「リバーサイド」田中マル

社会人2年目の夏。地道に貯めたお金を元手に晴れて海なし県から脱出、引っ越してきた憧れの港町・横浜。
オートロック付き・駅近・築浅。それでいて相場よりかなり安いとあって即決で入居したワンルームだったが、いざ住んでみるとそこは川のにおいと排気ガス、工場のあかりと電車の走る音に挟まれた、お世辞にも快適とは言い難い部屋だった。

「へぇ、サトウさん横浜に引っ越したんだぁ。さっすがバリキャリ、おしゃれだな~。横浜住んでるってだけでモテるんじゃないの?」
「そんないいものじゃないっすよ、先輩…横浜なんて名前だけです。家の近く、遊べるとこも何にも無いですし、電車の音はうるさいし」
ノー残業デーってやつは、一体いつから飲み会の日になったのだろうか。明日も仕事があるというのに、この机の上はほぼ手付かずの一品料理たちとビール瓶で埋め尽され、灰皿は吸殻の山と化している。
私が勤める都内企業は、元々他と比べて体育会系の多い業種だとは知っていた。加えて配属先はお酒大好きな社員揃いの営業部。だから、飲み会の多さに対しては今更文句も出ない。だからと言ってこの煙草と酒の量、セクハラじみた言動の多さ、『始発上等、二次会上等!!』といった空気は好きになれない。
「何言ってんのサトウちゃん、そんなこと言ったらウチなんか埼玉だぜ。海なんか無いし、せいぜい川遊びぐらいなもんよ。あ、サトウちゃんも埼玉出身だったっけ?」
うるさい、埼玉を馬鹿にするな。川に足突っ込めるだけマシだ。新居の真下を流れる川より、小さい頃から飽きるほど見てきた荒川の方が数百倍は綺麗だったぞ。
反論したくなる気持ちを気の抜けたビールと共に腹の底まで飲み込むと、間を置かずして冷えたビール瓶が目の前に現れた。さすが、都心の居酒屋さんはよく訓練されている。こうも目の前に置かれたら、嫌でももう1杯飲むしかないじゃないか。
こうなりゃヤケだ。どうせ飲むなら道連れだ。やっとの思いで空にしたジョッキを、キンキンに冷えた忌々しい黄色の炭酸でいっぱいにしてから、より忌々しい話題を振ってきた先輩の手元へと瓶を差し向ける。
「あれ、先輩?もしかして飲み足りないんです?」
「当たり前でしょサトウちゃん~、俺的には全然まだまだ飲み始めたばっかりよ?」
「そうだよサトウさん、もちろんサトウさんもまだ飲み足りないよねえ?」
2年目の小娘に煽られ、負けじとジョッキを空にしていく先輩方。そのうち話題は「誰がどれだけ呑めるか」に変わっていった。
これでいい。最低な新居のネタをツマミに酒を飲まれるよりも、苦手なビールの飲み比べ大会の方が数百倍はマシだ。いい歳してアホな酔い方する上司なんか、ご自慢のスーツ着たまま神田川にでもダイブしてしまえ。
そうやって何度目かも分からない乾杯をする頃には既に23時を回っていた。ラストオーダーは23時半、そのタイミングで2次会からうまく逃げて0時の電車に乗れば、横浜駅までは帰れる。あとはタクシーでも捕まえたら、2時前には眠れるはずだ。

結局ひと駅寝過し、電車を降りたのはザ・ヨコハマといった感じの観光地。きっと上司は、横浜といえばこんな街並みばかりだと思っているんだろう。少し前の私がそうだったように。
終電の終わった木曜日の深夜1時、この美しい港町のビル群はきらきらと海を照らし、見事な夜景を描き出していた。
…これが残業の光だなんて知らなければ、もっと感動できたんだろうなあ。

酔った頭で駅前をうろつくも、今日に限ってタクシーは全然捕まらず。どうせお金を払うならと観覧車近くの温泉に入り、仮眠のつもりで毛布を借りて眠りについたのが深夜3時。
目が覚めた時には出勤時間まで残り20分、スマホの電源も切れて連絡も取れず、財布を開ければ所持金たったの500円という酷い有様。全てがどうでもよくなった私はこの日、人生初の無断欠勤をした。

