「マンゴシャワーと西瓜雨」横谷隆

 その夜、何度目かの夜空の底抜けの音で目が覚めた。雨季の落雷だ。と、一瞬、窓のカーテンの隙間から光が差し込み、部屋が明るくなって、数秒後に底抜けの音がまた轟いた。
 僕はベッドを出て、少し重い布地のカーテンを開いた。雨。豪雨。ホテルの十二階の部屋からバンコクの繁華街の光が遠くに見えた。雨中に少し煙っているが、不夜城の輝きは燦然としている。眼下には大きな民家がみえる。門灯が照らし出す家を囲む庭は広く、南国特有の椰子の木々がシルエットになって浮かび上がってみえた。切り絵の黒い世界だ。なんだか、昼間、タイ料理屋「サラディー」から抜け出して人知れずこの庭に忍び込んでいたワヤン・クリの人形たちが目を覚まして、椰子の木々の間から闇夜を泳いでこの部屋まで躍り上がってきそうな気がした。
 不思議だった。眠気を妨げた落雷、豪雨に腹が立たない。おそらく三年前のあの頃だったら騒音にふてくされ、耳をふさいで寝返りをうっていたに違いない。今夜は違う。なんだかこんな景色が嬉しかった。ワヤンと遊んでやっても良い。最後のバンコクの晩に感傷的になっているわけでもない。自分は本当に変ったのかもしれないと思う。
 ベッドに戻ると、また部屋中に光が射した。そして、豪雨の中の大きな音。この夜、何枚の空の底が抜けたのだろうか。
 二ヶ月前、本社の社長がタイに来た。恒例の短期出張で重要な取引先との挨拶をすませた最終日の夕方、社長は僕を部屋に呼んだ。怒ると顔を真っ赤にして、クレッシェンドのべらんめえ調で部下を叱る姿しか印象に残っていなかったから、部屋に入った時、社長が満面の笑みを浮かべているのに驚いた。タイ会社の池谷社長も一緒だった。
「おい、小坂、お前、変ったなあ。三年よく頑張ったな。でだな、そろそろ、日本へ戻れ」
「・・」
「顔もまあ大分黒くなったしなあ。うちの塗料、顔に塗ったか?少しはいい面構えになったな。その顔で本社へ戻れ。池谷にはもう言った。ほんでな、本社で、営業課長でもやってみろ」
 社長が一方的に話した。僕が変ったと社長は言った。そして、本社に戻れとも言った。それは理解できた。翌日、池谷さんに「良かったな」と背中を叩かれて、本社に戻れる社長からの正式な辞令だったことが分かったものだった。   
 そんなわけで、一昨日三年住んだスクンビットの定宿を引き払い、帰国前日にこのホテルに入った。落雷の晩が最後の夜となった。それにしても社長が言うように僕は変ったのだろうか?
