「和泉川のおじさん」井川正

 
 その人に会ったのは、桜のきれいな季節だった。
 ぼくはいつもの時間に、いつもの場所で、いつも通りスケッチをしていた。
 和泉川(いずみがわ)の狭い河原、やすらぎ橋のたもとに腰を下ろし、向こうにポツンと立っている桜をスケッチブックに描き出した。
 鳥の声が聞こえる。
 四月に入り、頬をなでる風も暖かくなってきた。
 ぼくは桜の上に広がる青空に目をやった。太陽の光が柔らかい。こんな穏やかな日がずうっと続けばいいのに、と思う。
 あと何日かで学校が始まってしまう。春休みは特に憂鬱だ。学年が変わればクラス替えがある。一年間をかけ、ようやく教室の中での立ち振る舞いに慣れてきたところなのに、また一からやり直しだ。
 別にいじめられているというわけではない。
 ただ、人が苦手なのだ。
 話しかけられれば話もするけれど、一人の方が気が楽だ。だから、友達と呼べるような人はいないし、特に欲しいとも思わない。
 だけど、世の中にはお節介なやつがいて、ぼくが一人でいると、寂しがっていると勘違いするのか、やたらと話かけてくる。教室でも、図書室でも。
 だから、こうして一人で時間を過ごせる休みは大好きだ。
 この平穏も、あと数日か──。
 ぼくは、視線をスケッチブックに戻すと、ため息をついた。
 
 川の流れに沿って子供の声が聞こえたのは、それからしばらく後だった。
「お兄ちゃーん、そのボール取ってくれよー」
 目を上げると、子供たちは、狭い河原を上流から走ってくる。指さしているのは川の流れだ。見ると、汚れた野球ボールがこちらに向かって流されている。
「しょうがないなー」
 ぼくは、スケッチブックを横に置くと、流れの方に向かった。
 流れは細く、勢いをつければ、向こう岸までジャンプできるくらいだが、河原が少し高くなっているので、直接、手でつかむのは難しそうだ。
 ぼくは、足元に転がっていた枯れ枝を手に取ると、ボールが流れてくるのを待った。
 水は澄んでいて、川底が良く見える。河原から草が覆いかぶさっているが、その下には小魚が潜んでいそうだ。
 川面には、桜の花びらがチラホラ。その流れに沿って、ボールがゆっくり流れて来た。
 ぼくは、河原からボールの下側に枝を差し入れた。
「えいっ」とすくい上げる。
 だけど、ボールはぼくの持つ枝をするりと避け、そのまま下流に流れていった。
 流れに沿って移動しながら、何度かトライしてみたが、うまくいかない。
「無理だよ、あきらめな」
「ええー、何とかしてよー」
「もう少し下流に行けば、届くんじゃないか」
「そんなあー」
 ぼくは内心、「うるさいなあ」と思いながら、枝を投げ捨てようとした。
 その人が現れたのは、そのときだった。
「うるせえなあ、たかがボールでジタバタすんじゃねえよ」
 突然茂みから出てきたその人は、そう言いながらぼくの脇を通り抜けると、流れの際から川面をのぞき込むと、「そりゃっ」と言いながらザブンと川面に飛び降り、そのままザブザブと川の中を歩くとボールを拾い上げ、「ほらよ」と子供たちに放り投げた。
 子供たちは、「ありがとー」と言いながら、またボール遊びに戻ってしまった。
 その人は、子供たちが走っていくのを見届けると、川から上がり、草むらにどっかと腰を下ろすと、靴を脱いでひっくり返した。
 ザバーッ。
 逆さになった靴からは、水が勢いよく流れ落ちる。
「まいったなあ、ビショ濡れだぜ」
 その人は、そう言いながら、全然まいっていないように笑った。
「あの……大丈夫ですか?」
 ぼくは、ポケットからハンカチを取り出すと、その人に差し出した。
 その人は、チラッとハンカチとぼくの顔を見比べた後、
「いいよいいよ。どうせそんな小さなハンカチじゃあ、どうにもならないし。ほっときゃ乾くだろ」と言った。
「ありがとな」
 その人は、ビショ濡れの靴下も脱いではだしになると、そのままゴロンと草むらに横になった。
 ぼくは、ちょっとあっけに取られたけれど、「変なヒトだな」と思いながら、スケッチブックに戻った。
 鉛筆を持ち、河原から見上げる土手と、その上に生える桜の木、そうしてその下を流れる和泉川の流れをスケッチブックの中に配置して、その線を丁寧になぞっていく。
 茂みの向こうには住宅が迫っているけど、絵の中では省いてしまおう。
 スケッチブックに向かっていると、余計なことを考えずに済むので気が楽だ。ぼくはひたすら鉛筆を動かし続けた。
 そうして、春の短い太陽が木々に隠れ、河原に注ぐ日の光が弱くなってきた頃、ようやく下書きが完成した。
 ふと周りを見回すと、さっきまでボール遊びしていた子供たちも、それから変なおじさんもいなくなっていた。
 ぼくは、スケッチブックをたたむと、河原から土手に上る階段を上って道路に出た。
 クルマ通りに出ると、二ツ橋の交差点。
 厚木街道、中原街道という二つの大きな道路を渡って少し歩くと、家はすぐそこだ。
 