「一旦家に帰りたいところだけど、へたに電車乗って会社の人と鉢合わせるのも嫌だしなあ」
神奈川のタクシー料金は初乗り710円前後、所持金だけでは全く足りない。こうなると電車か徒歩で帰ることになるが、横浜駅には支社もあって色々不安だから電車はパス。
そうなると徒歩しかないが…。引っ越し直後に横浜駅から歩いて帰ってみた時は平坦な道だったし、ここも似たようなものだろう。
それに今はまだ朝だからか、風も涼しく心地よい。絶好の散歩日和ってやつだ。よし、いける。
スマホ亡き今、頼みの綱は駅に掲示されている近郊地図だけ。目指すは西横浜、国道と川と線路に挟まれた小さなマンション。よくよく探すまでもなく、ちょうど家の前の国道まで出られるような広い道を見つけた。
横浜から遠回りするより近そうだし、これはいい近道を見つけちゃったかもな、と道路の青い看板を目印に進んだ先にあったのは緩く長い登り坂。
完全に騙された、なんで看板に坂道の情報を書いておかないんだと悪態を吐いたが、ここまで来ておいて今更駅まで戻るのも癪だ。飲み過ぎた分のカロリーはここで歩いて消費しなきゃ、なんて尤もらしい理由をつけて、坂道を登っていく。
そうして緩く広い坂道を登って降りると、やっとお目当ての国道に出た。ここまで来れば、我が家までほんの10分程度だ。
まだ車の行列で賑わっている東海道を、酒の抜けきらない頭で鼻唄を歌いながら太陽を背にのんびり歩く。信号待ちでスマホを触らないのは何年ぶりかな、と交差点の景色を眺めていると、老舗のようなタオル屋さんや食堂、鮮やかな歯医者の看板群の中に、気になる文字があった。
“横浜イングリッシュガーデン プラザ横浜となり ”
地図で名前を見た事はあったし、ベランダからそれっぽい看板も見た気がするけど、そういえば行ったことは無かったな。ガーデンっていうくらいだし園芸用品でも売ってるのかな。
どうせ今日は休みだし、寄り道して安い観葉植物のひとつでも買っていこう。ベランダに置いとけば、あの部屋も少しは見栄え良くなるはずだ。
無意識にスマホを取り出し「予算500円 観葉植物 オススメ」で検索しようとして、すぐに電池が切れていることを思い出す。
まあ焦ることはない。今調べなくとも、行けば店員さんが教えてくれるだろう。

「え。入場料かかるの、ここ」
そこにあったのは住宅展示場に併設されたバラ園、その名の通りの西洋庭園だった。
たしかに観葉植物も売っているが、戸建て向けなのだろうか。思っていたより大きいものが多い。
入場料は500円、ちょうど所持金も500円。普段の私なら「草木を見るのにお金を払うなんて!」と一蹴しているはずだが、というか先ほど似たような事を口走ってしまった訳だが、何故だか気付いたらチケットを買って園内にいた。晴れて所持金は0円となった。どうやら思った以上に疲れているらしいな、私は。

「赤い葉っぱ…黄色い葉っぱ、紫の葉っぱ…なんだここ、葉っぱだらけじゃん…」
人生初の西洋庭園は、バラ園というより「葉っぱ園」のほうが似合ってるんじゃないかというほどに、カラフルな草木が生い茂っていた。そういえばバラって寒い季節の花だったっけ。そりゃ真夏は「葉っぱ園」にもなるわけだ。
日は随分と高い位置に昇り、蝉の声も遠くに聴こえるようになってきた。そろそろ暑くなってきた頃だろうが、この庭園は頭上を覆うバラのトンネルや色々な草木が陽射しを柔らかくしてくれているのか、今も心地良い風が吹いている。
「いま何時くらいなんだろ、スマホ無いからわかんないや。時計ちゃんと付けとけば良かったなあ…」
木陰のベンチに腰掛けて、バラの葉っぱを眺めながらぽそぽそと語りかけた。そっか、人ってSNSが無いと独り言を呟くようになるんだ。
気付けば今朝までの刺々しい思考は消え失せて、穏やかなものになっていた。
草花ってやっぱりマイナスイオン的なものでも出てるのかな。それとも人のトゲを吸ってるのかな…ああ、だから薔薇って棘だらけなのか。すごいなあ、お前らは。

「お隣、宜しいかしら?」
どのくらいの時間そこでぼうっとしていたのか、そろそろ自分も葉っぱになるんじゃないかなと思い始めた頃だった。
「あ、すみません。どうぞ」
「ありがとうねぇ、よっこいしょ…今日はいいお天気ねえ。」
「あはは…本当ですね…」

