「五分が変わる帰り道」涼風弦音

「あぁ! あと五分!」
 アパートから緑園都市駅までの坂を駆け下りる。いつもだったら、あと数センチ高いヒールを履くけれど、今日はそうも言っていられない。西洋風の綺麗な住宅街をパンプスで一気に下って、改札を通る。階段を一段飛ばしで登った時、ぷしゅという切ない音がして目の前で電車の扉が閉じた。
「……間に、合わな……かった」
 肩で息をしながら、「各停 横浜」と書かれた群青色の電車を見送る。電光掲示板で時間を確認すれば、次の電車まで十分はあった。集合時間ぴったりに、目的の和田町駅に着きそうだ。
 大学一年、桜の季節にフェリスの正門前で手渡された一枚の紙。それは部活動勧誘のチラシだった。いざ、入部しようとすればそれは自分の大学ではなくて、いわゆるインカレサークルだった。だから、こうして週に一回、電車に揺られて横浜国立大学まで足を運ぶ。
 そして、今日は部活の後輩と初顔合わせをする日だった。先輩はみんな私に優しいし、しっかりしている人達ばかりだ。自分もそうならないといけないのに、初顔合わせで遅刻するなんて、正直不安な将来しか見えない。
「ちゃんとした先輩、なれるかなぁ」
ぼそりと嘆くように息を吐く。駅近くのアパートを借りている私は「駅近だから、あと五分メイク出来る」と余裕ぶってしまい、いつの間にか部屋を出なくてはいけない時間を過ぎてしまった。
 どうせ電車を一本逃すなら、高いヒールにしてくればよかったと、脚を上げてパンプスを揺らした。いつもより数センチ低い視界は何となく落ち着かない。何度目かの溜息をついた時、軽快な音楽が流れて銀色にオレンジと青のラインが入った電車が来た。今度は落ち着いて車両に乗り、空いていた椅子に座る。
ガタン、ガタン
規則正しい車輪の音を聞きながら、乗り換えアプリの時間を何度も確認する。
『次は、二俣川、二俣川。急行横浜行きの待ち合わせを致します』
 車内アナウンスにふと外を見れば、隣の車両から人が降りてきた。隣で急行電車が発車したのに、私が乗った鉄の箱はいつまで経っても動かない。
早く、早く!
電車待ち合わせは五分程度。たったの三百秒。それでも遅刻のかかっている私にとって、この何もない時間は気持ちを焦らせる。時計の秒針を見つめていると、駅員の声と共に扉が閉じた。外の景色が数秒ごとに変わっていく。実際よりもずっとずっと長い五分だった。

   ***

 その後、和田町駅に着いて、私はすぐに予約していたお店まで走った。和田町駅の前は少し懐かしい商店街になっている。お店が多いわけではないけれど、打ち上げなどに使われることが多く、美味しいお店が揃っている。着いたお店は商店街のお好み焼き屋だった。
「遅れてごめんなさい!」
「おー、桜井はこっちね」
先輩たちに謝罪の言葉を言いながら、通されたテーブルには知らない男性がいた。
「では、全員集まったところで。新入生を歓迎して! 乾杯!」
「乾杯!!」
部長の声に合わせて、グラスを上げた。店内に軽やかな音が鳴って、鉄板がじゅうじゅうとお腹を刺激させる。目の前に座った男性は、無表情でお好み焼きを見つめていた。
「えっと、……初めまして。一年生だよね?」
「はい。一年の及川 翔です」
恐る恐る声を掛けると、彼はそっと頭を下げ、鉄ヘラを持ってお好み焼きを鉄板にぎゅーと押し付けた。
「二年の桜井 美緒です。これからよろしくね」
「お願いします」
一瞬こちらを見たと思えば、彼はまたすぐにお好み焼きの世話を焼き出した。人見知りなのだろうか。他のテーブルにも数人知らない顔がいる。隣を見れば、先輩は同期と話しているし……居たたまれなくなってグラスに口を付けた時だった。
「あの、青のりとかかけて大丈夫ですか」
突然、鉄板を見ていたはずの瞳が上目を遣うようにこちらに向けられる。驚いて頷けば、彼は鉄ヘラをくるりと回した。
「……もう出来るんで待っててください」
慣れた手つきをじっと見ていると、お腹が空いていると思われたのか、美味しそうに色付いたお好み焼きをタンタンと切り分けてくれた。四分の一になったそれは小皿に乗せられ、私の前に出される。
「あ、ありがとう……次は私が作るね」
「大丈夫です。俺、得意なので」
新歓のはずなのにもてなされてしまった。先輩らしさが身に着くにはまだまだ遠そうだ。「何だか近寄りがたい子」それが彼の第一印象だった。

