「夕陽に揺れる」工藤守

 エアコンの室外機が、ボゴボゴと妙な音を立てながら息を吐き出している。
 私、長谷川豊は、勤務先の建物裏に突っ立ち、ただそれを見ていた。まだ10月上旬というのに、11月下旬の寒さという事で、体が痙攣しいている。しかし、いつまで経っても冷やされるのは体だけで、頭の中は熱くなったままだ。
 2週間前に、四つ年下の宇野大輝が私の上司になった。そして今朝、彼がまた1ランク昇格したのだ。
 宇野は、半年前に中途入社したばかりだ。まだ26歳なのに、宅建だけでなく、不動産鑑定士の資格も持っていた。とても私には取れない資格だ。追い抜かれるのは仕方ないと割り切るしかない。しかし、心穏やかではないのも事実だ。
 私が勤める相模不動産の社員は22名だが、私のいる営業所には3人しかいない。上の人間の性格が、仕事を完全に左右する。
 店長の松田久子は、すぐに結果を求めるタイプの人間だ。宝塚で見そうな羽根だらけの帽子の角度を直しながら、「営業マンは、まず高級感で顧客を安心させなさい」と、古い固定観念を部下に押し付けて来る。
 宇野は、大人なのか、馬鹿なのか、店長の方針にすぐに従った。スーツを全てブランドものに切り替えたのだ。一方で、私はというと、家賃を考えるとそこまで余裕はなく、一着のみのままだった。
 そんな事が理由だとは思わないが、店長は宇野を頻繁に自分の顧客である土地所有者の接待に連れて行くようになった。私は開発や売却関連の仕事から徐々に遠ざけられ、賃貸関連の仕事ばかり担当するようになっていた。
 あー・・流石に寒くなって来た。
 まだ冷めやらぬ頭をもたげ、デスクに戻ると、宇野が「賃貸物件決めておいたから、よろしく」とファイルを渡してきた。客がすぐに住みたいというから、鍵も渡したという。
 それにしても、宇野は私の上司になった当初は気を使って敬語だったのに、1週間でタメ口になり、もう1週間で上から目線を繰り出してくる様になった。あと1週間経つと、逆に丁寧になるなんて事はまずないだろう。
 ああ、いい。どうでもいい。私は心を無にし、顧客ファイルをチェックすることにした。宇野が契約物件は、かしわ台駅の近くのアパートだった。契約者の名前は近藤千賀子とある。
 「!」
 聞き覚えのある名前だ。私は記憶をさかのぼり、すぐに突き止めた。小学校の4年生の頃やってきた転校生で、私の初恋の人だ。
 近藤千賀子は、小柄でショートヘアの見た目通り、本来の通学路を通らず近道ばかりする活発な女の子だった。おとなしかった私が彼女の奔放さに憧れるのに時間はかからなかった。   
 しかし、そんな彼女に、大人達がストップをかけた。通学路を守らないで事故にでもあったら教師の責任問題になるだから、当然といえば当然なのだが、小学生にとっては、大人の決めた下らないルールに過ぎない。
 千賀子もそう思っていたのだろう。担任を相手に一歩も引き下がらなかった。
 担任は、学年主任に助けを求めた。しかし、それでも千賀子は引かず、遂には、全校集会で、校長と対峙する事になった。
 とうとうと道理を話す校長の話に頷く千賀子の姿に、遂に軍門に下ったかと誰もが思う中、千賀子は、校長のマイクを奪い、こう言ってのけた。
 「どこを通ろうと私の自由よ」
 その、堂々とした姿が全校生徒に反響を呼び、すぐに熱狂的ファンが生まれた。上級生までが男女問わず、休み時間に教室に千賀子を覗きにやってきた。当の千賀子はというと、そうした現象を徹底的に無視した。これがまた、彼女の人気に輪をかけた。そして、どこかの誰かが近藤の藤を道に変え、チカミチチカコとして普及させ、彼女はさらに有名人になった。
 当時の私はチカコとクラスメイトだったが、チカコはいつもクラスメイトに囲まれていて、私は話した事すらなかった。なんとかして近付きたいと思ったが、中々勇気が出なかった。そこで私は、ある日、意を決し、下校の際にチカコをこっそりつけて行った。
 暫くは正規の通学路を通っていたチカコだったが、少しずつ逸れ、同時に加速していった。
