「四月十七日」小峰鈴二

 海老名道子は今年で六十五になる。都内のマンションで一人暮らしである。子どもはいない。夫の宏平は、昨年、長い闘病生活の果てに亡くなった。四月十七日は宏平の命日だ。今日は墓参りで相鉄線の「ゆめが丘駅」に降り立った。冬はホームからは丹沢山系や真っ白に装いを変えた富士山が良く見える。今日は柔らかな春の日差しがホームに差し込んでいる。丹沢の山肌は薄紫に煙っている。山は芽吹いて間がないようだ。富士の頂きは残雪で白化粧されている。彼女は思いっきり伸びをして深呼吸した。
「ああ、良い気持ち」思わず声が出てしまい、慌てて周りを見渡した。高いホームから駅の周囲を見渡すと、畑や林も多く、大都市ヨコハマのイメージとはかけ離れた景観だ。しかし、今の気持ちにはぴったりの景色だと思う。こんな景色も良いと、改めて思った。
 改札を出ると開発中景色が広がる。駅周辺はがらんとしていた。「相変わらず何も無いわね。タクシーもいないわ」と道子がつぶやく。ホームに降り立ったときとは矛盾した心境だ。昼下がりの駅前には人影もなく、うららかな春の光がゆれている。冬の間、きれいに草が刈られ、整備された地面からも、新しい芽吹きが認められる。心地よいそよ風に乗り、若草の香りが運ばれてくる。春の花の香りもする。
「よーし、歩くか」、と声に出し、道子は、もう一度深呼吸をした。宏平の墓は駅から三十分ほど歩いた「東泉寺」にある。この寺に墓があるのは、宏平がこの辺りの出身だからだ。宏平は学生の頃この土地で暮らし、大学を卒業後は都立高校の理科教師として都内へ赴任した。それと同時に、彼は東京住まいとなった。東京の学校で四十年間勤め上げ、最後は校長として退職した。専門は物理だった。三十一のときに七歳年下の道子と結婚した。職場結婚である。その頃、道子も同じ高校で生物を教えていた。
 道子が「東泉寺」を訪れるのは5回目だが、これまでは、東京の自宅から妹夫婦の車で移動していた。今回初めて歩いて訪れたので、寺への道順が心もとない。
「何とかなるさ」と、再び口に出して歩き始めた。この頃、独り言を声に出すことが多くなったなと思う。宏平が亡くなってから独り言も多くなったような気もする。別に、他人に迷惑かけているわけでもないからいいか、とも思う。そんな事を考えながら歩いているうちに、道が本格的に怪しくなってきた。自信もなくなり、「困ったな」と、また口に出した。少し途方にくれて前方を窺がうと、前を歩く人影が見えた。道子は「はっ」とした。猫背気味でゆらゆらと歩く後ろ姿が宏平そのものだ。体つきや雰囲気が宏平そのものなのである。興味をそそられた道子は足を速めた。
 右肩を斜めに傾けて歩く癖も夫にそっくりだ。時々立ち止まってはじっと周囲を見つめている。宏平の場合は植物観察のためだった。宏平は物理が専門だが称物も大好きだった。旅行に出ても、道子の都合などお構いなしに、行く先々で始終植物観察をしていた。道子は農学部出身で応用昆虫学を専攻していた。農学部の出身なので植物への興味は共有できるが、予定などお構いなしの植物観察には、時として辟易することもあった。まあ、自分の昆虫採集に、嫌な顔一つ見せずに付き合ってくれたから、今ではおあいこかなとも思う。そんなことを懐かしく思い出しているうちに、前を行くその人に追いついてしまった。思い切って声をかけてみようかと思った。人見知りの道子にとっては珍しい決断だ。
 「植物観察ですか」と声をかけると、ゆっくりと、その人は振り返った。後ろ姿は似ていたが、容姿は別人であった。ちょっとがっかりしたが、現実はこんなものだろう。
「ええ、そうです」。声も似ていなかった。宏平よりも低い声でゆっくりした口調だ。夫は早口で、声も高いほうだった。
「良く分かりましたね」。
「わたしの主人も同じ趣味でしたから」。
「でした・・・」
「ええ、5年前になくなりました」「今日は主人のお墓参りなんです」「でも、道に迷ってしまって」
「どちらのお墓ですか」
「東泉寺さんです」
「この道は違いますよ」。「ご案内しましょう」
道子は自分が道を間違えていたことを初めて悟った。普段なら遠慮するところだが、案内してもらおうと思った。不思議なことである。
「すみません。よろしくお願いします」と、道子は素直に頭を下げた。
「お名前うかがってもかまいませんか」、遠慮気味に尋ねてみる。
「瀬谷康平」といいます。
「こうへい」
「なにか」
「すみません。主人と同じお名前だったものですから、つい。」
「ああ」と、彼が笑顔を見せた。
「それでは行きましょう」名前の件を帰する風でもなく、彼が先に立って歩き始めた。
 しばらく歩くと駅が見えてきた。そして彼は大きな道に出るとそのまま左にしばらく歩き、道子が歩いていた道より一本西側の道に入った。
「東泉寺へはこの道が近道です」
相変わらず、きょろきょろしながら、ふらふらと歩いていく彼のあとを着いていく。
