「喘息マップ」大平洋子

 苦しい。息ができない。痰がからまって気道が塞がれている。息を吸い込もうとすると、ヒューヒューと音がする。このひどい喘息のために現在わたしは休職中だ。
 咳が出始めたのは中学の教員に採用されて三年目。黒板を消したチョークの粉で咳が止まらなくなった。呼吸器科を受信すると、喘息です、と言われた。二十代半ばで喘息になるなんて。耳を疑った。
 始めて担任を任されたクラスには、耕平という男の子がいた。不登校の子供だった。母子家庭で母親は昼間は家にいない。彼は家に閉じこもり毎日テレビを見て過ごす。彼と話すうち、不登校の原因が友達からのいじめであることが分かった。
 わたしはいじめをしている生徒とも話し合いをした。けれど、どの子も自分はいじめなどしていない、と言う。そのうち「先生、しつけえよ。」と、話し合いにも応じなくなった。仕方なく家庭訪問すると、両親からは迷惑だと言われた。
 それでも何度か訪問するうち、先生は百日咳だから授業から外してほしい、という要望が寄せられた。わたしが喘息であることを校長は説明してくれたけれど、聞き容れられなかった。百日咳ではないにしても先生は健康ではないのだから、しばらく担任を休まれてはどうか、と別の父母の意見も寄せられた。
 父母の要望に添うかたちで、校長はわたしを特別支援教室の担当に変えた。もちろん校長の処遇には不満だった。担任としてまだ頑張れると思っていた。けれどわたしがそう思えば思うほど、校長はわたしを疎むようになった。職員会議でも無視された。他の先生方までよそよそしい気がして、とうとう自分から休職願いを出した。
 耕平に「ごめん。先生、休職することにした。」と伝えた。耕平は黙って頷いた。
 「さわやか呼吸器科」で処方された治療薬はちゃんと服用した。けれど、家で悶々としているうちに喘息の症状はさらに悪化し、とうとう布団に横になることができなくなった。横になると気道が下がり、空気の通り道が確保できないのだそうだ。
「先生、全然さわやかじゃないんですけど。」
「花井さんにはこの薬もダメなのかな?」と先生も当惑ぎみだ。
「なんとかしてください。」
「この薬はたいていの患者さんに有効なんだけどねえ。」
「吸入して三十分くらいは楽なのですけれど、すぐにまた喉が詰まるんです。」
「空気のきれいな場所に転地療養でもするか。」
「休職中のわたしにそんなお金があるわけがないじゃないですか。」
「確かに転地療養は金がかかるな。」
「そんな余裕があればこれほど先生を当てにしません。」
「だよな。」と先生はちょっと考え込んでから言った。
「仕方がない。奥の手を使うか。僕の最終秘密兵器だ。」
 最終秘密兵器?