 翌朝、池谷さんの車で社長付きの運転手ソムチャイが飛行場まで送ってくれた。池谷さんの配慮だった。昨晩の激しい雨は一滴残らずワヤンたちに連れ去られたようで、晴天の高速道路を車は飛ぶように走った。渋滞の無いこの朝、スワンナブーム空港までは僅か三十分の距離だった。
 三年の間、日本へは一度出張で戻っただけだった。久々の日本であることに違いない。この間、少しは会社の役には立てたのだろうか。今まではそんなことを考える自分ではなかった。社長は変ったと言った。本当に自分は変ったのか?二十六歳でこの地に来て三年。会社思いになったかどうか分からないが、この帰国にあたって、長い間、背を向けていた人に早く会いたいと思っている自分が居る。この点は、確かに変った。
 羽田行きの便は定刻通りにタイの青空に向かって舞い上がった。飛行機が上空で水平飛行に移って、窓側の座席シートに背を委ねると、僕は目を瞑って、そんな気持ちにさせてくれたこの地でお世話になった人たちとの語りと不思議な邂逅を思い出してみる。
 
 その店はシーロム通りにあった。「サラディー」が店の名前だった。この店が僕の世話になった人たちとの出会いの場になった。
 平成になった年に、外資系大手のコンサルタント会社からタイに派遣された川島さんが、銀行の海外派遣女子行員としてタイに来た現婦人と結婚し、タイを永住の地とする覚悟で始めた店だと聞いた。もう二十年以上の時を刻んだことになる。
 大方の客は日系のタイ進出企業の勤め人だった。それと、野菜好きと酒好きの人たち。清潔感漂う綺麗な店だった。そして、曰くありげな東南アジアの民芸品が壁や棚に飾られていた。中でも、川島婦人がインドネシアから買ってきたという大きな人形、ワヤン・クリがその存在感を示していて、吊るされている壁からいつも店内を見ていた。                  
 タイ野菜のサラダが売りの店で美味かった。僕はチェンマイソーセージが添えられたタイ野菜サラダが一番好きだった。川島さんは時々、自ら手に入れた美味い日本酒を客に振舞ってくれた。
 ある日、一人でチェンマイソーセージをつまみにビールを飲んでいると、川島さんが話しかけてきた。当たり障りのない会話をしたと記憶するが、僕が相鉄線の「平沼橋」住人であることを知ると目を丸くした。そして、川島さんはこの地に「相鉄線あのこの会」があることを教えてくれた。海外でよくある日本人の集いの会の一つだと言った。確かに、県人会、同窓会、酒の会、ゴルフの会、いろんな集いがタイで行われていることは僕も知っていた。    
 尤も、僕には無縁の会ばかりだった。「相鉄線あのこの会」もそうした集いの一つらしいが、なんだか奇妙な会に思えた。川島さんは生まれが三重の津、育ちが名古屋だから最初は相鉄線がどこを走る電車なのか分からなかったらしい。それでもこの会がこの店で行われるようになってから、会のメンバーとは随分親しくなり、会員の勧誘に一役買っているのだと言った。
「平沼橋住人は貴重みたいで、大歓迎されるよ」
と相鉄線に馴染みの無い川島さんが、横浜に最も近い駅、平沼橋駅の名前を熱くして語ったものである。
 今、思えば、この会に少しばかり興味は覚えたけれど、入会する気はこの時はまるでなかった。が、川島さんの奨めだったこと、サラディーに来る機会が多かったことから、数ヶ月後だったと記憶しているが、川島さんからの連絡を受けて「相鉄あのこの会」の水尾会長に会った。
 
