「一緒に帰ろう」吉田 舞

〈あっちゃん元気ー? ちゃんとしたもの食べてるかー?〉
 掌の中のスマホにメッセージが表示された。佳奈ちゃんからだ。
 僕は今まさに、会社の休憩スペースにあるレンジの前でコンビニ弁当が温まるのを待っているところだった。
〈元気だよ。ちゃんと食べてる〉
 と返信し、オレンジ色の灯りの中でぐるぐると回転するコンビニ弁当を眺める。こいつは佳奈ちゃんが言うところの「ちゃんとしたもの」ではないな、と思う。
〈よかったー
 ところで今日あいてる?
 一緒に帰ろー!〉
 金曜の夜。佳奈ちゃんが「一緒に帰ろー」と言うときはつまり「横浜で飲んでから一緒に帰ろう」という意味で、「しこたま飲みたい」「例によって酔いつぶれるだろうから送って」という意味でもある。
〈いいよ。8時過ぎになると思う〉
 即座に返信する。今日も残業するつもりだったけど、急ぎの案件ではない。僕にとって、酔っ払った佳奈ちゃんを無事に家まで送り届けることのほうが優先すべき案件だ。
 送るといっても、僕は車通勤ではなく、電車通勤だ。だから、佳奈ちゃんと「一緒に帰る」ときはいつも、横浜駅近辺の居酒屋で会い、相鉄線で帰る。
 佳奈ちゃんは、たくさん飲んでたくさん喋る。一方僕は、お酒が飲めないうえにもともと口数が少ないほうなので、ウーロン茶を飲みながら佳奈ちゃんの話を聞く。
 そして、酔っぱらって眠くなった佳奈ちゃんを連れて相鉄線に乗る。佳奈ちゃんはシートに腰掛けると数秒で眠りにつく。僕は、必ず佳奈ちゃんの右側に座り、佳奈ちゃんが左側の人に寄りかかって迷惑をかけないか見張る。
 横浜駅から十二分。七つ目の駅、西谷に着くと、僕は佳奈ちゃんを起こして電車を降りる。そして、僕のアパートとは反対側の出口から出て住宅街の坂道を上り、佳奈ちゃんの家へ向かう。途中、笑いだしたり泣き出したり「飲み足りない」と言い出したりする佳奈ちゃんを適当になだめ、家まで送り届ける。佳奈ちゃんのお母さんにお礼を言われ(たまにおかずの入ったタッパをもらって)、自分のアパートへ帰る。
 そんな夜が、ここ数年、月に一度くらいの頻度で繰り返されている。
 今日も、佳奈ちゃんは勢いよくジョッキを空にしていく。
「でね、その合コンに行って思ったの。あー、私もう現役じゃないんだなーって。私はね、めっちゃ勝ちに行くつもりだったんだよ。でもね、勝つとか負けるとかじゃなくて、そもそも私の土俵に誰もいないの。若い子は若い子だけで相撲とってて、私ほんと一人相撲だったの」
 チェーンの安い居酒屋でもう何杯目かわからない中ジョッキを傾けながら、職場の後輩がセッティングした合コンの話をしている。二十七歳の佳奈ちゃんは、大学出たての子たちの合コンで自分がもう若くないことを実感してしまったらしい。
「まぁ、別に若い子にモテなくてもいいんじゃない。同世代にはモテるんだし」
「モテないしー!」
 そう言って、佳奈ちゃんはジョッキに三分の一ほど残っていたビールを一気に飲み干した。もともとのアホっぽい喋り方に拍車がかかっている。
 佳奈ちゃんは美人で、性格も可愛い。だからモテるのだが、いかんせん、びっくりするほど男を見る目がない。言い寄ってくる男はだいたい遊び人だし、たまに誠実な男が現れても「なんだか好きになれない」と言い、チャラい男ばかりを好きになってしまう。だから、佳奈ちゃんの恋はいつも悲しい結末を迎える。
 その後、佳奈ちゃんはビールをハイボールへと切り替えた。すると気分も切り替わったのか、家族や友達のこと、ネットで目にして背筋が凍った都市伝説のことなどを楽しそうに喋った。かと思えば突然「で、あっちゃんは? いい出会いとかないの?」と僕に水を向け、特にないと答えた僕を「つまんねー」とこきおろし、ついでに「あっちゃんは体に悪いものばっかり食べてるからモテないんだよ」とよくわからない説教をし、最終的には昔のバイト先の店長の物まねをしてヒーヒー笑った。僕も、相当笑った。
 居酒屋を出ると、金曜の夜の横浜は楽しそうな酔っ払いたちで溢れていた。
 僕はふわふわした佳奈ちゃんを連れて、22:56発の相鉄線に乗った。

