機にはその楽観に切り替わる何かはやってきそうにない。
 考えれば考えるほど悲観的になる。
 だが、自分が悲観したら、現場の自衛官も警察官も、みな総崩れだ。

 そう思っているうちに、列車は高速道路の大きく重なった高架をくぐって横浜駅に着く。
 そして狭いグリーン車のデッキを降り、ホームを歩いているときだった。
「草津先輩!」
 えっ、と振り返ると、そこにいた駅員が微笑んでいた。
「どっか海外旅行からの帰りですか? トランクなんか持って」
「あ、ああ」
「高校鉄研(鉄道研究部)以来ですよね!」
 その快活な丸い顔の下の胸の名札には『輸送主任』の文字。
「ああ、そうだったね」
 久しぶりに会う後輩は、JRの駅員でそこまで出世していたのだった。
「先輩、自衛隊に入ったのに体壊したって聞いたんですけど、そのあと今どうしてるんですか?」
「え、ああ、なんというか。今は霞が関の役所勤めだよ」
 駅員は目を丸くした。
「え、霞が関! 先輩、成績良かったもんなあ。そうですか、今でも活躍しているんですね!」
 草津は複雑な顔に一瞬なった。
「まあ、なんとかそうやってるよ」
「そうですか。じゃあ、仕事があるので、がんばってください!」
 彼はそういうと、走って去っていった。
 その後ろ姿を、草津は見送って、胸が詰まったような表情になった。

 横浜から相鉄線に乗り換える。
 JRのコンコースからのエスカレーターを上り、目立たぬように端末で自動改札をタッチして抜ける。改札機の一瞬見せる残高表示は『FREE』が表示されているが、他の一般の人々には気付かれていないようだ。

