「夢を乗せて」相子

 急行電車の席は埋まっていた。疲れているのに、立ったままはきついな。向かいのホームの快速電車が、二俣川で各駅停車海老名行きに連絡するとアナウンスが入った。次の急行よりも早い。乗り換えるのは面倒だけど、座れるからこっちにしよう。
 いずみ野線快速電車は空いていた。急行だと二俣川まで一気だけど、快速は二駅ほど止まる。でも、もう帰るだけだからゆっくり行こう。
 まだ高校一年生なのに、受験が終わったばかりだと言うのに。
「幸は無限の可能性があるんだよ。好きな道が選べるように、勉強しておきなさい」
 父はそう言うと、毎月、横浜の予備校で行われる模擬試験に勝手に申し込む。せっかくのお休みに朝早くから家を出て、テストを受けて、もうクタクタだ。
 農業を継ぐのに学問は必要ないと言われる中、農学部に行くと、祖父を説得した父。結局大学院に通っている時に祖父が亡くなると、農業は継がずに発酵の研究を続け、そのまま大学の先生になった。
「幸にはそんな思いをさせたくないからな」
 『幸』と書いて、コウと読む名前。
「『酵』って出生届に書いたのを、泣いて止めたのよ」
 お母さんに名前の由来を聞いた時には、本当に感謝した。
祖父に『耕作』と名付けられた父の言うことなんて、額面通りには受け取れない。まだ進路は決まっていないけど、発酵にだけは関わらないと決めている。
 ああ、眠い。
 ボックス席の窓に凭れてぼんやりしていると、景色がどんどん流れていく。マンションの群れが、牛乳工場のバラ園が、飛んでゆく。カタンカタンと単調なリズムが眠りに誘う。鶴ヶ峰を発車した。次は二俣川だ。乗り換えなきゃ……。
 あれ、何も見えない。暗い窓にはぼんやりと、平べったい顔が映っている。トンネル? トンネルなんてないはずだけど……。急に窓の外が明るくなって、木々の緑が飛び込んできた。花ミズキが咲いている。その奥には綺麗なマンション群。なんか外国の町並みみたいだ。席の斜め前、通路側には茶色の巻き毛の男子が座っている。灰色の瞳に掛かるまつ毛が長い。
 夢だな。疲れているから、寝ちゃったんだ。次、降りなきゃ。
 すうっと電車が動き出した。
「まずい!」
 立ちあがって外を見ると、まったく見慣れない風景が広がっていた。
 夢の男子が見上げている。
「何処で降りるの?」
 え、日本語? やっぱりまだ夢の中だ。
「海老名」
「これ、いずみ野線だよ」
 安心して答えたのに、寝過ごしていた。
 ゆめが丘に帰る健太郎、ギャップありすぎの名前を持つ、お父さんがドイツ人パン職人の同い年の健太郎が、次の弥生台で降りて一緒に二俣川まで戻ってくれた。

 時間があると沿線のパン屋巡りをしているという健太郎。模擬試験の帰りに待ち合わせるようになって、テストの日が楽しみになった。
「幸も前向きになって来たな。志望校は決まったのかい。今度、うちの大学に見学に来ないか」
 何も知らない父はうれしそうだ。
 将来の目標が定まっている健太郎のことを考えると、少々不甲斐ない気持にはなる。
「それぞれでいいんじゃない。美味しいパンだって、それぞれだし」
 パンと言う限定された世界でも、行くお店ごとにそれぞれのスタイルがあって、みんなそれぞれ美味しい。
横浜から順に、ひと駅ずつ降りてパン屋に行く。親子代々のコッペパンが人気のパン屋。ビジネス街のおしゃれな北欧風のパン屋。美味しいパン屋が欲しいと地元の有志がプロデユースしたパン屋。いつも一気に走りぬけていく駅の、それぞれに美味しいパンはあった。
「帰り道からは外れるけど、来月はいずみ野線行かない?」
「いずみ野線かあ。降りるのは初めてだね。楽しみだな」
「じゃ、記念すべきいずみ野線初パン屋は、うちだね」
 一月後、健太郎と並んで座る窓から見えるいずみ野線沿線は、トンネルと綺麗に区画された住宅地が広がっていた。駅の周辺もすっきりしていている。