 首都圏の人に言うと驚かれるけれど、大学生になるまでほとんど電車に乗ったことがなかった。
 僕が生まれ育った信州の町は圧倒的に車社会だった。市街地には一応JRの駅があるけど、電車は一時間に一本しかないうえ、一番近い都会まで一時間半かかる。中学も高校も通学は徒歩だったし、そもそも電車に乗る用事がなかった(都会へ遊びに行く同級生もいたけど、残念ながら僕はそういうタイプではなかった)。
 十年前、大学進学のため横浜に引っ越すにあたり、僕の最大の心配事は「電車に乗れるかどうか」だった。なんせ、東京(僕にとっては横浜も東京だ)は、迷子になるほど駅が広大で乗り換えは複雑、しかも通勤ラッシュなるものがあるらしい。僕のような電車未経験がそんな中をかいくぐって通学できるのか、不安だった。
 しかし、いざ引っ越してみて拍子抜けした。
 僕が通学に使うことになった相鉄線は、想像していたよりもずっと、のどかで平和だったのだ。
 相鉄線の本線は、横浜駅から海老名駅まで、横浜市と隣接する大和市、海老名市を東西に横断する。その真ん中あたりの二俣川駅で本線といずみ野線に分かれ、いずみの線の終点は藤沢市の湘南台駅だ。
 大学があるのは相鉄本線の和田町駅。そして、父が選んだアパートは、和田町駅から下り電車で二駅の西谷駅近くだった。
 和田町も西谷も、僕がイメージしていた横浜とはずいぶん違った。
 駅も街も小さく、高層ビルや近代的な建物もない。ラッシュ時の混雑こそ「この小さな街のどこにこれほどの人が!」と驚いたけれど、それも、テレビで見る新宿や渋谷ほどではない。すぐに慣れることができた。
 和田町はまだ同じ大学の学生たちでにぎわっていたけれど、西谷にいたっては、これが本当に横浜かと驚くほどに田舎じみていた。駅前の小さな商店街には、昭和から店構えが変わっていなさそうな、小さな洋菓子店や布団屋、玩具屋、床屋が並び、どの店もお年寄りが営んでいた。商店街を歩いている人たちも、ほとんどがお年寄りだった。
 大学も、国立のため全国から生徒が集まっていて、僕だけが特別に田舎者というわけではなさそうだった。
 しかし、もともと人見知りで内向的な僕は、大学で友達ができずにいた。
 話しかけられれば、世間話をすることはできる。けれど、そこから友達と呼べる間柄に進展させることができない。距離の縮め方がわからないのだ。
 そうして友達ができないまま夏休みを迎え、時間を持て余した僕はバイトを始めることにした。
 西谷ではちょうどいい求人がなかったので、下りで一駅先の鶴ヶ峰駅近辺で探した。大学の最寄りの和田町ではなく、大学から遠ざかるように鶴ヶ峰を選んでしまったのは、夏休みまで上りの相鉄線に乗りたくなかったからかもしれない。バイト先は、チェーンのドーナツショップだ。地元にも店舗があったので、馴染みがあった。
 そこで僕は、佳奈ちゃんと出会った。
 佳奈ちゃんは当時、高校二年生だった。色黒ですらっと背が高く、目がぱっちりしている。仕事はできるし、後輩の面倒見もいい。店長も、早番の主婦たちも、遅番の大学生たちも、みんな佳奈ちゃんを可愛がって(仕事の面では頼りにして)いた。最年少ながら、店ではアイドル的というよりはエース的な存在だった。
 バイト未経験の僕は、バイト歴一年以上の佳奈ちゃんから仕事を教わった。佳奈ちゃんは初めて会ったときから僕を「あっちゃん」と呼んだ。
 人見知りの僕に、佳奈ちゃんはたくさん話しかけてきた。そして、何が面白いのか、僕の返答に対していちいち「あっちゃん暗ーい!」「あっちゃん超ネガティブー!」などと言ってはケラケラ笑った。大学に入るまで電車に乗ったことがなかったと言ったときは、「そんな人いる!?」と大げさに目を丸くした。
「いるよ、ここに」
「どうやって移動してたの? 熊? 鹿?」
「佳奈ちゃん、長野県ばかにしてない?」あえて憮然として見せたが、佳奈ちゃんにからかわれるのは嫌ではなかった。
 僕にとって佳奈ちゃんは、横浜で初めてできた友達だった。
 佳奈ちゃんの家も西谷にあった。佳奈ちゃんは交通費を浮かせるため、鶴ヶ峰から西谷までの一駅分を歩いて通っていた。僕も、佳奈ちゃんと一緒にその二十分ほどの距離を歩いて帰るようになった。
 僕たちは、色々な話をしながら歩いた。国道沿いのそっけない道は少し地元に似ていて、でもなぜか、地元以上に懐かしかった。
 車が通るたび、僕の声はかき消される。そのたびに佳奈ちゃんは「なにー? 聞こえなーい!」と大声を張り上げる。佳奈ちゃんの声は顔に似合わず低く、鼻にかかっている。
 一ヵ月も経つと、僕はバイト先でいじられキャラとして定着していた。佳奈ちゃんが「あっちゃんって不愛想だけど、人見知りなだけだよ。実はけっこう面白いよ!」と喧伝してくれたおかげだ。夏休みが終わる頃には、佳奈ちゃん以外のスタッフとも友達になっていた。
 夏休みが終わり、大学が始まった。
 大学に友達ができなくても、バイトに行けば友達がいる。その安心感からか、今までよりも気負わずに人と話せるようになった。すると、自然と友達ができた。
 大学生になってからの僕は、知らず知らずのうちに無理をしていたのかもしれない。
 
