「世界一の運転士」島岡吉郎

 青く澄んだ秋空の下、昼下がりの陽光に照らされて、ライトグレーの列車は快走する。
「かしわ台停車。場内よし!」
 立花沙耶香(たちばなさやか)はそう指差喚呼して、ブレーキハンドルを回す。電車は減速しながらゴトゴトと音をたててポイントを通過し、彼女が乗務を交代するかしわ台駅のホームに入線した。
 最年長運転士の源田(げんだ)が、指差しながらホームの先頭に立っているのが見えた。
 沙耶香は、電車を停止位置にきっちり止め、鞄と交番表を持ってホームに降り、源田と業務引継を行い敬礼した。
 源田はいつもの仏頂面で敬礼を返しながら、「今日は十五秒遅れだな」と言った。
 先輩の男性運転士たちはみんな沙耶香に優しく接してくれたが、源田だけは、沙耶香が挨拶しても小さく頷くだけで、業務引継のときも、必ず何か小言を言うのだ。それでも時々、鉄道員だった父に言われているような気がして、沙耶香は素直に聞いていた。
 沙耶香が運転士詰所で終業点呼を受けて更衣室に行こうとすると、助役の磯村(いそむら)に呼び止められた。
「立花君。明日は午後から乗務だけど、その前に取材を受けてもらうから」
「えー、またですか」
「なんだ、その言い草は。今回は就職雑誌で、女性活躍の特集記事らしいよ。写真を撮られるだろうから、なるべく綺麗にしといてね」
 沙耶香は四年前に入社し、駅務員を一年、車掌を一年務めたときに、運転士見習登用試験に合格した。それから十ヵ月の運転士養成教習を受けて甲種電気車運転免許を取得し、昨年、運転士になったばかりで、女性の電車の運転士はまだまだ珍しいため、新聞や雑誌の取材を受けることが多かった。
 珈琲好きの沙耶香が、駅近くの喫茶店マホロバに立ち寄ると、沙耶香の予想どおり、同期運転士の耕(こう)太(た)がカウンター席に座っていた。
 耕太は地元の海老名出身で一流大学出のエリート社員なのだが、けっして優秀な運転士ではなく、運転実習では指導運転士に何度も怒られて落ち込んでいた。
「お疲れさま」沙耶香は耕太の横に座った。
「おお、沙耶香。今、乗務明けか?」
「そうよ。耕太は今日は休みでしょ?」
「そうなんだけど、朝から本社で英会話のレッスンを受けてきたんだよ」
「運転士なのに英会話のレッスンを受けるのは感心だけど、耕太の場合は、運転の勉強が先じゃないの?」沙耶香は皮肉を言った。
「そりゃ、運転は大切だけど、将来のためには英語ぐらいは話せないとね。運転士も何人か参加していて、源田さんもよく見かけるよ」
 沙耶香は、意外な名前が飛び出して驚いた。
「えっ、源田さんが英会話の勉強を?」
「ああ、もうすぐ定年退職するんで、老後のために英会話を勉強しているんだって。きっと海外で鉄道の旅を楽しむつもりなんだよ」
「耕太に一度訊こうと思っていたんだけど、源田さんって怖くない?」
「いいや。鬼瓦のような顔をしているけど、どんなことでも優しく教えてくれるよ」
「じゃあ、私が嫌われているだけなんだ」
「そんなことないよ。この前、源田さんが、立花さんは元気にやっているか、って訊いていたから。源田さんは昔気質(かたぎ)の職人のような人だから不愛想だけど、心の中では沙耶香のことを気にかけてくれているようだよ」
「そう? 私にはそうは思えないけど」
「源田さんの趣味は、意外にも散歩なんだ。線路に沿って歩くんだって。しかも景色を観るだけでなく住人の生活を観察するらしいよ」
「生活を観察するなんて、変わっているわね」
「とにかく源田さんは運転士一筋で、独身でいたから、電車と結婚したような人でね。沙耶香は〝源田ノート〟を知っているか?」
「なにそれ?」
「源田さんは、各車両の特徴や状態をノートにつけているんだよ。一度、ちらっと見せてもらったことがあるんだけど」
「それは私も見てみたいな。もっと運転技術を磨きたいから」
