「冬枯れを行く」小田二十貫

「冬枯れを行く」

 昭和三十六年頃の横浜駅周辺は何も開けていなかったと会社の先輩から聞いたことがある。彼は和田町からバスか歩いて行ける距離にある研究所に勤めていた。和田町から商店街を通り抜けていくと丘を登る階段がある。百段以上の高さである。側道には太い水道管らしきものが並走している。階段を上がりきると展望が開ける。彼はまだ若い二十五才の時である。社宅が二俣川にある。運転試験場のある側にその社宅はある。ひとり娘がいて、ピアノを習ったりもしている。休みには大池公園に連れていている。この公園は整備されてまだ年月がたっていない。丘があり、池があり、小川があり、子供連れにはいい場所であった。そのころは彼と同年代の子供連れの人たちが多かった。日本の高度成長時代が始まり、みんな希望をもって働いていたし、新しい家族を持っていた。
 彼の夢の一つがアメリカに行くことであった。職場には英会話のクラブがあり、相模大塚駅からバスが通っている米軍の海軍基地から先生に来てもらって月に二回ほど勉強をしていた。しかし会話力は思い通りに上がるものではない。語学学校はあったが、月謝が高くて若い彼にはその余裕がなかった。何かの本で読んだようで、ひたすら中学英語の教科書を読めばいいということが書いてあった。覚えようとせずにただひたすらとある。天王町に教科書を入手できる書店があることが分かった。中学一年生の教科書は易しすぎる。三年生用はもう文型としては難しすぎる。二年生用が適当ということにして、書店を訪ねた。帷子川を渡って商店街にぶっつかる。左に歩いて行くとその書店はある。教科書の代金は思いの他安かった二百円とかではないかと思う。中学生でなくても一般に購入できるのだと感心したものであった。それから毎日ひたすら教科書を読んでいた。鞄の中に教科書を潜ませていた。電車の中で混んでいる時は立って、座った時も小声で読んでいた。
 もともと彼は満州で生まれ、終戦後、大連から引き揚げてきた。六才のときであった。高校までは大分県で過ごし、それから京都、大阪と転居し、横浜の会社に就職した。東京に来てカルチャーショックは東京弁、いわゆる標準語の語尾のきついことであった。彼は横浜に勤務したその年に結婚し二十六才であった。始めは大船のいわゆる文化住宅に住んだ。二階家で下が彼らの住まいであった。6畳一間、台所はあるが、風呂がない。家具も最初はほとんどない。一度は大きなたらいを買ってきて行水をしたことがあったが、おおむね銭湯に行っていた。家から十分くらいのところである。一年くらい大船にいた。次の年社宅に入ることができた。場所は戸塚であった。数年そこにいたが、研究所の社員だけの新しい社宅が二俣川にできた。運よく入れて新しい生活が始まった。運転免許は持っていたが、自家用車などはまだまだ持てない時代であった。社宅の住人はみんな知り合いで子供たちが同じ幼稚園に行ったりしていた。三ツ境の幼稚園であった。比較的大きな幼稚園で運動会も大規模に行っていた。
 彼は毎日欠かさず電車の中で英語の教科書を読んでいる。中々英会話力は身につくものではない。冬のある日の出勤のときである。その日はシートに座っている。鞄から英語の教科書を取り出して、小声で読み始めた。二俣川駅で電車に乗り、鶴ヶ峰、西谷、上星川を通過し、和田町で降りる。和田町の駅に差し掛かるころ左側に座っていた婦人から折りたたんだ小さな紙片を渡された。何かと思っている内に彼女も同じ和田町で先に降りて行かれた。ベレー帽をかぶった婦人であった。渡されたのもが何かまだ分からずじまいで、礼も言わないままであった。電車から降りて紙片を開けてみた。小型の手帳のページを一枚破いたものであった。そこに短歌が書かれてあった。

   なめらかにリーダーを読む隣席の若きも乗りて冬枯れを行く

 どこから席が隣であったか分からないが、二俣川より前であったろう。迷惑がらずに若者の読むのを聞いてくれていたのだ。彼は会社に着き、同僚にその体験を自慢げにはなしていた。
 彼が二十九才の時社用でアメリカに行くことになった。二年間の滞在である。技術提携をしている会社との交流である。ウエストバージニア州の小さな町の工場が勤務地であった。丁度ジョンデンバーのカントリーロードが流行ったときでもあった。彼はその地で仕事の傍ら柔道を教えたり、試合にもでた。黒帯がその州に十人くらいしかいないころである。そういう訳か六十キログラム級で州のチャンピオンになったというおまけつきであった。二年間の仕事を終えて帰国した。職場は同じところで、二俣川の社宅に戻る。
 社宅の同僚がそろそろ自宅を建てる状況が出てきた。それまでは銀行から融資の制限があり、若い社員が家をたてることなど考えられなかった。その規制が緩和されて、夢が現実になりつつあった。彼の奥さんの親戚が不動産屋をしている。その親戚に紹介してもらい物件探しが始まった。何軒か見て回ったあと、とある建売住宅を見た。そのころは一種の建売住宅ブームでいろんな会社が参入していた。ある材木会社の物件で、七軒のグループの住宅が並んでいた。その住宅群の特長は七軒別々の設計者が図面を引いたといううたい文句である。関西での建て売り住宅は文化住宅といって全く同一設定、同一外観の住宅がたとえば五軒横に並んでいるというイメージである。別々の設計というのが気に入りそこに決めた。決めたあと再度行ってみる。何とその場所は厚木米軍基地の近くで、また東名高速から五十メートルくらいしか離れていない。最初に下見をした日が日曜日であったので飛行機の訓練もなかった。平日飛行機が飛ぶと結構やかましい。
 そこに住むことになる。通勤は大塚本町駅から相鉄電車に乗る。相鉄のことを人から聞いたので調べてみる。相模鉄道の設立の相模川の砂利の運搬が目的であったという。砂利の運搬が目的とはあまり理解できなかった。最近知ったことであるが、京王電鉄も砂利を運ぶために設立されたという。砂利はセメントと混ぜてコンクリートを作るのに必要なものであることは分かる。それは建設需要が莫大であった時代のことであろう。相模鉄道は100周年を迎える。100年前1917年第一次対戦が始まった年である。
 今彼は会社を定年退職して米軍基地の近くのマンションに住んでいる。車はもう使っていない。彼の奥さんが乗っている。彼はもっぱら自転車、雨の日は上下合羽をつけて駅まで行く。相模大塚駅である。彼は地元の中学校で数学を教えている。その中学には英語を話すアシスタント教師が来る。席は隣席、ウエストバーニア州で覚えた英語をまだ使っている。

著者

小田二十貫