「夢追坂」赤羽宥興

1.鶴ヶ峰 初夏 二〇一七 走れ!
とにかく坂の多い街だ。筒井健司(つついけんじ)はつくづく思う。妻の和泉(いずみ)が「見晴らしがいい」と決めたアパートは小高い山の上にある。都内の平地生活にすっかり慣れていた健司には、毎日のアップダウンが堪える。朝日のあたる下り坂の向こうに川があり、目指す鶴ヶ峰駅はその先だ。健司は朝が弱い。毎度のことだが小走りに駆け出す。下りだから助かるが帰りの登りがこれまた辛い。毎日の苦労をこぼしても和泉は「健康のためにいいじゃん!」と意にも介さない。元々この沿線にずっと住んでいる和泉には坂との生活は当たり前の事なのだろう。
しかし住んでみて気が付いたのだが、結構生活はしやすい。都内に比べると生活感があり、何より自然が多い。川が流れ、夏はたくさんの蝉も鳴き、バスで足をのばすと動物園もある。もうすぐ2歳になる娘の夢(ゆめ)を連れて家族三人で休日を過ごすには事欠かない。ただ駅名に鶴なんて美しい鳥の名前がついているのに、昔は古戦場だったそうで「鎧」とか「首」とか「籠」とかいった小さな史跡が隠しアイテムのようにあちこちにあり、夢と散歩していて初めてそういうものに遭遇した時は驚いた。ベットタウンとして住宅開発が進む中、それらの史跡がすっかり生活にとけこんでいる。隣駅の和泉の実家も「万騎が原」という歴史を彷彿させる地名だ。歴史の上に現代があり、現代に生きる人々の横の繋がりのみならず、過去からの縦の繋がりも息づいている。そんな人々の見えない繋がりが、この街の魅力なのかもしれない。
2.鶴ヶ峰 初夏 一二〇五 出陣
今から遡ること約八百年前、同じ刻限にこの坂を見下ろしている武将がいた。その武将は山の上から眼下に流れる川の流れを見ていた。息子の鎌倉での悲報を聞き、騒ぎ立つ心を押し鎮めようと呼吸を整え、今後の行く末に気持ちを向けていた。悲報を聞いた郎党たちは殺気立っていた。
「重保(しげやす)様の事、無念でなりませぬ」
「このうえは我ら一同で弔いじゃ!」
騒ぎ立つ家臣団の気持ちは十分わかる。自分もそうしたい。だが目の前には三万以上と思われる軍勢が陣を構えていた。野に満ちたその大軍の総大将は北条義時(よしとき)。万にひとつも百四十騎足らずの手勢では勝ち目はない。義時は長年の戦友だ。昨日の使いは重保の件を詫び、幕府との取持ちを約束していた。きっと義時も重保の件を鎌倉出陣後に聞いたのだろう。全ての元凶は鎌倉に居座る北条時政(ときまさ)である。
だが怒涛のような時代の流れの狭間で起きた悲しい事実と比べ、この穏やかな朝靄の心地よい風は何を己に告げようとしているのか。ふと思い重忠(しげただ)は聞いた。
「この地は何という名じゃ」
「地元の者どもは『鶴ヶ峰』と呼んでおるそうです。なんでも美しい鶴が舞い降りたことがあるそうで。」
在りし日の頼朝とともに参った鶴岡八幡宮を思い浮かべ、内心重忠は苦笑した。(鶴か。これは頼朝殿が呼んでおるわい)元々迷いはない。重忠は郎党を全員集めた。どの顔も生気に満ち溢れ、三万の軍勢を前にしても微動だにしない覚悟を持っている。重忠はその顔を満足な気持ちで見まわした。
「わしはこれより鎌倉に向かう。頼朝公より誉れ高き先陣を賜ったこの畠山軍が、鎌倉へ馳せ参じる途中で引き返すなど思いもよらぬ。行く手を阻むものは容赦なく斬って捨てる!」
「お伴!お伴!」
重忠の決意を聞いて郎党が口々に叫んだ。
「おぬしらも物好きじゃのう。各々勝手といたす。頼朝殿が見ておられる。恥ずかしい戦は許さんぞ!」
朝靄がところどころ切れて敵の陣形が見えてきた。崖から見下ろすと一番手前に不自然な一団がある。この陣だけは川を渡河してこちら側に陣取っていた。その数およそ二千。陣形は側面がこちらに向いている。重忠は側に控える榛沢成清(はんざわなりきよ)に問うた。
「成清、あれなる陣形をどう見る?」
「ほほう、これは・・・我らをおびき出す策略か、もしくは、戦を知らぬ大バカ者かのどちらかでございましょう」
「では手はじめに、そのどちらなのか確かめてみるとするか。大バカ者だとしたら顔が見たいのう」
時を同じく、この不自然な陣形を組んだ先陣の葛城忠盛(かつらぎただもり)は、総大将の北条義時からの使者と相対していた。
「葛城様、陣を川の手前にお引きください。義時様のご指示を忘れましたか」
