「二俣川アドベンチャー 2nd」小島 ぽぺ

 知らないところではないにしても、今の私にはわからないところになっているので、待ち合わせに間に合う時間よりも前に着くよう動く。迷って時間に遅れないように。
 「100年以上工事の終わらない駅」なんてネット上では揶揄される、ここは横浜駅。しかも二五年前近くに、私は横浜を離れたきりときている。さぞかし駅周辺は変わっていて駅ビル内の移動にも難渋すると思い余裕をもって来たが、JRから乗り換えるための相鉄線の横浜駅へのルートは大きく変わっておらず、少々拍子抜けした。もっともジョイナスのテナントの並びなどは入れ替わり見知ったような気はしないが。
 しかし、それでも気負い過ぎて、まだ十分に時間があるのにも関わらず、私は勢いのあまり、相鉄横浜駅の改札をくぐってしまった。今から待ち合わせ場所の二俣川駅に行ったのでは、急行で一駅なのですぐ着いてしまい、向うで時間を潰さなくてはいけない。第一、二俣川は、実質降りたことがないので、今の横浜以上に土地勘はない。また、時間があると言っても、喫茶店やファミレスを探して駅前をうろうろする程の暇はない。
 そこで、昼飯も食っていなかったので、私は、駅構内にある立ち食いうどん屋に立ち寄ることにした。

 入口の食券機でチケットを買おうとした。そのときに私のスマートフォンがふるえた。彼からだ。メールでもいいのに。何とも間が悪い。私は口元のマスクを下にずらすと、スマートフォンを懐から取り出した。
 「もしもし青井ですが。」
 「あ、本日はお世話になります。神田電設の菅野です。二俣川駅に一四時のお待ち合わせでよかったんですよね?」
 「ええ。今横浜です。いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。うちの木田から聞きましてね。すみません、何かお知り合いの方のテナントをご紹介いただけると聞きまして。またお世話になります。…で、ケンジくん?元気?ご無沙汰してるね。」
 うちの会社は、今都内でカフェを運営している。最初はとんとんだったが、ここ数年、経営が安定してきた。そこで、横浜か埼玉かで二号店を出そうと考えた。一号店は現在順調といえども、店舗展開などはじめて。中小企業のうちにとっては挑戦である。なるべく商売上有利となるテナントを見つけたいといろいろ当たっていた。すると、部下の木田が別の案件で一号店の電気工事でお世話になった神田電設の菅野さんと話しをしており、その話しも軽くしたところ、神田電設さんの代表の方のお知り合いで横浜にビルオーナーがいらっしゃり、その方が頃合いの物件を持っていらっしゃるとのことで、神田電設さんにそれをご紹介いただけることになったのだ。そこで、本日二俣川へ下見に行き、そのオーナーさんとお会いするのである。
 「もう。たいへん。ご無沙汰してますね。もう三〇年前ですか?おにいちゃん家にはいつもテレビゲームやりに行って、晩ごはんまでごちそうになってましたよね?その節『も』大変お世話になりました。」
 彼は、先ほどの営業口調と変わって、屈託のない笑い声を交えながらそう返してきた。もうお互い四〇代だから野太いおっさん声のわけだが、その茶目っ気ある返答が、ちょっとあの頃の「ケンジくん」で、懐かしく感じる。
 しかし、最初木田から聞いたときは驚いた。あの「神田電設の菅野さん」とは、なんと、私が西横浜のマンションに家族で住んでいたとき、同じマンションの同じ棟に住んでいた、あの「菅野のケンジくん」だったのだ。私たち家族は小学一年生から六年生の間、横浜市西区藤棚町のマンションに住んでいた。そのとき同じフロアの別の部屋に住んでいたのがケンジくんだった。偶然の出会いである。
 私もケンジくんも一人っ子で、よくいっしょに遊んでいた。彼は私の三歳下なのだが、あまりにいつも二人でいるので、周りの大人から「あら、兄弟?」なんて言われるのもしばしば。公園などで、小さいケンジくんが「おにいちゃん、おにいちゃん」と呼びながら、私をよく追いかけ回していたので、そう思うのも無理もない。