「沙耶香は運転が上手いからいいじゃん。僕はなかなか慣れなくて、毎日冷や汗ものだよ」
「運転は大丈夫なんだけど、鉄道ファンの男性に一緒に写真を撮ろうと絡まれたり、取材が入ったりして面倒くさくて。こっちは運転に集中して神経をすり減らしているのに」
「いやいや、それも大切な仕事だよ」
「私もそう思ってやっているけど、見世物(・・・)みたいで、いい加減、嫌になっちゃうわよ」
「でも、鉄道ファンも大切だし、新聞や雑誌の記事は会社のPRになるし、それを読んで、運転士になろうと思う子供もいるだろうから、しっかりやらないと。沙耶香も最初は取材を受けると言って喜んでいたじゃないか」
「もう飽きたわよ。取材といっても、女性なのに運転士になった理由とか、女性で運転士をしている苦労とか、将来の夢とか、お決まりのことしか訊かれないから」
「なんか、売れっ子アイドルの我儘話を聞いているみたいだな。僕たちがこうして運転士になれたのは会社のおかげなんだから、お返しだと思ってやらないとダメだよ」
「じゃあ、耕太は会社に何をお返しするの?」
「まあ、そのうちにね……そんなことより、沙耶香、今日の晩御飯、僕に付き合わない? 一度行ってみたいと思っているレストランがあって、一緒にどうかと思って」
「あら、耕太が食事に誘うなんて珍しいわね。是非ご一緒したいところだけど、今夜は高校の同窓会があるの」
「そうか。でも、明日も仕事だろう。飲み過ぎたら始業点呼で引っかかってしまうぞ」
「分かっているわよ。そんな、助役みたいなことを言わないで」
 沙耶香が耕太と別れて自分のアパートに戻る途中、沙耶香の前を、小柄な老女が重そうな鞄を持ってよろよろと歩いていた。
「あのー、よかったらお持ちしましょうか?」
 沙耶香がそう声をかけると、老女は立ち止まって、驚いた顔を沙耶香に向けた。
「あら、今どき珍しく親切なお嬢さんね」
 沙耶香は老女から鞄を預かり、二人並んで、木漏れ日の中をゆっくりと歩き始めた。
「お婆さんは、こちらは長いんですか?」
「引っ越して来て、もう三十年になるわね」
「どうしてここに住もうと思ったんですか?」
「自然に恵まれていて環境がよかったからよ。当時はまだ子供が小さかったので、週末にはよく家族でお弁当を持ってハイキングに出かけましたね。春には東原桜並木とか、立野台や清水寺の公園でお花見をし、秋には光綾公園や城山公園まで紅葉や薔薇を観に行ったものですよ」老女は嬉しそうに笑った。
 沙耶香は毎日運転していて、トンネルや鉄橋や踏切については熟知している。しかし、老女の話に出てきた公園については、どこにあるかも、どんなところかも知らなかった。
「今は旦那さまとお二人でお暮しですか?」
「いいえ。主人は三年前に他界しましたので、今は独り暮らしです」
「そうなんですか。独り暮らしは不自由ではないですか?」
「近くにスーパーがあって買い物は便利だし、病院もありますから安心ですよ。それに北部公園が近いので運動がてら散歩できますし、沿線ではいろいろな祭りやイベントが開催されるので楽しめますし。だから、私のような年寄りの独り暮らしには住みよいまちですよ」
「お孫さんはおられるんですか?」
「三人いて、以前はよく遊びに来て、一緒に海軍広場に行ったり横浜の中華街で食事をしたりしましたよ。でも、孫が塾に通うようになってからは来なくなってしまいました」
「小学校の高学年になると、みんな塾に通いますからね」
「でも、私は反対ね。その時期には子供たちに、将来、何になるかを考えさせ、夢を追いかけさせるべきだと思うの。いろいろな仕事があることをもっと教えてあげなくちゃ。そのためには、各分野で活躍している人の姿を見せるのが一番よ。そう思って、私が現職のときには、社会見学をよくしたわよ」
「ということは、お婆さんは学校の先生をされていたんですか?」
「そうよ。小学校の先生をしていたの」