「僕の知り合いで、投薬治療だけで喘息を治すやり方に異を唱える人がいてね。もっと別のやり方もあるはずだと、その人は空気の澄んだ場所を調査したのだ。もしそういう場所が近くにあれば、わざわざ転地療養に行かなくて済むからね。」
 わたしは思わず膝を乗り出した。
「同じ場所でも風が強い日と弱い日、雨の日と晴天の日では条件がまったく違う。彼の調査は楽ではなかった。けれどその人は十年かけてマップを作りあげたんだ。名づけて『喘息マップ』。」
「つまり、空気のきれいな場所が地図になってるってことですか?」
「そう。空気のきれいな場所はグリーンに色分けされている。グリーンゾーンでは重症の人も楽に呼吸ができるそうだ。」
 そんな場所があるなんてにわかには信じられなかった。
「わたしだっていろいろと試しましたよ。学校の教室も体育館も校庭も屋上も、家の居間もトイレも。でも、どこもダメでした。」
「彼が調査したのは、個人の生活領域ではなくて、公園とか河川敷とか、誰でもアクセスできる場所だ。」
「わたしの暮らしている地域にもグリーンゾーンがあるのですか?」
「それは彼に聞いてみないと。会ってみるかい?」
 半信半疑ではあったけれど、そのグリーンゾーンを試してみる価値はあると思った。
「ぜひお会いしたいです。」
「処方した薬が効かないとなると、別の病院を紹介するくらいしかもう打つ手はないからね。それに別の病院を紹介したところで、結局、同じ薬を試すことになるだろう。」
「薬はもう十分に試しました。」
「まあ、そう言うなって。患者さんに合った薬を捜すのはけっこう大変なんだ。」
「それにしても先生、どうして最初から最終秘密兵器を使ってくれなかったんですか?」 
「それはだな、つまり、その、医者としての沽券にかかわる。」そう言いながら先生は、その人の名前と住所を紙に書いてくれた。そこには中林五一郎なる人物の名前があった。
「終点でバスを降りたら白壁の蔵が見える。蔵を目指して行けば大きな屋敷に出る。彼はそこにいる。昼間から酒を飲んでいなければ少しは役に立つはずだ。」

 
 バスを降りると田んぼの向こうに白壁の蔵が見えた。先生の言った通りだ。蔵を目ざして田んぼ道を歩いて行くと、塀を張り巡らせた大きな屋敷に出た。木立に囲まれたどっしりとした屋敷である。
 塀に沿って屋敷の表に回ると、玄関の軒下に杉玉が吊るされていた。新酒の絞りを始めました、という合図に吊す杉の葉の丸い玉である。どうやらこの家は造り酒屋らしい。
 庭には色づいたモミジの木があって、落ち葉を掃いているモンペ姿の人が見えた。すみません、と声をかけた。手拭いを被った顔がツッと振り向いた。まだ二十歳になるかならないかの若い女性だ。
「あの、こちらに中林五一郎さんという方はいらっしゃいますか?」
「はい、はい。」とその人は返事をし、持っていた竹ぼうきで屋敷の奥を指した。「離れにいます。どうぞこちらに。」と落ち葉の積もる庭を案内してくれた。
「立派なお宅ですね。離れまであるのですね。」
「しばらく使っていなかったので荒れ放題だったのですが、ゴイチが、あ、うちでは爺ちゃんがそう呼ぶので、五一郎さんのことゴイチって呼んでいます。ゴイチが自分でリフォームして句会に使っていました。ゴイチとうちの爺ちゃんは昔からの俳句仲間だそうで。」
 五一郎さんは喘息マップを作っただけでなく、俳句までたしなむ人らしい。
「最初は句会のときだけ離れを使っていたんですが、ゴイチはこっちの方もめっぽう好きで。」と彼女はお猪口を口に運ぶしぐさをする。
「うちの杉玉が茶色になる頃には必ず来て、その年の新酒を爺ちゃんと飲んでいました。そのうち自分の樽が欲しいと言い出して、人のいい爺ちゃんがゴイチ用の樽を用意してやったんです。」
「マイ樽ってことですか。」