 
「間もなく、和田町、和田町です」
 夜の車窓越しに、すっかり寝静まった商店街が見える。
 電車は、トトトン、トトトンと心地よいリズムを刻んで走る。
 隣の佳奈ちゃんを見ると、泣き出しそうな顔で眠っていた。
 
 
 佳奈ちゃんは可愛いけれど、はっきり言っておバカだった。
 勉強だけはそれなりにできる僕は、佳奈ちゃんに頼まれて勉強を教えるようになった。
 佳奈ちゃんの家には両親と二人の弟とおばあちゃんとダックスフントがいた。家族全員が大きな声でよく喋るので、家の中はいつもうるさかった。そして、いつも散らかっていた。
 佳奈ちゃんの家族はみんな優しかった。お母さんは太っていて、僕がお邪魔するたびに「あっちゃん、相変わらず細っそいねぇ。腕なんか折れそうじゃないの。ちゃんと食べなきゃダメよ!」と言っては夕飯をご馳走してくれた。そして「佳奈がいないときでも勝手に来ていいからね!」とまで言ってくれた。
 僕の実家とはあまりにも違った。
 実家はいつも静かだった。僕は一人っ子だし、両親は会話が少なかった。
 母は完璧主義で、テストの点数が悪いと激しく叱責された。僕の意思とは無関係に多くの習い事をさせられ、どれも「結果」を期待された。期待に応えられないと、目に見えて落胆された。母に叱られることも怖かったが、失望されることはもっと怖かった。父は仕事一筋の人で、僕のことは母に任せきりだった。
 取り立ててひどい家庭環境だったわけではない。きっと、僕の両親のような親はたくさんいる。
 けれど、佳奈ちゃんの両親を見ていると、「このくらい愛されて育っていたら……」と思わずにはいられなかった。
 