 翌日は、水彩道具を持って河原に向かった。
 まだ午前中だからか、河原には誰もいない。ぼくは昨日と同じ場所に座ると、持ってきたバケツに川の水を汲み、パレットに絵の具をいくつか出して、色をつくり始めた。
 緑と桜と……それから空の色だな。
 川の水はどんな色を使えばいいんだろう。あれこれ考えながら、筆を動かす。
 まずは基本通り、空からだ。
 ぼくは、水色の絵具と白色の絵具に、ちょっとだけ黄色を混ぜて色を作ると、まずはスケッチブックの上側の空間に筆を走らせた。
 ところどころに雲の白を配置しながら、薄く色を塗る。
 水彩画はあまりきっちり塗らなくてもいいから、ぼくは昨日の鉛筆の線を目安にさあっと色を付ける。
 空の雰囲気が出てきたから、次は周りの木だ。
 筆を洗うと、パレットで深緑の色をつくり、外側から色をつけていく。
 うん、いい感じだ。
「ボウズ、絵、うまいなあ」
 突然話しかけられ、思わず声を上げてしまった。
 驚いて振り返ると、昨日、ボールを拾うのに川に入っていったおじさんが後ろに立っていた。
「ちょっと、勝手にのぞかないでくださいよ」
 ぼくはスケッチブックを手で隠しながら言う。
「何だよ、ケチケチすんなよ。うまいからうまいって褒めてんじゃねえか」
 こういう、こっちの都合とか気持ちとかに関係なく、話しかけてくる人は苦手だ。
「それはどうも……ありがとうございます」
 ぼくは、さっさと離れたくて、とりあえずおざなりな返事を返す。
「ボウズ、昨日もここで絵描いてたよなあ。絵、好きなのか?」
「別に……ヒマつぶしですよ」
「ヒマつぶしねえ……。お、ほかにもたくさん絵描いてるみたいじゃねえか。見せてくれよ」
 おじさんは、スケッチブックのページをちょっとつまみながら言った。
「いやですよ。ていうか、おじさん誰ですか」
「おれか? おれは誰なんて立派なもんじゃねえけどよ、ヒマしてる近所のおっさんだよ」
「なんでヒマしてるんですか? おじさん、昨日もいましたよね? 平日ですよ。仕事とかないんですか?」
「イヤなこと言うガキだな。いろいろあって、おじさんは今、仕事してないんだよ」
 うわっ、ヤバいひとだ。
 こういう人とは、なるべく関わらない方がいい。
「じゃあ、見たら向こうに行ってもらえますか?」
「ああ、わかったわかった。とりあえず見せてくれよ」
 しかたない……。見せないとずうと付きまとわれそうだったので、ぼくはスケッチブックを渡した。
 おじさんは、ペラペラとページをめくりながら、時折、「ほう」とか「ふーん」とかうなってる。
「おじさんも絵描くんですか?」
「おれか? いや、まったく描いたことないな」
 なんじゃそりゃ。会話が苦手なぼくが、なんとかひねり出した言葉なのに。
「ずいぶんたくさん描いてるけど、みんなこの辺なのか?」
「このスケッチブックの絵は、みんな和泉川沿いの景色ですよ」
「へえ~、ずいぶんきれいな場所があるんだな。全然、知らなかったよ」
「おじさん、この辺に住んでるんですか?」
「うん、ちょっと離れてるけど、瀬谷の方だ」
 まあ、ここ「二ツ橋水辺公園」に歩いて来るんだとしたら、瀬谷か三ツ境からだろう。
「あの……もういいですか?」
 そろそろ色入れの続きをしたい。
「ああ、悪い悪い。ありがとう」
「そうだ、ついでと言っちゃなんだが、この紙、一枚もらえないか?」
「はい?」
「いやあ、ヒマしてるのはいいんだけどさ、何もしてないと、時間が経つのって遅いんだよ。ボウズの邪魔はしないから、ちょっとおれにも絵描きの真似ごとさせてくれよ」
 いや、ありえないでしょ。と思いながら、それでも、目の前で手を合わせてしきりに頭を下げるおじさんの様子では、断ってもすんなり引いてくれそうにない。
「仕方ないなあ……そのかわり、邪魔しないでくださいよ」
 ぼくはそう言いながら、一番後ろのページを破くと、おじさんに渡した。
「ついでに鉛筆なんかも貸してもらえないか?」
 ふう。思わずため息だよ。
 人間、歳を取ると、こうも厚かましくなるもんかね。
 ぼくは無言で鉛筆を差し出した。
 