 大声で吠える黒犬を無視し、大きな屋敷の芝生の庭にある妙なオブジェを足場にしてブロック塀を飛び越え、ヒュンヒュンと進んでいく。
 私は見失ってなるものかと、必死に追いかけた。小さな沼地のぬかるみを渡り、金網の穴をくぐり抜け、どこをどう通ったのかは全く分からないが、いつの間にか通学路の幹線道路に辿り着いていた。私は汗を拭いながら、遠巻きにチカコの背中を見つめた。その後、どうしたかは覚えていない。彼女はというと、それからほんの短い期間で転校していってしまった。私は、さよならを伝えることすら出来なかった。ただ、去っていくチカコのランドセルの金属部分が、夕焼けに照らされてユラユラと輝く光景が目に焼き付いている。
 思い出に触発され、私はチカコに会いたくて仕方なくなった。しかし、書類をもとに会いに行くとなると、職権を乱用するストーカーそのものだ。絶対にしてはいけない。そう自分に言い聞かせた。それにそもそも、彼女の方は私の存在など覚えてもいない。
 そうして、ブレーキをかければかけるほど、幼き日の恋愛感情は燃え上がった。で、結局ブレーキを少しずつ解除し、まあ、書類を見るくらいならいいだろうと、業務の範囲内で心地良さに浸ろうとした。しかし、そこに心地良さを見出す前に、落胆する羽目になった。同居人の欄に男性の名前があったのだ。坂田雄一郎。誰だ。旦那さんか。私は、チカコが結婚してしまっていたかとショックを受けた。しかし、夫婦別姓とはいかにもチカコらしいと少し嬉しくもなった。
 もう、これ以上のヘビーな情報はあるまい。
 続けて私は、チカコが借りた物件について見ていった。
 チカコが借りたのは、自社管理物件で、かしわ台駅まで徒歩5分のアパートだった。
 私は住所を確認し、パソコンで場所を調べる。
 「こっちの改札か・・」
 かしわ台駅には改札口が海老名駅側とさがみ野駅側の2か所ある。さがみ野駅側の改札口は、ホームまでの距離がかなり遠い。駅まで徒歩5分でついても、改札口からホームまで同じくらいかかるのだ。
 私は、こうした事実をチカコがきちんと理解した上で契約したか気になった。改札口からホームまでは一本道で、近道する術などない。チカミチチカコのショートカット精神に反するのではないか。
 
 
 宇野に契約について確認すると、「駅まで5分、駅からも5分」と説明をしたという。しかも、そこが気にった様子だったというのだ。しかし、どうも解せない。改札口からホームまでの距離が長い事を気に入る人などいるのだろうか。
 宇野は、私に契約を確認されたのが気に入らなかったらしく、「人の心配してないで、自分の心配しろよ。ったく」と、わざと聞こえるように呟いた。
 私は、宇野の言葉にカチンときながらも、チカコが何故そういう物件を選んだのかという謎の方に重心を移した。
 チカコのことだから、駅までのルートで近道を探すのかもしれない。気になる。いや、駄目だ。気になるからといって、会いに行くのは許されない。 
 そう考えを断ち切ろうとしたのだが、契約書類の中に、身分証明書として提出された免許証のコピーがあるのを見つけてしまった。
 写真の彼女は、もちろん大人になっていた。しかし、あの頃のあどけなさと奔放さがどこか残っている様に見える。私は、ますます思いが募っていくのを感じ、このままではまずいと、目の前の入力作業に専念することにした。
 それから3週間。徐々に思い出の濃度が薄れかけた頃(といっても、ちょいちょい思い浮かべているのだが)、事態が急変することになった。
 「あの物件、取り壊す事になったから」
 宇野がいきなり決定事項を伝えて来た。物件の所有者が、アパートを解体し、高齢者施設を建設するというのだ。
 「でも、入居したばかりですよね」
 「タイミングが悪かった。でも、出て行ってもらうしかないな」
 「・・そんな簡単には」
 「やっといて」
 「えっ?」
 「賃貸担当は長谷川だよね。すぐに退去させて貰わないと困るから」
