「千年先もずっと。」米澤崇月

 みんな大人になったな。久しぶりに学生時代の友人達と飲んだ感想がそれだった。変わっていないようで、どこかしら変わっていたりする。遅刻癖のあったあいつはきちんと五分前に待ち合わせ場所に来ていたし、ほとんどすっぴんで大学に来ていたあの子はメイクを覚えていた。会って話す内容はお酒が入れば入るほど学生時代の面影を濃くしていき、中身は昔のままだなあ、なんて感傷に浸ってしまう。
 横浜駅の南西口でみんなと別れ、僕一人だけが相鉄線の改札口を抜ける。大学を卒業して故郷の石川に帰ってから数年ぶりに横浜に来たが、ここも大きく変わってはいないようだ。新型の濃いネイビーの車体と、特急の二文字が加わってはいたけれども。
 僕は一番線に向かう階段を上り、九号車のほうへと向かう。今日も泊めて貰う祖父母の家が鶴ヶ峰にあり、その駅のホームにある階段に一番近いのが九号車だからだ。
 車内はそれなりに席が埋まっていて、見回すとわずかな空席が目に入る程度だった。その空いてる席に座ると、お酒が回っているからだろうか、すぐに睡魔が襲ってきた。各駅停車だから、鶴ヶ峰までは十五分程かかる。少しだけ眠ろう、そう思い僕は目を閉じた。左右のお客さんに迷惑が掛からないよう、姿勢を前かがみになるようにして……。

「すまないが、右足をどけてくれないかな」
 まどろみの中、透き通るような声が聞こえてきた。それは初め、夢の中で響いたかのように実態がなく、僕は少しだけ顔を上げ、うっすらと開いた視界から辺りの様子を確認した。車内には人っ子一人おらず、その声はやっぱり夢の中で聞いたものだと安心し、僕はまた目を閉じる。僅かな電車の揺れに身を任せながら、もう一度眠りにつこうとした。それから、すぐにパッと顔を上げてもう一度周囲を見渡した。
 車内には、人っ子一人いない……?
 僕は慌ててドア付近にある電光掲示板を見つめた。次の停車駅は西横浜になっていた。けれども、周囲に人の気配はなく、僕一人だけが長い椅子にぽつんと取り残されていた。ついさっき横浜駅を出て、両隣には見知らぬ人が座っていて、何人かが退屈そうに立っている光景を目にしたばかりだ。それなのに、誰もいないだなんて。
 困惑して車内をきょろきょろと見回している僕に、またあの澄んだ声が届いてきた。
「聞こえていないのかい? 足をどけてくれないかと言っているんだが」
 声のしてくる方、足元に視線を向ける。そこには一匹の亀がしっぽを僕に踏まれたまま、視線をこちらに向けていた。亀に表情があるのかわからないが、なんとなくしかめっ面をしているように思えた。僕はぎょっとして、慌てて右足を上げて亀の尻尾を自由にしてあげた。
 亀は何も言わずに振り返ると、のろのろと反対側のシートに向かっていった。一体向こうのシートにたどり着くのはいつになるのだろうか。それに、たどり着いたところで座れるのだろうか。そんな心配をしていると電車は徐々にスピードを落としていき、西横浜で止まった。ホーム側の扉が開いたけれども、降りる人も乗る人もいなかった。生暖かい風だけがするりと車内に入ってくる。そっと僕はホームの様子をうかがったけれども、そこにも誰一人としていなかった。僕の顔だけが夜の闇に染まった窓に反射していた。
 扉が閉まり、電車が動き出す。僕は再びあの亀の事が気になって顔を前に向けると、すでに僕とは反対側のシートに上に乗り、視線をこちらへと向けていた。いつの間にと思いながらも、その疑問は亀の透き通るような声によって遮られる。
「ようやく座れたよ。まったく、いい迷惑だ」
 素直に謝るべきなのだろうが、その対象が亀となると話は別だ。僕の混乱した頭では、その謝罪の一言をひねり出すまでに一苦労あった。僕がまごついている間に、亀はまた口を開いた。
「君はどこまで行くのかね」
 亀は口をわずかに動かしただけだというのに、言葉が明瞭に頭の中へと入ってくる。
「あ、はい。鶴ヶ峰までですけど」
  僕がそう答えると、少し間を開けてから亀は答えた。
「……ああ、鶴亀池か。なら、私と一緒だね」
 僕の聞き間違いでなければ、目の前の亀は確かに鶴亀池と言った。
「のんびりと行こうじゃないか。そう急ぐ家路でもあるまい」
「あ、ええ、はい……。あの、さっき鶴亀池って言いましたよね?」
 僕が尋ねると、彼はごく当たり前のように頷いた。
「うむ、鶴亀池だ。私は昔からそう呼んでいるが」
「僕が知る限りでは、鶴ヶ峰ですけど……」
 僕がそう言うと、やれやれ、と言った表情で亀がため息をつく。
「それは君たちの都合だろう。だいぶ昔の事だが、君たち人間が来る前、あの一帯は鶴亀池と呼んでいたのだよ」
 それから、亀の昔話が始まった。