「久しぶりだなあ。相鉄線。いつもは小田急だから」
 草津は待っていた海老名行特急電車に乗るなり、思わずそう口にした。
「なんだろうね、相鉄って、どこか落ち着くんだよなあ。昔から乗ってたからだけじゃないような」
「そうですね。都心につながってないベッドタウンの路線だからでしょうか。たしかに他の路線とは明らかに空気感が違いますよね。あ、大和駅に厚木基地までの車、手配済みです」
「ありがとう」
 ちょっとして、電車は発車した。
 発車した電車は車体を揺らしながら横浜駅の海老名側の分岐器を渡って下り線に入り、JRの電車に追い抜かれながらゆっくりと途中の小さな駅、平沼橋と西横浜を通過する。
「不思議なもんだよな、電車ってのは。本当にいろんなドラマをのせ、またそれぞれのドラマが起きている街並みのなかを走って行く。鉄道ってもんは人と人とをつなぐだけじゃなく、ドラマとドラマをつないでいるんだよな」
 西横浜をカーブしながら、列車はJR線と離れていく。
「草津さんやけに文学的ですね」
「いちおう文系なんだ。でも、そのドラマがこの相鉄線だと際立つ気がする」
「ほっとする『日常の鉄道』そのものみたいなものだから、余計にそうかも知れませんね」
「本当はそのほうが好きだから、横浜まわりで通勤しようとしてたんだ。でも通勤で眠ろうにも相鉄はすぐ乗り換えだから、私は小田急地下直通の電車でキツイとき寝てるよ。でも、だから相鉄はいま、都心直通工事してるのかもな」
「そうかもしれません」
 草津は息を吐いた。
「ほんと、このすべてが何事もなく終わってほしい。心底、『なあんだ』で終わってほしい。あの後輩のためにも」
「それが一番幸せですよね」
 内場は続けて頷く。
「これから北朝鮮で起きるだろう衝突は、おそらく酷い一方的なものになる」
 草津は息を吐いた。
「米軍はそのためにあらゆる準備をしてきた。冬の新月の夜を選ぶのもそのためだ。冬の朝鮮半島は熱源センサーにとっては一番の活躍の場だ。偽の熱源を使って擬装しようにも今の熱源センサーの解像度ではすぐに見破れる。撃たれる側に隠れる場所などどこにもない。それでここまで米国務省が手をこまねいたようにしていたのも、上空の監視衛星や偵察用無人機から北朝鮮すべての車両と人員の行動履歴を蓄積するためだ。その情報を使えば、北朝鮮お得意の地下施設でさえも、出入り口から規模まで丸裸だ。しかも我が国の情報収集衛星ですら、北朝鮮がまともな偽装(カムフラージュ)もせずに戦力を置いているのを確認できている。おそらく衝突状況開始から北朝鮮軍の全滅までの時間はそうかからない。かつてサダム・フセインのイラク軍が湾岸戦争で多国籍軍相手に何もできなかった以上の虐殺になる。米軍にはそれを実施したところでほぼなんのリスクもない。防御が堅く反撃を受けそうなところには無人機を送る。ロボット技術を使った無人機は操縦者にほぼ負担をかけることなくゲームのように生身の人間を殺せる。相手がそれに反撃したところで無人機は所詮無人機だ。結局はカネですんでしまう。あとは関係各国でその戦費の帳尻を合わせればいいだけだ」
 一気に草津はそう語った。これまで鬱屈した思いを吐くように。
「今ではシリアやアフガニスタンでのその戦闘の様子が一般のYouTubeにすら公開されている。戦闘ヘリの灰色の熱源センサーの画面に映る遙か遠くの人間が、一方的にヘリ搭載の機関砲の射撃でミンチにされる様子。ゲームのようだが実際にそれで人が死んでいる」
「キツいですよね」
「幸い日本も自衛隊も、これまでそういう環境にいたことがなかった」
 草津はそう言って、ペットボトルの水を一口飲んだ。
「だが、それでいいのか?」
「え、いいのか、とは?」
 内場は聞き返した。
「現実、人命には悲しいことに軽重がある。衝突が起きれば、米軍はまるで虫のように北朝鮮軍を殲滅するだろう。当然その周りの民間人も、女子供も巻き込まれる。そんなことはわかりきっている。だが、もともと、これは我が国が北朝鮮に拉致された人々のことをはっきりと告発し、対決姿勢をもっと早くとっていたら? 北朝鮮拉致はない、といくつものメディアがそもそも否定していたじゃないか。そんな話は荒唐無稽だと。何人もの人間がおかしいと思っていたのに否定され、公にならなかった。どこが報道の自由だったんだ? そのあと、それが発覚しても『六カ国協議』だの『毅然たる対応』だのと言いながら、ほぼ彼ら拉致家族の帰国について、ほとんど有効な策は何もできなかったし、しようともしなかった。正直、この国はそうやって同胞を見捨てて平気な非情な国だ。救出作戦もしない、その準備もしない。準備をすると言うことすらはばかられる。それどころか表立っての抗議すらはばかる。圧力より対話を、といいながら、どっちもまともにやってない。それどころかいいように騙されて金をせびられ、不法資金の経路をこの期に及んで絶てないでいる。それがこの国の平和主義だ。自分さえ良ければいい。自分さえ平和ならいい。戦争放棄という美名の実態がそれだ。その排除と棄民の論理はとうとう日本国内でもはじまっている。高齢者自己負担の値上げ、生活困窮者への福祉切り捨て。そこまで何もかも見捨てていって、この国は最終的に一体何を守る気なんだ? 俺は自衛官になったあの昔、守るべき人々の姿が見えた。米ソ冷戦が終わりかけとはいえ、人々はそれでも不安と戦いながら、未来を信じていた。きっと未来にはすべてが解決する、と」
 内場はその草津の言葉に、少し気圧されている。
「それが今はどうだ? 公然と医療費がかさむから透析患者は死んでくださいという馬鹿者もいる。知的障害者も福祉費がかかるからと殺す大馬鹿者もあらわれた。自分がいつそういう人々やその家族になるかもしれないという想像力すら失ったこの国で、いったい何を守るんだ? これのどこが美しい国なんだ? 外国人が観光にやってきて美しいと思っても、せっかくのそれをまた灰燼にしてしまうのはきっとそんな我々だろう。そして灰燼になってもなお、『国破れて山河あり』などといってまた同じことを何度でも繰り返す。そして美術品も優秀な頭脳もすべて海外に流出させ続けても、どうせそのうちまた呼び戻せるとタカをくくっている」
 平日昼間の相鉄線の特急電車は、パラパラと立つ人がいるほかは全員着席して静かに時間を過ごしている。かつての新聞を広げる姿はもうない。みなスマホかそれに似たものを使っている。見ている中にはこの緊迫を書いたニュースサイトもあるのだろうか。
 電車が西谷駅付近ののきついカーブにさしかかり、車輪とレールの鋼の擦れる音が響く。車窓には緑が多く、その合間からびっしりと並んだ住宅が見える。ベッドタウンらしい車窓である。
「この国は本当に『恒久的な平和を願って不断の努力』をしているのか? 毎度のことだが、虚しくなる」
 列車はさらに減速した。先で電車が詰まっていることを示す信号のせいだろうか。
 それにつれてか、話題もあって、車内の空気が重くなってくる。
 沈黙がすべてを支配する。微速で進む電車の台車からの圧搾空気音だけが聞こえる。