 宇野は、アパートのオーナーが、大和駅や海老名駅の近くに不動産を複数所有している事を一方的にまくしたて、「状況を報告してくれ」と丸投げして去って行った。
 なんという勝手な言い分だ。まだ入居して間もない住人に、すぐ出て行けと言えというのか。しかも、私に言えと。
 苛立ちをどこにもぶつけられず、拳を握り大きく息をついた。
 こうした事例がこれまでに全くなかった訳ではない。仕事は、利のある方に向かっていくのだ。仕事だから仕方ない。仕事など、碌で無さの中にあるのだ。パソコンで賃貸契約者のデータを検索する。
 近藤千賀子。携帯電話の電話番号を確認し、連絡する。
 「もしもし、相模不動産の長谷川と申します」
 もちろん、解約をお願いしたいという話は電話ではしない。契約上の書類の不備があったという事にして、アパートに伺いたいと伝えた。チカコは職場だったらしく、「8時には会社から戻っていますから」と言い、電話を切った。
 7時30分。私は、今からチカコに会うという期待感と、伝えなければならない内容の酷さに心を揺さぶられながら、ようyく仕事を終えた。宇野に、例のアパートに行き、その後直帰すると伝え営業所を出た。
 かしわ台駅のホームで降り、さがみ野駅側の改札口に向かう。やはり遠い。幾人かを追い抜き、ようやく改札口を出て、線路を渡り坂道を降りていく。道なりに進み、中学校の近くまで行くと、チカコが住むアパートが見えて来た。軽量鉄骨2階建てのアパートで、物件資料には1988年とあった。各戸に1台分の駐車場がついており、3台駐車している。
 チカコの住む部屋は1階の角部屋だった。
 すでに会社から帰って来ている様で、カーテン越しに明かりが漏れている。
 なんと伝えようか。謝罪しながらも、単刀直入に伝えるしかないと決めて来たのだが、いざ実践となると、嫌で仕方なくなる。肩から下げたカバンが急に重くなった様に感じた。しかし、自分がやらなくとも結局、宇野か店長がやるのだ。あんな奴らにやらせるくらいなら、自分が伝える方がマシだ。
 意を決して、チャイムのボタンを押す。
 「はい」と返事が聞こえ、すぐにドアが開いた。
 思っていたよりも小柄なチカコが現れた。
 髪は免許証の写真で見たのと違いショートカットで、昔をさらに思い起こさせた。
 仕事から帰って間もなくだったらしく、モスグリーンのシャツに黒いパンツスーツ姿だったが、これがパーカーとキュロットスカートなら、ますますあの頃のままだ。
 「あの・・」
 「すみません」と、私は玄関に招き入れられながら、名刺を差し出した。
 名前を確認するチカコ。しかし、長谷川豊という名に覚えなど無いようだ。結構結構。想定内だ。ショックなど全く受けない。と思いつつ、体が勝手にうなだれる。
 「書類の不備なんですが」
 話しながらも、目はチカコを見つめていたのだが、すぐにそこから引き離された。靴箱の上には夥しい数の鉄道のミニチュアが並べられていたのだ。廊下の壁も、鉄道のポスターや絵葉書で埋め尽くされている。
 チカコかご主人か、或いはその両方が鉄道マニアなのだろう。チカコは転校が多かったようだから、全国の鉄道に乗る下地があるだけに自然な事の様にも思えた。
 「あの・・」とチカコが不思議そうにこちらを伺ってくる。
 「実は」と、私は体勢をたてなおし、「大変申し訳ないのですが・・」と枕言葉を付け、少し間をあけた。これで、聞き手になにか良くない内容なのだと察知させるのだ。
 「こちらの不備で、このアパートのオーナーさんが」
 「出て行きませんよ」
 「!」凄い察知力だ。
 「引っ越しにも時間がかかりましたし。しかも、まだ3週間くらいしかたってないのに無理です。勝手すぎます」
 「あの」
 「用件、違いました?」
 「いえ」
 「それでは。さようなら」
 私は、チカコの圧で玄関を押し出され、アパートを後にした。
 かしわ台の駅に向かう道中、私は喜びに浸っていた。チカコの毅然とした態度はあの頃のままだ。自分が悪役として登場しているのがやるせなくもあるが、それよりも、昔のままのチカコが今も生き続けている事が嬉しい。
