「名隠しの自己紹介」恋子

 ――自分の名前を好きになれない限り、わたしはわたしを好きになれないと思うの。
 そう言った彼女の顔を、わたしは今も忘れられないでいる。人の悲しそうな顔。その本物を見たのは、これがはじめてだった。
 彼女というのはわたしの親友のことで、わたしは彼女を「みどり」と呼んでいた。本名は、映画の映に美しいと書いて映美(えみ)なのだが、彼女は本名で呼ばれることをひどく嫌った。
 「映美」の名付け親は、彼女の父だ。
 妻の妊娠を知った彼は、映画監督になるという夢を諦め、地元の建設会社の社員として働きだした。「映美」の名は、彼の夢そのものだった。自分は駄目でも、せめてわが娘は映画監督に、いや、監督でなくてもいい。女優にでもなって、映画に携わる仕事に就けるように、と、一生変えられぬ娘の名前に自らの夢を押し付けたのだ。
 その男は、しかし映美がちょうど小学校へ入学する直前に、姿を消した。「姿を消した」と言えば、事件や何かと勘違いされてしまいそうだが、それは違う。彼は、自分の意志で姿を消したのだ。妻である利恵さんと、娘である映美を残して。
 そのときのことは、映美もよく覚えていると言う。
 はじめて背負う真っ赤なランドセルの大きさを背に感じながら、映美は玄関の鏡の前で何度もポーズを決めていた。子を持つ親なら誰でも微笑ましく思うだろう光景だ。それを見て、彼女の父はこう言った。
「よく似合っているよ。きっと、新入生の中で、一番ランドセルの似合う女の子だ」
 そうして映美の頭をくしゃくしゃとなでると、規則正しい動作で靴を履き、入学式用のスーツを着たまま、どこへ行くとも告げず出て行ってしまったのである。
 何か必要なもの(たとえば、入学式を撮影するためのビデオカメラのバッテリーだとか、煙草だとか、飲み物だとか)を、急ぎで買いにでも出たのだろうと、当時の映美は幼いながらにそう考えたそうだ。
 しかし何十分経っても彼は戻らず、入学式が始まり、いよいよ閉会式の最後のあいさつが終わる頃になっても、姿を現すことはなかった。
 「お母さんは? お母さんは、そのとき何か言っていなかったの?」
 そう尋ねると、彼女は笑って首を振った。
 「あの男が家を出ていくこと、知っていたみたいなのよ、お母さん。知っていたって言うより、感付いていたって言うのかな。あ、ついにこの日が来たのかって、そんな感じで全然驚いた様子ではなかったわ。そのあとはわたしが何をきいても、お母さんさえいれば大丈夫でしょう、の一点張りだったもの」
 「ふうん」
 わたしはこういうとき、適切な相槌が打てなくなる。楽しい話や他愛のない話をしているときは、考えずとも納得のいく相槌が打てるのに、相談事や過去の話なんかを打ち明けられているときには、会話がまるっきり下手になってしまうのだ。
「他所に、女がいたみたいなのよ。でもそれは、何年も経った後で親戚の人たちの噂話を耳にして知っただけで、当時はそんなこと考えもしなかった。子どもは大人が思う以上に敏感だなんて言うけれど、あれは嘘ね」
 わたしの下手な相槌に構わず話を続けてくれる彼女に感謝しながら、だからこそこの子とはうまくやっていけているのかもしれないと思う。
「だからみどりは、下の名前で呼ばれるのを嫌うのね」
「そうよ。わたしたち家族を捨てた男がつけた名前というだけでも嫌気がさすのに、さらにその男の夢まで押し付けられたときたら、嫌いになるほかないでしょう」
 彼女はいつもより饒舌だった。怒りのせいかもしれない。人に一番強いエネルギーを与える感情は、怒りであると前に聞いたことがある。
