「リアリティライト」羊太郎

 相鉄線に乗るのは、いつ以来だろう。
 思い出すのは、小学生の頃、友達と一緒に大和の森林公園に行ったときのことか。記憶に残っているのは、改札を出た売店で買ったジュースがやけにぬるかったこと。あとは、帰りに泥だらけになって座席に座っていたのを、初老の男性に注意されたことくらいか。

 馴染みのランドマークタワーを左手にして見えなくなったところで軽く目を閉じると。いつの間にか眠っていた。気がつくと電車は、緑園都市駅に停車した。そういえば、横浜駅の改札から飛び乗った電車は本線ではなく、湘南台行きの快速だった。しまったと一瞬思ったが、車窓から見えた緑の木々があまりにもまぶしかったので吸い込まれるように下車した。そうだ、今日は何も予定はない。

 6月下旬の雨の日、僕は会社を辞めた。辞表は思っていたよりあっさり受理された。
 毎日の通勤電車、受話器から聞こえる怒号、上司からのプレッシャー、馴染めない同期との付き合いに疲れてしまったのだ。あの会社に入社したのは成り行きでしかなかった。特に何がやりたいわけでもなく、当然のように大学のキャリアセンターの職員の勧めに従って就職した。それでも、就職してから5年間、それなりに自分の勤めを果たしてきたつもりだ。そこには歴史を変えることはないかもれないけれど、何か意味があったのではないか。これまでの時間はいったい何だったのか。理由を見つけることができなかった。

 ふと、そんなことを思いながら僕は下車した。
 「『緑園都市』バブル時代の都市開発か・・・」名前からしてそんな印象をもった僕は、無意識に口にした言葉に自分で自分がいやになった。
 いつの間に、こんなに冷めた人間になってしまったのだろう。
 さて、右に行こうか、左に行こうか。何もあてはない。

 子供の頃、学校帰り、近所の友達と棒を倒しながら倒れた方向にとにかく進みながら家に帰ったのを懐かしく思った。でも、もういい年の大人だ。すぐ前を歩く人のあとについていこう。僕は周りの人の流れに浮かないように前の人のあとに続いて足を進めた。
 改札を出て右に進むとそこには緑に囲まれた閑静なマンションが群れをなしてそびえていた。一つ一つの部屋を遠目で眺めながら、数ヶ月前の自分だったら、きっとこのどこかの部屋に居を構え、通勤している自分の姿を想像するのは容易だった。でも今は違う。なんだか全てが他人事のように見える。現実味がないのだ。今、自分がこの町に降り立ち、歩いていることそのものが。ケヤキの並木からこぼれ落ちる初夏の日差しも、よそよそしく感じた。「緑園都市」の名前にふさわしい美しい町並みであることは十分わかるが、美しければ美しいほど今の僕には眩しすぎた。

 何も考えず、しばらくボーッと線路に沿って歩いていると突然声をかけられたような気がした。
 「ちょっと、あなたのことよ」
 はじめは、自分に声をかけられていることも気づかず、そのままあるき続けたが、視界に入ってきた白髪の女性がじっと僕に視線を向けているので確信した。この人は僕に話しかけているのか。
 「何でしょう」
 自信なげに何とか声を返した。
 「昼間からふらふらしているのなら手伝ってちょうだい」

 普段なら無視して素通りするはずであったが、この強引な誘いに、あるいはまだ現実味の無いまま頭が働かなかったのか、その言葉に乗せられてそのまま彼女の手伝いをする羽目になった。

 道に落ちている実を拾いながら色々な話をしてくれた。この品の良い老人の名前は「幸子」ということ。この道は「四季の道」と言って春は桜、初夏のこの時期はコケモモの実が落ちるということ。そして、今拾っているこの実が「コケモモ」だということ。幸子さんは2年前に住み慣れた長野県から息子さんと同居するためにこの町に移り住んだこと。拾ったコケモモの実はジャムにして故郷の友人に送るということ。

 僕たちはそれから黙々と道に落ちた実を拾い集めた。スーパーのレジ袋一つ分集めたころか。幸子さんは曲がった腰を起こして僕を家に誘ってくれた。案内された家は、僕が最初に見上げていたマンションの一室だった。エレベーターのボタンを押す幸子さんの姿はすっかりこの暮らしに溶け込んでいるようだった。
 そして、そこには地に足をついた暮らしがあった。幸子さんが注いでくれたお茶を飲むと僕は体の重み、重力を久しぶりに感じ、ようやく足が地についた気がして現実味を取り戻した。

 僕は思わず、心を開いて幸子さんにこれまでのことを話しだしていた。
 あとで考えてもどうして話したのか自分でも不思議に思う。
 僕が生まれたのは、川崎の工業地帯の近くにある団地であること。小学校も中学校も高校もいたって目立つこともなく、東京の大学を出て就職し、つい最近辞めたこと。そして、自分が生きている時間に意味を見つけることが出来ないこと。
 どうしてこんなことまで話してしまったのだろう。もしかしたら幸子さんは初めから僕のことを知っていて、だから声をかけてくれたのか。このときはそう思ったのかもしれない。

 「若いのにあなたも大変だったわね。でも、今日あなたに会えて良かった。もしかしたらこのために、私は住み慣れた長野を離れて、この町に来たのかもね。今が80年生きてきたその意味みたいなものよ。」
 そう言われて、ちょっと僕は恥ずかしくなったが、まんざらでもなかった。
 僕が誰かの意味になれるなんて、考えたこともなかったからだ。
 「私もこの町に初めて来たとき、寂しかった。息子家族と暮らせるのはいいが、住み慣れた土地をこの年になって離れるのは勇気がいったよ。でもね、ここにも人がいる。私と同じ人がね。みんなそれぞれ、悩みが無いわけじゃあない。嬉しいこともあれば悲しいこともある。人知れず涙を流していることだってある。だからといって、この時間に意味が無いわけじゃあないんだよ。それぞれに与えられた時間と役割がある。あんたもきっとその意味がわかる時が来る。きっとね。」

 幸子さんと話をしている間に、どうしてこの人が道端に落ちている実をわざわざ拾っているのか分かった気がした。この場所で、自分もしっかりと生きていることを誰かに伝えたかったのだろう。

 幸子さんの家を後にしたときにはもう日が傾いていた。
 少し散歩をしてから帰ろう。
 幸子さんの暮らすマンションの反対側から夕暮れの町並みを見た。マンションがまるで光の壁のように見えた。その明かりはもう現実離れした他人事のような明かりには見えなかった。その明かりの一つ一つには一人ひとりの暮らしがある。そして、その暮らしには意味がある。
 僕の一足もきっと。
 帰りホームでふと東の空を見ると、そこには教会の十字架が光っていた。

著者

羊太郎