 とはいえ、仕事の成果なしだ。一応、電話で宇野に結果を報告する。と、「やっぱり駄目ですか」と嫌味を言って電話が切れた。
 それじゃ、お手並み拝見だ。私は、翌日から宇野の様子を注意深く観察することにした。
 お前ごときが、チカコに勝てる訳がない。
 その、確信に近い予測は当たり、宇野が失敗したのは明らかだった。店長が「かしわ台のアパートの件は」と、何度か宇野を呼びつけていたからだ。
 転居を促すための、より良い条件の物件紹介や、金銭面での優遇など、通常の交渉は失敗したのだろう。
 私は、店長の話を真剣に聞く宇野の様子を見て逆に心配になった。
 宇野は、上の人間を絶対視するところがある。店長が「叩き出せ」と言った言葉をそのまま受け取りかねない。何か妙な手段に訴えたりしなければいいのだが。
 他にも心配な点がある。宇野がすぐに投げ出す展開だ。そうなるとかなり不味い。店長が直接動くことになる。店長は非合法に近い手法を用いる同業者のエピソードを、楽しそうに話す類の人間だ。実際に自らの手をどこまで黒く染めた経験があるのかは知らないが、起動させると危険なのは間違いない。
 一方で、チカコもそう簡単には折れないだろう。子供の頃に校長と渡り合った人間だ。おの国の大統領を前にしても「あんたの国が偉大だった頃など無い」と言ってのけそうなくらいだ。そんな人間が街場の不動産屋の勝手な言い分などに怯む筈がない。
 しかし、店長も黙って引き下がるタイプではない。おかしな事にならなければいいが。
 私は、自分に出来る事を考えたが、碌に思いつかず、それでもひたすら考え続けた。
 それから数日が過ぎた頃、ついに店長が宇野を怒鳴りつけている場面に出くわした。大夫煮詰まっている様だ。私は居たたまれなくなり裏口から避難した。
 このままだと、宇野が暴発しかねない。とはいえ、直接宇野に何を言っても無駄だろう。しかし、チカコの周辺でおかしな事が起こるのは許せない。私は、その日の夜にチカコの住むアパートに行くと決めた。
 仕事を終え会社を出る時点で、まだ宇野も店長も仕事をしていた。今日なら間に合う。
 電車に揺られながら私は考えた。何かないか。方法はないか。焦って考えても妙案など浮かばない。そんな事など分かっている。しかし、自分でもどうしようもない。
 何も考えつかない己の脳を呪いながら、いつの間にかホームを降り、改札口の近くまで来ていた。
 なんでもいい。チカコに及ぶかもしれない危険や不快を回避する方法の、欠片でもいいから見つけたい。思考に集中しようとした時、思わぬ光景が目にとびこんできた。駅舎から少し離れたところにチカコがいるのだ。胸の前で何かを握った姿勢のまま動かない。
 「?」
 私は、自分の頭が混乱しているのだと思い、一度視線を逸らして、また戻すが、やはりチカコはそこにその姿勢のままいた。
 何をしているのか。私と同じように思う人も多いらしく、改札口を出入りする数人は、怪訝な顔でチカコに視線を向けた。
 しかし、すぐに彼女の背後の車椅子でチカコと同じように胸の前で何かを握りしめている男性に気付き、ある人はハッとして、またある人は何事もなかったかの様に装い通り過ぎて行った。
 私は、車椅子の男性を見て硬直した。あまりにも痩せ細っていたからだ。テレビで末期ガンである事を告白した人の痩せ方と、よく似ていた。2人の祈りの理由は、車椅子の男性の姿と結びつけるのが自然な様に思えた。
 私は、硬直状態を抜け出し、その場を通り過ぎ、自動販売機の陰に隠れて様子を伺った。
 人の事をじろじろと見るものではないというのは承知しているが、流石にそうもいかない。
 祈りの理由はいいとして、何故ここで、かしわ台駅のさがみ野側の駅舎に向け祈っているのか。
 祈りはほどなくして終わり、チカコと車椅子のご男性は、近くの駐車場に停めてあった車に乗り込み去っていった。
 私は、知らずに溜め込んでいた息を大きく吐き出した。