「かまわぬ。重忠は仕掛けてこれん。今頃この軍勢を見て恐れをなしておるわい」
「葛城様、こたびの戦の先陣お許しの条件は決して渡河をせず、さらに当方よりは仕掛けぬこと、総大将の義時様から重ねてのご命令です。今すぐ陣をお引きください。まして敵陣に横っ腹を見せるなど危険です」
「おぬしは阿呆か。重忠は攻められては堪らぬからあのように山の上に籠っておるのじゃ。あの崖からは馬に乗ったままでは下りれん。もしこの陣立てを見て腹を立てて下りてこようものならあのような小勢じゃ、下りだした時に陣を構えなおしても十分間に合うわ。そうじゃ重忠なら一の谷の時のように馬を担ぐかも知れんな。だったら大した見ものじゃ。おぬしも重忠が馬を担ぐ姿をここで見るか?はっはっはっ!本陣にもどり義時に申せ!本当の戦をわしが見せてやると!」
その時地鳴りのようにずっしりと腹の底に響く時の声が上がった。葛城忠盛の予想は外れた。畠山軍は騎乗のまま一気に崖を駆け下りてきた。勢いそのままに葛城軍に襲いかる。不自然な陣立てのうえ戦支度もままならない葛城軍はわき腹を大きくえぐられ、あっという間に崩れ出した。
「何をしておる。敵は小勢じゃ。落ち着いて取り囲めばたやすく討てる」
言っている側から悲鳴が上がる。土煙の向こうから騎乗の武士団が忠盛の前に忽然と現れた。忠盛は驚き、堪らず床几から転げ落ちた。
「これは殿の予想が当たりましたな。策略ではなく戦を知らぬ大バカ者だったようで」
榛沢成清は馬上から忠盛を睨みつけた。郎党が一人素早く忠盛の背後に回る。血塗られた刀が首筋にピタリと張り付いた。鋼の冷たさと重みをずっしりと首筋に感じ忠盛は呼吸もままならない。刃先からどす黒い血がぽたっぽたっと膝に落ちた。忠盛は尻もちをついたまま動けない。武士団の中から重忠が現れた。
「いやいや葛城殿。わざわざの出迎え大義じゃ。義時の本陣に案内してもらおうかの」
忠盛は口をぱくぱくさせるだけで声が出ない。
「これは人違いのようじゃ。失礼。では皆、参るぞ」
背後の郎党が忠盛の始末を伺う。
「権左(ごんざ)、阿呆に用は無い。捨ておけ」
「イッヒッヒ!おぬし命拾いしたのう」
そう言うと権左は忠盛の背中を思い切り蹴り飛ばした。
「ぐえっ」
蛙がつぶされたような声を吐きながら忠盛は前のめりに転がった。
重忠軍は敵陣の真ん中をまるで無人の野を行くかのように悠々と進んでいく。恐怖から解放され忠盛は我に返った。近習は多くが討たれ数名を残すのみ。まるで大蛇が陣中を通ったかのような光景だけが残されていた。
3.和田町 秋 根性階段
藤田美也子(ふじたみやこ)は階段をひたすら登っていた。誰が数えたか百二十段以上あるらしい。この大学に通いだして三年になるがやっぱりきつい。それも真っ直ぐではなく住宅地の中を縫うように登っていく。妙に不規則なメリハリが厳しさを増している。やっと階段を登りきったところで後ろを振り向く。はるか眼下に鉄道と国道が並行して走っている。先ほど降りた和田町駅が小さく見え、その向こう側の山には住宅地の中に緑が点在している。同級生の優香によるとここからの風景は優香の地元広島の尾道の風景に似ているそうだ。ただし尾道では眼下の鉄道と国道の部分には海があり、船が行き来しているらしい。その話を聞いた美也子は毎回ここで振り向くたびに、あそこに海があったらいいなと思ってしまう。他県から入学してきた友人達は「横浜なのに海が見えない」という単なる先入観から来るクレームを、地元沿線出身の美也子によく聞かせる。海以外の自然環境も良いから「住みたい街」の常連なのだけど。
公園を抜けて大学の門が見えてきた。ところが大学に着く直前に同級生からlineが入った。「速報!本日二限休講!」大学も三年になると授業の空き時間が結構出てくる。今日は二限しか授業がない。意を決してあの坂を登ったのに、すっかり無駄になってしまった。
「ええ~先に言ってよ。もう」
気持ちを切り替え図書館で調べものをすることにした。調べものといっても大学の講義に関連するものではない。ある会社の経営打開策を考えていた。
4.天王町 秋 真ちゃんのドリップ