 
「間もなく、西谷、西谷です」
 起こそうと佳奈ちゃんを見ると、なんと、目を見開いていた。
「起きてたの」
「うん」
「降りるよ」
 電車が西谷駅のホームに滑り込む。立ち上がりかけた僕のジャケットの裾を、佳奈ちゃんが引っ張った。
「まだ、乗る」
 ごくたまに、こんな夜がある。佳奈ちゃんが帰りたがらない夜。
 そういうときは、終点まで行く。この電車は二俣川からいずみの線になるので、湘南台が終点だ。湘南台まで行っても、この時間なら上りの最終電車に乗り換えられる。
 僕は、黙って座席に座り直す。停車するとドアが開き、同じ西谷の住人たちがホームへと吐き出された。

 バイトを始めて一年ほど経った頃、バイト先に雪さんという二十四歳の女性が入ってきた。名前の通りに色白で、儚げな印象の女性だった。
 僕は、雪さんに話しかけることができなかった。
 二十歳の僕にとっては四歳年上というだけでものすごく大人に感じ、気軽に話しかけるのが躊躇われた。雪さんは無口で、どことなくミステリアスな雰囲気があり、二人きりになると緊張した。
 それを佳奈ちゃんに話すと、「あっちゃん、雪さんのこと好きなんだぁ!」とでかい声で言われ、慌てた。
「ちょっ、声でかいから」
「あっちゃん面食いだなー」
「えっ、そう?」
「ほとんど話したことないのに好きになるって、見た目が好きってことでしょ? それって面食いじゃん」
 佳奈ちゃんにそう断言されると、そんな気がしてきた。
 そうか、これが恋というものか。僕は、二十歳にしてはじめて恋をした。
「あっちゃん、良かったねぇ。初恋だもんねぇ」
 佳奈ちゃんはしみじみと(でもでかい声で)言った。
 それからというもの、佳奈ちゃんは僕の恋を積極的に応援してくれた。「雪さん、彼氏いないって!」「雪さん、ピアノの先生やってたんだって!」などと、雪さんから聞き出した情報を僕に横流しするようになった。
 僕も、佳奈ちゃんに恋愛相談をした。なんて話しかけたらいいか、どうやって連絡先を交換するか、デートに誘う前に告白するべきか否か、など。その度に佳奈ちゃんは「よしっ、作戦会議だ!」と喜んだ。店ではできない話なので、作戦会議はいつも電話かメールだった。
 数か月後、佳奈ちゃんに背中を押され、僕は人生で初めての告白をした。
 結果は玉砕だった。なんと、雪さんは結婚していた。
 佳奈ちゃんが「彼氏いるんですか?」と聞いたとき、雪さんはふふっと笑って「まさか。いないわよぉ」と答えたそうだが、それは、結婚しているからだったのだ。雪さん自身、履歴書に書いてあるのでみんな知っていると思っていたらしい。
 僕がフラれた日、佳奈ちゃんは泣いた。
「あっちゃん、ごめんね。佳奈が、雪さん彼氏いないとか言っちゃったから」
「いや、佳奈ちゃんのせいじゃないよ! なんで泣くの」
「だって、あっちゃん悲しいでしょ? あっちゃんが悲しかったら、佳奈も悲しいじゃん」
 他人が悲しいから自分まで悲しくなるだなんて、僕にはわけがわからなかった。
「あっちゃん、しんどいね。雪さんのこと思うとつらいよね。ごめんね、応援するとか言っちゃって、ごめんね」
 佳奈ちゃんは、クッションに顔を埋めて泣きじゃくった。花の刺繍が施されたクッションに鼻水がついた。
 僕は、ポカンとしていた。
 悲しくはなかった。僕は、自分がフラれた(プライドが傷ついた)という事実がショックなだけで、「雪さんを想って胸が苦しくなる」わけではないことに、気づいた。
 僕は初めての恋にはしゃいでいて、雪さんのことがまったく見えていなかった。「どうしたら雪さんと付き合えるか」ばかり考えていて、雪さんの気持ちを想像してみたことがなかった。
 雪さんが今この瞬間、何を思っているのか。
 心穏やかに過ごしているだろうか。辛い思いをしてはいないだろうか。
 そんなふうに心配することも、ましてや幸せを願うことも、なかった。気になるのは「雪さんが僕のことをどう思っているか」だけだった。
 そのことに気づいて、恥ずかしくなった。
 雪さんだけじゃない。僕は今まで、誰かの気持ちを考えたことがあっただろうか。
 佳奈ちゃんが僕の気持ちを想像して泣くように(多少的外れな想像ではあるけれど)、誰かの気持ちに寄り添ったことがあるだろうか。
 わからないけれど、少なくとも今、佳奈ちゃんが泣くのは嫌だと思った。
 佳奈ちゃんがいつも笑っていられますように。
 自分以外の誰かのことを祈ったのは、これが初めてかもしれない。
 
