「光の泉」木内ゆか

ぷ「喉が、渇いた・・・」
 八月の強烈な日射しが、プラットフォームのアスファルトを真上から照らし続けていた。翳みそうになる目で向こう端のトンネルを見ると、陽炎がゆらゆらと立ち上っている。今日も、雨は降りそうにない。
 「お母さん、ジュース買ってー!」
 五才位の人間の男の子が俺の横にある自動販売機目がけて駆けてきた。後からゆったりとやってきた身重の母親は、ごとりと音を立てて紙パックのジュースを買い、ストローを突き立てて息子に手渡した。冷たい飲み物に満足した男の子は、今度は俺に近寄ってきた。そして俺の「指先」を握りしめてブンブン振り始めた。
 「そんなに強く振ったらツルが切れてしまうよ。この葛のツルがね。」
 そう言って母親は、数メートル頭上にある俺の「足元」の草むらを見上げた。
 「この葛も、お水と土を探してどんどん下にツルを伸ばしてきたんだよ~」
 「ふーん、のどがかわいてるよね、きっと」
 そうだよ。俺も君みたいに冷たいジュースをごくごく飲みたいよ。というよりも、雨のほんのひと降りを飲みたいだけなんだ。でも、今日のこの天気じゃ無理だろうな。まるで弱い命を間引くかのような太陽・・・。植物は、どんなことも受け入れて耐えるだけなんだ。人間や動物とは違って、自分の意志であちこち動き回ることはできないのだから。
 親子は俺の目の前に設置されてあるプラスチック製の黒い椅子に腰かけて、電車を待つことにしたようだ。男の子から解放されて、俺はほっとした。
 しばらくすると俺の視界に、何やら鮮やかなオレンジ色のものが入ってきた。一輪のガーベラの花が白い小花にうずもれ、薄紫色の紙にくるまって目を閉じていた。中年の女の人がそれを大事そうに上向きに携えて、ゆっくりと歩いてきたのだった。女の人はいくつかの重そうな荷物を椅子の上にどさりと置くと、花束をそっとその脇に立てかけた。俺の視線に気が付いて、ガーベラは微笑みかけてきた。
 「こんにちは。暑いわね」
 小さくて繊細な、でもはっきりと響いてくる声だった。
 「うん、本当に暑いね」
 突然俺は重大なことに気が付いて動転した。
 「君、根は?根はどうしたの!大丈夫かい?」
 「ええ、根は、切られてしまったの。でも大丈夫よ。少しクラクラするだけ」
 彼女は普通のことのように答えた。
 俺は、これ以上何と言っていいのか分からなかった。彼女の命はこの暑さだと、あとせいぜい一週間・・・
 言葉に詰まった俺を元気づけるかのように、ガーベラは明るい声で続けた。
 「今からね、私たちおばあさんのお見舞いに行くの。おばあさん、ガーベラの花が一番大好きなんですって!」
 ガーベラがキラキラした瞳を見開くと、彼女の顔全体が輝き出した。虹色の光の粒子が彼女の顔から次から次へと溢れ出し、音を立てずに花束を包んでいった。粒子はいつか見た木漏れ日のようにキラキラと輝き、泉の水のようにこんこんと湧き続けている。
 「光の、泉だ・・・」俺は心の中でつぶやいた。
 「君は、ずいぶんうれしそうなんだね」
 「ええ、そうなの。私はうれしいの。不思議ね。種を実らせることもなく、もうすぐ枯れて死んでいくというのにね」
 ガーベラは静かに淡々と語っていた。が、急に思い出したように華やいだ声ではしゃぎ始めた。
 「お花屋さんにいた時に、私、この女の人とね・・・」
 その時電車がやって来て、女の人はガーベラを手に取った。ガーベラの愛らしい笑顔を乗せて扉は閉まり、電車は轟音とともにトンネルの中へと消えていった。俺は灼熱のプラットホームに一人取り残された。
