「和田一丁目公園~雪見花」裏谷ゆきむ

 通り過ぎる電車の窓から投げかけられた光が、横浜新道で頭上を塞がれた道をわずかに照らし出す。それが赤い光跡を残して遠ざかると、ひとときの騒々しさが薄れたものの、立ち止まっていると今度は体の芯が揺さぶられるような不快感に侵される。頭上を途切れることなく行き交う車が、低い響きを投げ捨てていくせいだろう。重苦しい空気を感じながらも、鶴田は立ち尽くしていた。
 横浜新道の下を抜け出せば、遅い時間なりに人通りと光がある。すぐ近くの折り返し地点に入るバスはなく、商店は閉まっているものの、飲み屋にとっては書き入れ時だし、相鉄線和田町駅を目指す人もいる。鶴田は、その先へどうして踏み出すことができず、三角州のような場所へ逸れていった。
 足の裏で微細な氷を踏み砕くような感じがある。会社を出たのはいつもより二時間は早かったのに、帰り着く時間は変わらなさそうだった。
 鶴田は電灯に照らされたベンチへ引き寄せられるように座り込んだ。どんな汚れがあるかわからないと思ったのは一瞬である。背広やコートの汚れを気にする必要はないと思った。そんな考えにとらわれたことが情けなくなってため息をつく。白い吐息はやたら長く滞空して、闇に紛れていった。
 うなだれた鶴田は、改めてその場所を眺めてみた。滑り台と、ラクダの背のようにうねりのある低い雲梯が置かれている。一目で公園とわかるが、冴えた空気は同時に淀んでいて、橋脚の陰にはダンボール箱が打ち捨てられている。
 そんな場所にいる自分は、外からどんな風に見えるだろうとふと気になった。一定の間隔で電車が行き交い、歩行者こそいないが、車の往来もそれなりにある。電車も車も通らない間は、横浜新道から低い響きが降ってくる。鶴田自身、安らかな気分にはなれない。
「おい」
 その声は、面倒事を避けようと思って立ち上がった時に聞こえた。反射的に身が縮まって鞄を取り落とす。いつの間にか小柄な人影が立っている。その瞬間電車が通り過ぎて、陰影を更に際立たせた。
「おい、何をしている」
 男の声には、問い詰める感じがなかった。出ていってほしいのだと直感したが、同時に気遣わしさも感じた。
「いや、何でもないけど」
 鶴田は卑屈にならず、しかし尊大にもならないよう気を配って返事をした。小柄で、穏やかそうな老人だったが、その身なりはかなり乱れている。雰囲気はかなり怪しげで、どんな武器を隠し持っているかわからない。
「そうか。なら、出ていけ」
 少し掠れを帯びた声に迫力はなく、手を出すこともない。それでも、この場所をよそ者に侵されたくないという明確な意思を感じた。
 鶴田は黙っていたが、老人は気に留める様子も見せなかった。橋脚の陰の、ゴミだと思っていたダンボールの中に小さな体を収める。目をこらすと、その中には毛布や何冊かの本がある。あまりに狭いが、ここが老人の部屋、あるいは家なのだろう。
「おい、何故ここにいる」
 老人はワンカップ酒の蓋を開け、一気に煽ってから訊いてきた。
「何でも良いじゃないか、関係ないだろう」
 鶴田は老人の気遣わしげな声に安らいだことを認めないように突き放した返事をした。
 老人は返事をしなかった。目を向けてきたものの、薄闇の中では感情がほとんど読み取れない。不気味ではあったが、危険とは思わなかった。
「ここに俺がいたら、迷惑なのか」
 慎重な鶴田の問いに、老人は顔を上げた。
「何故ここにいる」
 さっきと同じ言葉ながら、声音は違って聞こえた。相手の深層を汲み取ろうとするような柔和さが、暗がりの中からにじみ出す。
「帰るところがないんだ」
 口を衝いた言葉は事実と違うにせよ、嘘ではないと思った。家はある。帰った時に迎えてくれるはずの人もいる。しかし、今の自分が、暗い公園以上にその場所で安らげるかどうかは別の話だった。
「だから、ここにいたいんだ」
 声音を強くすると、暗がりの中に訝しみが混ざった気がした。
「嘘だ」
 その言葉が何を指しているのか、鶴田には判じることができなかった。
「嘘じゃないよ」
「嘘だ。お前には、帰るところがある」
 強い調子ではない。頭上から落とされる低い響きに紛れそうですらある。そんな迫力不足の声に、鶴田は言い返せなかった。
「嘘は嫌いだ。お前は、帰れ」
 老人は暗がりの中から動かなかった。
「わかったよ」
 鶴田は腰を上げた。彼に背を向けても危険さは感じなかった。公園を出て振り向いたが、老人の姿は橋脚の陰に隠れて見えなかった。