 そして、このままチカコのアパートに向かうべきか再考し、行くと決めた。しかし、何をするという訳ではなく、アパートの周りをパトロールして、その後帰路についた。
 それ以降、家でも会社でも、祈りについて考えた。何故、かしわ台駅の駅舎に祈らなければならなかったのか。祈りの内容と、祈りの場所は通常リンクしている。病気の治癒であれば、そうした神社仏閣があるだろう。しかし、2人はそうした場所ではなく、駅を選んだ。これは、チカコと男性が鉄道好きという点と深く関わっている様に思える。では、どの様に関わっているのかというと、そこまでは分からない。
 とはいえ、わずかながらも謎に切り込んだ感触を得て私は嬉しくなった。しかし、大きな問題はそのまま残されている。
 気の短い店長の事だ。そろそろ宇野を見限り、自らが動き出すだろう。そうなったら止める手段などあるのだろうか。焦りが募る。
 そして、ついに店長が宇野に最後通牒を告げるシーンが訪れた。
 「あんた、いつまでも何やってんの? 馬鹿なの?」
 店長は、明らかにわざと私の前で宇野を貶めていた。
 「もういいわ。あたしがやるから」
 「いえ、自分がやります」
 「どうやって」
 「・・とにかくやります」
 「あと2日待つわ。その間に、それなりの結果を持ってきなさい」
 「はい・・」
 宇野は、俯きながらも、殆ど店長を呪うような目で見ていた。
 「宇野」
 店長は、宇野をくに呼び寄せて耳打ちした。
 「でも・・」
 「大丈夫よ」
 「・・・・」
 何を吹き込まれたのか。少なくとも、正当な手段でないのは明らかだ。もはや、一刻の猶予も許されない。
 私は、無意味かもしれないと思いながらも、宇野に「早まるな」とメールした。
 宇野はチラリとこちらを見たが、私は視線を合わせず、最後の手段に打って出る準備を始めた。賭けの様なやり方なので私の最も苦手とするところだが、他に方法がない。
 パソコンでデータを確認し、裏口から出て連絡をとる。幸い、夕方なら10分程度なら時間がとれるという。私は、父親が事故にあったという嘘を仕立て、会社を早退した。
 その後、私は大和駅に向かった。電車を降り改札を出て、瀬谷駅方面に歩き5分程度のところにチカコが住むアパートのオーナーの家はあった。
 分厚い石塀に埋め込まれた表札には、「笠原慎吾」と刻まれている。
 緊張を当然だと肯定しながら、呼び鈴を鳴らし返事を待つ。すぐに、お手伝いさんの様な女性に招き入れられ、応接間に通された。
 奥のソファには、オーナーらしきスーツ姿老人が腰かけていた。浅黒い肌で、引き締まった体であることが腕組みの具合で分かる。
 「あ、あの、先程連絡させていただいた」
 「いいから、用件を」
 オーナーは、ソファに座る様促してきた。
 私は、オーナーのせっかちさを尊重し、座るなりすぐに要点を伝えた。
 「かしわ台のアパートは、開発予定かもしれませんが、ご病気の方が住んいるので、待っていただけないでしょうか」
 「病気なら、病院に行ってもらった方がいいのでは」
 「行ってます。でも・・」
 「でも・・」
 「なんと言うか・・とにかく」
 「もう、長くないという事かな」
 私は、そうは言いたくないし、頷きたくもない。
 「祈っていたんです。かしわ台駅の改札口で」
 「?」
 「私の勝手な推測ですが、改札口からホームが長い事にあやかる為だと思うんです。もうチケットを手にしてしまったけど、出発まではまだ時間があるという」
 「見立てて祈っている・・」
 その後私は、アパートが駅の改札まで5分で、駅からホームまでも5分かかる。そこにも、自分たちの人生を見立て祈っているのかもしれないと説明した。
 「・・それで君は、ここに」
 「はい」
 「話は分かった」
 「あ、ありがとうございます」
 「分かったと言っただけだ。君の意見は聞いた。理解した。そうゆう意味だ」
 「・・はい」
 「他に何かあるかな」
 「あ・・いえ」
 「じゃあ、いいかな。ちょっと出掛けるんでね」
 そう言うと、オーナーは立ち上がり私に退出するように促した。