 駅を降りて北口の方に少し歩くと、池があるだろう。そう、あの公園のだ。あれが整備されるうんと昔にも池はあったのだよ。今に比べたら、ずっと小さいけれどもね。
 その池に私は住んでいた。仲間の亀もいたが、私の性格がどこかズレていたのだろう、彼らとはあまり話をしなかった。その代わり、大の親友がいた。美しい鶴だ。彼女は毎年冬になると私のいる池にやってきて、ドジョウやら何やらを食べていた。鶴は彼女一羽しかいなかった。
 私と彼女はすぐに仲良くなったよ。何せどちらも独り者だ。私は他の亀とは距離をとっていたし、彼女はただ一羽で来たのだから。いろいろな話をした。彼女は空を飛び遠くからやってきたという。その道中に見たことを私に話してくれた。中央アルプスの山々や京の人が作った街並み、それから海の向こうの話……尽きることの無い彼女の話題に、私は耳を傾け続けた。楽しかったよ。私の知らない世界がうんと遠くまで広がっているのだから。私は鶴の話を聞きながら、想像の世界を広げ続けた。また、彼女は私の話もよく聞いてくれた。私のほうが長く生きていたからね、その間に経験したことを伝えたのだよ。
 ある時鶴はこう言った。
「ふと思ったのですが、この池は何という名前なのですか?」
 と。
 私は答えに窮してしまった。名前など考えたこともなかった。ただの池とだけしか認識していなかったからね。
「名前は、無いです。私が住むずっと前から、名無しの池でございました」
 私がそう答えると、鶴は少しだけ驚いたような顔をして、それから表情を綻ばせた。
「あら、でしたら名前をつけましょう。せっかくこんなに素敵な場所なのですもの、名前がないままですと可哀そうですわ」
「はあ、ですが、いったいどんな名前を」
「そうですね、綺麗なお池、私とあなた様の二人しかおりませんから、『鶴亀池』と名付けてはどうです? ふふ、私たちだけのお池という事で」
 そう言われ、私は顔を真っ赤にしてしまった。あの当時は若かったから仕方のない事だが、恥ずかしかったのだよ。美しい鶴から二人だけの池と言われては、いくら私が亀と言えども多少の照れはある。もちろん、そう名付けることに私は心から賛成した。それ以降、私と鶴の二人だけの池は、毎年のように私たちが他愛のない雑談をする場になった。
 それから長い年月が過ぎ、その間にはここら辺にも人が住むようになった。まだそれほど発展していない、あばら家がいくつか点在するような時代だ。人々は周辺に田を作り始めた。小さな田だった。少しでも天気が荒れようものなら、稲穂が全てダメになる時もあった。
 池の周りは徐々に賑やかになっていったよ。段々と人が増えるにつれて田んぼも増えていく。すると、やってくる鶴の数も増える。いつしか、ここら一帯は秋になると毎年のようににぎやかになった。二人だけの池だったはずが、いつしか彼女の友達もいるようになった。それは少し複雑な気持ちになったが、なんにせよ彼女が楽しそうにしているのは悪い事ではなかった。私も、他の鶴たちからいろいろな話を聞けたしね。
 そしていつしか人々はここら一帯をこう呼び始めた。『鶴舞い田』とね。秋になり、実りの季節が来ると、鶴がやってきてドジョウを食べ始める。その姿が踊っているように見えるから、とかなんとからしい。
 まあ、君は知らないだろうが、これが今の『鶴ヶ峰』の元になった名前だ。私は別にその名前を嫌っちゃいない。いい名前じゃないか。鶴が舞う、だなんてとても美しい。白い羽を優雅に広げ、美しい歌声と共に踊る姿に人々も感動したのだろう。趣を大切にする心は人間のほうがはるかに豊かなのだと、その時初めて思ったものだ。
 けれども、それは時が経つにつれて失われていった。戦争で焼け野原になったり、近代化が進みどんどんと景色が変わっていく。ここ数十年は目まぐるしく世界が変わっていったよ。まったく、驚くべきことだ。田んぼはいつしか無くなっていき、それと同時に鶴も来なくなった。食べ物は多い方がいいからね。それから、彼女も来なくなった。理由は解らないが、今でもどこかで元気にしているだろう。きっと、もっとおいしいドジョウを食べられるところを見つけたのかもしれない。
 寂しくないのかって?
 そりゃあ、寂しかったさ。だが、私は君の何百倍の歳を生きているんだ。自分の心に整理をつける事など容易い事だったよ。……まあ、確かに来なくなった年は落ち込んで何度か溺れかけたけれども。
 何が言いたいかというと、私たちのつけた『鶴亀池』という名前も素敵ではないかな? 君たち人間の世界では、私のような亀や鶴は千年万年の齢を生きると言うらしいが、そう考えると実にめでたいではないか。この土地が今もなお栄え続けられるのは、もしかしたら私と鶴のおかげかもしれない。昔から今、そしてこの先も、あの土地は変わり続けているのだから。