 この辺りはかなり前に開発された区画のようで、古い戸建て住宅が並んでいる道を、鳥のさえずりを聞きながら歩いた。
 角を曲がり、坂道を少し上ったところで老女は立ち止まり、「ここよ」と言った。
 建物の白壁がくすみ、「君嶋(きみしま)」と書かかれた表札のかかった門柱はひび割れていたが、庭はよく手入れされていて、コスモスやリンドウやサフランの花が色鮮やかに咲いていた。
「是非、お茶でも飲んでいってください」
「ありがとうございます。せっかくですけど、
これからちょっと所用がありますので……」
 沙耶香はそう言って、鞄を老女に返した。

 翌日、沙耶香は朝からひどく落ち込んでいた。昨夜の同窓会で、同級生の女性にショックなことを言われたからだ。
 出席者が順番に近況を話したときに、沙耶香は、同窓生なので気を許して調子に乗ってしまい、電車の運転士になって、新聞や雑誌の取材を受けたり講演を頼まれたりして忙しいと自慢げに話したのがよくなかったようだ。
 帰り際に、在学中は優等生で一流大学に進学し、総合商社に勤めている女性の同級生が沙耶香のところまで来て、薄笑いを浮かべて、
「電車の運転みたいなつまらない仕事は、男に任せておけばいいのに。あなたは女性の職場から逃げているだけなのよ。今は話題性があるから注目されているけど、そのうち忘れ去られてしまうって」と言ったのだ。
 午前中の雑誌の取材中も、電車を運転中も、それが沙耶香の頭から離れなかった。
 そのせいではないのだろうが、さらに悪いことに、沙耶香は大きなミスを犯してしまった。台風の影響で雨が激しく降っていたので注意して運転していたのだが、停車駅でオーバーランしたのだ。しかも二駅続けて。
 沙耶香は、乗客の冷たい視線を背後に感じながら、停止位置に車両をバックさせた。それを二回繰り返したのだから、乗客の怒りや不安が募っても仕方がない。
 沙耶香が運転席の窓を開けて、乗降客の安全確認をしていると、電車から降りた中年の男性が、沙耶香の前で聞こえよがしに言った。
「だから女じゃダメなんだ。これじゃ危なっかしくて安心して乗ってられやしない」
 沙耶香は、辛さと悔しさで唇を噛み締め、その男性のほうは見ずに、窓を閉めた。
 沙耶香は、その後はブレーキを早めにかけるようにしたのでオーバーランはしなかったが、終着駅では一分近く遅延してしまった。
 その日の夕方、沙耶香が乗務を終えて詰所に戻って来ると、磯村から厳しく注意を受けた。オーバーランしたことを自ら磯村に報告するつもりでいたが、すでに誰かが通報していたようだ。
「オーバーランするなんて最低だよ。今度やったら、乗務から外して研修所に戻すからな」
 沙耶香は磯村に何度も頭を下げて謝ったが、磯村は執拗に沙耶香を責め立てた。
「オーバーランするのは弛んでいるからだよ。イベントに出たり新聞や雑誌に載ったりして、スター気取りで浮かれていたんだろう」
 沙耶香はひたすら謝ればよかったのだが、磯村のこの一言に切れてしまった。
「私、浮かれてなんかいません。助役の指示に従って嫌々やっていただけですから。それなのに、そんな言い方はないと思います」
 磯村は顔を真っ赤にし、体を震わせた。
「君、誰に向かって言っているんだ」
 そのとき、乗務を終えて詰所にいた源田が近づいて来て、二人の間に割って入り、怖い顔を沙耶香に向けた。沙耶香は源田に罵倒されると思って身構えた。
「どの車両に乗っていたんだい?」
「77××の編成です」
「やっぱりそうか」源田は磯村のほうに向き直った。「だったら、この子をそんなに責めてやるのは可哀想だよ。あの車両は昨日からブレーキの効きが悪くて、車両部に整備するように言っておいたんだ。だけど、ちゃんと整備していなかったんじゃないのか?」
 これを聞いて磯村は頷いて言った。
「そうなんですか。分かりました。私から車両部に確認しておきます」
 磯村も源田には反論できないようだ。