 「邪魔しない」という約束だったはずなのに、それからおじさんはひっきりなしに話しかけてきた。
「よう、どこを描けばいいんだ?」
「描きやすいモノとか、描く順番とかってあるのか?」
「何か、全然、形が違うんだけど、どうしてこうなるんだ?」
 いや、もう、……無理。
 今日は色入れだけだったから、午前中には終わると思っていたんだけど、日が頭上高くまで上っても、ぼくのスケッチブックはまだ半分くらいしか色が入っていなかった。
「よう、腹減ったな。メシでも食いに行こうぜ」
 振り返ると、おじさんが後ろに立っていた。
 ぼくは諦めて、道具を片付けはじめた。
 それを見て、おじさんが言う。
「すぐそこのラーメン屋にでも行こうってだけだ。別にそのまんま置いといても大丈夫だろ」
「いや、もう、今日は帰ります」
「えっ、何で? まだ完成してないじゃんか」
「ここまで描けば、あとは家でもできるんで」
「なんだあ、そうかあ。いろいろ教えてもらったから、メシくらいオゴってやろうと思ったんだけどな」
「ウチに帰ればご飯ありますから」
「ふうん、そっか。じゃあ、これ返すよ」
 おじさんはそう言って鉛筆を差し出した。
「いいですよ。おじさんの絵、まだ終わってないでしょ」
「まあ、そうなんだけどな。ボウズがいなくなっちゃうと、どうやって描けばいいのかわかんねえからよ」
「そんなの、スマホで検索すれば、いろいろと出てますよ」
「ほう、スマホね。なるほど、時代だねえ」
「それから」ぼくはおじさんを睨みつける。
「ぼくは中学生ですから、ボウズじゃありません」
 おじさんは、一瞬、キョトンとした顔をした後、大きな声で笑った。
「そうかそうか、中学生か。だけどな、おじさんはもうすぐ五十だ。ボウズの三倍も生きてんだ。だからおれにしてみりゃ、中学生だろうが高校生だろうが、みんなボウズだな」
「……だったら、そんなボウズにいろいろ聞かないでくださいよ」
「はは、そりゃそうだ。こりゃ一本取られたな」
 おじさんはそう言うと、いかにも可笑しい、という顔でひとしきり笑った。
 ぼくは片付けをすませると、土手に続く階段に向かった。
「よう、明日も来るのか?」
 おじさんの声が背中にかかる。
「明日は始業式ですよ」
 ぼくは前を向いたまま答えた。
 
