「優しい時間」アオキアヤコ

 あーちゃんと呼ぶその声に、思わず返事をしてしまいそうだった。だが、ここでそう呼ばれるのは私ではない。娘の明日香のことだ。しかしそれは、かつての私の呼び名でもある。
 当の本人である明日香は、どこから呼ばれているのかよく分かっていない様子で、あたりをきょろきょろと見回している。
「あーちゃん! びっくりした?」
 駆け寄ってきたのは、明日香と同じ保育園に通う、仲良しの太一くんだった。太一くんのお母さんもにこにこと後から歩いてくる。
 手を取り合って喜ぶ二人は、さっそくお互いの行く先について話している。
「あたしね、いとこのゆりちゃんとこに行くの。ゆりちゃんのおうちは、えびなってところなんだよ」
「僕、知ってる!えびなって、そーてつ線だよっ」
 明日香は、そうなの?という顔で私を見上げる。海老名という地名は知っていても、路線までは良く分かっていないのだ。電車好きの太一くんが得意そうに続ける。
「そうだよ!そーてつ線だよっ。もうそこに電車が見えてるもん!」
 見ると、目当ての電車はすでにホームにあり、まばらな乗客の姿が目に入る。自宅からは予定より一本早い電車に乗ることが出来たため時間には余裕があったが、これ以上のんびりとはしていられない。車掌さんの敬礼で見送る太一くんに手を振りながら、ホームへと急いだ。

 相鉄線横浜駅からの下り電車は比較的空いていたので、明日香の好きな3人掛けの席に座ることが出来た。
「ミミちゃん、よかったね、お席があって」
 3人掛け席の脇には、隣の車両に面して小さな出窓がある。明日香はそこに、いつものように小さなうさぎのぬいぐるみを置く。この場所に座ることができたときの、ミミちゃんの指定席なのだ。
 はじめのうちは、置き忘れないかと心配したが、明日香は普段がのんびりおっとりしている割には、そういう点は意外としっかりしている。おそらく置き忘れることはなさそうなので、ミミちゃんの「指定席」については良しとしているのだ。以前、実家の母にその話をしたところ、ちょっと懐かしそうに目を細めてこう言った。
「それは、ダメとは言えないわねえ。だって、あなたも同じことをしていたのよ。おぼえていない?」
 いつのまにか自分で靴を脱いで、ミミちゃんと外を見ている明日香に、小さい自分を重ねてみる。私も同じような風景を見ていたのかもしれない。ただ、行きと帰りの方向は反対だったけれど。
 私は結婚前までの長い間、この沿線の住人だった。他の私鉄も利用していたが、特に相鉄線には愛着と居心地の良さを感じていた。端から端まで利用することが可能なコンパクトさや、沿線のそこここに思い出のあるホームグラウンドのような感じが、きっと好きなのだ。
 結婚を機に、今は違う沿線の住民であり、相鉄線は横浜駅から地元へ帰るための路線となった。今日は、結婚して実家に近い海老名に住む、姉たちに会いに行く。