 水尾さんは四十代半ばに見えた。日本の大手ユニットハウス製造会社のタイ法人の社長をしている人だった。精悍な顔つきで体の大きな人で迫力を感じさせる。が、話し方は静かだった。タイサラダをテーブルの真ん中に置いてビールを飲みながらの話となった。三杯目の生ビールを頼む頃には水尾さんは、随分饒舌になっていた。そして、「相鉄線あのこの会」の話をしてくれた。正式名称は「相鉄線、あの町この町語る会」で、略して「相鉄線あのこの会」。二年前にこの店で意気投合した客仲間と話しているうちに、なんと水尾さんを含めて三名が相鉄線沿線の出身であることが分かって驚き、その後も集ううちにこんな会が出来上がったらしい。会名は三人で決めたが、会組成を言い出した水尾さんが初代の会長を勤めているとのことだった。しかし、なんとこの三年の間、相鉄線本線の横浜駅―海老名駅間の十八駅中、三駅を除くすべての駅の住人が登場、彼らの入会もあって相当に賑やかな会になったらしい。タイにこんなに相鉄線と縁のある人が居たことに水尾さんも驚いたようだ。
 この時点で、未登場の三駅の中の一つが平沼橋で、水尾さんは僕に是非参加して欲しいと言ってきた。僕が入ることで、残るは「西横浜」「相模大塚」の二駅となるらしい。そんな話しをした後で、水尾さんは一番重要なことを失念したとして、会の目的を教えてくれた。
「皆、相鉄沿線の自分の育った町が好きな人たちばかりでね。十八の駅を通してわが町を語ること、それと相鉄線を語ることでね。時間軸もない。それだけさ、単純だろう?但し、へんな地元意識で固まって、こそこそする会じゃあない。相鉄線はJRや数県をまたいで走る私鉄とは違う。あの町この町と短い路線だけれど、皆の故郷を繋いで走る個性ある電車でね。相鉄沿線の人たちを横浜駅を玄関にして、全国に、いや全世界に送り出す電車って思っている。逆も然り。帰りもね。育った町までちゃんと連れ戻してくれる電車さ」
 分かったような、分からないような、ぼうっとしている僕の顔を可笑しそうに見ながら水尾さんは一人で頷いていた。水尾さんは、会員資格についても教えてくれた。最低十年間は相鉄沿線に住んでいる、あるいは住んでいたことが資格要件で、生まれて今に至るまで生活拠点を相鉄線沿線に持っている人は、ダイヤモンド会員と称しているとのことだった。水尾さんは生まれてから二十八歳まで「鶴ヶ峰」に居たものの、結婚後は小田急線の町田に居を移したとかで、残念ながらダイヤモンド会員ではないのだと言った。但し、水尾さんの実家は今も鶴ヶ峰にあるらしい。
 それにしても、水尾さんは僕の意向を全く聞くことが無かった。僕の入会希望ありきで話しをしていたようだった。正直言えば、気乗りはしなかった。が、そう話す間もなかった。
 尤も、その理由は語りたくない。実を言えば、僕は「三ツ境」の生まれだった。高校を卒業し、今の途装材製造の会社に入った十九歳で平沼橋住人になった。だから、三ツ境で生まれ育ち、平沼橋に住んでいる僕はダイヤモンド会員となるのかもしれない。だが、こんな僕の過去を語る必要はないのだ。この会で僕を三ツ境駅まで戻してもらう必要は全くなかった。三ツ境を忘れた平沼橋住人でいい。
 こんな相鉄線の話が終わって、お互いの仕事の話しとなった。お酒も進んで、僕は水尾さんとすっかり打ち解けていた。水尾さんは僕の仕事話に真剣に耳を傾けてくれた。僕の会社の環境塗料にも興味を示してくれた。商売は別としてもこの人からは、仕事を教えてもらえそうだと思ったものだった。そんなこともあってか、結局、平沼橋住人として「相鉄線あのこの会」に次回の定例会から参加することとなった。
 その晩、川島さんご夫妻に見送られて、水尾さんと一緒にほろ酔い加減で店を出る時、壁に吊り下げられたワヤン・クリが僕に向かってウインクをしたように見えた。酔い過ぎたのかもしれない。
 
 会員の中では僕が一番若かった。先輩たちの相鉄線のあの町、この町トークを聞きながら、僕は仕事を含めて様々な話しも聞くことが出来た。社会人としての生き方を諸先輩から学べた気がする。段々、楽しい時間になっていった。但し、今、思い出しても僕が平沼橋の町について語ることは一度も無かった。
