「今日もラッキーがやってくる」衣桃

 結婚してから、相鉄いずみ野線に住むことになった。新居を探していると不動産屋に、
「ここは道路も広くてベビーカーも押しやすくて、ママさんになった時にもピッタリだと思います!」
そう太鼓判を押された。だけど、それからもう十年、待てど暮らせど私たち夫婦に子供はできなかった。最近は、結婚しない人もたくさんいるし、周りの人もあまりハラスメント的なことは言ってこない。だから、恵まれているとは思う。だけど、結婚して子供を産んで、そして育てることが幸せなのだと、小さい頃から当たり前のように思っていた私にとっては、予定外の展開だった。不妊治療で授かりましたとは、みんな声に出してわざわざ言わないけれど、最近は結構多いみたいだ。だけど、私は何故かそこに踏み込んでまで子供が欲しいとは思わなかった。そして、それは夫も同じ考えのようだった。自然に授かりたい。ダメだったら仕方ない。それが夫婦の中の暗黙の了解だった。だから、子供がいなくても普段は何の問題もなく日常を過ごしていた。だけど、突然、爆弾は槍のように降ってくる。そして無防備な私の心臓はドクドクと脈打った後、あえなく木っ端みじんになった。

「実は妊娠していて、臨月が近いの。だから、約束していたランチの予定、日程変更してもいいかな?」
知佳は、学生時代からの長く続いている友人だ。お互い社会人になってからも数か月に一回は一緒にランチをしたり、出掛ける仲だった。彼女も私と同じく結婚しているが子供はいなかった。「自然に任せている」と話したっきり子供のことについては、ほとんど話題に上ることはなかった。それがこの突然の妊娠報告メールだ。やっぱり近い人が妊娠、出産するのは、普段付き合いのない遠い人が妊娠するのに比べるとつらい。一緒に過ごしていた世界からその子が去っていって、別の世界に行ってしまうかのような喪失感が私を襲った。家族でもないのに、その喪失感ったら、凄まじい威力だった。その日の夜は涙がとめどもなく流れてきて、夫の透(とおる)に泣きついた。何度も目が覚めて、涙をぬぐった。よく眠れなかった。

 この十年くらいに渡ってだろうか、相鉄線のホームは改装が進んでいて、トイレやエレベーター、エスカレーター、駅名の看板など、ふと気が付くとおしゃれに生まれ変わっていた。
「あきらって、いつもすぐ帰っちゃうけど、どこに住んでいるの?」
そう東京の友達から聞かれることも多い。
「横浜の奥の方だよ」
「横浜のどこ?」
さらに突っ込んで聞いてくれれば、「相鉄線沿線」と答える。
 あるときから、「横浜」って答えるのをやめた。だって、本当に住んでいるところは横浜駅からさらに二、三十分程度かかるところだから。それに横浜って言うと、海って連想される。私の住んでいるところはどちらかというと山に近い感じ。
 私は物心ついた頃から相鉄線で暮らしていて、結局のところ今でも相鉄線に住んでいる。途中、県外に数年いたこともあったし、「引っ越したい」と毎年のように友人に触れ回っているが、結局この土地が好きなのだ。しかも最近、時間に余裕ができたせいで、よく散歩をするようになった。私のお気に入りのスポットは、鶴ヶ峰駅前の帷子川沿いの緑道だ。私はずっと鶴ヶ峰に縁があったにも関わらず、この緑道の存在に気づいていなかった。駅前に公園があるなあ、とそのくらいの認識だった。その緑道を歩くと、四季が感じられる。特に、秋の紅葉はもみじの赤や黄色のカラフルな落ち葉が絨毯のように道に敷き詰められていて、それだけでアートだ。たまに気分を変えたいときこの道を歩くと自然が話しかけてくれる気がする。知佳のことで気分が滅入っていた私は、いつの間にかこの緑道に足が向いていた。   
 駅側の入り口近くには池があって、そこには主が住んでいる。亀さんだ。池の中の飛び出た丸い岩の上でいつもぽつんと日向ぼっこしている。かなりの確率でそうしているので、お気に入りスポットなのだろう。私と一緒だ。普段、忙しく生活しているとせっかく周りにある豊かな自然を素通りしてしまう。今までの私は、学業に、仕事に追われてこの緑道を歩いたことすらなかったのだ。わざわざ出かけなくてもこんな近くに、こんなに素敵なところがあったというのに。小川が流れていて、その水は澄んでいて綺麗に光を反射している。川に手をつけてみる。ヒヤッと冷たい。その冷たさで心まで洗われていく。小川の流れを見ていると、物事は常に移り変わって流れていくことに気が付かされた。
 知佳との関係も変わっていく時期なんだな、そんな考えが頭に浮かんだ。今までと関係性が変わっていくだけ。離れ離れになるわけじゃない。私が別れを選ばない限り。そう思えたら、知佳の出産までの不安定な時期を温かく見守れる気がした。知佳も人生の新しいステージに入ったんだ。きっと私も新しいステージに入っていく。そんな素敵な未来がなんとなく想像できて、ワクワクしてきた。私の中で、子供という形ではないけれども素敵な何かが生まれてくる予感がした。