 このとき、わたしたちは大学二年生で、まだ就職活動にも卒業論文にも追われていなかった。恋人はおらず、どこのサークルにも所属はしていなかったし、男嫌いを理由に女子大への入学を希望したわたしたちには、他大学との合コンに参加する機会が訪れることもなかった。そういうわけで、授業とアルバイト以外に多くの時間を余らせていたわたしたちは、そのほとんどを二人で過ごした。実家暮らしのわたしが一人暮らしの彼女の家に泊まることもあったし、彼女がわたしの実家に遊びに来ることもあった。しかし回数で言えば、気に入りの店で会うことが格段と多かったように思う。気に入りの店とは、二俣川駅近くのスーパーに併設された小さなオムライス専門店のことだ。広すぎない店内、木目を生かしたテーブルと椅子、あどけない顔のアルバイト店員、厨房から時折見えるふくよかな体型のコック、濃い目に味付けされたスープとたまごにふわりと包まれたオムライス、そして表面こんがりとに焼き目のついたブリュレアイス、その何もかもが全て、わたしたちには特別だった。
 そしてこの日も例外ではなく、わたしはランチセットのケチャップオムライスを、彼女は同じセットのデミグラスソースオムライスをそれぞれ頬張っていた。
「そもそもね」
 彼女はごくりと口の中を空にし、話を続ける。
「夢を押し付けたんだったら、最後までしっかり見守るべきなのよ。娘が自分の夢を叶えるところを。それを見届ける前に黙っていなくなるなんて勝手すぎると思わない?」
 彼女は喜怒哀楽の少ないひとだったが、このときばかりは様子が違っていた。それもそうだろう。自分を、そして家族を捨てた男の話をしているのだ。当時彼女の母の腹の中にはもう一人子どもがいて、経済的にも体力的にも、そして精神的にも「父親」という存在は不可欠であった。その存在を失ってから女手一つで子どもを育てた彼女の母の苦労は計り知れないし、その後の生活難は彼女自身にも多大な影響を与えたはずだ。世界にたった一人の父親とは言え、恨みを持つなと言う方が難しい。
 わたしが彼女とはじめて出会ったのは、大学の入学式だった。
 田舎暮らしで、小学校、中学校、高校と、全て地元の学校に通っていたわたしは、大学ではじめて電車通学というものを経験した。小田急小田原線で海老名駅まで行き、相鉄本線に乗り換え、二俣川駅でさらに相鉄いずみ野線に乗り換える。そこから二駅先の緑園都市駅というところにわたしたちのキャンパスがあった。極度の方向音痴であったことと、その日に限ってアラームをセットし忘れてしまい、遅刻ギリギリの時間に家を出て焦っていたこととが重なり、乗り換える電車を間違えたわたしは、入学式当日にして遅刻をする羽目になってしまったのである。
 だから電車は嫌いなのだと、どうにもできない現状の全てを電車のせいにしながら大学へ続く坂道を駆けていくと、前方にいかにもお嬢様らしい身なりの女の子を見つけた。まさかこの時間に自分以外の新入生がキャンパスの外を歩いているわけがないと思いながらも、もしかしたらという期待を捨てることもできずに声をかけた。たとえ初対面の見ず知らずの人であっても、遅刻は一人より二人の方が心強い。
 「あの、新入生……ですか?」
 「そうです。もしかしてあなたも?」
 わたしがこくりと頷くと、彼女は安心したように笑った。きっとわたしも同じ表情をしていただろう。強い味方を見つけたような気持ちになったわたしたちは、急ぎ足で会場へと向かった。遅れて着いた入学生はやはり他にはいなかったようだ。
 式のあとでわたしたちははじめましての挨拶を交わした。
「岸辺と言います。緑色のものを集めるのが好きなので、わたしのことはみどりと呼んでください」
 苗字を述べたあと、下の名前を言うより先に「みどり」という呼び名を指定する彼女の自己紹介はとても印象的だった。初回授業のとき、ディベートのとき、ゼミの顔合わせのとき、それからも彼女の自己紹介を聞く機会は何度もあったが、彼女が自分の下の名を名乗ることは、ただの一度もなかった。
 当時はそのことに疑問を抱いてはいたが、どこか踏み込んではいけない事情があるような気がしてなかなか理由を尋ねることができなかった。それがまさか、彼女の方から切り出してくれるとは。嬉しい反面、彼女の家庭のことを一切知らずに過ごした時間を少し悔いる気持ちがあることは否めない。
