「九月の蜃気楼」月夜のひよこ

 九月になって秋の風が心地よかった。この前までのジトッとした空気は嘘のようだ。秋の空はどこまでも澄んでいて、心のわだかまりを押し流してくれるようだ。奥行きある雲の向こうから、夕日が歩道橋の柵を健太に投影した。そして柵の間からキラキラと輝いてみせた。さらに健太の影を反対側の柵に投影した。そして東の空に白い月を浮かばせた。光と影の狭間で妖精が笑っていた。

 ここは相鉄線三ツ境駅。健太はこの歩道橋から山を見るのが好きだった。歩道橋の下には線路が少し下りながらずうっと西の方に伸びていて、瀬谷の方向の街並みが見渡せる。空と同様に奥行きを感じさせる風景だった。夏の間はモヤモヤしていて煩雑さしか感じなかったのに不思議なものだ。分子一つ一つが、きちっと整列して、清んだ秋を演出している。全てはそんなものかも知れないなと健太は思った。結果は一か〇になってしまうけど個別にはどっちに転んでもおかしくない。ただ一旦どちらかに転んだら多くは転んだ方が必然だったように振る舞う。

 健太は三四歳独身。IT企業でプログラマーとして働いている。入社して十年経ち、重要プロジェクトのまとめ役を任される事も多く休日も忙しく働いている。今日は日曜日。たまに緊急コールが入る事も有るが一週間のうち唯一休息が認められている日だ。六日分の疲れを回復する為、昼過ぎまで寝ていていた。なのでボケーっとしている。

 ただ、健太は少し急いでいた。裕子との待ち合わせに遅れそうだったからだ。待ち合わせは横浜駅 17:00。多分ショッピングに付き合わされるのだろう。ゴミゴミした所は嫌いだが致し方ない。裕子は三つ年下の同じ会社の後輩で、同じくプログラマー。少し背が高くスラッとしていて少し気の強そうな感じの子だ。一年くらい前から付き合い始めたが、健太には踏み切れないところがあった。

 健太は福岡出身。裕子は首都圏のお嬢様だった。歩道橋を少し急ぎめに通り過ぎ、改札あたりから小走りしたおかげで、16:38発の急行横浜行きに滑り込んだ。これなら約束に間に合う。ラッキーな事にネイビーの新型車両だった。車内灯が柔らかい感じで好きだった。車内は混んでいるわけでもなく、空いているわけでもなかった。ドア脇に立ってぼーっと外を眺めていた。ふと思い出して、裕子にラインを送る。「今電車乗った。」とすぐに、「了解。」と返って来た。

 多く人がスマホの画面を覗き込んでいる。健太は仕事でディスプレイ見る時間が長いせいかあまりスマホ弄ろうとはしなかった。電車に乗っている時くらいは、遠くの景色を見てくつろいでいたかった。ラインは非通知にしていて、同僚や裕子からもう少し早くリプライするように言われている。ただラインに支配されるのが嫌だった。緊急なら電話してくれるように言ってある。先程は最低限の対応だった。ただ、周りもだいぶ慣れてそんなに多くを期待しなくなっていた。鶴ヶ峰を超えると段々と山から下りていく。街が開けていたり、人家の少ない山の中を走ったりとコロコロ景色が変わっていく。ここでも空は高く、秋の夕暮れは澄んでいて気持ちよかった。

 横浜駅の改札は人通りが激しい。出た所で白っぽいカジュアルな服装の裕子を見つけた。「待った?」約束時刻前だったが一応聞いてみた。「遅~い!五分前行動が、基本でしょ。」と予想通りの答え。『そういう奴が、会社を駄目にする。』という言葉を飲み込んで代わりに「そーだっけ?」という言葉を吐き出した。「そーだよ。じゃあ行くよ。」と間髪入れずに歩き始めるのだった。

 今日はかなり歩かされた。彼女の同僚の千恵の結婚祝いのプレゼントにトイレカバーを選び、同じく同僚の久美の誕生会に持って行く洋菓子を選び、秋物のセーターを選んだ。「どれが、いいかなぁ?」どこの店でも同じ質問から始まるのだった。『どれでも、、、』という言葉を飲み込んで、代わりに「うーん、そうだなぁ、、、」と言う言葉を吐き出した。その後の質問が何回続くかは運次第だった。

 果てしなく続くかと思われた繰り返しの中でも終わりは突然やってくる。「お腹空いた。そろそろ御飯食べようか?」と待ち望んでいた天からの言葉が聞こえる。「そうだね。今日はどこにしようか?」ここで食いつくと現実は蜃気楼となって消えてしまう。犬程度の忍耐力は必要だ。「焼肉なんてどうかな」「いいよ」と言う事で、横浜地下街の焼肉屋に行く。第一候補決定でよかった。コンティンジェンシーは「洋食屋」「寿司」の2つだった。服装からすると洋食屋かとも思えたが勘だった。

 ビールで乾杯して、焼肉が胃を満たしていく。色々話したがあまり覚えていない。上司の悪口とか、辞めていった新人に対する愚痴とか、全てがそこにあったように進んでいく。少し長居したので今日は一件で帰る事にした。裕子にお別れを言って終電近くの電車で帰る。

 席に座ってぼーっと外を眺めていた時、それは起きた。確か鶴ヶ峰の駅を出発しようとしていた時だった。階段に向かう沢山の人の群れにそれを見つけた。間違いなく、里美だった。五年前と全然変わってなかった。そう、健太は彼女の事が忘れられなかったのだ。 彼女と出会ったのは友人の結婚式の二次会での事だ。健太より二つ年下の同じ九州出身で何回か話すうちにその少し引いた態度に次第に惹かれていった。彼女の方も彼を意識している感じがした。彼女に交際を申し込もうかとも思ったが、何かが健太を止まらせた。言い訳になるが、その頃の自分には周りをみている余裕というか余力が無かったのかも知れない。生きる事に精一杯だった気がする。それとも彼女のちょっとした態度から躊躇っていたのかも知れない。

 ただ、一年くらいたった時、急に友人から家の事情で実家の大分に帰ったらしいと言う事を聞いた。それを聞いて自分の不甲斐なさを悔やんだ。その後悔はこの五年、彼を苦しめてきた。そんな彼女が急に自分の前に戻って来てくれたのだ。まさか?また、こっちに帰ってきたのか?咄嗟に立ち上がって降りようとしたが、ドアが閉まってしまった。彼女も気づいてこちらを見ているようだった。あのシルエット、あの少し短めの髪を後ろで縛った感じ。彼女に違いない。加速していく電車の中で確信した。

 「待ってるよ」そう言えば彼女から聞いた最後の言葉はこれだった。その時気づくべきだったのだろう。普通の会話にある言葉だったので特別な意味を感じ取れなかったのだ。二俣川で降りて、引き返す。電車は時の流れを逆走していた。今、健太は確信している。彼女が鶴ヶ峰のホームで待ってくれていると。

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月夜のひよこ