 ケンジくんは一人っ子の上、両親が共働きだった。だから、夕方まで一緒に遊ぶとよく晩ごはんをうちで食べ、そして夜、仕事を終えたお母さんがケンジくんを連れて帰っていった。自分としても弟のように感じて接していた。
 しかし、私は中学に上がる頃、父が病死したことをきっかけにそこから引っ越すことになる。それ以来、ケンジくんとは会っていなかった。
 「でも驚いたなあ。あのケンジくんだったとはね。電気の配線工事とかの窓口を全て木田に任せていたから、全く気付かなかったよ。ごめんね。そのとき直接会ってたら気づいたかもしれないけど。」
 「いやぼくも木田さんから最初そちらの代表者の名刺をいただいたとき、もしかしたらって思ってたんですが。同姓同名かなあって。まさか飲食店のオーナーをやっているとも思いませんでしたし。でも、今回木田さんから『うちの社長横浜出身だから、横浜に店舗出せたら嬉しがるよ』って聞いて、あれ?横浜の人だったら、この人『おにいちゃん』じゃないかなって。で、木田さん伝てに聞いたらやっぱりって。」
 「世間は狭いね。これも縁だからよろしくね。…ただ、うーんまあ、横浜は嬉しいんだけど…。見てみないわからないしね。まあね、ご紹介いただいている手前だから、こう言うのもなんだけど…。」
 懐かしさからだろうか、取引先の、社外の相手でありこれからテナントを紹介してくれる先であるにも関わらず、つい気がゆるみ、ついで口もともゆるみで、ぶしつけに思っていたことがそのまま滑り出してしまった。
 「何です?」
 「そのう。今回うち初めて支店を展開するわけじゃない?一号店は神田電設さんにもお手伝いいただいて今軌道には乗っているけど、これはうちにとっては冒険なんだよね。」
 「新規出店が大変ってのは、わかります。…で、何か気になることがあるんですか?」
 そう促されて、ついつい本音がぽろりと。もう、出た言葉を飲み込むわけにもいかない。
 「いやあ、そのね、これは昔のよしみだから甘えて言っちゃうんだけど、あ、オーナーさんとかそちらの代表さんには内緒だよ…。これ社内でも言ったんだけど、横浜って言っても二俣川ってさ、正直集客にどうかなって思ってさ。最初、横浜って聞いて、西区とか中区とかの、そうだな、みなとみらいとか日本大通りとか、後最近また注目されている野毛とかそこら辺考えたんだけど、ほら二俣川って、横浜から急行で行く中心街から遠いところってイメージあって、集客微妙かなあって。」
 ああ、ついに言ってしまった。申し訳ない。ケンジくん。
 「ああ。わかります。ぼくらの世代の『横浜人』の感覚ってそうかもしれませんねえ。でも、ぼくも子どものときならそう感じていたかもしれないですね。」
 すると、彼は気分を害したと言った風でもなく、そうサラリと言った。
 「え?子ども?」
 「おにい…じゃなかった青井社長は、ぼくらの子どもの頃の感覚で考えているのかなあって。だって、今の横浜ご存知ないでしょ?」
 「まあ、リアルにはね。もう小学校以来離れているからね、横浜から。」
 「今、二俣川は駅前の再開発をしていて、いわば、横浜の副都心的な街なんですよ。」
 「あ、そうなの?」
 「ええ。うちも本社が戸塚ですから、二俣川近辺からは今いっぱいお仕事いただいていますよ。これからもっと成長していく街なんですよ。あそこは。だから、そこでカフェをやるのも全然アリなんじゃないかな、って。そんなことをうちの社長と話していたところなんですけどね。」
 そうなのか。うん、「子どもの頃の感覚」、ねぇ。

 私は、横須賀生まれだが、横須賀の記憶は全くない。なぜなら、生まれた直後、父と母と私は相鉄線平沼橋駅の近くのマンションに引っ越したからである。いたのは小学校上がる前までであろうか。あまり記憶にないが、ただ、母親が私をよく抱きかかえて、相鉄線が走るのをよく見せてくれたのをおぼろげに覚えている。
