「和田のカッパ」丼山ケン太

 鉄道敷設工事現場でのことである。地面を均し土を盛って突き固め、砂利を敷いて枕木を並べ、いよいよレールを引こうという段になって、突如、カッパが現れてその場に座りこみ、作業を進められなくなってしまった。
 工夫たちが集まってきて立ち騒いだが、逆にカッパは相撲で自分を負かせばどいてやろうと煽ってくる始末である。そこで何人もの力自慢が腕をさすりながら挑んだが、思いのほかカッパは力が強く、かかってきた者たちをことごとく投げ飛ばし、ついでに尻子玉を抜いてしまったので、みな足腰が立たなくなってしまった。
 ついには相撲をとろうという者もいなくなり、とうとうカッパのせいで工事は止まってしまった。

 神中鉄道は1917年(大正6年)に設立され、1926年(大正15年)に厚木から二俣川の区間を開業させた。当初は旅客よりも、むしろ、相模川で採掘される砂利を運んでいた。このころ多かった、いわゆる砂利鉄道である。しかし、石ころや砂を運んで鉄道会社の経営を安定させるのは難しく、開業以来、ずっと赤字が続いていた。
 そこで、二俣川から人の多い横浜へと路線を延ばそうとしていた最中のことである。相手がカッパとはいえ会社の死活問題であり、当然、重役会の議題にのぼった。軍隊に頼んで退治してもらおうという意見も出たが、
「いや、たかがカッパ一匹と侮って安易な手段に訴えるのは考えものだ」
 いつも会議中は居眠りをしている年かさの重役が、妙に充血した目をシバシバさせながら、反論した。
「今度の震災では、絶対に大丈夫と言われていた銀座の煉瓦造りの街並みもダメだった。自然は、まだまだ我らのはかり知れぬ力を秘めている。これを決して軽んじてはならん。もちろん、地震を起こすのはナマズであって、カッパではない。しかし、ナマズとカッパが仲良しで、カッパを退治すればナマズが怒らぬという保証はない。なんとか穏便に引き取ってもらえるよう知恵を絞ろう」
 それを聞いた他の重役たちは一様に不得要領な顔つきになったが、1923年(大正12年)9月1日に南関東を襲い、被災者190万人、死亡あるいは行方不明者10万5千人という未曽有の被害をもたらした関東大震災の記憶はいまだに鮮烈で、なんとなく強硬論を唱える気勢は削がれてしまった。

 そこで、会社は相撲大会を開催することにした。力持ちが集まってくれば、そのうち誰かがカッパを負かしてくれるかもしれないという目論見である。
 事実、かなり大掛かりに宣伝して、賞品も張りこんだので、近郷から力自慢たちがわんさか群れをなして集まってきた。それを見物する人間がやってくる、その見物人を目当てに物売りもまたやってくるで、大会は大盛況となった。
 何人も勝ち抜いた男がついに負け、破った男もまた幾人か抜いたところで土俵を割り、といったことをくり返して次第に大会は白熱していく。

 案の定、相撲に目がないカッパもやってきて、初めは遠くからうろうろと横目で眺めていたが、だんだん近づいてきて、やがて最前列で一心不乱に観戦した挙句、そこまで勝ち抜いた男にしばらく挑む者がいないのを見てとるや、土俵に飛び上がって、
「オレが相手をしてやる!」
 と叫んだ。

 いつのまにやらカッパが紛れこんでいたことに、観客たちは驚いたが、会社としてはしてやったりである。なにくわぬ顔で取り組ませてみたが、予想以上にカッパは強く、並みいる飛び入りたちを押し出し寄り切り上手投げ内掛け欅反り波離間投げうっちゃりと次々に破り、さらに尻子玉を抜いてしまうので、今度もみな立ち上がれなくなってしまった。
 さすがにもう挑戦の声を上げる者もいなくなり、最後まで勝ち抜いた者に授けられる綱にカッパが得意満面で手を伸ばそうとした時、
「待て!」
 の声がかかった。義蔵という男だった。

 この近くに和田稲荷神社がある。御家人の和田義盛が源頼朝の供をして泊まった折、稲荷明神を崇め奉るよう夢に見たことから、創建された神社である。
 その後、義盛は北条氏と争って敗死したが、縁に連なる者がここへやってきて百姓になったという。その裔といわれているのが、義蔵である。背は六尺三寸、膂力衆にすぐれて肚も太く、まわりからは今義盛とおだてられ、世話好きな性格もあいまって、東に揉めごとが起これば足を運んで手打ちに骨を折り、西に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言って両方に怒鳴られたりしていた。しかし、先日、寺の祭礼でテキヤと客の諍いに口を挟んで刃傷沙汰に巻きこまれ、まとめて警察にしょっ引かれてからはおとなしくしていたのである。
 今度の相撲大会でも頭巾をかぶって遠くから観望していたが、近在の誰それでなくこともあろうにカッパが綱を持っていこうとしたのには、いくらなんでも腹に据えかねたのだった。

「ハッケヨイ、ノコッタ! ノコッタ!」
 いざ取り組んでみると、両者の力は互角だった。がっぷり四つに組み合い、互いの力が完全に均衡し相殺し合って微動だにしない。
 しかし、カッパの方に油断があった。相撲に熱中するあまり、頭の皿が乾きかけていたのである。義蔵をじりじりと引き寄せ、いよいよ投げを打とうとしたその刹那、皿が干上がって全身から力が抜け、それまでの熱闘が嘘のように呆気なく投げ飛ばされてしまった。