「そうです。次の年には仕込みもやりたいと言い出して、結局離れに居着いちゃったのです。最近では酒米の買い付けにも出かけています。今日はそのマイ樽の樽開きをするとかで、朝から爺ちゃんと離れにおります。」
 庭の突き当りに藁ぶき屋根の風雅な家が見えた。これがその離れらしい。一段低くなった廊下で母屋につながっている。開け放たれた障子から中の様子が見えた。二人の老人が昼から豆腐を肴に酒を飲み声高に話していた。
「ゴイチの作った白鷺の俳句・・・・」
「白鷺の姿かくして稲青し。これか?」白鷺の句を作った老人が五一郎さん、もう一方の老人はわたしを案内してくれた娘さんのおじいさんらしい。この造り酒屋のご主人だ。
「うん、それな。なんか盗作っぽいな?」
「盗作なもんか。米のでき具合を北茨城まで見に行ったときに作った句だ。あの辺りには白鷺がたくさんいてな、タニシやザリガニを捜して、田植えしたばかりの苗の間を歩き回っている。稲の緑と白鷺の組み合わせがそれは見事だ。」
「知ってるよ。俺も一緒に行ったんだから。」
「田植えの頃は鷺の姿はそのまま見えるが、そのうち稲はぐんぐん伸びて、梅雨の頃にはちょうど鷺の背丈と同じくらいになる。それを詠んだんだ。映像が見える実にいい句だ。」         
「けど、どっかで聞いたことがあるんだよな、中七の姿かくしてってのが。それを使ったら、別の句がすぐにできる。」
「そこまで言うならやってみろ。」
「そうだな、えーと、金木犀 姿かくして匂いけり。」
 うーん、と五一郎さんが唸った。
「ゴイチにお客様。」とわたしを案内してくれた娘さんが二人に声をかけた。
「おう、サキ坊か。」五一郎さんがわたしたちをかわるがわる見る。
「また、昼から酒を飲んで。」サキさんと言われた娘さんが箒で縁先の板をトンと叩いた。
「こっちの爺さんがゴイチ、で、こっちがうちの爺ちゃんの松蔵。」
 わたしは自分の名を告げ二人に頭を下げた。そして治療に通っている呼吸器科の先生が、五一郎さんを紹介してくれたのだと説明した。
「喘息か。それは難儀だな。」五一郎さんが言った。
 すると松蔵さんは、「ま、とりあえず上がって。」と座布団を勧めてくれた。
「この爺さんたちは話し相手なら耳の聞こえない人でも大歓迎です。遠慮なくどうぞ。」サキさんが言った。
 わたしは勧められるままに座布団を当てた。 
「どこの呼吸器科の先生の紹介かな?」五一郎さんが聞いた。
「さわやか呼吸器科です。」
 よく見ると、五一郎さんは意外とイケメンだ。見たところ、七十台前半。それなりに髪も白く顔にはしわも刻まれているが、鼻筋が通って品があった。その品のよさそうな五一郎さんが急に眉間にしわを寄せて言った。「また、あの藪医者か。」
 またってどういうこと?
「あんたで十六人目だ。何の連絡もせんで勝手に患者をわしに押し付ける。」
 さわやか呼吸器科の先生の最終秘密兵器と言うのは、この怒りっぽい爺さんのことだったのか、と急に不安になった。病院を変えた方がいいかも、と思った。
「あのう、喘息マップというものがあるって聞いたんですけど。」
「わしの喘息マップを勝手に当てにせんでもらいたい。」と五一郎さんは言った。
「まあまあ、ゴイチ。こちらの娘さんにそう怒っても。」と松蔵さんがとりなしてくれた。
「俺はあの藪医者のことを言っているのだ。」
「喘息マップは本当にあるのですか?」それだけは確認しておきたかった。
「ある。が、残念ながらまだちょっと精度が低い。俺が自費をはたいて個人的に調査したものだから、被験者の数が少ないのだ。」
「空気のきれいな場所がグリーンに色分けされている、と先生は言っていました。」
「ピークフローの数値を調査したんだ。様々な場所で様々な気象条件のときに。十年もかけた。だからある程度の信憑性はある。だが当てはまらない人もそれなりにいる。アレルギー症状は一筋縄ではいかないのさ。」