 平沼橋駅は、横浜を始発とした場合の最初の駅に当たるのだが、距離がほとんど離れておらず(というのは、もちろんある程度成長してから自覚したわけだが)、また直線であるため、平沼橋から見て横浜駅がはっきり見える。相鉄線が横浜駅の暗がりからにゅうっと顔を出し、続けてイモムシのような長い胴体を次々現していって、やがてその全貌を見せると(当時の相鉄線は角が丸く肌色が基調だった、そして前面上部には丸いヘッドライトが、二つ目のようについていた、それが当時持っていたユーモラスな玩具のイモムシに似ていた!)、今度はこちらに徐々に向かってきて、やがて平沼橋駅に到着する。その一部始終が見ることができた。それを、子どもの私は面白く感じたのだと思う。
 ただ、それを平沼橋のどこで見ていたのか、ホーム上か地上か橋上か、あるいは踏切の近くだろうか、そこまで覚えていないのだが、ともかくそんな思い出を大人になってからふと母に話したことがある。すると「よく覚えているわね、あんたがむずがるといつも電車を見せてあやしていたのよ、泣き止んで機嫌もよくなるから。」などと言っていたので、おそらくそれを当時見ていたのは間違いないのだろう。
 しかし、小学校に上がる頃、今度は西横浜駅の近くの藤棚町のマンションに引っ越す。平沼橋駅から西横浜駅はたった一駅(これも駅間距離がそんなにない)なのだが、なぜそんな近い距離で引越しをしたのかわからない。理由も聞いたことはない。ただ、父は、その次の天王町駅の近くに飲食店を持っており経営していたため、その近くに住むことを考えていたのだろうと思う。
 父が飲食店を経営していて、結局今の自分も飲食店を経営・運営する会社を立ち上げているというのは、全く血は争えないなと思うのだが、それはまた別の話として、小学生時代は、そのマンションで過ごしたのである。ケンジくんと会ったのもこのときだ。
 さて、この頃の記憶は、物心ついていたので比較的はっきりしている。子どもの頃というのは、大人と異なり、誰しも「自分の生活圏=世界の全て」のような感覚で周りの環境を見ていると思うのだが、さしずめ当時の私の世界の全ては、相鉄線の横浜駅から天王町駅までであった、と言える。
 まず平沼橋は、言わずもがな生まれたところであり以前住んでいた場所であるが、では横浜は、というと、これは学校があるところなのである。私は、横浜にある私立小学校に通っていたので、藤棚町近くの小学校ではない。そして西横浜は、当時の私にとって今住んでいるところの最寄り駅であり、ここから横浜にある小学校に通っていたわけであるからまさにこの世界の中心である。さらに天王町は父が働いているところだ。したがって、子どもの頃の私にとっての「世界」は、相鉄線の横浜駅から天王町駅の区間内なのだ。
 しかもこれは、漫然と頭の中で考えていたことではない。私の実感に根差していた世界観であった。
 その理由の第一は、「相鉄線の線路」にある。
 当時西横浜駅は橋上に駅舎があるから、ホームから上がり改札口に出る。で、藤棚町方面と天王町方面に分かれるのだが、いずれにしても線路をまたぐ歩道橋を渡り、階段で地上に下りるようになっている。だから、その橋の上から下を走る電車がよく見える。
 比較的まっすぐに線路が続いており周りに視界を邪魔するものが少ないため、上りも下りも遠くまでよく見えた。子どもにはなかなか興奮する光景で、通学や帰宅時によくそこから、通る電車を眺めていた。
 しかし、その醍醐味は相鉄線ではない。JRなのである。JRの東海道本線などが複数本走っていたが、それは、横浜駅から西横浜駅まで区間、相鉄線とまっすぐ並走する(実際は平沼橋から西横浜でカーブしている)かたちをとる。西横浜から先もさらにまっすぐ、保土ヶ谷駅に向かって行く。その様を、西横浜駅の歩道橋の上からしっかり長く見ることができる。たとえば、横浜から来た電車なら、横浜方面から保土ヶ谷方面に向かって、いくつもの車両を長く連ねて、近づき、そして自分の足元を通り、はるか彼方の、「広大無辺な地(視界をさえぎるものがないためそう感じた)」へ向かって走っていく壮観な景色を、橋の上では十分堪能できた。
 一方、相鉄線だが、たしかに西横浜まではJRと並んでほぼ直進している。だが、西横浜から天王町へは大きくカーブする。つまり、横浜から出発したとすると、天王町へは、大きく右にカーブして、さらにまっすぐ進むJRの複数の線と分かれるのだ。これを先の西横浜駅の歩道橋で見ていると、相鉄線はそのカーブから残念ながら見えなくなる。ずっと走るのを見続けられるJRとは対照的に、下りの相鉄線は西横浜駅を出ると、カーブを曲がっていき、長い車両の列がすうっと見えなくなり、やがて吸い込まれ、消えるのである。
