「夢見草」匿名希望

 玄関の扉を開けると春の香りがぶわっと流れ込んできた。それと同時に、春の陽射しを浴びて白く輝く桜の幻想が見えた気がした。もちろん、そんなものはない。
「いってきまーす!」と部屋にいる母に叫ぶと、私は家の前の坂道を下り始めた。
 この街に戻ってきて3年が経った。私がいない間に鶴ヶ峰は随分と変わっていた。家を出るとまず見えるのが空にぐんと聳え立つ塔「ココロット」だ。白地に赤のおもちゃみたいな塔の中にはスーパーマーケットからカフェまでいくつかのお店が収まっている。この塔が建つと、鶴ヶ峰はまるで司令塔ができたかのように嘘みたいに姿を変えた。駅前にマンションが建ち、子供のようなかわいらしいお家が次々と生まれていった。川が埋め立てられ、遊歩道ができ、小学校には教室が足りなくなった。
 そして何より、私が帰ってきた鶴ヶ峰には桜がなくなっていた。私の家の前には桜があった。私が生まれた日、父が連絡を受けて慌てて家を飛び出すと白い桜が私の誕生を祝福するかのようにふるふると震えていたそうだ。昨日まで蕾だったはずの桜が、満開で。
「その時の桜はな、夢みたいでパパしばらく動けなかったんだ。電話の向こうでお前の泣き声が聞こえて、我に返ったんだ。その時ふっと思いついたんだよな、夢を見ているみたいにきれいな桜、夢見草。お前の名前を夢見にしようって」
そして、最後に父は必ず「これはお父さんとの秘密だよ、恥ずかしいから誰にも言わないでね」と付け加えるのだった。なぜかは分からない。きっと無口な父は実はロマンチストであることを誰にも知られたくなかったのだろう。
 その話が大好きで幼い頃はよく父にせがんだものだ。今思えば前日まで蕾だった桜が翌日に満開になるなどありえない話だ。忙しかった父の思い違いだろう。それでもこの話をしているときの父が一番優しい目をしていた。たぶん私は幼いながらに、父の優しいぬくもりと大きな力に守られて生まれてきたことを実感したかったのだ。
 父との約束を忠実に守っていた夢見だったが、かつてその話をした人が一人だけいた。その人は笑うと目の端にくしゃっとしわができる人だった。夢見がその話をした時もくしゃっと笑みを浮かべて、
 「夢見は愛されて生まれてきたんだね。世界一素敵な名前だね」
 なんて言ってみせたのだ。今にして思えば中学生にしてよくもそんなセリフが言えたものだ。父との約束だったがどうしてもその人には言いたくなってしまったのだ。きっと父に似た大きな優しい人だったから。それが夢見の初恋だった。そんな夢見の初恋も桜のようにあっさりと散ったのだが。
 そんなことを思い出しているうちに、鶴ヶ峰の司令塔「ココロット」の前まで着いていた。カンカンカンと踏切の音が鳴る。夢見は慌てて駅のホームへと急いだ。鶴ヶ峰の駅前には二つの踏切があり、二つ目の踏切が鳴る前に駅前にいるようでは全速力で走らなければ間に合わないのだ。
 案の定、夢見がホームに降り立つと春のやわらかい空気を切り裂いて紺色の車体が滑り込んできた。深い紺一色で塗られた車体は相鉄線100周年を記念して去年から導入されたものだ。はじめこそホームに滑り込む見慣れない色に慄いていたものの、今やこの車体が来ると心が浮き立つ。中は灰色で統一されており、電車とは思えないほどのモダンの造りとなっている。何より、と夢見は電車のシートに腰を下ろす。何よりこのシートの柔らかさはどの電車にも勝っている、と思う。単純な女子大生の心を浮き立たせるには十分である。
 電車が横浜まであと少しといったところの西横浜まで来た時、その人は目の端に映りこんだ。隣の席に座っている男の子が何やらピンク色の紙を器用に折りたたんでいる。折りたたんでいるだけなら気にも留めなかったかもしれないが、彼は指先をうまく使って細かく折っているのだ。真隣の席なのでうまく見えないが、魔術師のように素早く折り目をつけていく。次の瞬間、夢見は思わずあっと声を上げそうになった。彼の手の中に小さなハートが生まれたのだ。
 ―折り紙だ。淡い白ともピンクともつかない紙をものの30秒でハートにしてしまった。夢見は心の中で拍手を送った。と同時に疑問が生まれた。隣の男の子はどう頑張っても私と同じくらいの年だ。小学生が電車の中で折り紙を折るのならまだしも、20歳くらいの若者がその上男性が電車の中でハートを折るなどなかなかに珍しい状況だ。しかも紙には折り目がついていて、何度も開いては折ってを繰り返したことがうかがえた。この状況で気にならないほうが嘘である。夢見は悪いと思いつつも、目の端でなんとか彼がどんな人物であるかを捉えようとした。しかし彼は深く腰掛けており、ベージュでチェック柄のマフラーを巻いていることしかわからなかった。
「次は横浜~横浜~お出口は右側から先、両側が開きます」
 結局、隣の彼のことは分からずじまいで横浜駅まで着いてしまった。まあいいか、そんなに気にする方がおかしいんだし。春のあたたかい空気で少し浮かれてるのかもしれない。夢見は少しおかしくなって肩をすくめた。しかし、次の瞬間またあっと声を出しそうになった。隣の人が立ち上がると同時に、あんなに大事に折っていた紙をひらりと落としたのだ。あのあと彼はハートを折って満足したのか、膝の上に紙を置いてずっとスマホをいじっていた。スマホに夢中になって忘れてしまったのだろうか、彼は全く紙に気づかずにぷしゅーっと音を立てて空いたドアからホームに降りてしまった。呆気に取られていた夢見は慌てて紙を拾うと彼を追いかけた。
「すみません…!」
しかし夢見がホームに降り立つと彼の姿は雑踏に紛れて見えなくなってしまった。

