「ベーカリーヨシノ」サイトウハルマ

「いらっしゃいませ。」
店先から、客を迎える妻の声が聞こえてくる。
うちの店の現役看板娘だ。娘と呼ぶには少しトウが立ち始めてはいるが。
「いえ、今日、取材をお願いしてます…」
「あ!お待ちしてました。あなたー!相鉄の方がお見えになりましたよ。」
相変わらず妻は声がでかい。よく通る声だし。

来たか。気が重いけど仕方がない。
「はーい。奥にお通しして。」

相鉄瓦版の沿線名店プロジェクトというページにうちの店を掲載したいとオファーがあり、
今日はその取材の日。
「どうも…」
なんと挨拶していいのやら。思わず頭を掻いてしまう。
簡単な自己紹介を済ませ、すぐにインタビューが始まる。
インタビュアーは物腰の柔らかい小柳さんという女性。
髭面強面のカメラマンも同行してる。岩田さん。写真撮るのか。気はさらに重くなる。
「オーナーの経歴をお伺いします。」
オーナー。たしかに店主ではあるが、オーナーと呼ばるのは初めてだ。こそばゆい気持ち。

10年前、僕はパン屋になりたくて、勤めていた会社を辞めた。

実家は和菓子屋。父が興した店。僕はそこの一人息子だ。
10代の頃、和菓子屋は古臭く地味で、うちが和菓子屋だというのが嫌でたまらなかった。
実際うちの店の客といえば近所のおばちゃん、おばあちゃんばかりだったし、
店のショウケースに並ぶのは茶色やあんこ色の地味なお菓子。
高校生の頃の僕は、おしゃれな洋菓子店やカフェなら若い女性客が多いんだろうなー
なんて妄想してニンマリしていたバカ息子だった。

無口な父は跡を継いでくれなど口に出すこともなく、
母は母で「あなたのやりたい仕事に就いたらいい。」と言ってくれていた。

やりたい仕事なんて具体的になかった僕は、なんとなく受かった大学に進学し、
なんとなく4年間が過ぎ、なんとか内定をもらった会社に就職した。
就職を機に親元を離れ(と言っても同じ相鉄沿線だが)、一人暮らしを始めた。

勤め始めて3年も経つと仕事にも慣れ、日々同じことの繰り返し。
同僚は僕のことを「真面目だけど面白みのないやつ」と思っていただろう。
いや面と向かって言われたわけではないが、きっとそう思われていたに違いない。
ゆるい笑顔で、人付き合いもほどほどに毎日をやり過ごしていたのだから。
僕自身、この会社で定年まで勤め上げることが想像できず、悶々とした日々を送っていた。

その頃の僕のストレス発散法は食べること。
彼女がいないということもあったが、一人であちこち食べ歩いていた。
外食だけではなく、美味しいと評判のパン屋やケーキ屋にも足を運ぶようになった。
週末のパン屋巡りが楽しくて「パンが恋人」と吹聴していた時期である。
そのうちパンを買うだけでは飽き足らず、美味しいパンを自分で焼いて食べられたら
どんなに幸せかと思うようになり、夜、パン教室に通うことにした。
教室で学んでみるとパン作りの奥深さに驚いた。これは趣味で終わらせるべきものではない。
極めてみたい。と思うようになり、ある日突然「パン屋開業」を目標にしてしまった。

思い立ったら吉日。翌日、退職届提出。
「え、急だね。実家を継ぐの?」
「いえ、パン屋になります!」
「なんでまたパンなの?」と目を白黒させる上司を尻目に、
僕は目標に向かって走り出すかのようにウキウキ職場を後にした。

その帰り道、製パン専門学校入学の手続きを済ませ、景気づけにジョイナスの
ポンパドールでパンをしこたま買った。僕の前途を祝してという意味も込めて。
赤い大きな袋は決意のしるし。意気揚々と相鉄線に乗り込んだ。
急行海老名行き。
ドアが閉まる直前に乗り込んできた女の子が僕の隣に立った。息を弾ませている。
女の子は弾んだ息を整えながら深呼吸。
「いい匂い。パン?」つい声になったという感じ。独り言だ。
はい。僕の持ってるパンの匂いですよ。
と答えたくなるのをぐっとこらえ、横目で女の子を観察。

かわいいな。
パン好きかな。
ハタチそこそこかな。

とその時、電車がガタンと大きく揺れた。相鉄線、横浜駅を出て平沼橋手前でいつも揺れるのだ。

「きゃあ」

バランスを崩した女の子、よろけた勢いで、こともあろうか僕の脇腹に肘鉄を食らわしてくれた。
「かわいい」なんて鼻の下を伸ばして気が緩んでいたせいもあり、
僕は持っていたパンの袋を落としてしまった。

「あっ」
「ヤダ、おっとっと」

女の子は体勢を立て直せず転んでしまった。
ポンパドールの袋の上に尻もちをついて。

「あー!パン潰れた。」と叫ぶ僕。
転んだ女の子のことよりもパンの心配をするところが、僕の女性にモテない所以だ。
「大丈夫?」遅ればせながら手を差し伸べる。
「パンツ見たんですね。私のパンツ見たんですね。」
女の子のよく通る声が車両中に響き渡る。

