「一月九日」小峰鈴二

 今日も独酌である。良く吟味された肴で熱燗を飲っている。何もしゃべらずに物静かに杯を傾ける。酒は店主のお薦めを選ぶ。これが一番美味く飲れる。今日は一月六日、底冷えのする一日だった。正月気分も抜け、街は普段の装いだ。熱燗がじっくりと腹に染み渡る。手作りの新香からはじめ、ねぎま鍋をつつきながら日本酒を飲る。出汁のうまみが具材を引き立てる。とろりと葱から出汁が滴る。酒を口に含むと香りが鼻を抜ける、思わず笑みがこぼれる。思わず箸の動きが速くなってしまう。次第に体が暖まる。三本目の銚子を空にしたところで締めを頼んだ。今日は海苔茶漬けにした。もう一度、新香を追加する。それだけここの新香は美味い。
 店主に支払いを済ませ、彼は店を出た。店の名は「久松」という。希望が丘駅から歩いて五分ほどのところだ。駅まで歩き、一駅だけ電車に乗った。三ツ境液からバスに乗るためだ。自宅は瀬谷区の宮沢にある。帰宅して玄関の扉を開けると、室内から冷気が這い出してくる。同時に独特の香りがした。松脂のような香りである。家の奥はアトリエになっていた。彼はそのまま奥へ進み、アトリエの石油ストーブを点火した。そのまま身じろぎもせず、ストーブの炎を見つめていた。
 和田明は画家だ。若い頃は大きな美術展でも入賞を重ね、将来を嘱望された若手の一人だった。今は自宅のアトリエで絵画教室を主催している。そして、時々売り絵を描いては糊口を凌いでいた。余裕のある暮らし振りには見えない。しかし、彼はこの生活が心地よかった。名声とは無縁だが、評価されることに興味がなかった。ひょっとすると、この彼のスタンスが、人気作家への道を閉ざしたのかもしれない。彼は、生活を自由にできる心地よさにかまけていた。その結果、独身生活を謳歌することになった。
 アトリエが温まると、彼はイーゼルに立てかけてあった小品に対峙した。F4号ほどの作品だ。発表する当てなどない作品だが、もう二年も制作を続けている。女性がモデルの作品である。この作品は、抽象とも具象ともつかない、不思議な作品であった。彼の作風には見られない、珍しい表現なのだ。発表する当てもなく、売る気もない絵を描くことは無駄な投資だった。今の彼には贅沢な作品だ。若い頃から、彼は抽象絵画を主体に発表してきた。抽象絵画は画面上に具体的な表現はない。作品の解釈は鑑賞者次第である。明は、具象的でストレートにメッセージを発信する作風は苦手だ。気恥ずかしさが先に立ち、自分の肌には合わなかった。この小品はアトリエに置いたままなので、絵画教室の生徒達も知っている。モデルの女性に対しても興味深々である。
 「先生の理想像を描いた作品だ」という生徒もいれば、「思い出の女性だ」という者もいた。「どこかで出会った複数の女性を、紡ぎ合わせた作品である」と主張する生徒も多かった。外野のざわめきには一切耳も貸さず、彼は、黙々と制作を続けていた。
 今年の年末、年内最後の絵画教室の日、一人の生徒が大慌てでアトリエに駆け込んできた。真っ赤なダウンを脱ぐのももどかしげに、息を切らせながらしゃべり始めた。
 「わたし、見ちゃった」「先生の絵のモデルさん」
 「どこで見たのよ」
 「いつ見たのよ」
 「ここへ来る前よ」「相鉄の電車の中よ」
「エーっ、それって、あなたの思い込みじゃないの」
「ゼーッタイ違う」「モデルの人にそっくりだったもん」
教室内は準備どころではなく、おしゃべりで騒がしくなった。そこへ明がのっそりと現われた。明の姿を認めると、教室内の喧騒がぴたっと鳴り止んだ。彼は、いつもどおりの態度で教室を開始した。
 今日は、一月七日だ。朝から冷たい雨が降っている。朝食は、熱いアールグレイとビスケットにサワークリームとマーマレードを載せたもので済ませた。そのあと、アトリエで例の作品の続きを描いた。十時を過ぎた頃、明は少し迷ったが、昼食のためアトリエを出た。アトリエの裏には林が広がっている。冬枯れの樹々は雨を含み、新芽がほんのり春の香りを漂わせていた。辺りは人影もなく森閑としている。大都市ヨコハマのイメージとはかけ離れているが、明は、こんな雰囲気も好きで、この地にアトリエを構えていた。
 昼になった。明は「パパキッチン」のカウンターに腰掛けていた。今日はパスタランチを選んだ。冬の雨に打たれて湿った体を温めるために、パスタは辛目のトマト味に決めた。まずサラダをあっという間に平らげ、次に、美味そうにパスタをほおばる。パンチェッタからは旨みが染み出し口一杯に広がった。トマトの甘みと酸味もよいバランスだ。次の一口が待てない。選択は完璧だと確信した。身も心も一気にあったまる。彼はフォークではなく、箸でかき込むように食べる。味わっているのかどうか不安になる勢いだ。赤のワインも合わせたいところだが、午後からは絵画教室があるので、ここは我慢のしどころである。律儀な明らしい。彼は一気に食べ終えると、満足げに、フーッと吐息を付いた。そのタイミングでホットとデザートが運ばれる。日替わりのデザートは蜜柑を使ったものだ。口の中がさっぱりし、後味を整えてくれた。「パパキッチン」も希望が丘駅から歩いて五分ほどの距離にある。明は食事を終えるとすぐに店を出た。来店したときに巻いていたマフラーは手に持っていた、