 しかし、それでも列車は再び走り始め、二俣川駅についた。
 それでも、沈黙は消えなかった。

 僅かに人の乗り降りのあった二俣川駅を出ると、電車は先を急いで足を早めていく。
「でも……」
 聞いていた内場が、そこでいった。
「そういうことを人々が、こうしていつも考えないですんでいるのが、実は本当の平和なのかもしれませんね」
「危機に対しての具体的な議論も何もできなくても?」
「議論で突っかかってくるのはいつもの同じ連中ですし、第一、私たちはそれを含めた対応のために給料もらって働いているんだと思いますよ」
 彼は、そういった。
「それが仕事じゃないですか。我々が自分で選んだ」
 草津は考え込んだ。
「……そうなのかもしれないな」
「そして、正直こういう仕事しても、こうしてホッとして帰れるベッドタウンがあり、そこに戻れる電車がある。それがありがたいですよ。そして、殆どの世の中のみんなも、それぞれそう愚痴ったりしながら、それぞれに仕事をして、それぞれにこうして帰って、休んでるんです。そしてまた仕事に出かける。たぶんそれが世の中なんじゃないかなと。今も遙か昔も、そしてこれから遠い未来も」
 そうしているうちに、列車は境川を渡ると、地下軌道の轟音を上げながらトンネルに潜り、地下にある大和駅についた。

 大和駅のホームから階段を上がって、地上の改札を出る。
 そのロータリーで待っていた車は黒の公用車だった。先導のパトカーの警官が軽く目礼するのに草津たちは答える。
「そういえば、もうすぐクリスマスだったんだな」
 立体化されて踏切のなくなった曇り空の街にかすかに流れるクリスマスソングの中、二人は公用車に乗る。駅前広場の時計塔のメタルのパイプが風で揺れている。
「日付ではわかっていても、ここ数ヶ月、それどころじゃなかったですよね」
 その内場の言葉に、草津はまた溜息を吐いた。
「それでもなお、守るべきものは、これなんだろうな」
「そうですよ」
 車はパトカーに続いて、ほとんど揺れもなく静かに走って厚木基地に向かう。その途中、公用車は幼稚園バスとすれ違う。
 草津はそれをまた見つめた。
 そして、コンクリートブロックで警備を固めた基地ゲートで敬礼を受けて、中に進んでいく。
「米軍もここからいなくなるんだな、今年度で」
「ええ」
 草津はまた息を吐いた。
「時代は、変わっちまったな」

 厚木基地には、硫黄島行きなどの飛行機の発着のために、空港の待合ロビーのような施設がある。
 そこには、厚木基地にかつていた、旧海軍の数々の飛行機や将兵のことを展示する広報資料館がある。
 搭乗手続きをして、ちらりとそれを見た草津は、つぶやいた。
「同じようでも、同じじゃないんだろうな。歴史ってものは。そう信じたいが」
「そうですよ」
 内場は、そう同意した。
「愚痴ってすまなかったな」
 そう謝る草津の声に、彼は笑った。
「いえ、私もそう思ってましたから」
 内場も、言った。
「何かあってもなくても、私は楽観してますよ。人間という種も良き性質も、簡単には滅びません。だから我々は、遺伝子を継いでここにいられるんです」

 搭乗口から見える乾いた灰白色に光る舗装の滑走路の上、冬の曇り空の切れ目から、明るい陽の光が差し込んできた。
〈了〉

著者

米田淳一