「四季の径でみえるもの」nami

記憶が正しければ、4歳か5歳。本当はもう少し小さかったかもしれない。黄ばんだ「横浜」の看板を見たのは、母に手を繋がれながら、でもしっかりと自分の足で歩いて辿り着いた下り電車のホームだった事を覚えている。漢字の上にふられた平仮名の「よこはま」を読めたから。横浜駅は終点で、ホームに入ってきてその中にいた乗客全員を降ろしたら、それまで上り電車と呼ばれたものが下り電車に変わるということを理解したのはその頃よりももっと後。下り電車に乗った。下り電車から下車して駅舎を出て、今度は父に手を引かれながら坂道を登り始める。石畳の坂道。左側には電車が走り、右側にはすっかり散ってしまった後の桜の木が坂の上まで続く。もちろんこの時にこの木が桜のものであることは知らず、間には銀杏の木があることも分からず、そこに立っているのは木、ほどの認識。子どもの体には長く感じる坂道に、まるで永遠とも思える木の列を眺めては、坂の上の木のてっぺんは空とくっ付いているような気がした。建設途中のマンション群の西の街から坂道に繋がる大階段に設置された大きな花壇。駅から1km程続く遊歩道。「四季の径」と呼ばれるその坂道で見た始めての景色。坂の上に辿り着く。ここが駅舎から見上げたてっぺんだとは分からない。空とくっ付いていると思った木は空にくっ付いてはいなかったが、長い坂道を登ってきたせいで駅舎での記憶などすっかり忘れ去られていた。坂の上にある小さな空き地。駅前のスーパーで買い物をしている母を待つ間、父に支えられてベンチの上に立つ。真っ直ぐ平行に並んだ2本の線路は彼方向こうで交わっているように見える。しばらく待つと電車が走ってくる。片方は前方へ、片方は後方へ走っていく。片方はスピードを落とし、片方はスピードを上げていく。駅で停車するものと、駅を発車し次の駅に向かうもの。この時はまだ電車がどこに行くのかは知らない。桜の木が携えた緑の葉が眩しいくらいの明るい場所で、父に支えられながら、落ちるはずはないという安心感のもと眺めた電車。立っている場所がトンネルの始まりでもあり、出口でもあることを知るのはもう少し後のこと。誰かが、電車の向かう先にはまた違う駅があると教えてくれた気がした。この時の私はとにかく守られていたのだと思う。乗った電車がどこに停まるのか、向かうのかを知る必要などなかった。遠い世界の出来事は遠い世界の出来事に過ぎなかった。

また桜の季節。「四季の径」という名前の通り、歩くだけで四季を感じることができる。日本は四季があることが魅力だというけれど、ほとんどの国に四季はあるわけで、日本特有のことのように声高にいうのは違う。それでも、イースターやサンクスギビング、クリスマスなどといったイベントではなく四季を草木で表現しようとしているあたりは、人間と似姿であるものを神とするのではなく、古来から自然には神が宿ると考える日本らしさなのだとも思える。この道を歩いて、桜が咲いて散って、新緑の葉を伴い、それもまた散るという季節の流れを目撃する。特に桜の花を携えた木の姿が印象深くなるのは、その可愛い色味が寒い季節を乗り越えたご褒美のように感じるからなのだろうか。桜が咲いたら学年が上がる、新しい出会いがあるという慶びの季節と感じていられたのは、それが無条件に自分の成長であると思えていたからだろう。桜が咲くと、「また桜の季節」と思うようになったのはいつからだろう。桜が咲いても何ら自分の成長となるものではないと、その成長すらを諦めてもいる。季節の流れを知るというのは時に残酷だ。何も変わっていない自分を見つける。変わらないだけならまだしも、かつては走って登った石畳の坂道で息が切れるようになる。走らずとも歩いていればそのうちに着くべき場所に出るだろうという諦念にもなる。しかし、それも覚悟であり、カッコつけて履いたハイヒールが石畳の隙間に挟まって脱げた姿をダサいと思えている間は、まだ甘えが潜んでいるのだろう。それでも容赦なく「四季の径」はピンクに染まり新緑となり黄色となり散り色を変えながら、時間が戻ることはないというこの世界の条理を見せつけてくる。