 沙耶香が電車区の建物を出ると、公道につながる階段の下に源田が立っていた。
「さっきは、ありがとうございました」
 と言って、沙耶香が源田に深々と頭を下げると、源田はいつもの仏頂面で、
「勘違いするな。べつに君を庇ったわけじゃないんだ。整備の手抜きで起こったことを、すべて運転士のせいにされては困るから言ったまでだ。本当は、ブレーキの効き具合を十分に確認しなかった君が悪いんだけどね」
 と冷たく言って、沙耶香を置き去りにして階段を上って行った。
 沙耶香は放心状態のままマホロバに行き、耕太がカウンターで珈琲を飲んでいるのを見つけて、ほっ、とため息をついた。
「沙耶香、何だか元気がなさそうだね」
「今日、二回もオーバーランしちゃって、磯村助役に大目玉を食らってしまったの」
「ドンマイ、ドンマイ。それより、沙耶香、今日は焦ったよ。運転していて、二俣川駅を出たあたりで急にトイレに行きたくなって」
「ふーん」沙耶香は耕太から視線を外す。
「もちろん、大の方だけど。生ものは食べないとか、乗務前に珈琲を飲んで便意を催させるとか、注意していたんだけどね」
「それで?」沙耶香は眉をひそめる。
「横浜駅の停車時間中にトイレに駆け込んで、何とか事なきを得たけど。体に悪いわ。汗びっしょりだった。やっぱりおしめをはいておいたほうがいいと思ったよ」
 そう言って、耕太はハハハと笑った。沙耶香は苛立ちを覚え、語気を強めて言った。
「こんなときに、くだらない話はやめてよ!」
「なんだよ。怒るなよ。沙耶香を元気づけようと思って話しているのに」
「あーあ」沙耶香は珈琲をすすった。「私、もう疲れちゃったの。女性運転士って、女性社員の中にもよく思わない人がいるだろうし、本音では女性を信頼していない男性社員もまだまだ多いだろうし。それに、乗客の中にも、運転士が女で大丈夫かと会社に電話してくる人がいたし、そこまでしなくても、そういう不安を持っている人は多いよね、きっと。やっぱり女ではダメだ、と言われないように頑張ってきたつもりだけど、もう限界よ」
 耕太は沙耶香を直視して言った。
「沙耶香、肩に力が入り過ぎているよ。たしかにパイオニアは大変だと思うけど、自意識過剰だと思うな。沙耶香は電車の運転士になりたくてうちの会社に入って運転士になれたんだろう。だったらハッピーなはずだけど」
「耕太は運転士になれてハッピーなの?」
「さあ、どうかな? 僕はいつまでも運転士をやっているつもりはなくてね。そのうち本社の企画部門に行って、沿線企業との提携とか、まちづくりとか、地域振興につながるようなことをやってみたいと思っているんだ」
「そうなの。私は定年までずっと運転していたいと思っていたけど……」
「源田さんみたいに?」
「まあそうね。でも、源田さんは……」
「僕、思うんだけど、トンネルと地下以外がすべて高架化されて、ホームドアが完備され、ATS装置が稼働している環境なら、自動運転が可能になるんじゃないかな?」
「耕太は、電車の運転士なんて、人間がやっている意味がないって言いたいの?」
「そんなことは一言も言っていないだろう。僕が言いたいのは、運転士として、単に電車を動かすだけじゃなくて、もっと他にやるべきことがあるんじゃないかということなんだ」
「なによ、偉そうに。運転士半人前のくせに分かったようなことを言わないで!」
 沙耶香はそう言って耕太を睨みつけた。
「なんで怒っているの? 今日の沙耶香、どうかしているよ」
「もうほっといて」
 そう言って、沙耶香は珈琲を半分残したまま、店から飛び出した。
 沙耶香が泣きながら薄暮の迫る北部公園を歩いていると、老女に声をかけられた。
「あら、先日、荷物を持ってくれたお嬢さんじゃない?」
 沙耶香は慌てて涙を拭いながら言った。
「まあ、お婆さん。たしか君嶋さんでしたね」
