「人生は語れない」イロリアン紅

私が上星川に引っ越してきたのは、昨年の11月のことだった。大学1年からずっと東京に住んでおり、昨年で12年目となった。就職してからは京急線沿線で転居を繰り返していた。元々引っ越しは手間もお金もかかるため嫌いであり、どれもやむにやまれぬ事情でせざるを得なかったものばかりだった。大抵は後ろ向きの引っ越しであったが、今度ばかりは違っていた。現在居住中の自宅の水捌けが非常に悪く、棚、ベッド、靴、服など、ありとあらゆる物がカビだらけになった。ダニも活発に増殖して、夏は体のそこら中を刺された。こんなところでは子供を作ってもあっという間にアレルギーになってしまうだろうと、引っ越し先を探して最初に出てきた新築マンションが上星川に建っていた。地名は一度も聞いたことがなかったが、天の川のような単語に希望を感じ、物件の値段も手頃だったため、次の土曜日に来場予約をした。
京急で横浜まで移動し、横浜から相鉄線に乗った。各停だったが9分で到着した。これであれば、横浜を起点とした生活になるだろう。今までは蒲田のスポーツジムに通っていたが、元々がやせ形であるため、熱心にトレーニングを積んでも体型がほとんど変わらず、引っ越したら格闘技でもしてみたいと思っていたが、事前に調べたところ、横浜駅の近くに大きなジムが存在した。電車で9分の距離ならば、平日でも休日でも通うことができ、それを考えただけでもワクワクした。
上星川に着くと、懐かしい匂いがした気がした。祖父母の家の近くの匂いか、もしくは夢の中で経験した匂いか分からなかった。そもそも夢で匂いなどあったかという疑問が湧いたが、瞬時に思うということはあるに違いなかった。
マンションは駅から歩いて5分と書かれていた。ネットの画像で見た限りでは、山に対して段々に建っているような、何とも特徴的な形をしていた。駅の改札を出て出口を確認し、マンションに向かったが、想像と違い、すぐに見つかるわけではなかった。それでも少し歩くと、歩道橋の手前で何やら怪しい建物を発見した。画像とは角度がかなり違っていたが、その迫力は生で見るほうが圧倒的に凄かった。明らかに欧州の雰囲気を想起させる、ステンドグラスに似た装飾が1階ごとにランダムで施されている外観、建物を隙間なく囲むおそらく杉と思われる木、白で統一された壁。この外観で大した値段もしないというのは内部か地盤かどこかに欠陥があるに違いない、それを質したところで担当者はその手の質問には慣れているだろうからうまくはぐらかされるだろう、そうなった場合はさっさとおいとましようと決意して中に入った。
部屋に案内されてしばらく待つと、通してくれた従業員が、麦茶と菓子を持ってきた。「この辺りにはお詳しいですか?」
「いや、この駅は初めて来ました」
「そうなんですかぁ。こちら、保土ヶ谷名物のおじぞうさん最中です。今日はお1人ですか?」
ずいぶんとズケズケと聞いてくる従業員だと思いながら、「えぇ、まぁ」と適当に反応した。
「あら、そうなんですねぇ。こちら、美味しいので食べてみてくださいね!」そう言って、彼女は去っていった。ちょうど小腹も空いており、1つ手にとって食べたところ、なるほど非常に良い味をしていた。2つ目に手を伸ばそうとしたところ、担当者がやって来た。
その後3時間程度話を聞いたり内部を閲覧した結果、私はこのマンションを買うことに決めた。懸念していた値段の安さは、誰も使わないような土地をそのまま使っているから余計なコストがかからないということだった。まぁ震度7ぐらいの地震でしたら耐えられるでしょうたぶん、と笑いながら話す担当者の顔を見て安心した。帰りに、購入を決める前に行ったほうがいいと勧められた「満天の湯」を訪れた。銭湯好きの私にとって、現在居住中の近辺に幾つもある地元感丸出しの銭湯よりも遥かに広く、客層も穏やかそうなこの風呂は一見しただけで最高に思えた。東京の銭湯に比べると値段は少々高いが、満足度は間違いなくこちらのほうが上だろうと感じた。風呂はどれも混んでいたが、入れ墨をしている輩も風呂の入り方について説教をしてくる銭湯の主のような爺も居らず、若い人も多かったため気持ちよく堪能することができた。やはり治安の良さが1番、ここなら安心して暮らすことができるだろうとエステバスに浸りながらしみじみと物思いに耽った。