「前はねぇ、この辺りにもシュンランなんかもあったんですよ」そういいながら、康平は周囲に目を配っている。
「タンポポもすっかり在来種がきえてしまいました」
「昔と比べるとだいぶ変わってしまいましたか」
「主人もここの出身なので昔の話しをよくしていました」「野性ランも数多くの種が生育していると言っていました」
「でもね、良く探せばいろいろ残っていますよ」
こんな話しを交わすのは久しぶりだ。なんだか落着く。しばらくぶりの感覚だ。そんな感覚に浸っていた道子だが、突然、空中を片手で払った。そして地面に落ちた何かを素早く手で摘み上げた。
「何かいましたか」ゆっくりと彼が尋ねる。
素早い反応も夫に似ている。彼の顔を見てハッとした。若い頃の宏平に似ている。さっきとは印象が変わっていた。しかし、もう、そんなことはどうでも良かった。タイムマシンに乗り込んだような気分だ。道子の胸が温かいもので満たされていく。
道子は何かをつまんだ手を彼に差し出した。指の先には長い触角を持つ紅色の昆虫がじたばたしていた。
「カミキリムシですか。もういるんですね」
「わかりますか。ベニカミキリです。」道子はそっとカミキリを開放した。
「気持ち悪くありませんか。こんなところ見せると、若い人たちは顔をしかめるんです」
「おばさん、すげぇなぁ、なんていうんです」そんな軽口も出る。
「なににつきますか」
「孟宗竹ですね。」
「この辺は竹林もあり、たけのこがとれますからね」
こんなにスムースに会話が進む感覚も久しぶりだ。道子は、思わず饒舌になっている自分に気付き、恥ずかしくなったが、懐かしさの方がその感情を上回った。
「でも、出現時期的には早い個体ですわ」
「いつ頃が出現のピークですか」
「この辺りだと、クリの開花時期が盛期です」
 そんな会話を交わしている間に「東泉寺」についてしまった。
「着きましたよ。ぼくはここで失礼します」
「さっき、こんなのがありました」「どうぞ」といって、彼が道子にクローバーの葉を差し出した。
「あら、五葉ですか」
「そうなんです」「面白いでしょ」
「道案内、ホントにありがとう。楽しかったです」そう言いながら、道子は手のひらで五葉をそっと包み込んだ。
康平は片手を挙げて去っていった。
「おばちゃん、大丈夫」。気がつくと、赤いランドセルを背負った女の子が、心配そうに美智子の顔を覗き込んでいた。
はっとして周りを見渡すと、目の前には川が流れていた。遊歩道が整備された美しい流れだ。道子は川沿いのベンチに腰掛けている自分に気付いた。傍らには香花と線香の入った手提げ袋が落ちていた。なぜ自分がここに座っているのか、彼女には全くわからなかった。寝ていたという感覚もなかった。
「うん、だいじょうぶよ」「おじょうちゃんは何年生」
「2ねんせいだよ」
「もう学校は終わったの」
「きょうはきゅうしょくがないひだもん」
道子が腕時計を見ると、駅を降りてから三十分ほどしか過ぎていなかった。
「おばちゃん、かなしいの」そっと女の子がたずねる。そのとき、道子は頬が涙でぬれていることに気付いた、そっと手で涙を拭うと、手のひらから五葉のクローバーがひらりと落ちた。道子はそれに気付かなかった。
「ちがうの、おばちゃん、ちょっとうれしいことがあったの」。
「ふーん」といって、女の子は元気良く駆け出した。
 道子が何気なく川面に目をやるとカワトンボが飛んでいるのが見えた。
「水質がいいのね」と道子が呟いた。道子が川沿いを歩き始めると、トンボも彼女にまとわりつくようについてくる。歩いているうちに頭がすっきりしてきた。現実の世界に戻ってきたようだ。さらに川沿いを歩くうちに、トンボはどこへ飛び去っていた。そこへ散歩中の老夫婦が通りかかる。婦人に尋ねると、東泉寺はすぐ近くだった。五分ほど歩き、寺の山門をくぐる。道子は宏平の墓へと急いだ。今日の不可思議な出来事を、なるべく早く報告したかったのだ。宏平に花を手向け、三回も線香を供えた。報告はしていない。立ち上る線香の煙を見ているのが良かった。線香を前にボーっとしているうちに、道子は次第に気持ちが落着いてきた。今日の出来事をゆっくり思い浮かべる。僅かに湿り気を帯びた春風が、道子の頬を優しく撫でて吹きすぎた。ほんのりと、初夏の息吹を感じる。さわやかな若葉の香りだ。道子の胸が温かいもので満たされていく。退職してからの宏平は、季節ごとに、この地を訪れていた。道子には言わなかったが、この地に帰りたかったのではないか。ふと、そんな考えが浮かび、道子の心がざわめいた。
「あなたって自分のことは話さない人だったもの」少しだけ恨めしげに墓に話し掛けてみる。
 気持ちに余裕が出てくると、宏平の墓に事の顛末を報告し始めた。墓に語りかけながら、なんだか少しだけ申し訳なくも思えた。
「宏平さん怒ってないよね」道子は立ち上がり山門へと向かった。山門を出ると寺に向かい深々とお辞儀をした。
「ゆめが丘かぁ」
「でも夢じゃないわよね」そう言うと、道子は駅への道を元気良く歩き始めた。

著者

小峰鈴二