「太一くんがね、前にそーてつ線のプラレール見せてくれたんだよ。この電車と同じ色だった。あすか、みたことあるって思ったんだけど、おばあちゃんちとゆりちゃんちに行く電車だったんだね」
 明日香や太一くんにとっての「相鉄線」は、この色の電車なのだ。
 私にとって「相鉄線」をイメージするとき最初に思い浮かぶのは、銀色の車体に赤いラインの入ったものや、薄い緑色のものだ。明日香たちの言う、銀色の車体にオレンジと水色のラインが入ったものはあまり馴染みがない。この間、同窓会でそんな話をしたら、鉄道好きの友人の話では、オレンジと水色のデザインは、私たちの子どもの頃から登場していたと言う。きっと、私がよく目にしていた車両の中には、今はもう走っていないものもあるのだろう。そういえば、相鉄線に「特急」ができたのはいつ頃なのだろうか?「特急」などと言われると、見知らぬ路線のようだ。それとも、私の方が時の流れにすっかり鈍感になってしまったのだろうか?
 流れていく景色を何気なく眺めながら、静かに思いを巡らせる。ゆっくりと、自分の暮らしてきた時間を遡るように。浮かんでは消えていく思いの中で、ふっと鮮やかに見えてきたものがあった。
子どもを産む前は仕事や自分たちの生活スタイルが中心で、実家に出向くのもお正月くらいだった。姉とだって、子どもが生まれて行き来が復活したようなものだ。それに、幼い子を連れて行くには車の方が多い。たまに電車で行くにしても、乗換のことや時間通り着くこと、子どもを電車の中で飽きさせないことばかり気にかけて、周りのことなど大して気にも留めていなかった。この路線と共にあった、ささやかだけれど大切な、思い出や愛着のことにも。
「ママ、みてみて、あそこ」
 電車は停車駅のホームから離れはじめたところだった。明日香は、一点をじっとみつめて真剣な表情だ。
「あお、あおきデンタ……ル、クリニック。ママ、『あおきデンタルクリニック』だって。『キッズルームあります』だって。あそこ、ほら、うさぎちゃんとクマちゃんがかいてあるの。あのうさぎちゃん、ミミちゃんみたいだよね!」
 あの広告看板には見覚えがある。少しずつ字が読めるようになった頃から、明日香はそれを気にしていた。うさぎのイラストがミミちゃんと似ていることで目についたのだろう。しかし、私にとってこの看板は、ちょっとした「ありがたくない存在」だった。
 以前の明日香は、動いている電車の中から見える看板の字を最後まで読むことができず、しかもそのことに妙にこだわってぐずぐずと泣いたり、時にはめずらしく大きな声で悔しがった。いつまでも不機嫌でいるので、何でそんな些細なことでいつまでも拗ねているのだと叱ったこともある。本人にしてみれば、「お気に入りの看板に何が書いてあるのか知りたい」「字が読めるようになったから全部読みたい」という、幼い子独特の真剣さだったのだと思う。それなのに、私は車内で騒いでほしくなくて、泣いたり怒ったりすることを鎮めようということばかりに気をとられていた。
 今、すがすがしいような娘の笑顔をみると、かつての自分が、なんと余裕のなかったことかと思い至る。この子がまだ自分の気持ちをうまく表現できない分、なぜ私がそれをくみとってあげられなかったのだろう……。今ならば分かる。明日香の悔しさや一生懸命な思いをまず私が受けとめられていれば、この子は落ち着いて、私の言葉に耳を傾けてくれたはずだと。
 いつのまにか、電車の中は気をもむ時間ではなくなった。懐かしい思い出やわが子とゆっくり向き合うことができる、そんな優しい時間になったのだ。
 慌ただしい日常では見落としてしまいそうな小さな幸せを、まるで、この電車が思い出させてくれたようだ。明日香が顔をくっつけるようにして見つめている、窓の向こうの空の青さも、いっそう懐かしく優しい色合いに満ちていく。
 普段、いつもこうした思いばかりを優先させてはいられないことは分かっている。でも、この子はこうして日々、たくさんのキラキラしたものを育んでいる。そう思うと、今、このひとときを大事に味わっていたかった。
 電車の揺れに身を任すように、そっと目を閉じた。

 三川公園までの道はどこまでも平坦だ。駅周辺の大開発の余韻を残しつつも、そこから少し行けば、あちこちに畑が広がるのどかな景色が続く。足元にいくつも顔をのぞかせるつくしやタンポポに彩られた道を、楽しげに歩く子どもたちの後を追ううちに、姉と私の話題は、海老名駅周辺の変化のことになった。
「相鉄線と東急線の乗り入れの話も驚いたけど、私には、海老名駅の変化も驚きだったなぁ。JRまで連絡通路がつながると、まるで大きな駅になったみたいだよねぇ」
「そうだね。それに住んでみると、いかにこの辺りのことをよく知らなかったかが分かるよ。本当に駅周辺しか利用していなかったんだなあって実感するもの」
確かにそうだ。第一、今向かっている三川公園だって、私は存在さえも知らなかった。何年か前に新しくなって話題になった海老名市立図書館だって行ったことがない。
「あのね。最近、ゆりが『お母さんは、どんなお姉さんだったの』とか『赤ちゃんの頃はどうだったの?』なんて言って昔の写真を見たがるの。子どもの頃のものは別に構わないけれど、それ以降のものは何だか恥ずかしくって…。まあ、ゆりもまた少し大きくなったってことなのかもしれないけれど」
 時々吹きつける横風に帽子を押さえながら、ちょっとはにかんだ顔で姉がこう続けた。
「でもね、一緒にアルバムを開いてすごす時間は、私にとって新鮮な経験だった。なぜか心が和むの。不思議だよね」
写真を見ながら子どもの頃の思い出を話して聞かせていると、もう忘れかけていたような小さな出来事をいくつも思い出すのだと言って、姉は恥ずかしそうに笑った。
「本当に小さな思い出なのよ。その時々の自分の気持ちだとか、仲良しだった友達が私を呼ぶ声の調子とか、お気に入りだったスカートの模様とか。おかしいでしょ。でも、ゆりが言い出さなかったら、きっと自分のアルバムなんてみる機会なかった。そしたらこんな気持ちにも気づかなかったんだよね」

 私もいつか明日香に、私が『あーちゃん』だった頃の話をするだろうか。それが私にとって、穏やかで優しい時間になるのかもしれない。
 明日香もいつか誰かに、幼い日々の、ささやかだけどキラキラした出来事を語るのかもしれない。

著者

アオキアヤコ