 新学期の教室は何となく落ち着かない。
 昔から知っている顔もあれば、新しい顔もある。担任も初めての人。クラスでは、誰もが自分の立ち位置を模索し、なるべく多くの味方を作ろうと、だけど目立ち過ぎないようにと心を砕く。
 ……中には例外もいるけれど。
 そんな例外に当てはまるのは、とにかく目立つ連中。
 特に運動部に多いが、声も大きく、態度もデカい。
 運動部っていうのは、元々仲がいいのか、部活が違っても、あまり気にしないようで、すぐにクラスの中心になる。
 別に、本人たちにそんな気はないらしいのだが、結果的に、クラスの一大勢力となる。
 そしてもう一方の例外は、ぼくのように、そもそも友達を作ろうと思っていないタイプだ。
 友達が少ないことで困ることなんて、修学旅行の班分けとか、遠足の昼ごはんの時間くらいで、それくらいのことのために、無駄な労力や時間を使うのはもったいないと思っている。
 一定の時間が過ぎて、「こいつはこういうヤツだ」とみんなに認識してもらえば落ち着くのだが、クラス替えしたばかりの時期は、クラス全体がフワフワしているので、ぼくのようなタイプにも声をかけてくる人がいて、その対応に疲れるのだ。
 
 ゴールデンウィークは、そんなぼくにとってありがたい期間だ。
 前半の三連休は雨に降られてしまったけど、後半はいい天気になるみたいだし、ぼくは新しいスケッチブックを用意して、休みに備えた。
 翌朝、ぼくは朝食をとると、スケッチブックを持っていつもの場所に向かった。
 ぼくの家は相鉄線の瀬谷駅の南側。中原街道と厚木街道という大きなクルマ通りが交差するあたりで、その信号を渡ってちょっと歩くと、和泉川(いずみがわ)はすぐだ。
 和泉川は、川に沿って緑道が整備されているから、ここから河原に降りる。
 いつもの場所の周りでは、子供たちが川に入って遊んでいた。
「しょうがないな」
 ぼくはやすらぎ橋を渡り、そのまま下流に向かって少し歩くことにした。できれば静かなところで絵を描きたい。
 川沿いの緑道は、その名の通り、緑の間を縫っていく。
 視界が開けると、一瞬、住宅地の脇に出る。アスファルトの道に戻るけど、次の橋のたもとからは、再び川沿いの遊歩道が続いている。
 このあたりは、大きな木が生えていないので、太陽の光が直に注ぐ。遊歩道から水面までの高さは五メートルくらいかな。歩いているところからは、ほとんど川面は見えない。川岸までびっしり生えた深い緑が、全面を覆っているのだ。
 東山橋のたもとを過ぎると、河原が広がる。遊歩道も河原に降りるので、広々とした緑の中を歩くことになる。
 河原では、シートを広げて寝っ転がってる人や、小さな流れに糸を垂れている人もいた。
 アジサイにはまだ早いが、チョウが数匹、飛んでいる。
 鳥の声も聞こえた。
「ここにしようか」
 ぼくは周りを見回し、良さそうなポイントを探した。
 直射日光が当たって暑いところはイヤだし、かといって景色が見えないんじゃどうしようもない。
 ベンチの前の草地が良さそうなのだが、そこには帽子をかぶったおじさんが、折り畳み式の小さな椅子に腰かけて、熱心にスケッチブックに書き込んでいた。
「先約ありか……」
 ぼくはもう少し下流に移動してみようかと、おじさんの前を通り過ぎようとした。
 ぼくもスケッチブックを持っているので、何となく会釈をしようとしたら……。
「あれ! ボウズじゃんか」
「ああ、おじさんでしたか」
 春休みにいつもの場所で会ったおじさんだった。
「なんだよ、あれから全然来ないから、どうしたのかと思ってたんだよ」
「いや、別に、普通に学校行ってましたから」
「まあいいや、ほれ、あんとき借りた鉛筆、返すよ」
「ああ、別にいいですけど」
「まあ、そう言わずに、受け取ってくれよ。何となく気分悪いじゃんかよ」
 おじさんはそう言うと、かばんから短くなった鉛筆を取り出し、ぼくの手に握らせた。
「おじさんこそ、あれから、絵、描くことにしたんですか」
「いや、絵なんていう大したもんじゃねえけどよ、まあ、ヒマつぶしだよ」
 おじさんのスケッチブックを覗くと、大きな野鳥が描かれていた。
「へえ、スゴいじゃないですか。鳥なんて難しいのに」
「いやあ、ボウズに言われていろいろ調べてみたらよ、今じゃご丁寧に『絵の描き方』なんてサイトもあるんだな。何枚もダメにしたけど、まあ、少しずつな」
「何枚もって……そんなに描いてるんですか」
「まあ、一応、あれから毎日通って一ヶ月ってとこだな」
「一ヶ月って……おじさん、ほんとに仕事してないんですか」
「まあな、まあ、そのことはいいじゃねえか」
「それよりよ、絵の描き方を調べるついでにいろんなサイト見てたら、和泉川ってのは、結構、大した川になってるみたいじゃねえか」
「へえ、そうなんですか」
「おうよ、昔はドブ川でよ、おれらがガキの頃は、とてもじゃねえが水遊びなんかできるような川じゃなかったんだがな、今ではすっかりキレイになって、小魚や野鳥もたくさん戻ってきてるらしいぜ」
 そうなんだ……とは思ったが、ぼくは今の和泉川しか知らないし、そんなに興奮することか? とも思った。
「まあいいや、ボウズも描くんだろ。一緒に描こうぜ」
 正直、一人でゆっくり描きたい気分だったんだけど、結局、おじさんと並んでスケッチブックを開くことになった。
 またいろいろ話しかけられるのかと覚悟していたのだが、意外なことに、おじさんは描き始めると、黙々と鉛筆を動かし続けた。
 おかげでぼくも、周りを気にすることなく、スケッチブックに向かうことができた。
 和泉川を紙の片側に寄せ、手前のアジサイを大きく描く。向こうには木立を配置した。雨の絵にした方がいいかも知れない。
 そんなことを考えながら、線を引いては消しゴム入れを繰り返す。
 こんな試行錯誤が、結構、楽しい。
 