隣に座ったのは白髪の綺麗なおばあちゃま、といった感じの奥様だった。
髪と顔のシワの割に若く見えるのは、きっと背筋が伸びているからだろう。所作も綺麗で、着ているものも恐らくとても良いものだ。お屋敷に住んでいそうな、この西洋庭園にぴったりなマダム。
そんな人が、他にも木陰のベンチはたくさんあるというのに何故私の隣に腰掛けているのか。ガラ空きの電車内で知らない人がわざわざ隣に座ってきた時のような居心地の悪さだ。
「貴女もお花が好きなのね。ここ、居心地良くってつい長居しちゃうわよね」
ごめんなさい、少し居心地悪いです。
いくら営業職の人間っていったって、業務外で知らない人と世間話をするほどの広い心とコミュ力は持ち合わせていない。ここは適当な事を言って場所を移動するか…と一瞬考えたが、この身知らぬ穏やかなマダムには、嘘やごまかし繕いの言葉をかけてはいけないような気がした。

「いや、実は…ここに来たの初めてなんです。植物も全然詳しくなくて。なんだか申し訳ない」
幻滅されたかな、と恐る恐る見上げた先の奥様は、さっきより嬉しそうだった。
「あらま、初めてだったの!?ごめんなさいねぇ。とっても幸せそうに薔薇とお話ししていたものだから、てっきり常連さんかと思っちゃったわ」
見られてたのか。なんて恥ずかしいんだ。
「でもきっと、貴女はここが好きなのよ。だってそうじゃなきゃ、こんなお花以外は何もないところに長い時間居ようとなんて思わないでしょう?」
「ああ…仰る通りです。草ばっかりなんですけど、何故か全然飽きなくって」
「でしょう?ああ嬉しい、こんな若い子が興味を持ってくれるなんて。おばさん感動しちゃった。…ところで貴女、お昼はもう食べたの?」
ころころとよく表情を変える奥様は、やはり奥様というより無邪気な子供のようにも見えた。最初に抱いた「おばあちゃま」というイメージは間違いじゃなかったな。
「いえ、お昼はこれからで…一度帰ってから買い物にでも行こうかと」
「ああよかった!お昼がまだならご一緒しましょう?ここの入り口にあるカフェのお紅茶、とっても美味しいのよ。おばさんのお薦めなの」
なんてことだ、人生で初めて知らないお婆さんからナンパされてしまった。今日は人生初のオンパレードだ。

とても嬉しい誘いだったが、今日に限っては断らざるを得ない。
今の私は一文無しで、銀行カードは自宅の引き出しの中だ。
「申し訳ないのですが持ち合わせがなくて、またの機会に…」と切り抜けようとしたが、なんと彼女はお茶代くらいなら奢ると言って聞かなかった。

「え、いや、さすがに初対面の方にご馳走になるわけには…」
「いいのよ、是非ご馳走させて!わたしね、貴女みたいな若い子がいるって知ってとっても嬉しくなっちゃったの。ほら、他にも若い子は来てるけど、みぃんな携帯で写真撮ってばっかりで、ちっともお花を見てないでしょ?」
「ああ、言われてみれば確かに…」
「貴女はここに来てからずうっと、ちゃんと自分の目で見て楽しんうでた。だからおばさんね、そんな素敵な貴女ともっとお話したいの。ほら、テラス席なら空いてるわよ。行きましょう!」
そっか、そういえば今日はずっとスマホを触らなかったな。ごめんねおばあちゃま、私きっと昨日までは写真撮ってばっかりの若者だったと思う。
結局、最後は彼女に手を引かれる形で一緒にカフェで休憩することになった。

私の家のすぐそばにあったとは思えないくらいおしゃれなカフェで、サンドイッチを頬張りながら、私は彼女と今までの事を沢山話した。
仕事のこと、昨日は飲み過ぎて桜木町まで乗り過ごしてしまったこと、そして最近この近所に引っ越してきた、ということ。