 うちの社長はどうやら僕が根暗で、斜に構えた生き方をしてきたことを知っていたようだ。だが、あの日、社長が言ったように僕が変ったとしたら、会社熱心な社員に少しでもなっていたとしたら、紛れも無く中途半端に顔を出していた僕に様々なことを教えてくれた会員のお陰だろうと思っている。
 入会して一年が過ぎた頃からだろうか、「相鉄あのこの会」の肝心な話も面白くなって、耳を傾けるようになっていた。帰国間近になってからは、会員の話しを真剣に聞くようになっていた。そうなったのも、帰国が決まる半年前、あの雨の晩、初めて会ったダイヤモンド会員の岸根さんの話を聞いたからだろうか。
 会員の職種は様々だった。年齢もバラバラだった。但し、さすがにダイヤモンド会員は数名と少なかった。なんとはなしの参加ながら、今になっても僕にはあの人たちの語ったことを鮮明に覚えている。正直、全く興味を引かない話もあった。面白い話もあった。初めて聞いた話もあった。会員同士のあの町、この町の食の名店を巡る議論もあった。中でも「大和」住人と「天王町」住人の名店論議は熱かった。そんな時、水尾さんが上手く話しを纏めたものだ。相鉄沿線に大した山も海もあるわけでない。ベッドタウンだ。町々の開発は進んで、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」とは歌いにくくなった沿線の「あの町、この町」が紛れもない皆の愛すべき田舎で故郷なのだ。そう、僕は思った。
「二俣川」の小沼さんは、この会で帷子川を良く語っていた。水源が上川井町辺りにあって、相鉄線と並んで横浜に進路をとっている川だ。信濃川の何十分の一の距離を流れる川だ。小沼さん曰く、上りの電車が鶴ヶ峰を越えた頃、この川がどうにか視界に入ってくる。相鉄線が新幹線とクロスする「西谷」付近らしいが、そのあたりの昔の景色が小沼さんにとっては桃源郷のように見えて一番好きだと言っていた。僕にはどんな景色なのか想像すらつかなかった。「上星川」まで、帷子川は上り電車の右側に見えるそうだ。帷子川は僕の住む平沼橋を流れる川でもある。そのあたりでは、アザラシも現れたような広い川幅になっていて、確かに位置を上り電車の左側に変えている。この川の周辺には鎌倉時代に源平が戦った古戦場もあって、刀や槍が出たと小沼さんは教えてくれた。
「星川」の大木さんはこの会の最年長の人だ。七十歳に近いと水尾さんから聞いていた。若かった頃のタイでの勤務経験を活かし、同じ年の本社会長に請われて定年後も建設会社の営業顧問としてタイと日本を行ったり来たりしている人だった。昭和二十年代、相鉄線の車両の色が茶色で地味だった頃、単線で走っていた頃の記憶も鮮明に持っている人だった。この人も帷子川が好きなようで、小沼さんの話しをお猪口片手に楽しげに聞いていた。桜の花の咲く頃、お孫さんの手を引いて川沿いの小道を散歩するのだそうだ。
「鮎やギバチが泳ぐ綺麗な川になったことは喜ばしいけど、私らの若い頃、染色工場からの廃液の臭いもこの川は届けてね、その頃の日々とその匂いが懐かしいなあ」
とも言っていた。臭いの話となって、ますます僕には分からなかった。
「海老名」の坂崎さんは大手銀行員で縁なしの眼鏡が妙に似合っていた。長身、スマートな人で一見、冷たい感じのする人だったが、隣同士になる機会が多く、銀行との付き合い方をやさしく話してくれた。この人は、車両オタクだった。水尾さんがそう紹介してくれた。確かに、彼の話で車両番の九千系、一万系、一万一千系などの言葉を覚えた。坂崎さんに依れば、最新車両の二万系や九千系リニュアル車体カラーはヨコハマネイビーブルーで、実に美しいそうだ。他にもなにやら車両に関するマニアックな話しをしていた。僕には全く分からなかった。タイに居てこうしたことが何故、敏感に坂崎さんに分かるのか不思議だったが、これがオタクと呼ばれる所以なのだろう。そして、坂崎さんは高いお金を払って泊りがけで豪華な電車に乗ることは、意識してすることだけれど、日常、身近な所で無意識で綺麗な電車に乗れることが、実はバリュアブルなのだと強調していた。なんだか難しい話だった。