この街を出ようと思ったのは、自信があった訳でも希望を持った訳でもない。ただ、諦める覚悟を持てなかったからに過ぎない。一生この街で生きていく勇気もなかったのだ。駅舎に入り、上り電車に乗る。歩いてきた「四季の径」を逆戻りする。窓から眺める景色はさっきまで見てきたそれをまるで逆再生されているかのようだが、それはこの瞬間だけのことであって、間違っても季節が一つ前のものになることはない。時間という概念は人間しか持ち得ていないという。だとしたら、あの時こうしていれば、こうしていなければ、という後悔も人間特有のものなのだろうか。あの時素直になっていれば、違う今があったのだろうか。父と一緒に母を待った坂の上の小さな空き地の下を通り、暗いトンネルに入る。あの空き地から父に支えられた自分が見ている気がした。一体どこへ行くの。あの頃の自分は純粋に電車がどこに向かっているのかを知らなかった。車両の窓からは何も見えなくなる。前は見えない。一番前の車両に乗れば、運転手席からのライトに照らされた前方を盗み見ることもできるが、そんな勇気はない。突然立ちはだかるかもしれない障害物や、何かの手違いで下り電車が上り電車の線路に侵入してくるかもしれない。そうでなくとも、トンネルが崩壊するかもしれない。心理学者のユングは一生を一日に例えて、人生の正午という言葉を使った。トンネルが一生だったら。もしトンネルが永遠に続いていたら。父に支えられていたあの安全な場所には二度と戻れない。トンネルに入った事を後悔するかもしれない。トンネルを抜けた先は明るいのか雨なのか。自分は今トンネルのどのあたりにいるのだろう。同じ電車に乗り合わせた人々。運命なんてものではなく偶然に過ぎないが、この電車が暗いトンネルを進んでいる時間の共有は、運命なのかもしれない。人がその時間や車両を選んだ理由は分からない。目的の時間に目的の場所へ間に合うように着くために選んだ時間。飛行機の座席を選ぶ時に何となく49列目を選ばないのと同じような理由で選んだのかもしれない車両。同じ街に住む顔見知り。人間は顔見知りの他人より、見ず知らずの他人への方が声をかけやすいらしい。そんな距離の顔見知りの他人と会う。いなくなったら砂糖一つまみ分くらいの心配はするけれど、水に入れればすぐに溶けて見えなくなってしまうようなもの。相手にとって私もその程度のもの。結局、私は何でもなく、選ばれなかったのだ。子どもが5秒に1人亡くなる国がある。地震で大切な人を失った土地がある。そういった所に比べれば自分は幸せな場所にいると思えば気が楽なのか。永遠とも思えるトンネルの中。恐怖とは、これから何が起こるか分からない事に対してではなく、安全だと思っていた場所がそうでなくなる事に対してなのだ。たった一つの過ちで、輝かしい記憶が塗り替えられてしまう事を恐る。でも今だから考える。父に支えられていたベンチの上は本当に安全だったのか。一歩踏み間違えれば下のコンクリートに落ちていたかもしれない。そのたった一歩を踏み間違えなかっただけのこと。一歩踏み間違えていれば、父との安全な思い出は違う世界へと誘われただろう。今の私は存在しなかったかもしれない。たった一歩で今いる世界が変わってしまう。トンネルの向こうは果たして駅なのだろうか。向かっている方向は正しいのだろうか。向かいの席にいる顔見知りの他人は今日も幸せだろうか。遠くで起こる不幸な出来事に関与しない空虚を、顔見知りの他人の幸福を願うことで埋めようとする。そうやって安全な側にいることへの報いとし、幸せになる権利を得ようとする。同時に、これから降りかかるかもしれない不幸への布石を打つ。私は決して、ただ安全な場所にいた訳ではないと。

永遠に続くと思った暗いトンネルは永遠ではなく出口があった。何があるのかはまだ見えない。電車が止まろうとしてスピードを落としてきた途端に怖くなる。ついに電車が止まった。恐怖のあまり開いたドアから駆け出した。必死に走った。それが一瞬だったのか数時間だったのか数日だったのかは分からない。知らない街にも人がいた。スーパーがあって人々の生活があった。しかし耳に入ってきた言葉は知らないものだった。その街の人々は、必死に走る他の街から来た私を指して笑っていたのかもしれないけれど、言葉が分からないから何を言っているのかは知りようもない。知らないから良いと割り切れる程には、私自身が何者であるかを知っていなかった。正しい言葉を話していたのか。正しい場所にいたのか。向かいのホームへ入ってきた下り電車に飛び乗った。ドアが閉まりゆっくりと発車した電車は、またトンネルに入っていった。上り電車に乗っていた時に向かいにいた顔見知りの他人が、今度もまた向かいにいて眠っている。知らないどこかでの戦いの後のようだった。トンネルの中は暗い。一番前の車両まで行って前方を見る必要はない。このトンネルが永遠ではないことはもう知っているから。初めての目的地に向かう道のりが遠くに感じて、そこからの帰り道は幾分短く感じるように、上り電車の時のそれよりも短くトンネルから抜けた。入り口だった場所が出口となっていた。坂の上の空き地ではまだ、父に支えられた自分が見ているのだろうか。窓には「四季の径」の一瞬が再生され始める。電車が止まる。恐怖はない。知っている駅だから。ドアが開き電車から降りる。駅舎を出て「四季の径」を見る。ほんの少し出掛けただけなのに、季節は進んで見える。坂の上の木のてっぺんが空とくっ付いている。あそこまで行ってみよう。木のてっぺんが空とくっ付いている所まで。もしかしたら、木と空はくっ付いていないのかもしれないけれど、それは行ってみないと分からない。坂の上の空き地にいるはずの自分に教えてあげよう。電車が向かう先には違う駅があった。「よこはま」しか読めないあなたにはまだ難しい駅名だったけど。だから今はまだしっかり支えてもらっていて。坂の上の空き地から見える2本の線路は彼方向こうで交わっているのかもしれないし、交わっていないかもしれない。それはその時になったら自分で行って確かめて。恐怖で走り抜けたとしても、トンネルの先に違う駅があることを知った。遠い不幸に嘆かないことは罪ではない。私は分からない言葉に傷ついた。顔見知りの他人は疲れ切っていた。父に支えられている瞬間は、どこかの国では同じ歳の子どもが拳銃を持って銃口を誰かに向けている瞬間かもしれない。でもそれはきっとたった一歩の違い。その刹那を見つめてみる。私とあなたでは見えている景色が違うかもしれないけれど、「四季の径」はいつだって今の季節を表現している。電車はいつだって駅に向かっている。ここは決して諦めの場所ではない。ここが始まりの場所。

著者

nami