 急に失望がこみあげてきた。
 すると松蔵さんが言った。「ゴイチ、花井さんにも調査に加わってもらったらどうだ。お前さんの言う精度も少しは上がるだろ?」
「来月は調査があるって言ってたじゃない。」サキさんが言った。
「おお、そうだ。来月は調査だったな。花井さんにも一役買ってもらうとするか。」
 わたしとしては、手っ取り早く自分の家の近くのグリーンゾーンを教えてもらえばそれでよかったのだが。
「もし調査に加わってもらえるのなら、せっかくだから花井さんの住まいの近くを調査しよう。そうすれば花井さんの喘息の症状がそこで軽減されるかどうかすぐに分かる。」
 なるほど、と思った。
「参加します。」とすぐさまわたしは答えた。
「じゃ、話しがまとまったところで、いよいよゴイチの酒の樽開きだ。」と松蔵さんが待ちかねたように言った。
「さっきまで飲んでいたのはゴイチの樽のじゃないの?」とサキさんが聞いた。
「あれは他の酒造メーカーの新酒だ。いろいろ飲み比べているのさ。これも仕事のうちだ。」松蔵さんが答えた。
「じゃ、いよいよ樽を開けるぞ。この日のために一年頑張った。花井さんもせっかくだから飲んでいきなさい。こんな日に俺を訪ねて来たのも何かの縁だ。」五一郎がわたしにお猪口を差し出す。
「うん、それがいい。今年の新酒は今日しか飲めない。」と松蔵さん。
「じゃ、わたしも。」サキさんは自分でお猪口を手に取った。
 五一郎さんが注いでくれた酒は、お猪口の底をかすかにクリーム色に染めていかにも旨そうだ。
 サキさんがお猪口の角から酒をすすった。そしてゆっくりと口の中で転がしてからごくっと飲んだ。サキさんが顔をしかめた。わたしも口をつけてみた。ツンとアルコールっぽい刺激が鼻に抜ける。
「まろみがまったくない酒だなあ。」と松蔵さん。
「そんなはずはない。」と五一郎さんがお猪口を口に運んだ。そして喉仏を揺らしてごくっと飲むと、ぼそっとつぶやいた。
「うーむ、確かにな。」
「そう簡単に美味い酒ができるものか。俺ももう五十年もやってるが、満足するものは片手で数えられるほどしかできない。酒は生き物だ。」と松蔵さんが言った。

 
 やわらかい冬の光が穏やかな朝だった。調査に参加するためわたしたちは相鉄線の大和駅に集合した。駅から五分も歩くと「泉の森」いう森林公園があるそうである。
 駅の広場で五一郎さんがわたしたちに、泉の森での調査を説明する。
「泉の森は相鉄線の大和駅と相模大塚駅にまたがる大きな森だ。都心に近い住宅地の中に、これだけ大きな自然のままの森が維持管理されているのは驚きだ。市道を挟んで、泉の森とふれあいの森に別れている。泉の森には水源があり湧き出た水を溜めた池がある。しらかしの池と名前がついている。」
 予め地図が配られていた。その地図でしらかしの池の位置を確認する。
「池の水は小川になってふれあいの森の中を流れて行く。それがやがて引地川になって相模湾に注ぐ。池の周辺にはシラカシと言う木の自生林があるので、池にもその名前がついているようだ。シラカシは、以前はどこにでも当たり前に生えていた木だが、切り倒されて自生している場所はほとんどない。だから泉の森は本当に貴重な森だ。森が大きい分、木の本数も種類も多くても空気はきれいだ。」
 わたしたちのミッションは森の様々な地点に行き、その場所での空気の通り具合を自分の喉で確かめ、さらにピークフローを計ることだった。そして渡された地図にピークフローの数値を記入する。
 まず駅の広場でピークフローを測定する。森に入ってから数値がどう変化するか調べるためである。マスクを外しピークフローメーターをくわえる様はどう見ても怪しい。駅に急ぐ人々が怪訝な顔で私たちを見る。
 わたしは調査が初めてなので、丸山さんと言う女性が案内役をかって出てくれた。丸山さんは真っ先に『野外教室広場』に連れて行ってくれた。森の中でいちばん空気がきれいな丸山さんお勧めの場所だ。