「え?」

スカートの裾を抑えながら立ち上がった女の子は目に涙を浮かべてる。耳まで真っ赤だ。

「なんだ、なんだ。チカンか」
「通報する?」

「違います!パンツじゃないです。僕のパンです。パンがつぶれたんです。」
と僕も涙目で弁明し、なんとか周囲の人たちの誤解は解けた。

「あっ、ごめんなさい。ごめんなさい。どうしよう。
パンツって叫びながら指をさされたものでてっきり…」

そうか。「パンつぶれた」の「ぶれた」が聞こえなかったわけか。
「ぷっ」
二人顔を見合わせて吹き出してしまったが、いやいや笑い事ではない。
チカンに間違われ、パンも潰れてしまった僕の身にもなってくれ。

「パン、弁償します。」
「パンは潰れても食べられるから問題ないです。」
「でも…チカン呼ばわりしちゃったし。」
「いいんだ。(カワイイから許す)」

そうこうしているうちに僕の降りる二俣川駅ホームに電車は滑り込む。
「それじゃあ」
「本当にごめんなさい。」
連絡先どころか名前すらも聞かずに僕は電車を降りた。
車内でホームの僕に笑顔で小さく手を振る女の子。
かわいい。やっぱりかわいい。
「パンは床に落ち、僕は恋に落ちた。」ということだ。
家に帰り、潰れたパンを食べながら、僕は呟いていた。
「もう一度会えたらいいな。」

ところが、この日の出来事は、意外にもあっさり忘れてしまった。
製パンの学校に通い始め、忙しくしていたのと、両親に会社を辞めたことや、
パン屋開業を目指し学校に通っていることを打ち明けなくてはと
プレッシャーに感じていたから色恋沙汰に心を割く余裕がなかったのかもしれない。

両親はなんと言うだろう。びっくりするだろうか。 怒るだろうか。
和菓子屋の倅がパン屋かと呆れるだろうか。
学校が休みの日に実家を訪ねた。学校に通い始めて1ヶ月が過ぎていた。

店先で白い割烹着に 白い三角巾で店番をする母。
遠くから僕の姿を認め、ぴょんぴょん跳ねながら大きく手を振っている。
「 どうしたの?急に。」
「うん、ちょっとね。父さんは?」
「 今、配達に出てる。町内会の寄り合いに出す茶まんじゅうの配達。」
「ふーん。」

父が戻る前に帰ってしまおうか、出直そうかと逡巡してると、
「お父さん、夕方には帰ってくるわよ。それよりちょっと店番してくれない?
あなた泊まってくでしょ?おいしいもの作るわよ。買い物してくるから。」
言いながら、すでに割烹着と三角巾をはずしている。
ま、いいか。どうせ客はほとんど来ないんだろうし。
「泊まらないけど夕飯はご馳走になるよ。いってらっしゃい。」と母を送り出す。
店番か。
いつ以来だろう。小学何年生だったか「お家のお手伝いをする」という宿題が出て
その時に店番したのが後にも先にも唯一の店番かもしれない。

「ただいまあ」

思った通り、僕が一人店番をしてる間に客は来なかった。内心ほっとする。
みたらし団子、どう包装したらいいかわからなかったんだ。

「おかえり。」

振り向くと、すでに割烹着をつけた母と、その横にもう一人。

「ああっ!」
「パ、パ、パンツ!」
「えーっ!」
「なんでパンツの人?」

「何よ?あなたたち知り合いなの?パンツって何?」怪訝そうな母。
「ヘンテコなサークルに入ってるんじゃないでしょうね。」
「だから、だから。この子は電車の中でパンツが…
違う違う。パンつぶれて、パンツになって。」
「アンタ、大丈夫?相当疲れてるんじゃないの?
この子ヨシノちゃん、その先の相川さんちのおばあちゃんの孫娘なのよ。
うちのお得意さん。そこで会ってさ。おばあちゃんにおはぎ買って行くっていうから
裏から一緒に入ってもらったの。」

実家の近所に住んでるとは。しかもうちのお得意さんだったとは。

「ヨシノです。先日はどうも。本当にごめんなさい。」
「え、なになに?アンタ鼻の下伸びきってるわよ 。」
「うるさい!いやいや、母に言ったんです。またお会いできて嬉しいです。」
「ほほう。ふーん。なにこれ?」

なにこれ?は僕のセリフだ。しかも喜ばしい「なにこれ」だ。
メールアドレスを交換して、ヨシノちゃんはおはぎを買って帰って行った。
その晩、僕は両親に会社を辞めて製パンの学校に通っていること。
ゆくゆくは自分の店を出したいことを伝えた。
父は「店を出すってことは大変なことだぞ。中途半端な気持ちだったら今のうちにやめておけ。」
とだけ。口には出さずとも、和菓子屋を継いで欲しいと少なからず思っていたはずだ。
母は「パン屋いいね。お母さんパンも好きなんだわ。」と無責任なことを言っていた。
母なりの思いやりの言葉だと思う。

両親も応援してくれる。そして何より支えてくれる恋人がいる。
ヨシノちゃんとは付き合うことになったのだ。
僕はガムシャラに、それこそ寝食を惜しんでパン作りの勉強をした。
専門学校を出て、都内の有名パン屋で修行。
実家の近くに念願の店を持つことになった。修行中にヨシノちゃんは僕の妻となった。
今、二人三脚でパン屋を営んでいる。

相鉄瓦版、小柳女史のインタビューはまだ続いている。

「こちらの店名の由来は?」
「妻の名前がヨシノなもんで。」
「あ、お店にいた声の大きなかわいい方が奥様ですね。」
そうそう、声がでかくてかわいいんです。

「では、最後にベーカリーヨシノの一押しパンはなんですか?」
「それはあんぱんです。父が炊いた絶品あんこがたっぷり入ったあんぱんですよ。」

カメラマンの岩田さん、あんぱん激写。

著者

サイトウハルマ