 つまり、この相鉄線の線路の有り様が、そのまま当時の私の世界に投影されていた。横浜駅と平沼橋駅はお互いまっすぐに見える程近く、また平沼橋駅から西横浜駅も、やはりそんなに離れていない。何より西横浜と横浜の間は通学で行き来する。だが橋の上からは、天王町へと向かう列車は「見えなくなる」のだ。それは、地球のかたちを知らなかった古代人が「水平線の果ては滝が落ちていて、そこから先の世界はない」という想像する素朴な感覚に似ている。何せそのカーブから、走っている電車は消えてなくなるのだから、西横浜の先に続く世界を実感しづらかったのだろう。
 もちろんいくら子供でも、本気でそんなことを思いこんでいたわけではない。現に、逆の横浜へ向かう電車は、そのカーブから電車が顔を覗かせて出現し西横浜に到着するから、その先にも「世界」は広がっているはずだし、第一、天王町では父が仕事しているから、その先には「世界」は確実にあるはずだ、とも思っている。だから「世界がない」とまでは言わない。がしかしそれでもそのカーブの先に対する「異世界」感は、私の中で形成されてしまった。「(世界が続くとしても)西横浜駅からあっちは別の知らない世界」という気持ちがあった。
 こう思うには、第二の理由になると思うが、「小学校に行くとき、毎日父と一緒に西横浜駅まで向かっていたから」というのも後押しをしている。
 毎朝、私と父は共に家を出た。もちろん私は学校に行くため、父は職場に向かうため、である。この間父は、私にいろいろと面白い話をしながら、私を駅まで送ってくれるのだがしかし、私は西横浜駅で電車に乗り横浜に向かい、一方父はそこから歩いて天王町に向かう(これは後日母に聞いたのだが、父は健康のために、さらに西横浜駅から天王町方面まで歩いていたそうだ)。なので、父とは毎日西横浜駅の改札で別れることとなる。このときの、大好きな楽しい父と別れる、そんなさみしく空漠とした子どもの心持が、「西横浜から先の世界は、自分とは縁のない世界(あるいは西横浜から向うには世界がない)」という考えを確固たるものにした、ように思う。現に、当時私は父の職場にも行ったことはないし、働いている姿も見ていない。つまり天王町に行ったことがないのだ。
 こうしたことで、私にとって、天王町から先の世界は「地の果て」だったというわけだ。
 そう言えば、これにまつわる極めつけのエピソードがある。

 先ほども言ったように、私は西横浜駅と横浜駅の間を、通学で行き来しているわけだが、西横浜駅は各駅停車しか止まらない。だから、普段各停しか乗らないし、急行に乗る必要はない。急行は、横浜駅から天王町よりさらにさらに先の二俣川駅(横浜から数え九駅目)へ一足飛びに行ってしまい、平沼橋駅から鶴ヶ峰駅(二俣川の一つ手前の駅)まで全く止まらない。当然、西横浜駅も止まらない。
 しかし一度、何を間違えたのか、一度だけ急行に乗ってしまったことがあった。私の記憶では小学二年のときだ。なぜそんな間違いしたのか全くわからないが、おそらく下校中一人遊びに夢中になり、遊び以外のことが意識を向けられず、横浜駅のホームで今まさに出ようとする急行に誤って飛び乗ったのではないか、と想像している。
 一度、私は家に帰宅したらランドセルがなかったということがあった。母にランドセルをどうしたのかと問い詰められ、どこかへ置き忘れたのではないかと考えてみたが、全く思い出せない。そのとき母は学校に忘れたのでは、と即学校に連絡をし、その時間校舎に残っていた先生に探してもらったが、どこにもない。しかし、その夕方、警察からランドセルを預かっているという連絡が家に入った。ランドセルには名前と住所が書いてあり、また生徒手帳が入っていて、そこには自宅の電話番号が緊急連絡先として書いてあったため、家に連絡が来たのだ。母は何か事件に巻き込まれたのか気をやきもきしたが、何のことはない。そのランドセルは、学校の近くの公園のベンチにあった。それを警察から聞き、それをまた母から聞くわけだが、それで私ははたと思い出した。下校途中、その公園で変わったカエルを見つけ、友だちとそれを気味悪がりながらつつくなどして遊んでいたとき、ランドセルをベンチに置いて、それきり忘れたのである。一つのことに集中するとそれだけに意識が向き、そのこと以外には気が散漫になる子であった。ちなみに「同様の手口」で、私は定期券や書道箱も忘れたりなくしたりしている。