 
「間もなく、湘南台、湘南台、終点です。お出口は右側です。小田急江ノ島線と横浜市営地下鉄線は、お乗り換えです……」
 ドアが開く。佳奈ちゃんは黙って電車を降り、反対側のホームへ行く。僕も、黙ってついていく。横浜行きの電車を待っているのは僕たちだけだ。
「佳奈ちゃん、何かあったの? 本当は今日、話したいことあったんじゃないの?」
 佳奈ちゃんは振り返らない。
「大丈夫?」
 ベージュのコートの肩が震えているように見える。
「話したくなったらいつでも聞くよ。今日じゃなくても。話したくなかったら、話さなくていいし」
 栗色の髪が揺れ、佳奈ちゃんが振り向く。不思議そうに、僕の目を覗き込む。
「なんで、話したいことがあるってわかるの?」
 わかるわけじゃない。佳奈ちゃんの気持ちは、佳奈ちゃん以外の誰にもわからない。
 でも、わかりたい。寄り添いたい。
 そう思うことが重要だと教えてくれたのは、あの日、花の刺繍のクッションについた佳奈ちゃんの鼻水だ。
 アナウンスが流れ、ホームに電車が滑り込んでくる。僕たちは、横浜行きの相鉄線に乗り込んだ。車両はガラガラに空いている。
「好きな人がいたんだけど」
 足元にぽとんと投げ捨てたような、鼻にかかった声。
「彼女にしてもらえなかったー」
「……悲しかったね」
「うん。悲しかったー」
 今なら、あの日の佳奈ちゃんの言葉の意味がわかる。
 佳奈ちゃんが悲しかったら、僕も悲しい。
 心の中で祈る。佳奈ちゃんがいつも笑っていられますように。
 