 もう挑んでくる者はいなかったので、義蔵は綱を腰に巻き、満座の喝采を浴びながら土俵の真ん中でドシンドシンと四股を踏んだ。それから、柄杓に汲んだ力水を頭の皿にかけてやると、カッパはすぐに息を吹き返す。
「これはお見それしました。さぞかし名のあるお方でしょう。ぜひ家来にしてください」
 その場で這いつくばって頭を下げる。
「わが家は和田義盛公の縁につながると伝わっていますが、別に私は家来をとるような身分ではありません」
「ははあ、うちのひいじいさんも義盛公に相撲を挑んで負かされたと聞いています。これはなんでも家来にしてください」
「そんなことより、とった尻子玉を返してあげなさい」
「かしこまりました」
 カッパはすぐに承知して尻子玉を返したので、足腰の抜けた人たちもすぐ歩けるようになった。
「カタビラさまに申し付けられてやって来たものの、こうなっては面目なくてとても帰れません。なにとぞ家来にしてください」
 重ねて頼んでくるのを聞いて、ひさしぶりのお節介がまた頭をもたげてくる。
「いくら面目がないといっても、カッパが川を離れて暮らすのは無理でしょう。かけあってあげます。カタビラさまのところへ案内しなさい」
 カタビラさまというのは、帷子川のことである。線路はここまで、支流の二俣川に沿って走っていた。鉄道ができれば人が増え、どうしても川は汚れてしまう。それだけでもいい加減、憤懣やるかたないところへ、さらに横浜へ延伸するとなると、今度は帷子川本流と並走することになる。ついに堪忍袋の緒が切れてカッパを遣わせ、工事の邪魔をさせたらしい。

「この下です」
 カッパはそこからほど近い帷子川にかかる橋の上へ義蔵を連れてきた。
「ところで、泳げますか」
 というカッパの問いを聞くのももどかしく、すでに義蔵は橋の上から身を川面へひるがえらせていた。しまった、自分はカナヅチだった、なぜ先にそれを尋ねておいてくれなかったと悔やんだ時にはすでに遅く、水中で沈降の真っ最中である。まるっきり泳げないのだから、とにかくブクブクと沈んでいく。瞬く間に陽の光は届かなくなってあたりは一面の闇となり、もう上下も左右も前後もわからなくなったが、それでも体は吸いこまれるようにブクブクと流される。
 帷子川はそんなに大きくはない。ちょっとした淵ぐらいのものかと、少したかをくくって飛びこんだものの、思いもよらない深みに引きこまれていた。こりゃ、地球の裏側までつき抜けるかもしれんと思い、すでに呼吸は限界で意識は朦朧とし、しかし、酸欠で気分は昂揚し楽しくて仕方がなくなったころに、体がどこやらへ、ぼーんと投げ出される。

「うーん」
 全身の痛みに耐えながら目を開き、どうにか体を起こすと、そこには一人の女性が立っていた。浴衣のような、あまりよそ行きでない格好をしている。カタビラさまだった。髪と瞳が赤い。地中の酸化した鉄分が流れ出した様子から、金川の異称が生じ、それが神奈川という地名に転じたともいわれている。
 見た目は女だが、なかなかの暴れ者で、たびたび氾濫を起こしては川べりの住民を悩ましていた。

 義蔵に続いてぼーんとやってきたカッパの様子を見て、カタビラさまは首尾をだいたい悟ったらしい。もとから赤い満面へさらに朱をそそいで叫んだ。
「しゃっ! かくなる上は大水を発して駅ごと流し去ってくれようぞ!」
「お待ちくだされませ、カタビラさま」
 イテテテと腰をさすりながら、義蔵はカタビラさまへ向きなおる。
「省線と違って私鉄は沿線の開発もやります」
「なお悪いではないか」
「ものは考えようです。いずれにせよ、人はやってきます。バラバラに来れば別々に対応しなければなりませんが、今なら会社を相手にするだけですみます」
 姿勢をあらため、深々とお辞儀をした。
「カッパと相撲をとって綱を賜りましたこと、カタビラさまと会社の間を周旋せよとの稲荷明神の思し召しに相違ありませぬ。ゆめゆめカタビラさまの不利にはならぬよう計らいますゆえ、なにとぞこの義蔵にお任せくださりますよう」
 カタビラさまは腕を組んで義蔵に冷たい一瞥をくれ、鼻を鳴らした。
「ふん!」

 そうはいっても人間と全面抗争をくり広げる踏ん切りはつかなかったらしく、カタビラさまは義蔵を地上へ戻して会社との交渉にあたらせた。以後、カタビラさまと会社の間でことが紛糾するたびに、義蔵とカッパは重役室と川の底をせわしなく行き来した。
 それから、工事は順調に進んで1933年(昭和8年)の年の瀬も押し迫ったころにようやく横浜と平沼橋の間が開業し、厚木から横浜までが全通。その2年後に念願の黒字を達成している。この神中鉄道の路線が紆余曲折を経て、今の相模本線になった(現在は横浜から海老名まで)。
 カタビラさまは、それからも何度か暴れたが、今はすっかり丸くなった。帷子川親水緑道や川辺町公園など、水辺で川と触れ合うことのできるところも増え、市民の憩いの場となっている。水は一時期ずいぶん汚れていたが、このごろはきれいになってアユやギバチも戻ってきているという。

著者

丼山ケン太