 直径十メートルほどの円形の台がふたつあり、木々の隙間をくぐり抜けたやわらかな光が影を落としていた。遠足に来た子供たちが、円形に座ってお弁当を食べる場所らしい。わたしたちも並んで腰かける。
 頭上の梢で小鳥の甲高いさえずりが聞こえた。辺りを見回すが姿は見えない。どこかでコンコンとハンマーでも打っているような音も聞こえてくる。
「ほら、あそこ。アオゲラ。」と丸山さんが指さす。嘴の横に鮮やかな赤い模様のある鳥が、木の幹にしがみついてしきりに嘴を打ちつけている。
「ここはマスクなしでも大丈夫よ。」と丸山さんがマスクを外した。
 わたしもこわごわマスクを外してみた。ひと息、またひと息、森の空気を吸う。すると痰で塞がれていた喉が少しずつ軽くなって行く。気道が押し広げられて冷んやりした冬の空気が肺に染み渡る。こんな爽快さは久しぶりだ。
「ああ、気持ちがいい。」とわたしは思わず空を仰いだ。葉を落とした枝の隙間から見える空がやけに高い。
「でしょ? この森に入るとたいていの喘息患者がマスクが要らないと言うの。」
 不思議だ。森に足を踏み入れただけで、これほど楽に空気が吸えるようになるとは。今までどこに行ってもこんなことはなかった。
「五一郎先生の勧めで、わたしはもう何年も森を歩いているの。先生が言うには、歩いているうちに自律神経も整えられて、喘息にも効果があるのですって。」
「ちょっと待ってください。」とわたしは思わず聞いた。「五一郎先生って? 五一郎さんってどういう方なのですか?」
「知らなかったの? 五一郎先生はお医者さまよ。あなたの通っているさわやか呼吸器科の先生のお父さんよ。」
「えっ? 五一郎先生の姓は中林です。でもさわやか呼吸器科の先生は違います。」
「呼吸器科の先生も以前は中林だったのよ。でも、大学生のときに好きな人ができて、さっさと養子に出ちゃったの。」
「それで姓が違うんですか。」
「あそこはもともと五一郎先生が始めた病院で、しばらくは親子で診察していたんだけど、数年前に息子に病院を譲って、五一郎先生はリタイアされたの。」
 丸山さんは空を仰いでひときわ高い木を指さした。
「この森では春になるとオオタカが巣作りするの。オオタカが輪を描いて飛ぶ姿がここから見えるわ。騙されたと思ってあなたも春まで森を歩いてごらんなさい。きっとよくなるから。」丸山さんは微笑んだ。
「そうですね。」とわたしも微笑んだ。  
 調査に参加した翌日からわたしは森を歩き始めた。喘息を治して一日も早く復職したかったし、森は自分の住まいから自転車で行ける距離で、ちょうどいい運動にもなった。
 雪の日には森はシンと静まり返って自分の足音が冷えた空気に吸い込まれて行く。降りしきる雪の中でしらかしの池のほとりにアオサギがじっとうずくまっていた。春になると森は一斉に活気づく。緑の若葉が地面から顔を出しその上を羽虫が舞う。どこからか渡って来た鳥が梢の間でさえずる。
 春になりわたしの喘息の症状は少し軽くなっていた。丸山さんの言った通りになった。森を歩くのはすでに生活の一部になっていた。
 その年は九月の初めに台風が上陸した。翌日は空がひときわ高く、夏の名残りの日差しが森に降り注いでいた。風で吹き飛ばされた木々の枝が森の散策路をふさぎ、なり始めたばかりの楢の実や椎の実が地面に散らばっていた。落ちた実はプツプツと靴の下で弾けた。枝や葉にしがみついていたセミやカマキリも、足を縮ませて地面に転がっていた。
 森の小高い丘には神社があり、神社への階段の昇り口に銀杏の大木がある。銀杏の木は、十六歳で徴兵された土地の若者が、戦地に赴く前に植えたものだそうである。若木は時を経て立派な大木に育ち、境内を訪れる人々を見守っている。森に来るといつも神社にお参りして、早く仕事に復帰できますように、とお願いをする。