 ゆめが丘の改札を出ると、畑が広がっていた。冷たい空気の中、冬野菜が日射しを浴び生きいきと茂っている。
 パン工房・トラオムは、ヨーロッパの昔話に出てくるイメージの、木造の小さなパン屋だ。
「いらっしゃい」
 お母さんの唄うような声に、少しイントネーションの変なお父さんのバリトンが重なる。香ばしいパンの香りが広がった。
 まだ日が高いのに、ショーケースの中は、ソウルドアウトの札が目立つ。なんか、残念だな。
「幸ちゃんが来てくれるって言うから、お父さん張り切っのよ」
 促されて裏庭のテラスに行くと、白いテーブルにパンが山盛りの籠があった。
「美味しそう!」
 パンが膨らむみたいに胸がわくわくしてきた。
「お客さん一段落したから、お茶にしましょう。健、手伝って」
 席に着くと、お父さん、と言うのも違和感のあるヨーロッパの宗教画から出てきたみたいな容貌のお父さんが、パンの説明をしてくれる。様々な形、様々なきつね色のバリエーション。ドイツ語の名前は覚えられなかったけど、どれもみんな美味しそうだ。
 甘い香りのハーブティーのポットを持った健太郎とお母さんも席に着く。
「こっちは……」
 お母さんが説明を引き継いだ。
 お母さんの顔を見たら、自分と同じ平たい顔でなごむ。
「本当はドイツパン一本でやりたかったんだけど」
 日本人の口に馴染むようにアレンジされた食パンや地元野菜を使った総菜パンだ。
「日本のパン、美味しいです」
 お父さんの手は総菜パンに伸びる。
 小麦の風味のしっかりしたドイツパンは、初めて食べるのに、なんだか懐かしい。お父さんの朴訥な笑顔のような味がした。地元の小松菜、途中の畑から仕入れているという小松菜を練り込んだ鮮やかな緑色のふんわりしたパンは、お母さんのほほえみのような暖かさだ。次々にパンを口に放り込む。
「こんなにおいしいパンがあるんだから、もう食べ歩きしなくてもいいのに」
「もっと美味しくしないと」
 健太郎は誇らしそうな笑顔だ。
「健はパンのことばかりなの。もう少し学校の勉強にも力を入れて欲しいんだけど」
 お母さんは眉間にしわを寄せながら、目は笑っている。
「パンの味は、少しは解って来た気がするんだけど。でも、実際に作るのはね……」
「パンは生き物です。発酵は、材料、天気、毎日違います」
「パンも発酵なんだ」
「そうだよ。イーストの力で膨らむんだ」
「そうなのよ。日本のパンにはお酒と同じ酵母で作るパンもあるの」
「自然には、沢山の酵母、あります」
 いつも友達に言うと爆笑されるのに、名前の由来を話したら感心された。
「これからは発酵の研究もしたいな」
「だったら、うちのお父さんに聞いてみるといいよ」
 パンのお礼が出来そうだ。父に初めて感謝しだ。
「幸ちゃんのお家は、何処なの?」
「海老名です」
「あらー。わたし海老名生まれなのよ」
 懐かしがるお母さんも一緒に、春休みの定休日にうちに来てくれることになった。

 電車がホームに滑り込むと、沢山の人が改札に押し寄せる。背の高い健太郎と、お母さんの姿が人波に乗って現れた。短いエスカレーターを降りてバスターミナルに出ると、お母さんは目を見張った。
「こっちです」
 父の運転する車に乗ってからもお母さんは窓にへばりついている。
「すごく変ったわねえ」
「そんなに変わりましたか?」
「だって、わたしが子どもの頃の記憶には田んぼしかないんだもの。こんな立派なビルばかりなんて……」
 立派って……。見慣れた町並みがいつもよりも輝いて見えてきた。
「そうですね。子どもの頃は田んぼが広がっていましたね」
 父とお母さんはむかしばなしに花を咲かせている。そんなに田んぼばかりだったのかな。小さい頃、駅から離れると田んぼあったけど。祖母が、ここもあそこもと、ファミレスやホームセンターの立っている場所がうちの田んぼだったって言っているけど、お隣のおばあちゃんも同じこと言っていて、結構重なっている。それに、二人の話を聞いていると、海老名じゅうがうちとお隣の田んぼだったことになるから、あんまり信じていなかった。