「何だよ、アジサイなんて咲いてないじゃんかよ」
 目を上げると、おじさんがぼくのスケッチブックを覗き込んでいた。
「いいんですよ、今日は下書きだから。構図だけ決めておいて、あとはアジサイの季節に改めて来て完成させますから」
「なるほどねえ。そういう描き方もあるのか」
 おじさんはそう言いながら立ち上がり、「うーん」大きくノビをすると、首をコキコキと鳴らして、大きく一つ、息を吐いた。
「じゃあよ、その絵は別に、今日、完成させなくてもいいんだな。だったらちょいとおじさんにつき合ってもらえねえか」
「はあ? つき合うって、何ですか?」
「この川下ってみようぜ」
「はあ?」
「いや、おれもよ、この川がどこまで続いてんのか知らねえんだよ。せっかくここまで下って来たんだからよ、終いまで行ってみてえと思わねえか?」
「はあ? まったく思いませんけど……」
「まあ、細けえことはいいじゃねえか。行ってみようぜ」
「いやですよ。大体、歩いていくんじゃ、海までなんて絶対行けませんよ」
「ふふふ。ちょうど都合のいいことに、おじさんは今日はアレで来てるんだ」
 おじさんが指さす方を見ると、自転車が止まっていた。
「おじさんが自転車じゃあ、歩きのぼくは一緒に行けないじゃないですか」
 ぼくは、一緒に行く気なんてまったく無いくせに、そう言った。
「何言ってんだい、ボウズが漕ぐんだよ」
「はあ?」
 ……いやまったく、何て人だ。
 気づけばおじさんのペースに引きずられ、ぼくは絵の道具をママチャリのかごに荷物を入れると、おじさんを荷台に乗せて、重い自転車をエッチラオッチラ漕ぐことになっていた。
 
 和泉川に沿った道は、土がむき出しのところもあれば、アスファルトが敷かれているところもある。狭いところは、左右から繁る草で、人ひとり歩くのが精いっぱいだ。そんなところでは、自転車はふらふらと左右に揺れ、向こうから人が歩いてきたりすると、危うくぶつかりそうになる。
「おじさん、ホントにこの道って、海までつながっているんですか?」
「ああ? そんなこと知らねえよ。だけどまあ、川は途中でなくなることはないだろうから、道もつながってるんじゃねえのか?」
 ──なんじゃそりゃ。
 ぼくはペダルをこぎながら、この、計画性の全くない大人にうんざりしていた。
 