「あなた、相鉄の運転士さんの立花さんでしょ。あのときは制服じゃなかったから気がつかなかったけど、あとから思い出したのよ」
「どうして私のことをご存知なんですか?」
「あなたが駅員をしていたときに、私が駅のホームで気分が悪くなってうずくまっていたら、あなたが声をかけてくださって、駅長室のソファーで休ませてもらったのよ」
「ああ、あのときのお婆さんですか。すみません、全然気がつかなくて」
「あれからしばらくして、あなたの姿を見かけなくなって、配置転換されたのかと思っていたら、電車に乗ったときに、車掌さんになっているのに気づいたの。それで、何ヵ月か前の新聞に、あなたの記事が出ていて、運転士さんになっていることを知ったのよ」
「私みたいな者のことをずっと見守ってくださっていたんですか……」
「立花さんはどうして電車の運転士になったの? よく訊かれることだと思うけど」
「私は鉄道員だった父の影響を受けて、子供の頃から鉄道ファンだったんで、鉄道会社に就職して運転士になると決めていたんです」
「立花さんは地元の人なの?」
「いいえ、出身は東京です」
「だったら、東京の鉄道に入ればよかったじゃない」
「父が相模鉄道がいいと勧めたんで。父は旧国鉄マンで、若いときは運転士になりたいと思っていたんですけど、極度の近視で、当時あった裸眼視力の基準を充たさなかったため運転士にも車掌にもなれず、ずっと駅員だったんです。だから、私が運転士になるのを心待ちにしていたんです」
「だったら、お父さんは喜ばれたでしょう」
「それが、私が運転士試験に合格するのを待たずに、父は病気で他界してしまいました」
「それは残念だったわね。でも、きっとお父様は天国で喜ばれて、応援してくれていると思いますよ。だから、これからも頑張ってね」
 沙耶香が口ごもってしまい返事できずにいると、老女は心配そうな顔をして言った。
「気になるから訊くけど、あなた、さっき泣いていたでしょ。何かあったの?」
「実は私、運転士をやっていく自信がなくなってしまって……」
「やっぱりそうなの。立花さん、そんな弱音を吐いちゃダメよ。せっかく運転士になれたんじゃないの。元気を出しなさい。あなたはスターなんだから」
「私がスターですか?」
「そうよ。たくさんの人たちが、あなたの活躍を期待しているのよ。運転士って神経使う仕事だから疲れているんじゃない? 公園を散歩したらいいわ。リラックスして気分転換になっていいと思うけど」
 沙耶香は、老女に励まされて幾分か心の落ち着きを取り戻した。そして、運転士をやめようと思ったら、いつでもやめられるんだから、もう少し頑張ってみようと思い直した。

 それから半月ほどして、急に車両センターへの小学生の見学会が入り、沙耶香が講師を務めることになった。
 沙耶香は運転士の仕事に自信をなくしていたので気乗りしなかったが、なぜか学校から沙耶香に講師をしてほしいとの要望があったとのことだったので、引き受けることにした。
 沙耶香は、小学生が相手なので笑顔を絶やさず、運転士の仕事について話した。
 そのあと、質問を受け付けると、まず、男の子が手をあげた。
「運転していて眠たくなることがあると思うんですけど、僕も授業中に眠たくてどうしようもなくなることがあるんで、眠気覚ましの秘訣があれば教えてください」
「乗務する前日は、よく寝るようにしています。規則では、眠気覚ましに飴をなめるのは禁止されているけど、ガムを噛んでもいいことになっているの。でも、お客様から見て、あまりいい感じではないと思って、私はガムの代わりに唇を噛んでいます。分かります?」
 沙耶香は、小学生にはちょっと難し過ぎたかと思ったが、何人かが笑ってくれた。
 次に、別の男の子が手をあげた。
「運転席の後ろで前方を見ていて気づいたんですけど、電車が近づくと線路わきに点灯する×(ばつ)印って何なんですか?」
「ああ、あれは踏切動作反応灯といって、踏切に障害物がないことを示すサインなの」
