「匂い」匿名希望

 電車を降りた瞬間、懐かしい匂いがした。
五年ぶりに帰ってきた町は、やけに賑やかだ。
そうか、今日は八月二十三日、地蔵盆のお祭りだ。駅から寺までの商店街に、たくさんの屋台が並ぶ。クリーニング屋のおじさんが焼きそばを焼いていたり、花屋のおばさんがかき氷屋になっていたり、いつもと違う風景は子ども心にワクワクして、前の日から興奮したものだ。
 駅を出て橋を渡ったところに、お地蔵さんを祀った小さなお堂がある。子どもの頃、屋台を見る前に、必ず、お参りをさせられた。近所のおばちゃんが当番をしていて、お参りをした人に、子どもにはお菓子、大人にはお餅を渡してくれる。僕たちが行くと、こっそり余計にお菓子をくれたっけ。
 この町で生まれ、家の近所の保育園、小学校、中学校に通い、大学まで家から通っていたので、人生のほとんどをこの町で過ごした。
まさに、僕を育ててくれた町だ。就職を機に
一人暮しを始めた。会社は家から通える範囲だが、自立するよう母から言われて、半ば強制的に追い出されてしまったのだ。そんな経緯なので少し反発があり、自分からは滅多に実家へは連絡をしない。母からも、初めのうちは何かと心配して、電話やらメールやらが
来ていたが、あまりに愛想が無い息子に呆れたのか、最近は音沙汰が無い。いつもなら気にしないところだが、昨日、たまたま嫌なものを見てしまったのだ。
 客先から会社へ戻るところだった。地下鉄への階段を下りていると、前を歩いている中年女性の後姿が誰かに似ているのが気になった。誰だろうとしばらく考え、そうだ母に似ているんだ、そう言えば、最近話してないなあとぼんやり見ていたら、その女性が突然、階段を踏み外したのだ。幸い、残り二、三段だったので、あっと思った時にはもう自分で立ち上がっていた。けれど、僕の方が、暫く胸がバクバクして動けなかった。最近、無沙汰をしている後ろめたさもあって、母のことが気になってたまらなくなってしまったのだ。
母からも連絡が無いということは、もしかしたら、どこか具合が悪くて、連絡ができないのかもしれない。父が連絡しようとしても、僕に心配させまいと止めているのかもしれない。一度そう考えると、悪い方へ悪い方へと考えて、仕事が手につかなくなってしまった。今日は定時退社日ということもあって、久しぶりに実家に帰ってみることに決めた。電話をしてみれば良いとも思ったが、電話だと元気な振りをするかもしれないし、突然行って驚かせたいとも思った。しかし、本当のところを言うと、妙に懐かしくなって帰りたくなってしまったのだ。
 定時のチャイムが鳴ると、さっさと机の上を片づけ、会社を出た。乗り換えの駅で、ババロアケーキをホールで買った。生クリームが苦手な僕たちの為に、誕生日によく買ってくれたケーキだ。母へのお土産というより、自分が食べたかった。
 地元の駅で電車を降りた瞬間、懐かしい匂いがした。すっかり忘れていた。八月二十三日、地蔵盆。子どもの頃の思い出が、一気に甦った。橋を渡り、お地蔵さんにお参りをする列に並ぶと、
 「あらまあ、ひさしぶり。」
と、声を掛けられた。当番の近所のおばちゃん、まだ、やっていたんだ。 
 「お祭りに帰ってきたの? お母さん、喜ぶわよ。あら、やだ、もうお菓子じゃないわね。」
 おばちゃんは、慌ててお餅を取り直して、
僕に渡してくれた。しかも、4っつ。変わらないなあ。おかしくて、懐かしくて、そして、嬉しかった。
 「どうも。」
 お礼を言って、商店街の中を屋台を見ながらぶらぶら歩いた。僕がいなかった四年の間に、お祭りはますます賑やかになって、すごい人混みだ。揉まれながら歩いていると、次から次へと思い出が甦って来た。保育園の頃、
祖母が縫ってくれた甚平を着て、大はしゃぎだった。遅くまで居たかったけれど、やっぱり眠たくなって早々に帰ってきたっけ。小学校の頃は金魚すくいに夢中になって、母と弟と3人で何匹すくえるか勝負したことがあった。母も子ども相手に真剣だったなあ。小学校高学年になると、帰りの時間を決めて、初めて友達同士で遊んだっけ。夜に、子どもだけなんてすごくドキドキしたものだ。中学生の頃は、塾帰りに横目で見ながら素通り。高校生になるともうお祭りなんて興味は無く、
学校帰りに人混みの中に懐かしい顔を見るだけだった。
 商店街の真ん中ほどにある団子屋に来た。お祭り限定の磯部餅を買った。毎年欠かさず食べていた、懐かしい味。あ、あそこの焼きそばは、他の店より安かったっけ。あっちのかき氷はシロップがかけ放題。あれ、金魚すくいをしたのは、この辺りだったか。たくさんの懐かしい匂いに包まれながら、向いにある広場に入った。ステージでイベントをやっているので、此処も商店街に増してすごい人混みだ。のどが渇いたので、生ビールを飲みながら、生演奏の女性ボーカルの歌を聞いていると、前の方に見慣れた背中が見えた。母だ。ビール片手に、歌に合わせてリズムを取っている。楽しそうに、背中が揺れている。なんだ、元気じゃないか。安心したとたん、涙がこぼれそうになった。
 「母さん」
と、声をかけようとした時、肩をたたかれた。
 「よっ。」
 振り返ると、ニキビ面の弟が少し照れくさそうに立っていた。
 「お前も来たのか?」
 弟は、地方の大学に進学して、やはり実家を離れていた。
 「母さんがさ、電話かけてきて、兄ちゃん、絶対お祭りに帰って来るから、あんたもたまには帰って来なさいって。久しぶりに感動の兄弟ご対面をしなさいって。」
 参ったなあ。母は何でもお見通しだ。
 「なんか、一人で楽しそうだなあ。息子が
二人とも家出ちゃって、淋しがってるかと思ったのに。」
と、弟がちょっと呆れ顔で言った。
 「ま、その方が良いじゃないか。」
 母に声をかけるため、近づこうをした時、
母が振り返って、こっちを見た。僕と弟を見つけ、ビールを持った片手をあげた。
 「お帰り。」
 母の口元がそう言った。
「一緒に飲むか。」
 僕は弟を連れて、母に向かって歩いて行った。

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匿名希望