 川に沿った道は、ところどころ途切れ、クルマ道を走る部分もあったけれど、それでも、なんとなく道はつながっていた。
 ぼくは、道が途切れるたびに、「ああ、道はここで終わりですね」と引き返そうとするのだが、おじさんはその都度、「ホラ、向こうに道があるじゃねえか。たぶん、アレで行けるぜ」と、新しいルートを探してくる。
 一体、どこを走っているのか全然わからなかったけれど、それでも、川に沿って走っているぶんには、ぼくの家はこの上流にあるわけで、妙な安心感があった。
 そのうちに、細々とした流れだった和泉川の川幅が広くなり、公園みたいな広場が広がった。
 青空の下、犬を遊ばせている人なんかもいる。
「おっ! ボウズ! 後ろ見てみろ。なんか絵になりそうな橋だぜ」
 おじさんの声の方を振り返ると、和泉川に架かる石造りの橋は、2つのアーチを描いていて、確かに絵になりそうだった。
 その向こうには、ちょっと大きな池みたいなのがあって、おっさんたちが釣り糸を垂れていた。
「おじさん、釣りしてる人いますよ。おじさんも、絵なんかより、釣りの方が楽しいんじゃないですか」
「そうだなあ、じゃあ、今度はボウズと釣りしに来るか」
 おじさんは、今日はあくまで自転車で走るつもりのようだ。
 おじさんは、荷台に座りながら、
「それにしても、いつの間にか、こんなところに公園やら釣り池なんかができてたんだなあ」とつぶやいていた。

 池のたもとのクルマ通りを渡ると、すぐに新幹線の高架が走っていた。
 遠くから列車の音が聞こえてきたかと思うと、新幹線が、ものすごい勢いで目の前を駆け抜けていく。
 川沿いに走る道はそこで途切れていた。
「おじさん、さすがにこれ以上は無理ですよ」
「何言ってんだ。川が途中でなくなるわけないんだから、方向さえ合ってれば、そのうちまた会えるよ。このまま南に向かって行こう」
「行こうって言っても、道が途切れてますよ」
「確かに、この山が邪魔だな」
 おじさんは、高架の向こうの小山を見ながら言った。
「じゃあ、この山超えるか」
「はあ? だって道ないですよ」
「ほら、誰かが歩いたような跡はあるじゃねえか。たぶん、山の向こう側までつながってるよ」
 そう言うと、おじさんは自転車の荷台から降りて、さっさと山の中に入っていった。
「ふう」
 ぼくは、大きなため息をついた後、自転車を押しておじさんの後を追う。
 山の中の小道は、おじさんの言う通り、誰かが歩いているのか、細いながらもつながっていた。
 道が下りに転じるところで、おじさんが待っている。
「ほれ、道路が見えたぞ」
 見ると、小道が下った先に、アスファルトが見えた。
「よし……と。じゃあ、一気に行くか!」
 そう言うと、おじさんは自転車のサドルに座った。
「おじさん、こっから自転車に乗って一気に下るつもりですか」
「大丈夫だよ。すぐじゃねえか。さ、一気に行こうぜ!」
「何言ってるんですか。やるなら一人でやってくださいよ。ぼくはいやですよ」
「何だよ、友達がいのないやつだなあ。大丈夫だよ、ホレ」
 おじさんは、自転車の荷台をポンポンと叩く。
「何言ってるんですか。大体、どうしておじさんと友達なんですか」
「えーっ、友達じゃねえのかよ」
「だって、おじさんはたぶんぼくのお父さんより年上ですよ」
「そんなの関係ないじゃんか」
「関係ありますよ! 大体、学校でも友達作ってないのに、何で知らないおじさんと友達にならなきゃならないんですか」
「ゴチャゴチャうるせえな。まあ、いいから乗れよ。ゆっくり下るからさ」
 ぼくは「しょうがないな」とため息をつくと、荷台に腰かけた。ここで押し問答してても仕方ない。
 ぼくが「じゃあ、ゆっくりですよ」というと、おじさんは「おうよ」と前を向いた。
 ところが!
 予想どおりというか、案の定というか、ぼくが荷台に座ると、おじさんは力強くペダルを踏み込んだ。
 二人乗りの自転車は、その重量で一気にスピードを上げる。
「ウッヒョー」
 おじさんは気持ち良さそうに声を上げてる。
 一方、ぼくは、サドルにしがみついて前だけを見てた。
 スピードが出過ぎて、飛び降りることもできない。何とか木立にぶつからないようにしながら、一気にアスファルトまで駆け下りる。
 途中、態勢が崩れて転びそうになった。ぼくは「もうだめだ」と目をつぶったんだけど、おじさんは目の前の木を蹴って強引に立て直した。
「イヤッホー」
 おじさんは、何がそんなに楽しいのか、相変わらず声を上げていた。
 永遠に思えた木立を抜け、不意に振動がなくなったかと思うと、自転車はアスファルトの道を走っていた。
「アッハッハー! 楽しかったなあ」
 おじさんは、しばらくそのまま走り続けた。
 