「改名でもすれば、自分のことも今よりは好きになれるのかな」
 そう言う彼女の表情は、先ほどまでの怒りから悲しみへと変わっていた。そしてその後にも先にも、彼女が父親の話や自分の名前の話をすることはなかった。
 大学卒業後、わたしたちは別々の職業に就いた。彼女は地元の愛知県へ戻り、大手金融会社に勤め、わたしは文京区にある小さな出版社の編集部に勤めている。互いに二俣川駅で電車を降りることもなくなり、あのオムライス専門店にも足を運ばなくなってしまっていた。
 今日久しぶりの再会を果たすことになったのは、そっちに遊びに行くから一緒に映画でも観よう、という彼女からの誘いがきっかけだった。もう十月も半ばだというのに、日差しは強く、日焼け止めを塗り忘れたことを酷く後悔するほどの天気だ。秋の姿など見る影もない。今朝見た天気予報では、最高気温三十度と告げられていた。
「本当にもらっちゃって良かったの? このチケット」
 隣を歩くみどりに問うと、彼女は大きく頷きながら、しかしどこか腑に落ちない様子で微笑んだ。彼女は卒業前よりも少し大人びて見えたが、笑うと子供っぽくなる表情は変わっていない。
「いいの、いいの。お母さんと来る予定だったんだけど、妹が熱出しちゃったから」
 妹――。みどりの父が家を出たとき、彼女の母のお腹の中にいた子だ。ちゃんと生まれて、ちゃんと育っている。わたしはそのことが嬉しかった。
「それにしても、変なのよね。お母さんが映画に誘ってくることなんて今まで一度だってなかったのに、チケットまで用意してくれちゃって。妹の看病でお母さんが行けないってなったときもね、お母さんと一緒じゃないならわたしも行かないって断ったのよ、一人で映画ってなんだか心細くて。それなのに、一人が嫌なら友達でも誘えばいいじゃないって、とにかく観てきて、と粘るんだもの」
 彼女の母がそこまで勧めるのならよっぽど素晴らしい作品なのだろう。それに、彼女と観る映画に外れはなかった。わたしは期待に胸を弾ませた。
 本編上映時間は二時間二分、内容はヒューマンドラマといったところだろうか。二十歳を迎えた女が家を出、一人旅をし、その旅先で適当な仕事を見つけ、また金が貯まったら次の旅先へと向かう。これと言ったオチはなく、大きな事件も起きない。ただ、無名の女優の大袈裟過ぎない演技と、独特のカメラワーク、ほとんど音楽を用いないそのリアルさにいつの間にか引き込まれてしまう不思議な魅力のある作品だった。
 しかし、そんなに感動のラストだっただろうか。隣で泣く彼女に、わたしは驚かずにはいられなかった。これまでも何度か映画やドラマを一緒に見たことはあるが、わたしがどんなに感動の涙を流していても、彼女が涙を流すことはなかったし、それどころか、
 「一体どこに泣くほどの感動があったのかを教えて」
 と、からかってくることがほとんどだったのだ。それなのに、わたしが泣かずに彼女が泣いている。それも、声を出して。
 どうしたの。そう尋ねる前に、一体どこにここまで涙を流す要素があったのかと必死で最後のシーンの記憶をたどってみる。そうして、わたしは気付いてしまった。気付きは確信へと変わる。
――岸辺孝文。
 「みどりのお父さんの名前って……」
 彼女は涙でくしゃくしゃになった顔を上げるとこちらを見て、こくり、こくりと、何度も頷いた。そうか、そうか。他所の女なんかのために消えたんじゃない。彼は夢を叶えたんだ。娘の映美に託すはずだった夢を、自分の手で。わたしは彼女の肩を強く抱いた。
 「映美もランチセットでいい?」
 名前で呼ばれたことに一瞬驚いた彼女は、しかしもうそれを拒みはしなかった。きっとこれからは、苗字のあとで名前より先に呼び名を指定することも、下の名前を自己紹介から省くこともないだろう。
 気に入りの店の気に入りの席で以前より美しく笑う彼女を見ながら、わたしはそう思った。

著者

恋子