 亀は話し終えると、満足げな表情をして座りなおした。
「世界は変わるよ、目まぐるしくね。鶴ヶ峰だって、君は数年ぶりに訪れたんだろうけど、どうだい、少し変わったんじゃないかな」
 そう言われ、僕は日中一度祖父母の家に荷物を置きに行った時の事を思い出した。記憶違いでなければ、道中には新しいお店が増えていた。一方で店仕舞いをしたのだろうか、シャッターが下ろされている店もあった。街を歩く人々の顔は学生時代に見た時と変わらないような気がしたし、途中ですれ違ったバイト先によく来てくれたお客さんの夫婦は、可愛らしい幼い子供を抱いていた。公園の緑は毎年見ていた通り眩しく光り、川は絶えず流れ続けている。確かに意識してみると、変わっていないようで、街は少しずつ変わっている。
「まあ、当然だね。鶴ヶ峰だって生きているんだから。時が経てば、街並みは変わっていく。そういうものさ。それを君は寂しいと思うかい?」
「いえ……変わっていくなあ、というくらいにしか」
「そうだろう、そういうものなんだよ。今乗ってる電車だってそう、昔は砂利を運んでいて、いつしか人を運ぶようになった。そうすると今度は乗り心地や利便性を求め車両を新しくしていく。そして他の路線とつながり続ける……。変わる事、それは生きている証拠だ。博物館の標本のように時が止まってしまえば、死ぬことは無くても生きることもない。私が鶴亀池と呼んでいたこの土地は、時代を経て生き続けることで、鶴舞い田や鶴ヶ峰へと名を変えていく……それはとても素晴らしい事だ。この街が生きていると実感できる瞬間だ。私も、この街と共に生きていると思える。その間の出会いの喜びや別れの寂しさも、生きていればこそ味わう事の出来るものだ」
 亀がしみじみと頷いたちょうどその時、車内アナウンスがまもなく鶴亀池に到着することを告げた。それを聞いた亀はよっこらしょとでも言うようにシートから降り、のろのろとドア付近へと向かっていった。
「さて、私は降りるとするよ。青年、こんな老いぼれ亀の話に付き合ってくれてありがとう。もしもう一度どこかで会うようなことがあれば、その時は一緒に酒でも飲みながら話そうではないか。この街はこれからも発展を続けるだろう。何せ、鶴の名前を冠しているのだ。この先千年近くは、街も人も元気でいられるに違いない。千年もあれば、またどこかで会えるさ」
 電車が緩いカーブに差し掛かり、徐々にスピードを落としていく。やがてホームに入り、ブレーキが利き始める。天井で灯りに照らされたつり革がきらきらと揺れる。
 ドアが開くと、亀はこれまたのろのろとした歩調で歩き始めた。去り際に、
「では、よい夜を」
 とだけ残し扉が閉まった。誰もいない車内には、僕と亀の透き通るような声の余韻だけが、静かに残された。

 肌をむわっとした熱気が撫でる。決して心地よいとは言えないその感触に、僕は目を覚ました。ハッとなって顔を上げると、電車はすでに止まっていて、目の前の扉が開いている。僕は慌てて鞄をつかみ、急いで電車から降りる。その瞬間、ホームに軽快なメロディが流れ始めた。それから扉が閉まり、ゆっくりと電車が走り出す。
 僕は急に動き出したせいでまだ落ち着かない息を整えながら、辺りの様子を確認する。目の前にある大きな時刻表の看板に『鶴ヶ峰』と書かれている。ぱらぱらと、疲れた顔をした乗客や楽し気に笑い合う女の子たちが僕の横を通り過ぎていく。
 その文字を見てほっと安心した。うっかり寝過ごしてしまったんじゃないかと思ったから。仮に寝過ごしたとしても、次の二俣川で上りの電車に乗ればいい話なのだけれども。
 僕はエスカレーターに乗り、改札へと向かった。北口にある階段を降り、右手に曲がり祖父母の家を目指す。熱帯夜と言われていた通り、夏の夜の空気はあまりいい気分の物ではなかった。
 帷子川の手前、ちょうど公園があるあたりで水の音が聞こえてきた。池にある噴水の水音だ。大学の頃、一度恋人とゆっくりそれを眺めたことがあった事を思い出す。
 僕はその音を聞きながら、電車の中で亀と話したことを振り返った。この場所がかつては鶴亀池だったなんて、随分と変な夢を見たものだ。あの亀は本当にこの池に棲んでるのだろうか。また会おうと言っていたが、次会う事ができるのは一体いつになるのだろうか。というか、千年も僕は生きられないし、そもそも亀はお酒を飲んだりするのだろうか。
 そんな事を考えながら、僕は鶴ヶ峰の夜を一人ぽつぽつと歩く。明日、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに昔の話を訊いてみようと思った。この土地を誰かが鶴亀池って呼んでたりしてなかったか訊いてみよう。
 交差点を超え、祖父母の家の灯りが見えてきた。遅くまで遊んでいた事を申し訳ないと思いつつ、僕は門の取っ手に手をかける。玄関を開けて、
「……ただいま」
 と小声で言うと、眠たそうに目をこすりながらお祖母ちゃんが部屋の奥から出迎えてくれた。

著者

米澤崇月