 希望が丘駅について階段を降りると、明はホームの一番横浜よりで下り電車を待った。この場所は、希望が丘から電車に乗るときの定位置だ。1号車の一番後ろのドアから乗車するためだ。ホームに海老名行きの急行が滑り込んできた。乗車して車内アナウンスが流れると、明の表情が少し変わった。彼はガラス越しに、ちらりと車掌室のほうを見た。車掌の姿を認めると、彼の表情が和らいだ。電車が三ツ境駅に到着した。しかし、彼は降りなかった。発車のベルが鳴り、ドアが閉まり、電車は動き始めた。瀬谷駅でも彼は下車しようとしかった。大和に近づき電車は地下に入った。彼は、暗くなったドアの外に気付き、慌てて腕時計の時間を確認する。絵画教室の開始時間が迫っていた。大和駅で電車のドアが開くと、彼は大急ぎでドアの外に出て行った。
 絵画教室を終えるとすぐに、明は筆を取り例の小品に向き合った。そのまま一心不乱に描き続け、気付いたときには夜が明けていた。一月の八日になった。昨日の雨はすっかり上がり、抜けるような冬の青空が広がっていた。裏の林に目をやると、霜柱が立っている。小品は完成していた。完成していたがサインは入っていない。明は玄関のドアを開けて外へ出ると大きく深呼吸した。朝の冷気に載せて、どこからともなく梅が香ってきた。春へと季節が動き始めたことを実感した。胸に早春の息吹を吸い込み、朝食の準備を始める。まずコーヒーを入れる。豆は、二俣川にある「ビーンズファクトリー」のオリジナルブレンドだ。アトリエの窓から外に広がる林を眺めながら、ミルでゆっくりと豆を挽く。部屋に豆の香りが広がる。油彩独特の匂いに溶け込む豆の香りは、明の気持ちを落着かせる効能があるようだ。挽き終えた豆を持ち、キッチンへ移動する。サイフォンをセットしてコーヒーを淹れる。部屋に良い香りが立ちこめる。コーヒーをカップに注ぐと、ゆっくりと一口飲む。満足げな微笑がもれた。次に、サラダボールにちぎった水菜を引きつめ、その上に、白菜と大根を同じ大きさの軸切りにして盛り付けた。ドレッシングは、落花生の荒みじんと塩コショウ、それに、サラダオイルと少量のごま油を加え、ざっくりとサラダ全体をあえたものだ。食パンを二枚取り出す。パンは希望が丘の「さかもとベーカリー」製である。小振りだが舌に余計な雑味が残らない、手抜きのない昔ながらの製法なのだろう。それでいて旨みがしっかりする食パンだ。一週間に2回は買いに出る逸品だ。パンを焼きながらスクランブルエッグを調理する。中身にはチャーシューをあわせる。チャーシューは.希望が丘の「伊東精肉店」で購入する手作り品だ。上からウスターソースをかけて完成だ。ケチャップではない。彼は一品ずつ時間をかけて味わった。食後にもう一杯コーヒーを飲むと、後始末もそこそこに立ち上がりアトリエへ向かった。
 明は小品を無造作に紙袋につっこむと自宅をあとにした。三ツ境まではバスに乗らず歩いた。駅に着くと、明は上りではなく下りの電車に乗り、終点の海老名を目指した。海老名駅で下車すると、そのままホームに残った。彼はずっと終電までホームに佇んでいた。何十本もの電車を迎え、また、見送った。彼は単純に、そこにいれば彼女に会えると思い込んでいた。しかし、彼女は現われなかった。乗務の都合なのだろうが、彼女には会えなかった。食事や絵の仕事なら綿密に考えられても、一般的な社会常識はすっぽりと抜け落ちている。「芸術家なのだ」といってしまえばそれまでだが、今日の明の行動は、少しばかり偶然に頼りすぎたようだ。この一回で諦めてしまうのも、彼らしいといえば彼らしかった。
 最終電車が終わればホームにいられない。彼は改札を出て、夜道をとぼとぼ歩き始めた。深々と夜が更けるとともに、冷え込みも厳しく、強い北風も吹いてきた。紙袋を小脇に抱え、すこし前屈みで三ツ境を目指す。タクシーに乗ることなど考えていなかった。歩いたことなどない道で、自分がどの辺りにいるのかも分からない。手の先は凍え、つま先はしびれて感覚がなくなってきた。耳もちぎれるように痛む。明は自分を虐めたかった。そこには、「ざまーみろ」と言っている、もう一人の自分がいた。もう一人の自分は、馬鹿にしたような高笑いした。散々歩いて、風が避けられる場所を見つけた。すこし休もうとガードレールに寄りかかる。