「知佳。あのね私、知佳の妊娠の話聞いて、ちょっとショックだったんだ」私はランチを食べながら、話を切り出した。
「なんか、知佳が遠くに行ってしまう気がして。今までみたいに共通の話題がなくなっちゃうのかもって思った。会う機会も減ってしまうだろうし、第一、いつ誘っていいかもわからないし」
「誘ってもらえない方が寂しいよ。誘ってもらえたら、少なくとも選択することができるじゃん。私だって、まだ、どういうときに出掛けられるか予想もできないし」
「そっか。そうだよね。声かけてみるね。ダメだったら遠慮なく言ってほしいし。そっちからも都合がいいときに誘ってほしいな」
「わかった。私も距離を感じそうになってた。あきらに切り捨てられちゃうんじゃないかって、不安だった。でも、友達でい続けたい気持ちは変わらないよ」
知佳も、離れ離れになってしまうかも、という不安な気持ちを抱いていたんだということがわかって意外だった。お互い同じ気持ちでいたんだ。これからの二人の付き合い方は、トライアンドエラーで模索していけばいい、そう前向きに思えた。

 相鉄線に住んでいる人々はのんびりしている印象だ。やっぱり少し東京に比べると田舎なのだ。だけど、そこが魅力でもある。東京にも通勤できる距離なのに、こんなに穏やかなのだから。
「今日もラッキーなことがありますように」
いつもそういって、夫の透を送り出す。透は、
「ラッキーなことなんてないよ」
と迷信めいたことは全く信じない、というていで切り返す。
「あの紺の電車乗ったことあるでしょ? 透の好きな紺色の電車だよ。あれに乗れただけで、充分ラッキーじゃない?」
わりかし最近、グレーとオレンジが基調だった相鉄線の列車の中に、深くて濃い紺の電車が混じるようになった。内装はグレー、シックでおしゃれな感じだ。夜は車内灯が白からオレンジに変わり、疲れて帰宅する乗客を癒してくれる。いつからか、私はこの紺の電車に乗れると、「今日も、ラッキー」そう心の中でこっそりとガッツポーズをしてつぶやくようになったのだ。
「ああ、あれね。あれは、9000系を改装して塗り直したやつなんだよ。俺もあれは好きだ」どや顔で透は答えた。
「じゃあ、今日も、あの電車に乗れるといいね」
「それはどうかな。じゃあ、いってきます」
ちょっと期待しているような顔を透は私に向けた。
「いってらっしゃい」
私は笑顔で彼を送り出した。
 今日は台風が去ったあとで、天気がとてもいい。台風一過とはよく言ったものだ。空気が澄んでいるし、木々や鳥たちも喜んでいるのを感じる。私の一番大好きな日だ。見上げると雲が秋の装いで細かく縮れている。うろこ雲だ。今日は散歩日和だ。また、あの主に会いに行ってみよう。 

著者

衣桃