 三日続いた晴天の後は雪が降った。風がなく、しんしんという言葉がぴたりと当てはまる降り方だった。鶴田は昼間職場から一歩も出ず、帰路に就く夜、初めて雪を踏んだ。
 相鉄線の星川駅を降りて、線路沿いの道を歩く。ホームレスの老人がいた公園には横浜新道のおかげで雪がないものの、吹き抜ける風は冷たい。ダンボール一つで風の中に眠る老人が気になって、鶴田は公園へ踏み込んだ。
 老人の姿はなかったが、ダンボールに変わりはないように見える。こんな時間にと思わないでもないが、彼にも出かける用事はあるのだろう。
 鶴田はベンチに腰を下ろして息をついた。昼間に比べて強くなった風が、白い吐息をすぐさま吹き散らした。
 公園を出れば白い道へ踏み出すことになる。それが家路だ。今までとは比べものにならない寒さになっていくだろう。早く帰った方が良いとわかっていても、腰は浮かない。
 公園の外から見たら、公園にいる自分はどう見えるだろう。そんなことを思った時に、砂を踏み鳴らす音が聞こえた。
「お前、こんなところで何をしてる」
 人影が、通り過ぎていく電車から投げかけられた光に浮かび上がった。
「ちょっと休ませてもらってる」
 また出て行けと言うのかと思ったが、彼はあまり関心を持たないようだった。
 ダンボールの中からコンロを取り出し、その上に乗せた小さな鍋にペットボトルから水を注ぐ。コンロの周りをダンボールで覆ってから火を灯した。
 小さな鍋の中で、水はすぐに沸騰を始めた。その中にワンカップ酒を置く。数分で彼は火を止めた。
 老人は鶴田が座るのとは違う、隣り合ったもう一つのベンチに腰を下ろした。ワンカップ酒の瓶からは湯気が立ち上っている。老人は喉を鳴らし、満ち足りたような息をついた。
「どうしてここで休む」
 ふと、老人が尋ねてきた。車と電車が投げ捨てていく音の間隙を突くようなタイミングだった。
「休むなら、もっと別の場所があるはずだ」
 鶴田は頷きかけた。雨や雪は防げるものの、風は容赦なく吹きつけ、音はひっきりなしに飛び交っている。それが老人のねぐらだった。
「そうでもないんだ」
 鶴田は知らず、自嘲気味の笑みを漏らしていた。
 ここよりも遙かに温かく、打ち捨てられたような家よりも遙かに立派な建物を知っているのに、寒く騒がしい場所に安らぎを感じてしまっている。自分はどこかおかしくなったかもしれない。それが笑えなければ、何を笑うだろう。
「帰ったら、今の俺を喋らないといけなくなる」
 それを避けるためには、顔を合わせないこと。夜は誰よりも遅く帰り、朝は誰よりも早く出ていく。
「終電が出る頃には帰るから、それまでいさせてくれ。何もしないから」
 老人は酒を飲み干して、その空き瓶をダンボールの傍に置いて、ダンボールの家に寝転がった。そして蓋をするように屋根を下ろす。
「ありがとうよ」
 勝手にしろと言われたようでありがたかったが、返事はなかった。
 救いにはほど遠いとも思う。明日の朝が近づいている以上、いずれは帰って準備をしなければならない。
 その必要は、限りなく薄くなったというのに。
「おい」
 今夜はもう聞かないと思っていた老人の声に、鶴田は少なからず驚いた。
「酒が飲みたいなら、駅の方に自販機がある。そこで買え」
 ダンボールの蓋がわずかに開いていた。そこから声が漏れている。
 礼を言うべきなのか、老人の意図を掴みかねている間に蓋は閉じられてしまった。
 鶴田は自分が進むべき方向を見遣った。自販機は確かに見えたが、そこへ歩いて行こうとは思えなかった。