「障害物がなくて安全なんだったら、×印じゃなく○(まる)印にすべきなんじゃないですか?」
 無邪気な疑問に、沙耶香は思わず微笑んだ。
「そうね。私もそう思うな。ただ、相鉄では×印だけど、他社ではそうでない例もあるようよ。はい、他に質問がないなら……」
 そう言って、沙耶香が話を終えようとすると、真ん前に座っている女の子が手をあげた。〝そうにゃん〟のトートバッグを持ってくれている。相鉄ファンの子のようだ。
「立花さんは女性なのに、どうして電車の運転士になったんですか?」
 沙耶香は、またこの質問か、と思ったが、その女の子が大きな瞳を輝かせて沙耶香を凝視していたので、真摯な気持ちで答えた。
「子供の頃から電車の運転が好きだったからよ。歌好きの人が歌手になるのと同じね」
「実は私も、大人になったら電車の運転士になりたいと思っているんです」
「あなたも電車の運転が好きだから?」
「そうですけど、私は単に電車の運転士になるだけではなく、〝世界一の運転士〟になりたいんです」
「えっ、〝世界一の運転士〟ですって?」
 沙耶香はその言葉に深い感銘を受けた。と同時に、自分がこれからめざすべきものが何であるかを、その子に教えられた気がした。
 終わったあと、付き添いの先生が沙耶香のところに来て言った。
「本日は貴重なお話をありがとうございました。実は今日の見学会は、元校長の君嶋先生に勧められてやることにしたんです」
「君嶋さんって校長先生だったんですか」
「はい、君嶋先生に、是非、立花さんに話してもらえと言われまして」
「そうだったんですか」沙耶香の目に涙が滲んだ。「君嶋さんに、おかげで元気を取り戻すことができました、とお伝えください」

 夕方、沙耶香が見学会の講師の仕事を終え、マホロバに行こうと思い、相鉄本線を跨いでいる橋を上っていくと、源田が橋の上で、車両センターに並ぶ電車を寂しげに眺めていた。
 沙耶香が小さく会釈して通り過ぎようとすると、源田が笑顔で話しかけてきた。
「立花君、僕は今月末で定年退職するから」
「それは、それは、長い間お疲れさまでした」
「君はよく頑張っているね」
 源田の態度も表情もいつもとまったく違い、しかも初めて優しい言葉をかけられて、沙耶香が固まっていると、源田が続けて言った。
「今まで黙っていたけど、実は、僕は君のお父さんと、鉄道学校の同級生だったんだ」
「そうなんですか。父からも何も聞いていなかったので、全然存じませんでした」
「君が会社に入ったときに、君のお父さんから、そのうち娘は運転士に志願するはずからよろしく頼むと言われていたんだ。でも、君が甘えるといけないから、自分との関係は内緒にして、びしびしとしごいてくれとお父さんに頼まれていたんだよ」
「そうだったんですか」沙耶香は茫然とした。
「指導運転士や助役は、みんな君は優秀だと言っていたから安心していたよ」
「でも私、自分の運転に自信が持てなくなってしまって……」
「オーバーランのことでまだ悩んでいるのか? 一度や二度の失敗を気にすることはないさ。みんな失敗して成長していくんだから。とにかく早く相鉄一の運転士になってくれ」
「源田さん、私、今日あった小学生の見学会で、女の子が〝世界一の運転士〟になりたいと言ったのを聞いて、感動したんです」
「〝世界一の運転士〟か。いいことを言うな」
「源田さんは、〝世界一の運転士〟ってどういうことだと思われますか?」
「そうだな……運転士になったばかりの頃は、技術を磨いて精密機械のように正確な運転ができるようになりたいと思っていたけど、何年かして気づいたんだ。大切なことは愛だと」
「えっ、愛ですか?」
 源田の意外な答えに、沙耶香は唖然とした。
「そう、愛には三つあってね。まず、第一の愛は、電車を愛すること。電車は騎手にとっての馬と同じで、上手く乗りこなすためには、電車のことを知り、愛することだ」