 坂道を下ると、道は再び和泉川に出た。
 川に沿って走る道もある。
 そこからは、改めてぼくが前に代わり、快適な川沿いの道を走った。
 傾いた太陽が木漏れ日のように注ぐ道を走っていくと、突然、駅前の広場に出た。
「ここ、どこですか?」
「『いずみ中央』って書いてあるな。いずみ野線の方まで来ちまったみたいだな」
「どうします? まだ行きますか?」
「そうだなあ、疲れたし、そろそろ帰るか」
 意外なことに、おじさんはそう言った。
 暗くなり始めた中、来た道を引き返す。
 さっき通った山道は迂回したけれど、そこ以外は川に沿って走れば、そのうち瀬谷に着くから安心だ。
 帰り道に入ると、おじさんは急に無口になった。
 スケッチしていた場所まで戻ると、家はもうすぐだ。
 そのあたりまで来たとき、おじさんがふと言った。
「なあ、何で友達作らないんだ?」
「何ですか、急に。別に、特に欲しいとも思わないし」
「じゃあ、誰かがボウズと友達になりないって言ったらどうするんだ?」
「いませんよ、そんなヤツ」
「ふうん、寂しいヤツだな」
「ほっといてくださいよ」
 そんなことを話している間に、家についた。
 既に真っ暗だった。
 
「すっかり遅くなったな、ちょっとお母さんに挨拶するよ」
「えっ、いいですよ。別にこれくらいの時間、普通だから」
「大体、おじさんのこと、何て紹介するんですか」
「そんなの友達でいいじゃねえか」
「だから、母さんより年上の友達なんておかしいって!」
「そうか?」
 おじさんは不満そうだったが、ブツブツ言いながらも、家のチャイムを押すことはなかった。
「じゃあ、またな」
 そう言うと、おじさんは暗い道を自転車に乗って走り去った。
 
 だけど、それからおじさんに会うことはなかった。
 一年ほどして、ぼくは高校生になっていた。相変わらず友達は多くはなかったけれど、それなりに楽しく過ごしていた。
 その女性がウチを訪ねてきたのは、ちょうど桜の散った季節だった。
 チャイムの音に、お母さんが出て行ったのだが、しばらく経つと名前を呼ばれ、玄関に向かうと、その女性がいたのだ。
 初めて会う人にいぶかしがっていると、女性は一冊のスケッチブックを手渡してくれた。
「あ……」
 おじさんのスケッチブックだった。
 ぼくが顔を上げると、おじさんの奥さんだという女性は、ゆっくり話し始めた。
 実はおじさんは治らない病気で、ちょうど一年前の今頃は、一時帰宅していたらしい。
 ほどなく、予約していたホスピスに入り、冬の間に亡くなったらしい。
「あなたと和泉川を走ったのがよほど楽しかったようで、ずうっとその話をしていました」
「主人は、次の桜は見れないだろうな……と言いながら、最後までスケッチブックに向かっていました」
 ページをめくると、スケッチブックの最後のページには、満開の桜の下を駆け抜ける2台の自転車が描かれていた。
 (了)

著者

井川正