 数日間立ち寄らなかった公園を覗くと、ダンボールの家は相変わらず橋脚の陰にあった。ゴミのようにしか見えないが、その中に人が一人生きていると思うと侮れない。
 ダンボールの家を覗くと、その中で老人は蹲っていた。
「おい」
 鶴田は思わず声をかけた。老人の服はところどころすり切れていて、ダンボールの家に風が吹き込むのに任せている。わざとやっているのではないか。そう思うと呼びかけの声は大きくなった。
「何だ、お前」
 老人は目を開けた。暗さの中では気づかなかったが、少し近づいてみると目やにで汚れているのがよくわかった。
「死んでんのかと思った」
「そうだったらどうしていた」
 何気ない問いかけに答えを詰まらせる。
「とりあえず警察を呼ぶよ」
「無駄なことをするな。警察に何ができる」
 老人と話をしていて、初めて明確な敵意を感じた。
 警察が嫌いかと訊こうと思って口を噤んだ。警察を含めた、全ての公権力への敵意が老人の声にはあった。
「眠るならもっと良い場所があるような気がするけど」
 老人に率直な思いを告げると、彼は首を振った。
「必要がなければ出ていくことはない」
「寒くないのか」
「そうでもない。できるだけ動かずにいれば死なずに済む」
 表情に変わりはないが、声には微かな揺らぎが聞き取れた。
「それなりに温かいし、死ぬ時はその温かさの中で死ねる」
「そんな寂しいこと言うなよ」
 自分の言葉に鶴田は戸惑った。普段なら通り過ぎるような場所に立ち寄ったがために、気まぐれで出会ったような相手がいなくなることに、気持ちを揺さぶられるような気がしている。
 それでも、言い募る気持ちは起きなかった。今更希望を説いたところでお互いの胸に響くとも思えない。
「お前も死ぬ時は温かい場所で死ね」
 その言葉には鋭さがあったが、老人なりの気遣いを感じた。
「そうはいかない。まだ」
「何故だ」
 それを問われるとは思わなかったが、鶴田は言葉を探して返事をする。
「家、家族。色々ある。あんたにはわからないか。逃げたくたって逃げられないことがある」
「そうか。だが俺は逃げた」
 ずっと淡々としていた老人の声に歪みが生まれた。さっきの敵意とは違う湿性の声だった。
「その末路が今だと思うなら、笑うが良い」
 語られない背景を追及することはせず、鶴田はベンチを立った。
 戻ってきた時、鶴田の手にはカップ酒があった。
「コンロを出してくれ」
 老人は闇の中で微かな笑みを見せたようだった。
 温められた酒が二つの猪口に注がれる。安酒の、甘辛い香りが漂った。
「毎度毎度、何の帰りでここに寄る」
 老人に訊かれ、仕事だよ、と答えた。
「他に何がある」
 夜の遅い時間に出歩く理由を鶴田は思いつけなかったが、
「ただ歩きたいだけ。酒を飲みに行きたい。金になりそうなものを、人目を避けて探している。色々ある」
 一人では思いもしなかった答えが妙に新鮮だった。
「お前はそんなことをする必要はない」
「仕事があるからか」
 仕事のことを口にすると自嘲が口に上る。
「そんなもの、もうない」
 それを外で口にしたのは初めてだった。いつかは言葉にして伝えなければならないと思いながら時間ばかりが過ぎていて、どんな言葉が相応しいかと考え続けていた。それが、たった一言、見ず知らずの相手の前で成し遂げられた。あまりに簡単で、肩すかしを食らった気分だった。
「もう、ない」
 もう一度口にする。そうすると身も心も軽くなったような気がして、そしてどうしようもなく胸が揺さぶられた。
「仕事を失って、お前もそれで帰る家を見失ったのか」
 その言葉に胸を衝かれたような気がした。
「お前も、って」
「つまらん話だ」
 老人はわずかに顔をしかめたように見えた。
「昔、俺にも家があった時期がある。それを、金だけを信じた挙げ句に見失って、いつの間にか本当になくなってしまった」
 初めて聞く老人の身の上話は、金という老人の身なりには似つかわしくない言葉が出てきたせいか生々しかった。
「お前のことは何も知らないが、こんな寒い場所に安らぎを覚えてはいけない人間ということだけはわかる。見つけ直すには時間がかかるだろうが、時間をかけてでも見つけ直すことだ」
「あんたを反面教師にしろって言うのか」
 斜に構えた言葉が出て、少し後悔した。
「自分によく似合う生き方を思い出せということだ。俺のことなどどうでも良い」
 老人は酒を呷り、そのままうなだれた。
「おい」
 その姿が妙に静かで、まるで生気を失ったように見えたので、鶴田は体を揺さぶった。
 寝息が聞こえる。それは老人のものにしては、意外なほど規則正しく、穏やかだった。
 鶴田は少し迷って、老人をベンチの上に寝かせてやった。自分によく似合う生き方を思い出すこと。そして寒い場所に安らぎを覚えないこと。言葉が脳裏に蘇って、鶴田はベンチを立った。

 公園へ戻ってきたのは年が明けてからだった。今年の降雪量は例年以上で、厳しい寒さの中で老人がどうなっているのか心配になって様子を見に行くが、そこに老人の姿はなかった。
 彼がねぐらにしていたダンボールの家もなくなっている。ごみはきれいに片付けられて、人がいた痕跡は全く見いだせない。
 遊具では子供が遊んでいて、若い母親らしき女がベンチに座ってスマホの画面をのぞき込んでいた。鶴田は老人がいた時期とは違う場所になってしまったことを感じ取った。
 それで良いはずだった。老人はホームレスで、公園にいて良い存在ではなかった。公園であるなら、子供が遊ぶのが本来の姿だろう。決して、ホームレスのねぐらになって良い場所ではない。
「遅かったか」
 せっかく良い話を持ってこられたのに、少しタイミングが合わなかったらしい。新しい仕事を見つけて、少し慣れてきて、自分によく似合う生き方を思い出せそうな気がする。そんな話をできそうだったのだ。
 鶴田はその次の日も公園を訪れた。今日は誰もいない。鶴田は持参したカップ酒の空き瓶にペットボトルから水を注いで、近くで摘んできた花を供えてやった。
 橋脚の陰、老人が長く寝起きしていた場所に花を差した瓶を置く。その花は、道の上に積もった雪を望むように置かれた。
 
     〈了〉

著者

裏谷ゆきむ