 
 その年の冬だったと思う。
 僕は、横浜に来て初めて風邪を引いた。
 たぶん、熱がある。でも、体温計がないからわからない。風邪薬もない。病院に行こうにも、体が動かない。力を振り絞ってバイト先に欠勤の電話をしたら、店長にものすごく心配されてしまった。
 ベッドに横になっていると、部屋に佳奈ちゃんが入ってきた。
 いや、そんなはずはない。鍵は閉めたはずだ。
「あっちゃん、なんにも食べてないでしょー? ドーナツ持ってきたよ」
 佳奈ちゃんは店のビニール袋から次々とドーナツを取り出す。
 あぁ、これは夢だ。なぜなら、廃棄ドーナツはスタッフルームで食べる分にはいいけど、店外への持ち出しは厳禁だからだ。ベテランスタッフの佳奈ちゃんがそんなタブーを犯すはずがない。
 そんなことを思っていると、チャイムが鳴った。ベッドを出てドアを開けると、本物の佳奈ちゃんがいた。
「大丈夫ー? ごはん食べてる?」
 佳奈ちゃんの手には店のビニール袋。
「それ、ドーナツ?」
「そんなわけないでしょ。風邪なんだからちゃんとしたもの食べなきゃ」
 普段さんざんドーナツを売っているくせに。
 ビニール袋の中には、りんごとみかん、大きなタッパが入っていた。
「これ、うちの母さんが作ったおじや」
 佳奈ちゃんはタッパの中身を器に移し、レンジに入れる。
「母さん、あっちゃんのこと心配してた。明日、佳奈が学校行ってる間、母さんに来てもらうから」
「いや、いいよ、大丈夫だよ」
「なんで?」
 佳奈ちゃんが不思議そうな顔をする。
「なんでって、だって、わざわざ来てもらうなんて悪いし」
「なんで?」
「なんでって……」と言ったところで咳きこんだ。呼吸が苦しくて頭がくらくらする。
「……佳奈ちゃんこそ、なんで僕にそこまでしてくれるの? 佳奈ちゃんも、佳奈ちゃんのお母さんも。なんで、僕なんかのために?」
 熱のせいか。つい、言わなくてもいいことを言ってしまった。けれど、本心だった。出会った頃から、ずっと聞きたいと思っていた。
「あっちゃんが、風邪引いてるから」
 佳奈ちゃんはわかりきったことを言わせるなと言いたげに眉を顰める。
「他に理由ある?」
 そう言って、佳奈ちゃんはごそごそとリュックの中から何かを取り出し、僕に差し出した。それは、ドーナツを入れる紙袋だった。
 受け取るが、中には何も入っていない。空っぽだ。
 そして、気づいた。紙袋に何か書いてある。
「早く良くなりますように 雪」
「さみしいわ~ん♡ 早く帰ってきてねw あなたの佑斗より♡」
「はちみつに大根のスライスを入れて上澄みを飲みなさい。まずいけど効きますよ。 林」
「あっちゃん先輩は頑張りすぎです(笑)ちゃんと休んでくださいね miwa」
「健康第一  パパより」
「お大事にね。無理しちゃだめだよ さおり」
「風邪うつしちゃってすみません! 俺も悪化させないように気をつけます 啓太」
「店のことは気にするなよ 横山」
「回復魔法~☆ RIE」
「早く治さないと佳奈ちゃん怒るよ(笑) あき」
「みんなあっちゃんのこと待ってるよ 佳奈」
 店のみんなからのメッセージを読んでいるうちに、何かとても、懐かしいような切ないような感覚が込み上げてきた。胸がぎゅうっと締めつけられた。
「あっちゃん、大丈夫?」
 佳奈ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んだとき、レンジがピー、ピーと音を立てた。

「間もなく、鶴ヶ峰、鶴ヶ峰です」
 大学三年の途中から就活が忙しくなり、バイトは辞めてしまった。
 けれど、当時のスタッフは今も大切な仲間だ。
 店長は他店に移動になり、雪さんはお子さんが生まれた。他県に住んでいる人もいてなかなか会えないけれど、僕にとって、みんなかけがえのない友達だ。
 佳奈ちゃんは、窓の外を眺めている。
「大丈夫?」
「うん」
 電車は相変わらず、トトトン、トトトンと優しいリズムを刻み続けている。佳奈ちゃんは何か言いたそうに顔を上げたが、すぐに視線を足元へ移した。
「……あっちゃんは、なんでそんなに私に優しくしてくれるの?」
 ぽとんと、落とすような声。
「佳奈ちゃんが泣きそうだから」
 僕は、わかりきったことを言わせるなと言わんばかりに眉を顰めて見せた。
「他に理由ある?」