 家に着くと、母も祖母も健太郎に興味深々だ。
「ハンサムだこと」
「あらいやだ、お義母さん。今はイケメンって言うんですよ」
 健太郎が耳を真っ赤にして、俯いてしまった。
「おばあちゃんもお母さんも、駄目だよ。健太郎はお父さんと話しに来たんだから」
「だって、発酵のこと聞きに来たんでしょ」
朝早くから酒まんじゅうを作り、小さな畑で採れた野菜で作った漬物を切っていた二人は不満顔だ。
「ダメダメ。お勉強なの」
 父たちを書斎に追い立てると、今度はお母さんが質問攻めにあっていた。
「学生時代に知り合ったんですよ。バイト先のホテルのベーカリーで。今は独立してゆめが丘でトラオムという、小さなパン屋をやってるんです」
「トラ……?」
「トラオム。ドイツ語で夢って意味なんです。これ、なんか懐かしい味がします。美味しい……」
 酒まんじゅうを食べては漬物を摘まみ、お茶をすするというループに絡みとられている。
甘みと塩気、そして渋みで口の中がさっぱりするのは中毒性がある。
「海老名、変りましたね」
「そうですね。わたしが嫁いできた時はまだ田んぼも多かったんですけど」
「市役所の前辺りも田んぼばっかり」
「やっぱり! わたし幼稚園の頃、あそこでレンゲ摘みした記憶があるんですよー」
「レンゲまつり、やってたからねえ」
 ひとしきり漬物をかむ音とお茶をすする音だけが続いた。三人の頭の中には、それぞれの田んぼが広がっているみたいだ。
「卒園式の後、引っ越したんですけど、見送りに来てくれた男の子がレンゲの花輪を首にかけてくれたんです。懐かしいなあ。これ食べていると子どもの頃のことを思い出しちゃうわー」
 初めて食べたのに、変なの。それともこういった味って日本人共通の何かなんだろうか。
あっ。トラウムのパンも、懐かしい味がしたな。もしかして、発酵の力?
そんなことを考えていていたら、祖母が突然前のめりになった。
「あんた、美代ちゃんじゃないの? しゃれたアパートに住んでいて垢ぬけたお母さんがクッキーなんてよく作っていたのに、酒まんじゅうや漬物が好物だった。横浜に引っ越した……」
「……はい」
「やっぱりそうだよ。その食べっぷり、忘れないよ」
 祖母は一人で頷いている。
「もしかして、耕ちゃんのおばちゃん? じゃ、幸ちゃんのお父さんが耕ちゃんなの?」
 健太郎のお母さん、美代子さんと父は幼馴染だったんだ。それもお別れにレンゲの花輪をプレゼントするような、特別な。それにしても父がレンゲを編むなんて、まったく想像がつかない。
 母は父の幼いころのはなしを面白そうに聞いている。趣味が一緒だと話が合うのかな。でも健太郎のお父さんと父はちっとも似ていない。見た目じゃなくて何か深いところが似ているのかな。今度、健太郎のお父さんに会ったらよく探してみよう。
「あー、お腹空いた」
 書斎から出てきた父たちは、酒まんじゅうにかぶりつき、お茶をすする。
 平べったい顔の父と、彫の深い健太郎。まったく似ていないのに、動きが一緒だ。
「健太郎君はよく考えているね。話していて楽しいよ」
「疑問に思っていたことを色々教えて貰って。すごくためになりました。学問の裏付けのある実践って、無敵だと思います」
 母がクスクス笑い出した。健太郎のお母さんも父の顔を観察していたかと思うと声を上げて笑い出した。
「お母さん、どうしたの。失礼だよ」
 戸惑う健太郎の姿に、女性陣は笑いの渦に飲み込まれていった。
「美代ちゃん。耕作、変ったろ」
「そうですねえ……」
「耕作、初恋の美代ちゃんだよ」
「え……」
「あなた、覚えてないの? レ・ン・ゲの花輪」
 母も楽しそうに父をからかう。
「なんだよお」
 憮然とする父。
「そんなこともあったな。横浜って遠かったもんな」
「そう、すごく遠いところに行くんだって思ったの。でもね、横浜って言っても希望が丘だったのよ」
「近くじゃないか。ここから……、七駅目だ」