 私は、最後に何か言えないかと考えたが、思いつかず、ただ「よろしくお願いします」とだけ言い、深くお辞儀をしてから部屋を出た。
 後になって、「病院を追い出して建った高齢者施設」などと噂がたちかねないと、脅しめいた忠告をする手立てがあったかと思い至ったが、そんな事は絶対に言わない方がいいと打ち消した。
 やれる事はやった。後はこの先に出来るこ事をしよう。そう考えを切り替え、チカコのアパートの様子を伺ってから家に帰った。
 翌日、出社すると、いきなり店長室に呼びつけられた。
 「大丈夫だったの」
 そうそう、父親が事故にあった事にして抜け出したんだ。
 「大丈夫でした。足の骨折だけで」
 「そっちじゃないわよ。オーナーよ」
 もうバレていたか。しかし、なんと答えるべきか分からない。
 「あんた、何勝手にやってんの」
 「・・・・」
 「かしわ台のアパートの件は、あんたに任せるって」
 「!」
 「これから建てようってのが高齢者施設なんだから、賃貸契約者を最大限に重視すべきだって、お叱りを受けたわよ、全く」
 「すみません」
 「言っておくけど、あたしは今回のあんたの勝手な行動、問題だと思ってるから」
 「・・はい」
 「ただ、オーナーの直々のお達しだから。しっかりやりなさい」
 「は、はい」
 店長室から出ると、宇野が蔑むような目で見ていたが、私は無視して通り過ぎた。そして、すぐに裏口から出て、ガッツポーズしまくった。
 しかし、せっかく事が上手く運び出したというのに、1週間もしないうちに、チカコからアパートの解約の連絡が入った。理由は一つしかない。ご主人が亡くなったのだろう。
 数日のうちに、鍵の引き渡しの部屋の確認の日取りが決まった。
 私は、出来る限り淡々と業務を行うと決め、かしわ台のアパートに向かった。ホームから改札口へと向かいながら、足音と心臓の音だけに集中した。
 しかし、改札口を出ると、そこで見たチカコと車椅子の男性が祈る姿を思わずにはいられなかった。
 夕焼けに照らされた坂を上り、道なりに曲がり、ゆっくりと住宅地を進むとやがてアパートが見えて来た。何度か来ているのだが、どこか違う建物に見える。
 部屋は、きちんと片付けられていた。下駄箱の上の電車のミニチュアや、廊下のポスター、絵葉書は跡形もない。もちろん家具は一つもなく、微かに消毒の匂いが漂っていた。
 「大丈夫ですか」とチカコが尋ねてくる。
 それを聞きたいのはこちらなのだ。そんな思いを押し殺し、「大丈夫です」と私は答えた。
 チカコは、鍵についている電車のキーホルダーをカチリと外すと、「ありがとうございました」と鍵をこちらに差し出した。
 「ありがとうございます」と私は鍵を受け取り、鞄にしまった。
 チカコは、キーホルダーをバッグにつけかえ、色違いの二つの電車がぶら下がった。
 「それでは」
 チカコが軽く会釈して振り返り、歩き出す。
 私に何が言えるのだろう。適した言葉は出てこない。言葉とはこんなものなのか。いや、私がこんな者なのだろう。
 私は、無言でお辞儀した。
 チカコは、部屋を出て行った。
 私は、ガスや水道、電気などの手続きをしなければならないと、鞄から携帯電話を取り出した。その時、窓の外のチカコの姿が目に入った。その背中は小さく、右肩にかけられたバッグのキーホルダーが夕陽に照らされ輝き、歩くたびにユラユラと揺れていた。
 私は、幼い頃のチカコの姿と重ね合わせた。
 子供の頃も、今も、「さよなら」さえ言えなかった。そう思うと、涙が込み上げそうになった。
 チカコが見えなくなっても、私は暫くその場に立ち尽くした。
 やがて、「部屋は大丈夫?」と店長から電話が入った。
 「大丈夫ですよ。部屋は」
 「じゃ、すぐ帰って来て。こっちは接待で忙しいんだから」
 電話を終え、私はやるせない思いを振り切るように部屋を出た。振り返ると、夕陽に照らされた自分の長い影が、部屋の中にまで伸びていた。それは、微かに震えているように見えた。
 私は小さく息を吐き出すと、ドアを閉じ、そっと鍵を閉めた。

著者

工藤守