「君を呼ぶ町」匿名希望

 「ちーちゃん」
夜九時を回った頃、高台から弥生台の駅に向かって声が響く。
「おかあさーん」
こだまのように声が返ってくる。
こんなやり取りを繰り返しながら母は弥生台駅から宮ノ台へ帰ってきていた。
 弥生台駅は母が学生の時にできた。その頃は今のように家やビルもなく、宮ノ台からは弥生台駅を見下ろすことができたらしい。今では目が悪くなった祖母もその当時は弥生台駅から出てくる母を見つける事ができた。宮の台は今よりも畑が占める面積は大きく、夜は真っ暗で、年頃の女の子が一人で歩いて帰ってくるとなればどこの親も心配していたことだろう。だから祖母は母が帰ってくる時間になると高台から弥生台駅から見下ろし、少しずつ大きくなってくる母を見守っていた。そして、まだコンクリートで舗装される前の道を毎晩二人で帰っていたそうだ。
 今では弥生台駅から我が家につながる道はきちんと整備され、夜もだいぶ明るくなった。
 四十年も経てばいろいろと変わる。
 スマホで音楽を聴きながら、あの時スマホがあれば、祖母がこんなに心配することもなかったんだろうなと思いを馳せていた。
音楽が終わり、夜十一時を回っていたことに気づき、かけなれた番号に電話をした。
「あ、もしもし、仕事おわった?明日何時頃に来れそう?」
「うん、もうすぐ家つくとこ。えーと、弥生台駅に十一時五十八分に着くので行くから十二時時半までにはつけるはず。住所わかってるし、アプリ使えばたぶん家まで行けると思う。」
 電話の向こうで大きなあくびが聞こえる。
「意外と距離あるし、車で迎えにいくよ?」
「大丈夫だよ。最近運動不足だし、ちょうどいい運動になる。」
「そぉ。じゃあわかんなかったら電話して。」
「了解。」
弥生台からの道順を電話でどう説明したらいいか考えながらベッドに入って弥生台駅を思い出していた。最近、弥生台の駅前は再開発が進んで、病院や美容室、スーパーが入った木目調のおしゃれな建物ができたり、その少し前には駅のすぐ横にフレンチのお店ができた。少し廃れた印象の駅前が一転、あか抜けた雰囲気に変わった。
 うとうとし始めた時、LINEのメッセージを受信した音で目を覚ました。
【なんか緊張してきたわ。おやすみ。
寝られないかもだけど笑】
【そんなこと言ってるけど、どうせすぐ寝るでしょ笑】
短い文を打って送信する。
特に反論がないということは、彼はもう夢の
中なのだろう。おやすみと心の中で呟き、自
分も重い瞼を閉じた。
 翌日我が家は客人が来るとあって、朝からばたばたしていた。十二時十五分。そろそろ近くまで来る頃だろうか。
「ちょっと坂の上のとこまで迎えに行ってくるー。」
母に声をかけると、台所で食器を洗っていた母が手を止めてちらっと時計をみた。
「え!もうそんな時間?やだー。ちょっとゆっくり歩いて帰ってきて。」
「うん、いってくるね。」
「はいはーい」
玄関には客人を迎えるために金木犀の花が飾られていた。玄関を出て、小走りで坂の上に向かう。もうそろそろ見えてもいい時間だけれども、姿が見えない。道に迷っているのだろうか。ふと高台で母を待っていた祖母のことを思い出した。帰りが遅くなっても当時は連絡をとることもできなかったのだからさぞかし心配したことだろう。その時、手の中のスマホが震えた。
「もしもし、ちょっと迷ったかも。」
「え、だから迎えにいくって言ったのに。」
「いいんだよ、さんぽさんぽ。」
確かに今日みたいな秋晴れの日に、弥生台から我が家までの道をゆっくり歩くのは、気持ちがいい。しかし、今日は目的があって来ているのだから散歩をしていてもらっては困る。
「もぉー駅の改札出てどっちにでた?」
「えーっと右。新しそうな建物がある方。」
駅周辺の再開発で建った建物のことだ。
「うん、あってる。今何が近くにある?」
「ラーメン屋とか八百屋とかの前をずっと歩いてきて、今ケーキ屋のとこ、どこで曲がったらいいかわかんなくて。」
「もう少し歩くと右手に病院があるからその手前の坂を上がってきて。その辺りにいるから。」
「了解。」
そう言って電話を切った。
 大した距離でもないのに五分たっても姿が見えない。そんな不安を掻き立てるように目の前を救急車が横切った。不安が募る。次の瞬間、信号が青に変わり、見慣れたスーツが坂の下に見えたので、思わず名前を呼んだ。自分が想像していたよりもずっと大きな声が出てしまい、彼のうしろを行き交う人が一瞬足を止め、こちらを見たため、思わず、口に手を当てた。「ちーちゃん。」祖母はこんな気持ちで母の名前を呼んでいたのかもしれない。
「おいおい、そんな大きな声出さなくても気づいてるから。」
スーツが小走りで私にかけより、恥ずかしそうに言った。
「ごめん。つい大きい声がでちゃって。それよりなんでこんなに時間かかったの?心配しちゃった。」
恥ずかしさを紛らわすために話をすり替えた。
「ケーキ屋の前でお土産持ってないことに気づいてさ、ケーキ買ってきた。ショートケーキ好きだろ?」
彼はケーキの入った箱を指さしニコッと笑った。
「そんなことに気にしなくてよかったのに。」
彼からケーキを受け取り、我が家に向かって歩き始めた。
「お前よく自分の住んでるとこは田舎だって言ってたけど、そうでもないよな。」
そう言い終えた時、ちょうど右手に畑が大きく広がった。
「いや、いい具合に田舎かもな。」
「そうそう、いい具合にね。でももうすぐ相鉄線は東横線やJRにもつながる予定だからいい具合の田舎でも都会へは行きやすくなるんだよ。」
少し自慢気に言い返した。
「へーじゃあ新居は弥生台の駅近で探すか。」
「そうだね。候補地の一つとして考えておこう。」
 スマホの画面を見る。十二時三十五分。母の要望通り、到着は少し遅めの時間となった。
隣の彼がネクタイを整えるのを待って玄関の戸を開けた。爽籟が金木犀の香りをどこかへさらっていった。

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匿名希望