 僕の入会後に参加してきた人が、この会、紅一点の商社員の北川さんだった。タイ語の達人だった。快活な人でお酒も良く飲んだ。僕より五歳ほど年上らしい。少し自嘲気味に「まだ独身で、旦那、募集中です」と言っていた。北川さんは、「三ツ境」の住人としての参加だった。東京の生まれで十二歳のときに三ツ境に引っ越して以降、二十年以上相鉄線に世話になっていると自己紹介の中で喋っていた。だから、この人とは僕の三ツ境時代と重なることになる。彼女の話は印象的だった。三ツ境の話だったからだろうか。子供の頃、駅で相鉄線の来るのを楽しみに待ったそうだ。そして先頭車両の顔を見て、その日の運勢を占っていた占い少女だったと自分を語った。季節、時間、天候によって車両の顔は変るらしい。お姫様や王子様の顔に見えると楽しいことがあったそうで、蛇やライオンに見えた時は退屈な一日になったと語った。その頃は真剣になって日記にもつけていたという。 
 話の後で「子供だったのよね。何に見えるかって、自分の気持ちで変るのにね」と北川さんは笑った。
 この話しを聞いた晩だった。僕は夢を見た。
 ・・・記憶から薄れていたあの頃の三ツ境駅で、僕は母と並んで電車を待っていた。その横で、幼い頃の北川さんがプラットホームに近づいて来る先頭車両の顔を覗き込もうとしていた。何故か僕は不安になって、あわてて母の手を握った。だが、母の手は氷のように冷たく、そして腕は枯れ枝のようにか細かった。寝つきの悪い晩になった。やがて、どうにもならない自己嫌悪感が僕を襲い始めた。
 
 あの頃・・、
 僕は三ツ境に生まれた。三ツ境住人だった。早い時期に父親が銀行ローンで小さな庭付きの家を買った。商店街からも、駅からも十分くらいのところで便利な所だった。が、その父は、僕が生まれて直ぐに亡くなった。癌だったらしい。そんな訳で、残された母と六歳年上の姉と僕との三人生活が三ツ境での僕の幼少期と言うことになる。父親の顔はまるで覚えていない。仏壇の写真だけを見てきた。母に似合う二枚目の人だ。物心ついて父親の居ないことを寂しく思ったこともあったが、母も姉も優しくて、母子家庭だったけれど楽しかった。
 母親は快活な人で幼稚園や小学校の運動会でも僕や姉と共に競技に参加して大活躍をした人だった。いつも笑っていた。そして綺麗な人だった。強い人だった。昼間、母は僕らの為に働いていたから、僕たちは鍵っ子だったけれど、それでも楽しかった。母はスーパーレディーだった。だから、僕は母が自慢で、誇りで母が家に居る時は、母の後ばかり追いかけていたものだ。姉から「幸ちゃんは甘えん坊」と良くからかわれたが、それがまた嬉しかった。母に連れられて休日には二俣川の大池に行ったことや、瀬谷の海軍道路の桜の道を母、姉の三人で歩いたことを覚えている。
 しかし、こんな母と過ごした時間は短かった。僕が六年生になった時だった。母は筋萎縮性側索硬化症(ALS)の宣告を受けた。母がある晩、食事中に持っていた箸をテーブル下に落したことがあった。この場面を何故か僕は覚えていた。母はこの時不思議そうな表情をした。これが病気の始まりだった。尤も、僕にこの病名が分かったわけではなく後から姉に教えられた。病院は三ツ境にあった大きな病院だった。
