「仕事の喜び」三条三太

 「この口紅、試してみたいんですけど。」
「いらっしゃいませ。はい、どうぞ。お客様にぴったりの口紅でございますね。」「まあ
、本当?うれしいわ。」「お客様、ファンデーションは、いかがなさいますか?」「実は、私は、汗かきなので、今日みたいに暑い日は、お化粧が崩れて、悩んでいるんです。」
「こちらは、いかがでしょうか。今日、ショーケースに陳列したばかりの新製品なんですけど、大変ご好評いただいております。」「
私は、生命保険会社の外交員なので、お化粧には大変気を使っています。訪問先のお客様にお会いする前に、必ず、化粧室で、お化粧直しをしてから、お目にかかっています。お化粧品には、特に、強い関心を持っています。きちんとお化粧すると、セールスも、とんとん拍子に進んで、御契約してくださる事が多いんです。」「でしたら、この口紅とファンデーションは、ちょっと、お値段は張りますが、それだけの価値は、御座います。」

「セールス、お上手なのね。では、これ頂きます。」「ありがとうございます。お買い上げいただいた御礼に、ウェットティッシュを一箱サービスさせていただきます。」「まあ
、ありがとう。うれしいわ。あなたのネームカード、荒木由美子さんとおっしゃるのね。
又、来るわ。」「どうぞ宜しくお願い致します。ご来店を心よりお待ちしております。」
 由美子は、お客様をお見送りした後、売上伝票の整理に取り掛かった。
 閉店のバックグラウンドミュージックが、鳴り始めた。今日も、あっという間に一日が終わろうとしている。横浜駅の目の前にある百貨店なので、閉店の音楽にも、お構いなしに、お客様が化粧品売り場へ飛び込んで来る。化粧品の販売員が、いそいそとショーケースのカギをもう一度開けて、化粧品をお客様の前に並べて、説明をしている。閉店間際に飛び込んでくるお客様は、ほとんど間違い
なく、化粧品をお買い上げくださるので、販売員は、丁寧に接客する。
 今日は、この夏一番の猛暑日で、冷房が良くきいた一階化粧品売り場は、閉店後も気持良さそうに店員の商品説明に、耳を傾けている。
 由美子は、化粧品販売員のチーフマネージャーである。今月の売り上げ目標を、前年比30パーセント増しに、設定している。もう少し笑顔で明るくお客様に接すれば、売り上げ目標は、必ず達成できると、朝礼で、部員を元気づけた。部員たちも、先月に続いて、今月も、是非目標を達成して、店長表彰を得ようと、由美子を中心に、緊張感をもって張り切って仕事をしている。
 今年入社したばかりの早川順子が、先ほどから熱心に説明をしている。由美子がゆっくりと近づいて、笑顔で順子をフォローする。由美子の適切なアドバイスに、女性客は、笑
顔でうなずいた。
 「何処かでお目にかかったような気がするのですが。」由美子が恐る恐る話しかけると、その女性は、「オペラ歌手の安藤ユリです。」と、笑顔で答えた。「テレビで、先日、拝見しましたわ。」「あら、有難うございます。明日の演奏会に出演するので、化粧品を買いに、地方の演奏会が終わって、羽田から、高速バスに飛び乗って、やっと間に合って良かったわ。自宅が、二俣川のこども自然公園の近くなので、こちらの百貨店には、良く利用させていただいているわ。」「それは、それは、有難うございます。」
 既に、正面出入口は、締まっているので、由美子と順子は、安藤ユリのお買い求め頂いたお品物を持って、社員通用口へと、ご案内した。
 「私のために、遅くまでお付き合いさせてごめんなさいね。これで、明日の演奏会も安
心して歌えますわ。本当に、ご免なさいね。ありがとう。」「お役に立てて、うれしいですわ。ご遠慮なさらずに、何時でも、御申しつけ下さいませ。」由美子と順子は、お辞儀をして、お見送りした。
 売り場に戻ると、商品やショーケースに白い布が掛けられていて、照明も消されて、販売員は、もう、誰もいなかった。
 「こんなに遅くなってしまって、ご免ね。ユニホームを着替えたら、社員通用口の所で待っていてね。あなたの最後の頑張りで、今月の売り上げは、目標を大幅に達成したわ。甘いものでも食べに行きましょう。私、おごるわ。ねえ、いいでしょう。」「先輩が、御馳走してくださるなんて、光栄ですわ。」「では、十五分後に社員通用口で、お会いしましょう。」二人は、いそいそと、自分の更衣ロッカーへと、向かった。
 社員通用口で落ち合った二人は、隣のビル
のジョイナスへ入って行った。由美子が行き付けの「甘味処」は、仕事帰りの女性で賑わっていた。二十分ほど順番を待っていると、店員が、奥の席へと案内してくれた。
 「いつも、このお店は、混んでいるのよ。今日は、猛暑日だったから、クリームあんみつで良いかしら。」「私、大好物なんです。お願いします。」
 クリームあんみつを食べながら、二人の会話は、次から次へと弾む。
 「先輩、今日は、御馳走さまでした。それにしても、オペラ歌手の安藤ユリ様は、先輩の商品説明を聞いて、すぐ、最高級化粧品をお買い上げになりましたね。私、まだまだ勉強不足なのを痛感しました。先輩が、助けて下さらなかったら、安藤ユリ様は、お買い上げ下さらなかったと思います。これからも宜しくお願い致します。」順子は、由美子に、笑顔で会釈した。由美子は、順子の素直な態
度が嬉しかった。後輩の能力を可能な限り引き出してやろうと、心の中で自分に言い聞かせた。
 「私も、これまでに、何度も、失望したことがあるの。新宿、池袋、日本橋、といろいろな百貨店の化粧品売り場を転勤して、緑園都市駅から、一時間半以上も混雑する電車に乗って、やっと職場にたどり着いたときは、もう、疲れ切って、仕事を辞めたいと思った時が、何度もあったわ。又、そういう時に限って、お客様から苦情をいただくのよ。皮肉なものよねえ。でも、ある時、苦情をおっしゃるお客様から、『私が、あなたに苦情を言うのは、あなたにもっと良い店員さんになってもらいたいから言うのよ。あなたに、もっと成長してもらいたいから言うのよ。』て、言われてハツとしたの。お客様のご忠告を無駄にしてはいけない、私には、謙虚にお客様のおっしゃることに耳を傾ける素直さが不足
していたことに気が付いたの。今では、とても、感謝しているわ。」「私は、お客様から叱られると、落ち込んでしまって、なかなか立ち直れない性格なんです。」「その時は、何時でも遠慮なく私に相談してね。あなたより、私のほうが先輩で経験豊富なんだから、きっと、お役に立てると思うわ。」
 由美子は、ふと、時計を見た。既に、八時半を回っていた。
 「あら、もうこんな時間?すっかりおしゃべりしてしまってごめんなさいね。もう、帰りましょうか。」「先輩、私、化粧品販売員になって本当に良かったと思っています。女性が美しくなるのをお手伝い出来て、その上感謝されるなんて、こんな素晴らしい職業はなかなか無いと思います。おまけに、何でも相談できる上司に恵まれるなんて、私、幸せです。明日から、もっと頑張ります。冷やししるこを私に奢らせてください。まだ、先輩
とお話がしたいんです。」「あなたより私のほうが、お給料が高いんだから、私が、奢るわよ。」
 二人は、今月の売り上げ目標達成に酔いしれて、感動からまだ覚めないようである。
 二人が家路につくまでには、もう少し時間がかかりそうだ。

(終)

著者

三条三太