 なかなかロマンチストだろと、父は自慢げだ。だけど、ちっとも編めずに手の熱でくったりしたレンゲの花を見かねて祖母が手伝おうとしたのを断って作り上げた花輪は、あんまりロマンチックな出来ではなかったみたいだ。

 桜が咲いて、高校二年生になった。
 健太郎は父が在宅している日を狙ってちょくちょく海老名にやってくる。発酵仲間の二人はすっかり打ち解けて、そこに漬物に一家言ある祖母や母が加わっている。
「発酵は人類の文化だ。幸もこっちへおいで」
 味方を得た父は、手招きする。
 パンにしろ漬物にしろ、発酵食品は美味しい。それは認めるし、大好きだ。だからこそ、純粋に食べ物のとして楽しみたい。顕微鏡の世界になんていかないぞと、逃げ回った。
 すっかり父に感化された健太郎は、父の大学に行って学ぶんだと意気込んでいる。模擬試験を一緒に受けられるようになったのはうれしいけど、近頃口調が父に似てきたのには閉口だ。まあ、健太郎の夢が広がるのは、いいことだけど。
 ゴールデンウィーク前の定休日、健太郎の一家がパンを沢山持って遊びに来た。そして、うちで作ったおにぎりや漬物、もちろん酒まんじゅうも持って隣のおばあちゃんの家の田んぼに行った。代掻きする前の田んぼは、一面にレンゲが咲き、赤紫色の絨緞を敷きつめたみたいだ。
「日本の漬物、ドイツの酸っぱいパンによく合います」
「うまみ成分も違ったものの組み合わせで、何倍もうまみがアップするのと同じ効果があるのかな」
「組み合わせって?」
「カツオブシのイノシン酸とコブのグルタミン酸を合わせた出汁は美味しいだろ」
「うん」
 美味しいものには訳があるんだ。発酵仲間が二人も来て、父はいつも以上に饒舌だ。
 青い空に丹沢の山々が遠望される。レジャーシートに座ったまま、レンゲを摘んだ。摘んでも摘んでもレンゲは尽きない。
「クローバーのカンムリ、作りました。子どもの時」
「あら、あなたも初恋に人にあげたの?」
 お母さんの言葉に、お父さんは一瞬、遠くを見るような目になった。
 健太郎のお父さんはレンゲの花を受け取ると、器用に一輪ずつ絡ませながら編んでいった。
「上手いもんだなあ」
 父がつぶやいた。
「コツです。簡単です」
 簡単という言葉に触発された父は、お父さんに教わりながらレンゲを編み始めた。健太郎と二人でせっせとレンゲを摘んだ。母とお母さんはしゃべったり食べたり、口をせわしく動かしている。
 暖かな日射しの中、ミツバチやモンシロチョウも蜜を求めて飛び交っている。
 出来あがった花輪がそれぞれの奥さんの首に掛けられた。みっちりと編まれた豪華な健太郎のお母さんの首飾り。少しよれっとした母の首飾り。
 初恋を再現しているみたいな、少女のようなほほ笑みが眩しい。
 何で健太郎はつくってくれないのかな。
「初恋は叶わないから……」
 ぽつりとつぶやいた。そうだね。もう、初恋じゃないもの。
 夏休み前の模擬試験帰り、二人で特急に乗って発車を待っていると女性の車掌さんが通った。制服姿がすてきだ。
「前の模試で合格確率少し上がったんだけど、今回の方が手ごたえあるな」
「お父さん、よろこぶよ」
「幸は、志望校決まったの?」
「うーん、どうしようかな……。ねえ、車掌さんになるには何学部?」
「さあ……。でも、突然何で?」
「だって、かっこいいもん」
「そんな理由? でも、幸は車掌さんよりもそうにゃんの担当の方がいいんじゃない」
「広報? なんで?」
「なんか似てるし」
「えー、タヌキ顔ってこと!」
「そうにゃんはタヌキじゃないよ」
「知ってるけど……」
 今は横浜止まりの相鉄線も、これからは都内まで直通になるから通学も便利になるなと父が言っていた。
 発車のベルが鳴る。無限の可能性を載せてヨコハマネイビーブルーの電車が動き出した。
                                             <了>

著者

相子