 おじやを食べて風邪薬を飲んで、眠った。
 夢の中で、僕は幼稚園児になっていた。
 実家の和室。両親が寝室として使っている部屋に、僕は寝かされている。
 会社から帰ってきた父が、洋服ダンスの前でスーツを脱いでいる。僕は目を閉じて寝ているけれど、気配でわかる。母が、父の上着を受け取ってハンガーにかけるのも、わかる。
「ねぇ、パパ。あっちゃんがね、幼稚園でいじめられて、泣いて帰ってきたの。女みたいって言われたんだって」
「へぇ。それで、篤広はやり返したの? いじめられっぱなし?」
「いじめられっぱなしよ。あの子、弱虫なんだもん」
「はは。良かったじゃない、いじめるような子にならなくて。篤広は大物だ」
「よくないわよ。いつもいじめられるの。私、あっちゃんが可哀相で……。あっちゃんが悲しいと、私も悲しいもの」
「そりゃ、俺だって悲しいよ。親だもの」
「じゃあ……」
「でも、俺は篤広を誇りに思うね。篤広はいじめられることはあっても、けしていじめることはない。思いやりがあって心が広い子になるように篤広ってつけたんだ。篤広は、俺たちの願い通りに育ってる」
「でも……。習い事とかさせて得意なこと増やしてあげたら、いじめられなくなるかしら?」
 夢の中の僕は幼稚園児のはずなのに、なぜか思考は二十歳の僕だった。
 僕は、思った。
 これが、夢なのか、現実の記憶なのかはわからない。
 でも、どちらにしても。
 僕は、両親から愛されていたんじゃないだろうか。
 そしてきっと今も、愛されている。
 そう思った瞬間から、その考えは少しずつ少しずつ固まっていって、揺るぎないものに変わっていく。
 胸の中が温かい何かで満たされていく。お腹の底から、くふくふと笑いが込み上げてくる。幼稚園児の僕は、二十歳の僕は、布団の中でくふくふと笑い続ける。傍から見たら、きっと不気味だ。
「僕は、愛されていた!」
「僕は、愛されている!」
 そう叫び、草原を駆け回りたいような気持ちだった。
 愛されているということは、きっと誰かを愛することができるということだ!
 それは、佳奈ちゃんかもしれない。両親かもしれない。未来の恋人かもしれないし、友人かもしれないし、子供かもしれない。まったくの他人かもしれない。その、すべてかもしれない。
 僕はいつか、誰かを愛することができる。そのいつかは、今かもしれない!
 僕は草原ででんぐり返しをした。
 相手に対して「こう思われたい」とか「こんなふうにしてほしい」といった期待が生まれてしまうのが恋なら、何の見返りも求めず、ただひたすらに相手の幸せを祈るような、相手の存在を祝福するような、そんな想いが愛なんじゃないか。
 そして、出会った頃からずっと不思議だった、佳奈ちゃんが僕に親切にしてくれる理由。
 その答えは、愛じゃないだろうか。
 みんなからのメッセージを読んだとき胸が苦しくなったのも、愛のせいなんじゃないか。
 いつの間に夢から覚めたのか、気づくと、枕が濡れていた。頬を触ると、ぬるかった。
 そうだ、涙はぬるい。
 泣くのが久しぶりすぎて、忘れていた。
 悲しいときも、嬉しいときも、人は泣く。
 愛を感じたときも、人は泣くんだ。
 
 
「間もなく、西谷、西谷です」
 ドアが開く。夜の空気を吸い込むと、寒さで鼻がひりひりした。
 いつか、佳奈ちゃんが幸せな恋をして、幸せな結婚をしたとする。
 僕はもちろん、最大限、できる限り、全力で、祝福するだろう。佳奈ちゃんの幸せが、僕の望みだからだ。
 新郎はそんな僕を見て、不思議に思うかもしれない。「こいつ、ただの友達のくせになんでこんなに喜んでいるんだ?」と。
 そしたら僕は、心の中で、こう言おう。
「これが、愛だからだ!」
 
 

著者

吉田 舞