 事情はよく分からなかったが、僕たちは親類と疎遠だった。母たちの結婚が祝福されたものでなく、親類とはいつしか疎遠になったようだった。だから、大学生の姉が母と親しくしていた隣の中牟田さんと一緒に、いつも病院の先生と話をしていた。そして、僕が中学三年の時に母は亡くなった。四年に亘って入退院を繰り返してこの世を去った。僅か五十余年の人生だった。発病からの母の変り様は激しかった。亡くなるまでの二年間は、昔の面影を日々消して、手足を細らせて、ただ目を光らせる母が居た。その目が僕には怖かった。一番好きだった人の目が怖かった。そこには、快活で楽しくて、そして綺麗だった強い母は居なかった。醜い人が居た。勿論、病魔が悪い。母が悪いわけではない。そんなことは当時の僕だって百も分かっていたが、母が変ったのは、母のせいだと僕は思わずにいられなかった。 
 誰も強い母をこんな風に変えることは出来ないのだから。
 姉は大学の授業が終わって毎日病院に顔を出していた。僕も母の入院したての頃は毎日のように学校から帰ると顔を出してはいたが、やがてそれも週に幾度かになり、月に数回になった。行ったとしても目だけ光らせ、物言わぬ母に声を掛けることもしなくなっていた。
 ある時、姉が「幸ちゃん、お母さん、声は聞こえるのよ。声を掛けてあげてよ」と涙目で厳しい口調で言ったが、そんな姉を僕は睨みつけた。母が好きだったから、誇りだったから、出来なかった。今、思えばそんな理屈は成り立たない。分かっていてもだめだった。
 母が亡くなった後、僕は何とか横浜市内の公立の高校に進んだものの友も居ない味気ない高校生活を過ごした。楽しげな周囲の友を恨めしく思う日もあった。高校を卒業すると、姉に相談することなく塗料の製造会社に入社した。社会人になって全てを変えたかった。三ツ境の町を逃げるように出ると、平沼橋にアパートを借りた。住所こそ知らせたものの姉から何度もあった連絡は無視して会うことはなかった。それでも姉は、季節の便りを僕に必ず送って来た。三年前、バンコクに行くことは姉には知らせたが、その後こちらから便りを出すことはなかった。姉はまだ独り身のようで、昔と変わらず電機会社の研究室で働いていると便りには書かれていた。築三十年に近い古くなったあの家で、一人で父母の仏壇を守って暮らしている。
 
 半年前の十一月、雨季が去ったはずのバンコクに珍しく雨が降った。雨は小糠雨だった。岸根さんとはこの夜、初めて会った。岸根さんは農水省から派遣され、タイの大学を拠点に農業の研究、指導をしている人だった。白髪で穏やかな人だった。年は六十半ばに見えた。「相鉄あのこの会」がスタートした時からのメンバーらしいが、日本との往復、タイの地方の農村部を回る時間が長いようでこの会には久々の出席だと言った。確かに、入会以降、皆勤中の僕は初めてこの日岸根さんに会った。岸根さんは水尾さんや、大木さんと親しげに話しをしていたが、やがて空いている僕の前の席を見つけて座った。気後れしている僕に微笑むと岸根さんは、ワイングラスを片手に話しを始めた。僕は聞き役となった。
 岸根さんは「瀬谷」の住人で、ダイヤモンド会員だった。大木さんより少し若いが、昔の相鉄線には相当に詳しいと自ら語った。岸根さんによれば、相鉄線の沿線は昔、県を代表する西瓜の産地だったという。中でも瀬谷はその代表的な産地で、今や住宅地に変ったものの、昔の瀬谷にはいたるところに西瓜畑が点在していたらしい。西瓜は苗の植え付けが終わる五月の雨具合でその年の収穫が左右されたが、実は、瀬谷付近ではこうした雨に恵まれて産地になり得たとのことだった。この五月の雨を仲間内では西瓜雨と呼んでいたと岸根さんは言った。この会で西瓜の話しを聞くとは全く考えていなかった。が、なんだか面白かった。そんな僕の気持ちが分かったのか、岸根さんは話しを続けた。今度は西瓜からマンゴの話になった。今年のタイのマンゴの収穫が良かったのも産地の一つであるプーケットに降った四月の雨が適量だったことによるのだと言った。マンゴが花をつけた後、毎年四月に降る優しい雨を現地の人たちはマンゴシャワーと呼んでいることも岸根さんは教えてくれた。西瓜とマンゴそれぞれにその産地に降るタイムリーで適量の雨が収穫を運命付けていると言う。