 どうして彼女に惹かれたのか考えてみる。あまりに暇なので考えてみる。声が似ていたのだろうか。十才の時に死に別れた母の声に似ていたような気もする。彼女の立ち姿に、おぼろげな母のイメージを重ねてみる。よくわからない。面影はあるような気もする。脇を走りすぎた、新聞配達のバイクの音で我に返った。無意味なこと考えていると思う。好きになるのに理由など要らないはずだが、自分がどうにかしていると思う。明は思わず苦笑いしてしまった。ふと気付くと、真横に厚木基地が広がっていた。やっと中間地点までたどり着いたことが分かった。大和からタクシーに乗る手もあるが、彼はそうせずに自宅まで歩き通そうと決心した。歩くのが気持ちよくなり始めていた。朝早く自宅に帰りつくと、そのまま寝室に直行し、倒れこむようにベッドに横になった。すぐに、深い眠りについた。夢もみないでぐっすりと眠り続けた。今日は絵画教室もないので、明の眠りを妨げるものは何もなかった。
 一月九日も半日を過ぎ、寝室には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。昼過ぎに一度、空腹で目を覚ましかけ、寝惚けた頭で、希望が丘の「永楽」へでも中華を食べに行こうかと思ったが、睡魔に負けて再び眠りに落ちてしまった。肉体的にも精神的にも疲れはピークだったのだろう。明は、「永楽」のラーメンを愛している。店のお母さんが早朝からスープの仕込を欠かさない。麺は細麺だ。焼き豚とメンマ、ナルトに刻み葱、青菜が載せてある。正統派のラーメンだ。清んだ醤油味のスープと細麺の相性は抜群だ。何回、食べても飽きのこないラーメンだ。明に言わせれば、「ザ・昭和のラーメン」である。彼は、永楽のが一番と確信していた。しかし、今日の睡魔は、この誘惑にも打ち勝ってしまった。
 枕もとに置いた携帯の着信音が鳴った。寝ぼけ眼で目覚ましを見ると、針は六時を示していた。はっきり覚醒しない頭で携帯を耳に当てた。
「もしもし、アトリエ碧風さんですか」「和田先生、ご在宅でしょうか」
「はい、そうですが」「わたしが和田ですが」
「今、お電話かまいませんか」
「大丈夫ですよ」
「すこしお尋ねしたいことがあるんですけど」
「どうぞ」
明は、まだ、ボーっとした頭で受け答えをしている。
「アトリエ碧風さんは絵画教室をやっていますか」
「ええ、やっていますよ」
「お教室は生徒募集中ですか」「お教室は何曜日にやっていますか」「何時から何時までやっていますか」
矢継ぎ早の問い合わせには答えずに、明は逆に質問した。
「失礼ですが、わたしのことをどこでお知りになったんですか」
「うちの生徒さんのお知り合いですか」
明は教室の広告を出していないので、生徒は口コミでしか集まらないのだ。
「いいえ、違います」「先生の個展を拝見して、お教室があればいいなぁと思ってお電話しました」
「どこの個展ですか」
「石川町の『ギャルリじん』さんです」「先生の作品を見せていただき、この先生に教えていただきたいと思いました」
「ああ」せっかくのファンなのに曖昧な返事をしてしまう。
「規模は小さいですけど絵画教室は開いています」
「先生、わたし、勤務が変則的なんですけど、それでも大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。毎週、火・水・金・土の午後一時から五時までひらいています」まだ完全に目覚めぬすなのか、明がぼそぼそした声で説明を重ねる。良くこれで生徒が集まるものだ。
「教室は週に四回あるので、その中で自由に来ていただければかまいません」「一回四時間で三千円という講師料を頂いています」「アトリエは夜の八時頃まで開けていますから時間外で開講する場合もありますよ」ここまで話しをしてきて、さすがに、明も完全に目がさめた。それと同時に、通話の相手の声に聞き覚えがあることに気がついた。明はすこし躊躇したが、思い切って訊ねてみた。
「差し支えなければ、どんなお仕事をされているのか教えていただけますか」
「鉄道関係です」
 鉄道会社を確認する必要はなかった。彼女の返事を聞いた後の会話を、明は良く覚えていない。確か、火曜日に伺うと言っていたような気もするが。相手の名前も尋ねたはずだが、それもよく覚えていない。彼はベッドから起き上がると、例の小品を抱えてアトリエへ急いだ。ストーブを点けるのももどかしく、作品をイーゼルに載せると絵筆を手に取った。絵の具箱の中から一本のチューブを選ぶ。なんともいえない美しい色合いのピンク色である。「月光荘ピンク」は、明が一番大切にしている色だ。パレットに搾り出した絵の具を筆の先で一掬いする。そして、一月九日という日付と、自分のサインを控えめに描き入れた。
「今夜は久松だな」明は小さく呟くと、アトリエの照明を落とした。マフラーを首に巻くと、玄関から外へ勢い良く飛び出していった。真っ白な吐息が夜道で踊っていた。

 

著者

小峰鈴二