 台風明けのその日も神社に詣でた。すると清めの水場の前に自転車が置かれ、石灯籠の下に人の影があった。しゃがみこんで一心に地面を見つめている。少年の華奢な背中がじっと動かない。
 わたしの足音に少年が振り向いた。見覚えのある顔だ。少年も驚いたようにわたしを見つめる。それはわたしのクラスの不登校の子供だった。
「誰かと思った。花井先生か。」と耕平は少しだけ穏やかな表情になる。
「こんなとこで会うなんてね。」
「たまに森に来るんだ。ひとりでテレビ見ていてもつまらないから。」
 わたしは耕平の隣にしゃがんで地面に顔を近づけた。一匹のセミが羽を下に敷石の間に横たわっていた。縮こまった足を宙に突き立てセミは動かない。
「昨日の台風で地面に叩きつけられちゃったんだね。」とわたしは言った。
「うん。でもここに置いといたら、お参りに来た人に踏んずけられちゃう。」
「かわいそうだね。」
「あそこの木の下だったら大丈夫かな?」と耕平はご神木を指さす。屋代の脇にしめ縄を張ったトウヒがある。
「そうね。あの木の下なら神様が見ていてくれる。」
 耕平がセミの胴体をそっと摘まんだ。するとセミの足がかすかに動いた。
「わっ、生きてる。」耕平が声をあげた。
 耕平は両手でセミを包んでご神木の根元まで運んだ。セミは置かれた場所を探るように足をばたつかせた。六本の足が何度もむなしく空を切った。けれど、やがてそのうちのひとつが木肌にひっかかり、セミはズイと体を起こした。二本の後ろ足が地面を蹴ってセミは木の幹をわずかに這い上がった。そしてひと足、またひと足、確かめるようにゆっくりと、けれどまっすぐに幹を昇り始めた。
 わたしたちは息をつめてじっとセミを見守った。最後の力を振りしぼっているようだった。三十分ほど這い昇りセミはピクリとも動かなくなってしまった。どこを見ているのか分からない複眼の目が、なぜか悠然とわたしたちを見下ろしていた。
「もう動かないね。」わたしはセミの背中にそっと触ろうとした。
 すると耕平がわたしを押しとどめた。「だめ。先生。触っちゃだめ。」
 わたしは肯いた。そっとしておくのがいい。死んだことを確かめる必要などない。
 その日から毎日、わたしは耕平とご神木の根元で会った。特に約束したわけではない。けれど、なんとなく同じ時間に耕平も神社に来ていた。セミが気になってご神木を見に来ていたのだ。あの日のまま、セミはしめ縄の少し下で木の幹にしがみついていた。
 半月ほど経ったとき二度目の台風が来た。その翌日、セミの姿はもうそこにはなかった。そして耕平も森には来なくなってしまった。
 けれどしばらくすると学校の養護教諭がわたしにメールをくれた。一週間に一度登校する保健室で、耕平は養護教員にときどきセミの話しをするそうである。ネットでセミの生態を調べて、保健室の黒板にセミの絵を描くときもあるらしい。
 わたしは二か月に一度さわやか呼吸器科に通院している。最近、少しだけ薬の量が減った。
「森にはまだ行っている?」と先生が聞く。
「行っていますよ。森で転地療養しています。タダでできる転地療養です。」
「それはよかった。森でお日さまの光をたくさん浴びるといい。」
「五一郎先生も同じことを仰ってました。」
 先生は肯き、処方薬を入力するためにパソコンの画面に目をやった。先生の横顔がくっきりとシルエットになる。五一郎先生の横顔にそっくりだ。鼻梁の真ん中が少し高くなっているのも、顎が突き出ているのも五一郎先生そのままだ。わたしは思わず笑った。
「なんか、おかしい?」と先生がわたしに向き直る。
「いえいえ。森ではちょうどヒガンバナが咲いています。」
「これから穏やかないい季節になる。」と先生は微笑んだ。
                 完

著者

大平洋子