「あらあ、西横浜ならお買い物も便利ねぇ!松原商店街って行ったことある?お野菜でも何でも安く買えてね、とっても楽しいのよ。ちょっと羨ましいわ…ああそう、おばさんはね、同じ電車でもうちょっと先まで行ったところ…。ゆめがおか、ってところに住んでるの。良い名前でしょう?」
「きれいな名前ですね。きっと素敵な街なんでしょうね」
「そう思うでしょ?でもねえ、まわりは畑ばっかりでなーんにもないの!昔はドリームランドなんて遊び場もあったんだけどねえ、それも無くなっちゃって」
「それは残念でしたね…。でもわたし、そういう場所は結構好きかも。実家の周りも畑が多かったからかな、落ち着くんですよね」

自分のことも楽しそうに話す彼女。特に目をきらきらさせて話してくれたのは、孫の話だった。
「おばさんにもね、貴女くらいの歳の孫がいてねえ。ほら。聴こえる?」
あれ、やっぱり少しボケちゃってるのかな。おばあちゃまは大事そうに目を瞑って耳を澄ませているけれど、わたしの耳には蝉の声と、さっきの庭園から流れてくる微かな音楽、それ以外にはこの穏やかな時間を邪魔する電車の走行音しか聞こえてこない。
ガタンガタンガタン、といくつもの電車がすれ違ったのだろう。ひときわ大きな走行音がテラスいっぱいに響き渡る。いよいよ顔をしかめそうになった時、おばあちゃまがパッと顔を綻ばせて私の手を握ってきた。
「ほおら、また通った!!!あのね。うちの孫はねえ、あの電車の運転手さんなの。」
「へえ、かっこいいですね。車掌さんですか」
「ちいちゃいころから車掌さんになりたいーって言っていてね、去年やっと夢が叶って。その電車の音が、ここでバラを眺めながらお茶してるとき一番よく聞こえてね…ああ、この音の中のどれかに孫がいるんだなあって思うと幸せな気持ちになるの」
どうやらこのおばあちゃまにとって電車の音は騒音なんかではなく、可愛い孫の声に等しいものらしかった。いったいどこまで純粋なんだろうか、この人は。

時刻は午後3時。そろそろお夕飯の支度をしなくちゃね、ということでわたしとおばああちゃまはそれぞれの家へ帰ることとなった。
「今日はとっても楽しかったわ。そうだ、折角だから貴女にプレゼントしてあげる。」
どうぞ大切に育ててね、と渡された手提げ袋の中には、いったいいつ買ったのか。小さな赤いバラの鉢植えが入っていた。
「貴女、一人暮らし始めたばかりって言ってたから、きっとまだお部屋も寂しいでしょう。花のある生活はいいものよ」
それじゃあまたね、またお話ししましょうね。そう言っておばあちゃまは私の家とは反対方向へ帰っていった。

またね、とは言ったものの、よくよく考えれば連絡先も交換しておらず。一体どうやってまた会おうというのか。
まあ近くに住んでいるようだし、ここに来ればいつでも会えるかな。そう軽く考えていたが、その後何度この西洋庭園に来ても会えることはなかった。

結婚2年目の春。育休が明けて会社へ復帰するのを機に、旦那の実家から引っ越して来た第2の故郷・横浜。
購入したマンションは低層階とはいえタワマン、駅近、コンビニ付き。近所には綺麗なバラが沢山咲いているイングリッシュガーデン、数駅先にはなんでも安く揃う商店街や広い温泉などもあり、横浜駅までも1駅で行けるから通勤も楽々。公園や保育園も多いし、家族3人で暮らすにはもってこいの街だ。
「ほうら、帰ってきたよ。懐かしい景色でしょ」
20代の頃から枯らさず育て続けているバラの鉢植えを、見晴らしのいいベランダに置く。見晴らしがいいと言っても眼下に広がるのは無愛想な川とたくさんの線路ばかりだが、私にとっては思い出深い景色だ。

「おばあちゃんのお孫さん、まだあの電車に乗ってるのかな。どんな人なんだろうね。もう随分おじさんになっちゃってるかな」
あの日彼女に出会ってから、狭いワンルームに響く電車の音が少しだけ好きになったことを思い出しながら、細身のバラに話しかける。
週末、あの西洋庭園に家族を連れて行ってみよう。きっと今の季節ならバラも満開なはず、ひょっとしたら彼女も来てるかも。

時刻はお昼の12時過ぎ。川の水面は陽の光をきらきらと反射して部屋の天井を照らし、たまに通り過ぎる電車は、あの頃と同じ音で部屋じゅうに響き渡っていた。

著者

田中マル