 源田は金網のフェンス越しに車両センターを見下ろし、そこに並ぶ電車を指さした。
「あそこに停まっている7000系は、僕が入社した年に新車で導入されたんだ。今でも一番好きな車両だけど、もうすぐ廃車になってしまうようだな」
「20000系と入れ替えるみたいですね」
 源田は黙ったまま、しばらく愛おしげに電車を眺めてから、話を続けた。
「第二の愛は、乗客を愛すること。君もそうだけど、鉄道会社はどこも、駅務員からスタートして車掌をやってから運転士になるよね。それはどうしてだか分かるか?」
「はい、社員全員に現場を知らせるためです」
「それもあるけど、客に接したことがない運転士をつくらないためでもあるんだよ。運転士は電車という機械を相手に運転だけしていればいいと勘違いしないようにな」
「お客様を常に意識しろということですね」
「そう。人を乗せるんだから、安心と安全はもとより、感動を与えなくてはならないんだ」
「えっ、感動ですか?」
「電車の運転って、楽器の演奏と同じかも知れないな。技術だけでなく心が通わないと」
「心が通う……なるほど」
「第三の愛は、このまちを愛することだ。鉄道会社の使命は、運送事業を通じて、より豊かなまちをつくること、そしてまちを発展させることだろう。それを、運転士も常に心掛けないといけないんだよ。運転士の舞台は運転台ではなく、このまち全体だからな。まず、自分はこのまちの一員であるという自覚を持つことだ。そして、このまちを好きになること、そのために、このまちをよく知ることだ」
「だから、源田さんはお休みの日に沿線を散歩されているんですね。そうして、住人の生活を観るんでしょ」
「君は僕のことをよく知っているんだね」
「だって、源田さんは運転士の憧れですから」
「僕が憧れだって? 冗談じゃないよ」
 そう言って、源田は照れ笑いした。
「源田さんはこれからどうされるんですか?」
「しばらくゆっくりしてから、インドネシアに行って、運転士指導のボランティアをしようと思っているんだ。インドネシアの鉄道は、日本の鉄道の中古車両をたくさん使っているんだよ。だから、役に立てると思ってね」
「それで、源田さんは英会話のレッスンを受けていたんですね」
「なんだ、そんなことも知っていたのかい。まあ、英会話はあまり上達していないけど、運転指導ぐらいはできるだろうよ」
 源田は持っていた鞄から分厚いノートを取り出し、無言で沙耶香の前に差し出した。
「こ、これが伝説の〝源田ノート〟ですか!」
 沙耶香はノートを手に取り、早速開けた。そこには、車両別の特徴や運転上の注意点が、細かい文字で、びっしりと綴られていた。
「源田さん、もしよかったら、これ、コピーさせてもらえませんか?」
「コピー不可だよ」源田は冷たい口調で言う。
「やっぱりダメですか」沙耶香は肩を落とす。
「いや、コピー不要だ。それ、君にあげるよ。もう僕にはいらないから。もうすぐ20000系の試乗があるだろうし、JRや東急との相互乗入れが実現すると、他社の車両も運転しなければならなくなるだろうから、それらの車両については、君が書き足してくれ」
 源田は優しい笑顔を浮かべて遠くに目をやった。沙耶香もそれにつられてその方向を見ると、車両センターの向こうに、茜色の夕焼けが広がっていた。

 沙耶香は、「出発進行!」と指差喚呼して、マスコンを前方に倒した。電車はゴトゴトと音をたててポイントを通過して加速していく。
 対向列車とすれ違いざまに、運転席で緊張した面持ちで運転している耕太の姿が見えた。
 沙耶香は、今日は耕太と同じシフトのはずだから、乗務が終わったらマホロバに立ち寄って、一緒に晩御飯を食べに行こうと思った。
 ヨコハマネイビーブルーの列車は、朝の爽やかな陽光を受けて、紅と黄に色づき始めたまちを、風を切って走っていく。
(了)

著者

島岡吉郎