 その話はこの辺にしておくとして、そんな子だから、大方そのようだったと思うが、ともかくも、私はそのとき急行に乗ってしまったのである。
 そんな私だが、さすがに平沼橋駅を通過したところで間違いに気が付いた。しかし時は既に遅し。電車は平沼橋駅に目もくれず通り過ぎていく。そして、案の定というか当然というか西横浜駅も非情に通過。八歳の私は、ここに及び涙目になっていた。さらに天王町を越えた段階で、家に帰れない悲しみはもちろんだが、自分の乗っている電車が「西横浜駅・天王町駅の先」という「想像を絶した遠くにある最果ての地」へ向かっている恐怖が徐々に心を支配してきた。電車を止めて欲しいが止まるわけはなく、今にも泣きそうな、このいたいけな子どもを気にもとめず、すんと素知らぬ顔をして、この急行電車は二俣川駅へ向かっていったのである。
 やがて、急行は二俣川駅へ到着。そこでようやく待ちわびたドアは、開け放たれた。阻んでいた重苦しい扉がようやくゆっくりと左右に分かれ開くと、思った通り、そこには全く見たこともない風景があり、駅看板には大きく「二俣川」とあった。冬の夕方だったと思う。肌寒く薄暗い、辺境の地…。そうしてまた改めて、悲しみやらさみしさやら怖さやらを随時更新され、私はついにせきを切って泣きはじめた。
 駅のホームに大声で泣いている子どもが一人。この光景に周りの大人が、「尋常でない何か」を感ずるのは察して余りある。たちまち私は男女数名の大人に取り囲まれ、質問攻めに会った。どうしたの?どこから来たの?何で泣いているの?なんてことを聞かれたのだと思うが、私が覚えているのは、このときしきりに「お金がない」とだけ泣きじゃくりながら訴えていたことである。
 この時の心境は明確に覚えている。私の中では、この異世界が怖いのはもちろんだが、(だからこそ)この時「遠く離れた異国」からすぐに脱出しなければならないと考えていた。ただそれに当たり、私の定期は「横浜駅―西横浜駅」間のものであるため(二俣川に着いた以上)、西横浜から二俣川までの運賃を支払わねばならず、かつ二俣川から西横浜までもどる運賃をさらに支払わなければならないはずだ。しかし、(子どもなので)そんな「大金」はお財布になくどうしよう、と泣いているのだ。
 大人ならすぐさま、改札口を出ず、逆方面の各停のホームへ行って戻れば追加料金もなく帰れると考えるが、そこは子どもだからそう及ばない。言い忘れたが、私は、遊びに夢中になりいろんなことに対する気もそぞろになる「子どもらしい子ども」である一方で、「間違った方向に大人びていた変な子ども」でもあった。だから、余計なお金の心配を最初にしたのだった。
 しかし、「お金がない」と連呼して泣く子どもが、もし自分の目の前にいたらどう思うであろうか。この子は、お金を落として家に帰れないのだろうか。あるいは、誰か悪い人に脅かされてお金をとられたのであろうか。そう思わないだろうか。
 周りの大人は果たしてそう思った。しかも興奮して泣いている子どもである。理路整然と「今自分はこういう状態で、それについてこう考えているから嘆いている」なんて説明できるはずもなく、ただ「お金がない」と号泣。お金をとられたかなくしたかしたと思っている周りの数名の大人は、なだめつすかしつ私を駅の事務所まで引っ張って行った。
 事務所に着くや、今度は駅員のおじさんからお金についていろいろ聞かれた。だが他の大人と同様の想定をして聞いてくるので、「そういうことじゃない」と否定し続けた。実際そういうことではないが、「お金がない」と泣いていたらそう思われるに決まっている。まあ、子どもの悲しみの本質にどうにもこうにも辿り着けず閉口する大人、というのはよく見る光景でもあろう。