 なぜ彼女はあんなに平然としていられるのだろう。俺なら生きたい。どこまでも生きたいよ。死ぬのは嫌だ!だからツルを伸ばす。新天地を求めて、どこまでも獰猛にツルを走らせる。花を咲かせ虫を寄せ、種を結ぶ。そして新しい命を再び生きる。ゆくゆくは、見渡す限りを俺の一族で覆いつくす・・・。
 でもなぜだ?なぜ俺はそうしたいのだろう?
 分からない。そのように創られているから、としか言いようがない。自分の命の仕組みを最大限に全うするように創られているとしか・・・。
 ガーベラは、俺とは違う。彼女は真っ直ぐ前を向いて電車に乗っていった。限られた命で病気のおばあさんを慰めるのがうれしいと言う。自分の命を他人に与えて、なぜうれしいのだ?そしてあの光。彼女の顔から溢れていたあの光の粒子は、一体何だったのだろう。
 太陽は、昼間は少しずつしか移動しない。
俺の目の前を、何本もの電車が止まっては通り過ぎて行った。そのたびに何人もの人間が荷物を持って電車から降りてきたけど、ガーベラはもう現れなかった。
 夕方になると、いつものように横浜からの買い物客が電車からホームに吐き出された。女の人達はどうしてあんなに荷物が多いのだろう。若い時はそうでもないけど、少し年を取ると女の人は荷物が増える。綺麗な固いカバン、紙袋、野菜の詰まったポリ袋・・・。人参やジャガイモが袋の中でしゃべっている。故郷の畑の太陽や雨のこと、虫のことなどを・・・。ネギが俺の視線に気付いて手を振ってきたけど、俺はツルの先を少し揺らしただけだった。
 俺は今、幸せなんだろうか?俺は孤独・・・なのだろうか?俺は輝いてはいないのだろうか?こんなことを考えるのは初めてだった。
 ガーベラと一緒だった中年の女の人が電車から降りてきた。ガーベラの花束は・・・あぁ、もう持ってはいなかった!俺は胸が締め付けられた。
 「あの子を、あの子を一体どこに置いてきたんだ!植物の一生を全うさせずに、花だけ都合よく切り取って、人間の慰みに供するというのか!人間というものは、何て、何て勝手なんだ!」
 俺の叫び声がその女の人に届くはずもなかった。でも、彼女が俺のすぐ目の前を通った時に、あの懐かしい気配がツルの先に伝わってきた・・・。
 「ガーベラの、光の泉だ・・・」
 俺は女の人の後姿を振り返った。歩き去る彼女の肩先から足元にかけて、うっすらと虹色の粒子が、したたり落ちるようにして、絶えず循環しているのだった・・・。
 ガーベラの愛らしい笑顔が、俺の胸によみがえってきた。俺は泣きたい気持ちになった。心の中で涙を流すと、さっきまでの怒りが溶けていった。女の人の後姿は、もう見えなくなっていた。
 人間達は毎日電車に乗って、何か「光のようなもの」を運び合っているのだろうか。年齢とともに増えていく女の人達の荷物も、この「光のようなもの」なのだろうか。
 夕方から夜にかけては太陽は速く動く。すっかり日が沈んで夜になると、幾分涼しくなり、星空のもとで虫達がいよいよ盛大に歌い始めた。俺は眠たくなり、目を閉じた。
 ガーベラもどこかで、おばあさんの傍らで、瞳を閉じて眠りについているだろうか?それとも横たわるおばあさんの体を光の粒子でそっとくるんでいるのだろうか?
 『お花屋さんにいた時に、私、この女の人とね・・・』
 楽しいいたずらを打ち明ける時の瞳で、君はあの後何を言おうとしたの?俺はため息をついた。
 「あ」
 自分のツルの先をふと見て、俺は驚いた。いくつかのオレンジ色の光の粒が、蛍のようにふわりふわりと舞っているのだった。点滅する光のダンスを、俺のツルの周りで・・・。
 降りそそぐ満天の星々と、大地からの虫の鈴音が、混然一体となって俺を包み、抱きしめた。
 
 
    

著者

木内ゆか