   ***

 それからつつがなく、新歓特有の自己紹介を終えお店を出た。商店街の居酒屋からは時折楽しそうな声が聞こえて来て、まだまだ夜は長いと告げている。それに反して、もう眠くなっている自分がいた。
「俺、帰るけど相鉄組いる?」
先輩の一言に手を挙げると、他にもバラバラと手が挙がる。
「じゃあ、解散ってことで」
「お疲れ様でした!」
徒歩組や二次会組に挨拶して、駅に向かった。ふと見回してみると新入部員はいないらしい。もう少し他の後輩と話したかったと思いながら、改札を通る。湘南台方面は私だけらしく一人で電車に乗った。
 携帯にイヤフォンを繋いで、空いていた席に座る。ゆっくりと動き出した電車。さっき乗った時に見えた緑たちが、今は夜景のライトに変わって流れていく。
『次は、二俣川、二俣川』
 どうして各停って待ち合わせがあるのだろうと、理不尽なことを思いながら携帯を開けば、さっきの新歓の写真が送られてきていた。
「あ……」
指が止まったのは、及川くんの写真だった。お店では気づかなかったけれど、デザートを頬張る顔は先ほどと違い少しだけ嬉しそうだ。もしかして、甘党なのだろうか。ますます彼の性格に首を捻った。これから後輩と上手くやれるだろうか……そんな不安を抱いた待ち合わせの五分だった。

   ***

「お疲れさまでした!」
 部員たちの挨拶が練習場に響く。温くなったペットボトルをバックに仕舞って駅に向かった。「先輩」と呼ばれるようになってから、三ヶ月。後輩と話す時に緊張することも無くなった。
 大学から坂を一つ下る度に、部員の挨拶と共に人が減っていく。今日の相鉄組は私だけのはずなのに、気づけば隣には背の高い男性がいた。
「あれ? 及川君、今日は相鉄?」
「はい」
「いつも相鉄使って無かったよね?」
疑問符を浮かべながらも彼の後ろをついていけば、方向も一緒なのか同じ電車に乗り込んだ。電車が走り出して、二人でつり革を持って並ぶ。
「何か用事でもあるの?」
「これから二俣川で高校の友人と会うので」
「そっか、地元だと友達いていいね」
「桜井さんは横浜出身じゃないんですか?」
「うん、今は緑園都市駅に住んでるよ」
会話しながらも彼は重そうな瞼を擦っている。
「……今日の練習、いつもより大変でした」
「そうだよね、もし何かあったら言って? 先輩だけど、私も数か月前までは一年だったから色々と気づけるかもしれないし。それに、眠いなら気にしないで寝ていいよ」
先輩らしく気づいてあげようと思って彼に言うも、彼は首を振った。
「すみません、大丈夫です」
そうは言っても眠そうな彼に言葉を掛けるのが憚られて、沈黙が訪れた。乗客の奥に見える濃紺の空をぼんやりと見ていると、ふいに隣から小さな声が聞こえた。
「どうかした?」
見上げるように彼の顔を伺えば、いつもより頬が上がっている。既視感のあるその表情に首を傾げると、彼は好奇心を掻き立てられたように尋ねてきた。
「あのつり革……何ですか?」
「つり革? あぁ! そうにゃんのこと?」
彼の視線の先には、オレンジ色の楕円形に小さな耳の二つ付いたつり革があった。「相鉄グループ100周年」と書かれたそれを、彼はまじまじと見ている。
「『そうにゃん』って相鉄線のキャラクターですか? 『にゃん』ってことは猫ですよね? あ、あの広告にいるのが『そうにゃん』……たぬきっぽいですね」
「え? たぬき?」
そう言われれば、橙色のぽっちゃりボディーはたぬきに見えなく……いや、猫にしか見えない。
「可愛いですね、そうにゃん」
いつもより饒舌な彼は、部活の時とはまるで別人だった。
「あ、そっか」
先ほどの既視感は、彼が新歓でデザートを頬張っていた時の顔と同じものだったからだ。
「及川君って、猫も甘い物も好きなんだね」
「……何で甘い物まで」
「いや、恥ずかしがらなくていいんじゃない?」
普段は頼りがいのある彼の可愛らしい一面に、思わずくすくすと笑えば彼はそっぽを向いた。
「先輩は甘い物好きですか?」
「和田町商店街のパン屋さん、美味しいから好きだよ」
「行ったことないです」
「本当? 今度、食べに行こうか」
その後も及川家の猫の写真を見せてもらったり、オススメのお店について話していると聞き慣れた車内アナウンスが入った。
『次は、二俣川。二俣川』
電車のスピードに合わせて脚に力を入れれば、ゆっくりと電車が止まった。扉が開いた瞬間、ぞろぞろと乗客が降りていく。それなのに、彼は動こうとしなかった。さっきより密度の減った電車に、駅員の発車アナウンスが流れてきた。
「及川君? 電車、もう出ちゃうよ?」
「あ……そうですね。お疲れ様でした」
彼は、一礼してホームに降りた。閉まった扉越しに軽く手を振って、空いている席に座る。後輩の新しい一面を知った帰りの電車だった。