 ともかく、この事務所が外と違い暖かかったのがよかったのだと思う(前に電気ストーブが暖かかった)。それで、多少気も落ち着いてきて、私はようやく今の自分の「悲惨な境遇」を素直に話すことができたようだ。定期券を見せ「家に帰れない(から困っている)」というようなことを駅員のおじさんにようやく伝えられた。
 すると、その駅員さんは、その定期で帰れるしお金はかからないことを優しく告げ、私を安心させた上で「おうちに連絡しよう」と言い、私に家に電話をかけさせ、私を母と会話させることでその安心をより強固なものにさせた。さらに、私を横浜方面の各停が来るホームまで連れていき、「次の電車で西横浜まで帰れるよ」と言った。私はこうして、知らない異邦からの帰還を果たしたのである。
 このことは幼い私の中で、未知の異境にたどり着いたものの無事生還した経験として刻み込まれた。二俣川の人たちや駅員さんに散々お世話になっているにも関わらずこんなことを言うのは誠に申し訳ないのだが、子どもの私の中では、これ以降「二俣川は地の果てにある秘境」というイメージがどうにも確定してしまった。もちろん大人になってからもそんなことを思っていないがしかし、「雀百まで」ではないがそれでも頭の片隅に、そんな感覚がしぶとく巣食っていたのかもしれないな。なんて。

 私の他愛もない話しをしばらく静かに聞いていたケンジくんの、落ち着いたビジネス口調が、急速に私をこの時間とこの空間に呼び戻す。
 「…で、二俣川駅に一四時ですよね。前に仕事が入っていますが間に合いますので。着いたら再度ご連絡いただけますか?」
 何を話しているのだろう?
 私は急に恥ずかしくなり、あご下にあるマスクを無造作に引き上げた。
 三年前の高校の同窓会の時に、授業中でもどこでも問わずふざけ合っていた悪友と二〇年振りに再会したとき、つい高校時の「ノリ」でお茶らけてしまったあのときの、その友だちの少し引いた表情が脳裏によみがえった。
 「…え、ああ。はい。わかりました。今横浜なので間に合います。」
 私は、余所行きの声でそう取り繕った。
 「でも、子どもの頃と変わらないですね。そう言えば、あの頃もおにいちゃんはよくいろいろと僕に話しをしてくれた。」
 「ん。ああ、話しが好きで止らなくなっちゃうんだよね。昔から。うちの母親にはよく『この子は口から先に生まれて』なんて言われてね。今もそうだけど…。」
 そう自嘲気味に話しながら私は、口元のマスクの居心地が悪いため、ちょうど具合のいいところに持っていこうと何度も左手でマスクをいじっていた。でも利き手の右手にスマホがあるものだから、どうにもいい位置に定まらずにいる。
 「何かすみませんね。いろいろお忙しいときに。余計な話を。」
 そうして私は、早口で言葉をたたみかけ、何かを打ち消して塗りかえるように、ケンジくんに詫びた。
 「いや、いいんですよ。それよりさっきの話ですが。」
 「さっきの?」
 「ええ。いやうちの父なんかもよく言うんですけど、横浜の中心って西区や中区当たりでそれ以外田舎って思っているんですよね、古い横浜の人間は。だから、ぼくらの子どもの時代、二十年くらい前なら、そういう感覚だったろうなと。ぼくら自身も。でも、今実際旭区の方とかが再開発されてきて活性化してるじゃないですか。…っていう一般的な感覚の話で。さっきの話は。」
 「…ああ、一般的な、ね。うん。」
 ひるがえって、さっき私の話しはまったく「一般的」ではない。私は恐縮した。
 「まあ、いいじゃないすか。また『冒険』で。」
 「え?」
 「さっき言ってたじゃないですか?うちの会社にとってはこの出店が冒険だって。その物件は『スケルトン貸し』みたいですよ。ですから、また電気工事とかはご用命いただければ。」
 「うん。しっかりしてるなあ。」
 ケンジくんは電話の向こうで笑っていた。
 「今度は本当の冒険だよね。じゃ、また後で。」
 受け合って、私もマスクの下で静かに笑った。

 さて、「新たな冒険」の前に、腹ごしらえしておくか。
 今度の冒険はすぐに帰るわけにいかないから。
 まずは、うどん屋に入り直すことにした。

著者

小島 ぽぺ