「四両目、三番目のドア」凛々丸 廉

みんな足早に瑞希の側をすり抜けて行く。
 いつもなら瑞希も発車時刻を気にして急ぐのだが、今日は急ぐ人たちを見送りながら改札口に向かっていた。それでも普段よりは少し帰りの時刻は早い方だった。
 パスモを当てて改札を通り、目を上げると急行はあと5分ほどで発車するらしい。
ターミナル駅の先頭にある改札から車両へ向かって歩いていく。1両目、2両目と通り過ぎ、4両目を過ぎる頃に少し歩く速度を緩めて、瑞希はちらっと車両に目をやった。そのまままた速度を速めて、瑞希が乗り込んだのは5両目の4番目のドアだった。
 帰りのラッシュ時刻は過ぎた頃だったが、車内はけっこう混んでいる。
 立ち位置を探してドアから右手の通路へ進み、吊革につかまった。
 自分の場所を確保すると、瑞希はゆっくりと周りを見回した。大半の人が首を俯けてスマートフォンを触っている。
 瑞希もよく電車の中ではラインをチェックしたり、フェイスブックで友人の動向を眺めたりしている口だ。
 真っ直ぐ前を向いたまま音楽を聴いている人、吊革につかまったまま目を閉じてる人(眠ってる…?)、本を読んでる人…
 ーーそうだよね。いるわけがない…
 瑞希は、軽く溜息をついた。
        
         ∞

 あれっ…と思った時には相手も気がついたらしく、目が合った。
「お父さん」
 父親は吊革につかまり、本から目を上げたところだった。
「今帰りなの?」
 近寄りながら、瑞希は声をかけた。
「今日は早く終わったからね」
 と、父親。
 瑞希が社会人になってから、ほんの時たまの偶然だが、父と同じ電車になることがあった。
「私もいつもより早いよ」
瑞希は頷いた父親の手元に視線を落とした。
父の手の平には、開いたままの文庫本があった。
「何を読んでるの?」
「エッセイだよ」
「へーえ、誰の?」
「当ててごらん」
「っていうことは、池波さんかな」
「よく判るね」
「だって、お父さん、池波さんの大ファンだもの」
 父親は本を閉じて鞄にしまった。瑞希と話していく気になっているらしい。
 瑞希は自分も時代物の本を読むようになったのは父親の影響だと思っている。
 複雑な複線の張られた陰謀渦巻くものは瑞希は苦手だが、父親は時代物なら何でも読む。とりわけ、父は池波正太郎と藤沢周平が好きだった。
「鬼平に関係あるの?」
 瑞希は当てずっぽうに云ってみた。
 父は首を傾げた。
「あるっていえばあるかな。今度深川あたりに行ってみようかと思ってね」
「あ、いいなー。鬼平さんが住んでたとこでしょ。私も行きたい!」
「そうだね」
 父はにやにやしている。
 普段はそう口数も多くない父だが、本の話をする時はなかなか饒舌になる。本の話をする時の父を見るのが瑞希は好きだった。

         ∞

 電車が静かに揺れ始め、瑞希は発車したことを知った。
 その世代の男性にしては、背の高かった父。家族のために、この路線で何十年も仕事に通い続けてたんだな…。

 あれは多分、父が定年になる少し前のことだったと思う。
 父が不在の時、母が打ち明け話をするように云ったことがあった。
「お父さんは真面目一方で、それはいいんだけど、子どもが転校すると可哀想だからって、今までの転勤を全部断ってたのよ」
 寝耳に水の話だった。
 クラスメイトが時々家の都合(大抵は父親の転勤)で転校して行った。それが自分の身に起きなかったのは、単に父の仕事がそういう類のものだと思っていたのだった。
 父が故意にその環境を作っていたとは…。
 正直、転校していくクラスメイトにちょっと憧れたこともあった。
 でも大人になった今は転校することで環境が変わり、いじめにあうこともあったり、友だちをつくるのが難しかったり、それなりに大変なことがあるだろうことは想像がつく。
 父の判断が正しかったかどうかはもう判らないけれど、少なくとも父は、父なりに家族を守りたかったのだろうと瑞希は思う。
 それが例え、自分の出世を引き換えにすることになったとしても。

 父は3歳で母親に死に別れた。兄弟の末っ子だった父はそれからずっと、一番上の兄の家族と育ったという話だ。
 父から直接その話を聞いたことはなかった。時々、何かの拍子に母がポツポツと父の話をする内容をつなぎ合わせるとそういうことになる。
 実際、父側の親類とは険悪…ということはないものの疎遠で、瑞希も滅多に会ったことがなかった。
 実の兄とはいえ、父はそのお嫁さんや子どもたちに遠慮しながら育ったのかもしれない。
 物心つく頃には、甘えたくてももう母親はいない…。
 そんな環境は瑞希には想像さえできないが、きっと父は「寂しい」という気持ちを誰よりもよく判っていたのかも知れない。だから子どもたちにはそういう思いをさせたくない…と。
 もちろん、父はそんなことを一言も云いはしなかったけれども。

 ーーこんな風に普段は想い出しもしないことを想い出すのは、もうすぐ家を離れるからなのかな…。
 瑞希はぼんやりと考えた。
 ようやく…と母がぼやいた相手と、5年越しの交際を経て来月には結婚する。
 母は、私のことなんか気にせずにさっさと結婚しなさい…と云うけれど、結婚するとなると彼の住む長野へ引っ越すことになるのでやはり躊躇っていた。

  ∞

 窓に映った車内の風景を眺めて、瑞希は父がいないことを何だか不思議に思った。
 父親はもういない。それはもうはっきりして、よく判っていることなのに。
 最寄駅が再開発できれいに生まれ変わったことも父は知らない。
 下り電車のホームから直結だった改札はなくなり、上下ホームともエスカレーターがついて改札は上になったことも、下り線でそのエスカレーターに一番近いのは五両目の四番目のドアだということも父は知らない。
ー再開発の前は、下りホームから直接改札に出られて、近いのは四両目の三番目のドアだったっけ。
 時間が間に合えば、瑞希はだいたいそのドアを目指して乗り込んでいたし、たぶん父親もそうだったのだと思う。
そうしてほんの時たま、そのタイミングが合って父と帰りの電車で遭遇したのだ。

ーまた一緒にお酒も飲みたかったね…。
 量はそんなに飲めなかったけれど、父はお酒が好きだった。顔が赤くなって、陽気になるお酒だった。
 お酒が入った時もいつもより饒舌になり、日頃から本やニュースなどで溜め込んだ知識を話してくれる。日頃は物静かな父だったが、案外色んな方面に話題が飛んで楽しかったものだ。

 アナウンスが、最寄駅は次だと告げる。
 瑞希は物思いから立ち戻った。
周りを見回してみる。が、瑞希に注意を払っている者などいない。
瑞希はそっと遠くの隣の車両を見やった。
もちろん誰かがいるわけでも、そこの何かが見える訳でもない。
でも何だか、父が今でも文庫本を片手にあのドアの近くに佇んでいるような気がした。

電車は軋みながら停車した。ドアが開く。
 降りる人々に続いて瑞希もホームに降り立った。風が冷たい。
エスカレーターに乗って後ろに続く人たちを見渡し、瑞希は目を伏せた。
 深呼吸をして前を向く。 
 ーーさあ、家へ帰ろう。

著者

凛々丸 廉