「西瓜雨とマンゴシャワー。それぞれ、梅雨、雨季の前に降る雨さ。それとね、どちらも優しい雨なんだ」
 そう言ったワインに赤らんだ岸根さんの丸顔はなんだか西瓜の形に似ていた。
 けれど、僕が不思議な邂逅をしたのは、岸根さんのこの後の話からだった。この時、会員たちはそれぞれにお酒とサラダと話しに熱中していた。岸根さんの話の聞き役は僕一人になっていた。いや、岸根さんの背中越しにワヤン・クリも聞いていたかもしれない。
 岸根さんは、最初、この会を紹介されたとき相鉄線に縁のある人たちの集いというのは分かったものの、あの町、この町を語る会とは思わず、相鉄線の初恋談義の会と思ったそうだ。「相鉄線あの娘の会」の字を思い浮かべたそうだ。
 少し、根岸さんは酔っていたのかも知れない。窓から見える通りに降るマンゴシャワーに似た十一月の雨を眺めながら、目を細めて岸根さんはなんと自分の初恋の話しをしてくれたのである。初恋の人は、岸根さんが通った瀬谷の小学校に岸根さんが五年生の時に、東京から隣のクラスに転校をしてきた子だった。ポニーテールの髪型で、都会育ちの雰囲気を醸し出した子で目立った子だったらしい。隣のクラスだったから話は出来ず、学年中に評判となったその子を見ているだけだった。共に瀬谷の中学に進んだ後も岸根さんが願ったように彼女と同じクラスにはなれず、三年間、遠くから快活で益々美しくなる彼女を見るだけだった。
「『戦争を知らない子供たち』で『団塊の世代』の人でも、異性に対しては何も話せない晩生の子供たちが結構多かったんだ」
と岸根さんは笑って言った。ある雨の日の学校帰り、畑道の中を赤い傘をさして楽しそうに女友達と歩く彼女の姿を今でも鮮明に覚えているらしい。
「あの畑は西瓜畑だった。あの雨は梅雨前の西瓜雨。あれは、静かで優しい五月の雨だ」
 カラー写真を見るように思い出される風景で、その後の人生で西瓜雨に出会う時はこの場面が必ず脳裏に浮かんで来たと言う。中学を卒業した後、彼女が相鉄線の星川にある高校に進んだことは耳にしたものの、今日まで一度も会うことがなかったと言った。
「こんな話って、良くある陳腐な初恋話だけどね、とにかく、あんな綺麗な子は居なかったさ。元気でどこかで幸せに暮らしていると思うけれど、風になってどこかの街を颯爽と歩いている姿をそっと見てみたいなあ。こんな話うちのばあさんには言えないけどね」
 岸根さんは真顔で言って、そのあと少し照れくさそうに笑うと首を竦めてみせた。今でも相鉄線の各駅電車に乗る時は、駅のドアーが開くたびにあの頃のあの子が笑顔で入ってくるような気がするらしい。こんな話の後で、何故だか岸根さんは彼女の名前を僕に語った。
「今でも名前を覚えていてね。由美子さんっていう名でね。藤平由美子さん」
 岸根さんの向こう側見えるワヤン・クリが目を一瞬見開いて僕を見つめた。

 本格的な梅雨の季節に入っていたが、その日は梅雨の谷間で晴れ上がった。タイから戻って二週間が経っていた。その日、僕は横浜のフルーツショップでマンゴを買って、午後から三ツ境に向かった。姉と会う為である。帰国前に姉と会うことは固く心に決めていた。
 水尾さんが言った通りだ。故郷の町に連れて行ってくれる相鉄線に乗っている。僕はやはり変ったのだろう。