家に帰って夕飯を作り、友人宅から帰宅した妻に、見学後にもらったクオカード2,000円分を渡した。かなり手応えのある物件だったことを伝え、来週にモデルルーム以外の部屋を閲覧することになったと話すと、妻も一緒に行くことになった。少し早めに行き、近くを散歩してみることにした。
当日の日曜日、11時前に駅に着くと、周りの景色を見ながら上星川あおぞら公園に向かった。機能や広さでそれほど惹き付けられる公園ではなかったが、優しそうな親子がたくさんいて、ここにも民度の高さを感じた。快晴だったため、見晴台から富士山を眺めることもできた。ここなら子供もたくさん遊べると妻と無難な会話をしつつ、私の頭は満天の湯のことで一杯になっていた。ここに来るまではそれほど再来したいと思っていなかったものの、今はどうしても入っておきたくなっていた。
まだ内覧までは時間があったため、妻に説明し、昼食も満天の湯でとることにして2人で向かった。
愛想の良い女性スタッフの顔を見て、住んでもいないのにあっという間に戻ってきてしまったと思いながら、クーポンを使ってタオルをレンタルした。全裸になり、前回は入らなかったサウナで3分ほど耐えていると、笑顔のスタッフが入ってきて、大きなうちわで各所を仰ぎ始めた。後で知ったことだが、これもこの銭湯の名物だった。
風呂に満足した私は、その後の契約の説明では眠気に耐えられず完全に集中力を失っていた。賃貸は何度も契約したことがあるが購入は初めてであり、金額も高いため不安に思ってもよいのだが、何か疑問が湧けば妻に聞けば大丈夫だろうと安心しきっていた。月々10万のローン返済で済むと言われ、後で知ったことだが管理費が月々2万8000円かかり、現在の住居よりも支払いが増えるのだが、部屋も希望通りの3階南向きで、少しサイズが小さいが、間取りもマンションにありがちな想定の範囲内のもので、ここにしようとさっさと仮契約を済ませてしまった。これで気がねなく銭湯に通えると思うと嬉しくて仕方なく、格闘技のことも相まって明るい未来が感じられた。
帰り際、妻を誘って事前に調べてあったラーメン屋を訪れた。口コミが素晴らしかったため期待していた。店に着くと、外に3人、中に4人ほどの客が並んでいた。並んでまで食事をするなど下品きわまりなく、そのがめつい態度に辟易するという嫌悪感が相当あったのだが、妻を誘った手前、仕方なく並んだ。夕方4時半に何でラーメン食うために並ばなければいけないのか、もうこの店に来ることは2度とないだろうなどと無言で唱えていたが、思いのほか回転率が良く、待って10分ほどで席に座ることができた。更には並んでいる最中にメニューを聞きに来てくれたため、ものの5分ほどでラーメンが出来上がった。家を購入した達成感と、格闘技人生が始まるという自分への期待、気に入った銭湯が近くにある嬉しさで、食欲はマックスに達していた。スープから飲んだが、家系ラーメンってこんなに旨かったのかと感動してしまった。麺も食感がすばらしく、こんな店まで近くにあるとはと涙が出てきた。妻も泣いているようだった。2人でラーメンを味わい尽くし、店を出た。日は暮れかかっていた。家の手続きがこれから始まる。やることはたくさんあり、知識もないためこれから細心の注意を払って事を進める必要があるだろう。しかし、大抵のことはこの街が何とかしてくれるはずだ。京急から離れるのは初めてだが、その決断がすんなりできたことが嬉しい。子供は2人欲しいよねと妻と話し、私たちは横浜に向かった。空が高くなった。

著者

イロリアン紅