「それで?持って帰って来ちゃったって言うの?」
「うん…」
実乃梨がはあと軽くため息をついて肩をすくめる。
「呆れた。ほんと夢見はお人好しだよね、この前もバイトで同じようなことして怒られてたじゃん」
バイトでした同じようなこととは、座席に忘れられたジュエリーのパンフレットをお客様の後を追いかけてまで届けたという話だ。
「だって、私たちにとってはゴミに見えてもその人にとっては大事なものかもしれないよ。男の人だったし、彼女さんのプレゼント候補に見てたんじゃないかな」
「あのねえ、普通の人はパンフレットなんか大事にしないし、座席に置いていったならどう考えてもゴミじゃん。実際、嫌味なのかってお客様にも言われたでしょ」
「でも…」
むくれて私は机に突っ伏す。自分でだって人のことを気にかけすぎなのは分かってる。でも私は怖いのだ。大事なものが突然なくなってしまうのが。
「でもさ、これは絶対に大切なものだと思う。ほら、ただの折り紙じゃないんだよ」
そういってうやうやしく折ってある紙の隙間を見せた。そう、拾った時に気づいていた。折り紙の内側には文字が連ねてあったのだ。
「え、なにそれ、じゃあ手紙ってこと?」
実乃梨が目をきらきらさせる。
「たぶん。手紙なのです」
夢見は得意気な顔をしながら、折り紙をひらひら振った。白ともピンクともつかないそれは桜色というのが一番近かった。まるで本当の花びらみたいに見えて、思わず目を細める。
「中身は!?なんだったの!恋文?恋文でしょ!?」
実乃梨が興奮気味に迫ってくる。普段から恋愛ドラマを全て網羅し、バイトメンバーの色恋事情までみっちり把握している実乃梨にとってこの謎の手紙は格好のネタなのだろう。
「残念、見てないんだよね。見られたくないかなって思って」
「はあ!?もしかして見たら誰のか分かるかもしれないじゃん!だいたい今だってベージュのマフラーってことしかわからないのに!ちょっと見せなさいよ!」
と引き下がらない実乃梨と机越しに揉み合っていると、上からぺしんと頭を叩かれた。
「こらっ!2人とも!休憩の時間とっくに過ぎてるわよ!早く戻りなさい」
「うわっ、やっばい!夢見!いくよ!」
慌てて荷物をまとめると、実乃梨はポニーテールを揺らして走っていってしまった。パートの神川さんは怒ると怖い。陰では神川じゃなくて、鬼川だなんてささやく声もあるくらいだ。
「ちょっと待ってよ!神川さんすみません!」
夢見もあわてて荷物をまとめると、実乃梨の後を追った。

 お客様が全員帰ると、実乃梨が「うーん」と盛大に声を出して伸びをした。遠くでキッと神川さんがこちらを睨む。私たちが働いているのはレストラン「重忠」である。重忠と言いながら、洋食レストランなのだから面白い。なんでもマスターが鶴ヶ峰で命を落とした名将・畠山重忠の熱狂的なファンだそうだ。夢見にはちっとも理解できないが。
「ちょっと実乃梨!神川さんこっち見てるよ!」
「大丈夫だって。そんなことでいちいち怒ってたら死んじゃうよ」
全く実乃梨の言葉はひやひやさせる。夢見はちらちら神川さんを気にしていると、実乃梨がそういえばさと口を開いた。
「そういえば、明日のことちゃんと覚えてる?」
「当たり前じゃん、覚えてないわけないよ」
明日のこととは実乃梨と花見に見に行く話だ。鶴ヶ峰には駅の向こうに桜がきれいに咲く親水公園という場所がある。パートさんの話では一週間前ほどに満開になりかけていて、ぜひ二人で見に行ったらと言われたのだ。公園のベンチに10:00と約束していた。

 なのに、だ。翌日、夢見は一人でベンチに座っていた。とっくのとうに10:00を回っている。何のことはない、実乃梨はあの後も何度も夢見に念を押したのに寝坊で1時間も遅刻すると連絡が入ったのだ。家に帰ってもよかったのだが、ベンチから見上げる桜があまりにキレイで動けずにいた。
 前もこんな景色を見たことがある、と夢見は思った。確かあれはここを離れる前のことだ。
夢見は鶴ヶ峰を離れる前にどうしても初恋の人に思いを伝えたかった。しかし最後の最後まで一歩を踏み出せず、とうとう引っ越す翌日まで迫ってしまった。そして最後の日に想いを書きなぐった手紙を彼の家のポストに入れたのだ。最後にお返事はいりません、明日引っ越しますと付け加えて。その帰りに正にこのベンチから桜を見上げたのだった。
 そこであっと思い出した。ポケットを探って昨日のハート型の手紙を出す。
「どうして…」
 どうして今まで気づかなかったのだろう。これは数年前、あの日に自分が書いた手紙じゃないか。あの日、せめてもの思いを伝えたくて不器用ながらに折ったハート。どうして今まで忘れていたんだろう。
 呆然と手紙を握る夢見の上にひらひらと桜が落ちてくる。
「夢見…?」
 目の端でベージュのマフラーが揺れた。

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匿名希望