 相鉄線の下り電車には乗ることは殆どなかったからあの会で聞いたことを検証する小さな旅となった。横浜を出て右手に見ていた帷子川は、確かに和田町を過ぎたところで左手に位置を変えた。やがて、西谷を越えると視界から消えた。偶然、二俣川で乗り変えた本線海老名行きの車両の色はヨコハマネイビーブルーで、確かに美しかった。先頭車両の顔は凛々しい若武者に見えた。あの人たちの言う通りだった。なんだか可笑しくて、そして嬉しかった。
 三ツ境駅周辺は十年前と変り綺麗な町になっていた。育った僕の家は古くて、外観も昔のままだった。小さな庭もそのままだった。門横でアジサイの花が咲いていた。
 先日の僕の電話に驚いたに違いないのだが、姉はごく自然に「幸ちゃん、おかえり」と言って迎えてくれた。久々の再会でぎこちなさはお互いにあったが、姉が通してくれた父母の仏壇のある部屋で話をするうちにそれも消えていった。姉の出してくれたお茶を乾いた喉に流し込みながら、仏壇を横に、僕は意図して三年間のタイの話しをした。
「そう」、「そうなの」、「そうだったの」、姉は三つの相槌言葉を使い分けて僕の話を嬉しそうに聞いていた。姉の髪には白いものが見えた。
 姉の守ってきた仏壇に、買って来たマンゴを供えて僕が手を合わせた時、姉は泣いていた。声を出さずに謝罪した母への言葉が姉に聞こえたのだろうか。無言の静かな時間が過ぎた。
 やがて、姉は「幸ちゃんに見せたいものがある」と言って立ち上がると古ぼけた黒い紙の箱を隣の部屋から持ってきた。
「幸ちゃんに渡す機会がなかったから。お母さん大好き幸ちゃんは、あの頃、余裕が無かったしね。これは母が残したもの」 
 箱の中には、あの頃、三ツ境にあった数か所のスーパーマーケットのチラシが十枚ほど几帳面に折り畳まれて入っていた。新聞の折り込チラシを姉に集めさせて、それを見せてと姉によく頼んでいたと言う。子供服の宣伝チラシもあった。そして、町内会の「運動会のお知らせ」の回覧板チラシも。
「頭の中で買い物をしていたと思うの。運動会にもね」と姉は微笑んで言った。
 箱の底に一枚の便箋もあった。薄い鉛筆で書かれた文字が並んでいた。糸くずで字を作ったような・・、微かに読める。
「こうちゃん げんき でなくて ごめん」
 いつ書いたのだろうか。僕は姉の前で泣きたくなかった。堪えて、大きな溜息をついて、便箋を小箱に戻して上を向いて話しを変えた。
「タイでさ、母さんを知っていた人に偶然会った。母さんは小学校の頃から快活で綺麗な人だったらしい。その人ね、母さんと同じ年でね、母さんが好きだったらしい。その人の初恋の人が母さん。今でも相鉄線に乗ると母さんと会えるような気がするとか言っていた。だから、その人にも母がいつまでも元気で居ると思って欲しいから、僕は何も言わなかった」
 姉は涙目で何度も何度も大きく頷いた。

 平沼橋に向かう夕方の相鉄線は空いていた。希望ヶ丘駅を過ぎたところで梅雨が降り出した。僕は車窓からぼんやり雨脚を眺めていた。そして、あの日の岸根さんの雨の話しを思い出してみる。瀬谷の西瓜畑を赤い雨傘をさして歩いていた母。瀬谷は三ツ境の隣町だ。どの辺りを歩いていたのだろうか。・・・もう、相鉄沿線に西瓜の産地は消えてしまったようで、であればいつの日か実家の庭でマンゴの木を育てみようか。きっと、タイのプーケットに劣らぬ優しいマンゴシャワーが相鉄沿線、そう、僕たちの故郷に降るかもしれない。  
 西瓜雨に育った母に優しいマンゴシャワーを見せてあげたい。そんなことを僕は考えた。
 そして、次回、タイであの会に出るとしたら、僕は水尾さんに頼んでなんとしてでもダイヤモンド会員にしてもらわなければならないことも。
 電車は天王町駅を過ぎてゆっくり左折を始める。平沼橋駅手前に来た時、右側に現れたJR線上り列車が一瞬相鉄線と併走したが、あっという間に抜き去って行った。
 左側には梅雨で水嵩を増した帷子川が、終着地横浜港に向かって時を道づれに静かに流れている。

著者

横谷隆