   ***

「今日の練習、ハード過ぎます」
「男子は大変そうだったね」
それからも時々、及川君と一緒に帰ることが増えた。何でも二俣川からバスに乗って帰宅する方が楽らしい。いつもみたいに部活であったことやスウィーツの話をしていると、いつの間にか二俣川到着のアナウンスが流れた。
「電車もバスも使わないと帰れないのって大変だね。疲れているみたいだし、早く休むんだよ」
扉が開くと彼は腕時計を確認した。早く家に帰りたいだろうに、電車待ち合わせの五分を彼はいつも待ってくれる。その姿に有り難いと思う反面、少し申し訳ない気がしたけれど、彼のお陰でこの五分が短く感じるようになっていた。
「たった五分なんですよね。この待ち合わせ時間って」
「そうだけど……。電車出発しちゃうよ?」
降りる様子の無い彼を不審に思っていると、駅員のアナウンスが流れて扉が閉まった。
「えっと……及川君? いいの?」
「今日は緑園で降ります。緑園からもバス出ているみたいなので。……いいですよね?」
有無を言わせない声にこくりと首を縦に振った。いつもならホームにいる及川くんを扉越しに見ているはずなのに、その彼が隣にいて何だか不思議な気分だ。
「及川君……どうかしたの?」
「……いえ」
彼はそれ以上、口を開こうとしない。唯一聞こえる車輪の音に少しだけ救われた気がした。
『次は、緑園都市。緑園都市』
「え……及川君!?」
彼は電光パネルで駅名を確認すると、私の手に自分の手を重ねた。突然のことに驚いて声を掛けても、聞く耳を持たずそのまま手を取って階段を降りていく。
「ちょっと、及川くん……どうしたの?」
改札を通ってバス停に着くと、彼は申し訳なさそうに目を伏せながら手を離した。夜風が二人の間をそっと通る。
「すみません。バス停まで連れて来て……、場所分かったので大丈夫です。引き留めてすみませんでした」
「ううん。あと五分でバス来るみたいだし、一緒に待つよ。いつも電車で待ってもらってるし……それに私、先輩だし……」
筋の通っていない理由ばかり口から出て、自分でも何を言っているのか分からない。そんな私を見て小さく笑う彼に、自分の頬が熱くなるのを感じた。
「先輩、意外と気づかないですよね。初めて一緒に電車乗った時、『色々気づけるかもしれない』とか言ってたのに」
「えっ……私、何か悪い事しちゃった?」
感情の読めない声に恐る恐る伺えば、彼は首を横に振った。バスがロータリーに入ってきて彼の顔を照らす。その顔は私以上に真っ赤になっていた。
「俺、東戸塚駅が最寄り駅なんです」
「そうだったんだ。……え? 東戸塚?」
今まで二俣川で降りていたから、駅よりバス停の方が自宅に近いのかと思っていた。だけど、東戸塚なら相鉄線は使わないか、使っても横浜方面だ。それなのにいつも湘南台方面に乗って、二俣川の電車待ち合わせでも扉が閉まるギリギリまで一緒にいてくれた。
「あの、……及川くん」
「気づいてくれました? たった五分のために、わざわざ遠回りする後輩の気持ち」
バスが止まる音がした。並んでいた人達がバスに乗り込んでいく。
「じゃあ、また明日大学で」
及川君はいつも通り一礼するとバスに乗った。バスがゆっくりと発進して、遠ざかっていく。
「……えぇ!!」
思わず零れた驚嘆が駅前の緑を揺らした。パニックの五分が離れがたい五分になるまで、──もう少し。

著者

涼風弦音