横浜から私鉄に乗り換え三駅、迫田(さこた)はもうすぐ六〇歳になるが初めて天王町の駅を降りた。 “そこ”を紹介してくれた友人の話では、とても賑やかな商店街の外れの喫茶店の二階にあるという。半信半疑で道を進むと平日の昼間にも関わらず驚くような人出の、威勢の良い元気な商店街が忽然と現れた。自分の子供の頃を思い出しながら商店街を抜けていく。八百屋、魚屋、肉屋、いろんな店が元気に声を張り上げている。惣菜店の横にそれらしき喫茶店を見つけた。まだ約束の時間に三十分ほどあるので、喫茶店を覗いてみた。店に入ると若い女性の店員ともう一人奥に男性の店員がいる。他に客はいない。
「いらっしゃいませ!」
明るい女性の声で迎え入れられる。ジーパンにエプロン姿のところを見ると学生のアルバイトのようだ。
「この辺に鮫島(さめじま)経営研究所という会社はありませんか」
「経営相談の方ですね。こちらの二階になります。すみませんが社長がちょっと所用で出ておりまして、しばらくこちらでお待ちいただけますでしょうか」
と言われカウンターに導かれた。コーヒーの機器がずらっと並び、とても良い香りを醸し出している。どうも一階の喫茶店と二階の経営研究所は繋がりがあるようだ。
「約束は三時です。ちょっと早く着いてしまいました。気になさらないでください」
迫田はそう言って置いてあるメニューを手にした。一番上のブレンドから銘柄物が十種類ほど並んでいる。迫田はコーヒー好きが長じて自宅で焙煎までしており、コーヒーに関しては人並み以上の知見を持っている自負がある。だがここではあえておすすめを聞いてみた。
「そうしましたら、お客様は洋菓子派ですか和菓子派ですか?」
「うーん、今は洋菓子の気分です」
「では、ケーキとクッキーどちらがお好みでしょうか?」
「クッキーですかね」
「かしこまりました少々待ちください」
女性の店員が奥の男性店員に話しかけた。
「真(しん)ちゃん、これを一つお願いします」
真ちゃんと呼ばれた男性の店員はおもむろに動き出した。終始無言でよく見ると体の動きはちょっとぎこちない。ただコーヒーを入れる手つきは慣れているようだ。コーヒーの豆をグラインダーに入れて挽きながらカップの用意をしている。湯の沸騰加減を調節してペーパーでドリップしていく。目が真剣で湯を注ぐ手が常に一定だ。でもやっぱり体の動きはどうもぎこちない。
女性の店員ができたコーヒーを持ってきた。胸の名札には手書きでカラフルに「美也子」と書いてある。あらためてこの女性店員をよく見ると目鼻立ちの通ったスッキリした美人だ。動きにも無駄がない。こんな喫茶店よりも都心のおしゃれなカフェの方が似合うと思う。
「お待たせいたしました。コロンビア スプレモです」
コーヒーと別にクッキーが二枚添えられている。コーヒーを一口飲む。いい香りだ。添えられたクッキーを一口かじる。そしてコーヒーをまた飲む。コーヒーとクッキーの組み合わせが抜群だ。
「とっても美味しいですね。クッキーにもよく合います」
女性店員が嬉しそうにニッコリと笑った。
「ありがとうございます。真ちゃん、お客さまがとても美味しいって」
そう言われても奥の男性の店員はこちらをちょっと見ただけで、特に反応がない。店内をよく見ますといろいろなコーヒーの解説とともに、障害者施設の催しの案内も貼ってある。完全に地域に根差した喫茶店だ。女性店員がスッとこちらに日経新聞とスポーツ新聞を持ってきた。迫田は今日すでに目を通した日経新聞ではなくスポーツ新聞に手を伸ばした。
迫田が父親から継いだ建設会社は厳しい状況に追い込まれていた。目先の景気はいいのだが業績は伸びない。それどころか尻すぼみな感がある。オリンピックが終わったらどうなる。人口減や産業の空洞化だの、マイナス要因はあげればきりがない。メインバンクから紹介されたコンサル会社は、やれガバナンスだのポートフォリオだの横文字を並べてもっともらしいことを言うが、実態が全く伴わない。そんな中友人がこの鮫島経営研究所を紹介してくれた。トップは伝説の会計士で企業再建に関しては“鮫”の異名を持つ切れ者らしい。ダメ元で来てみたが、経営コンサルタントと言えば駅前の高層ビルばかりを想像していた迫田は場所ですら予想外で、今日は想像を覆されてばかりだ。
店のドアが勢い良く開いた。
「社長、こちらのお客様がお待ちです。」
社長と呼ばれた男はエプロン姿でどう見ても喫茶店の店主だ。まだ約束の三時前だが、迫田は二階の事務所に通された。そしてエプロンを外しただけの「社長」と名刺交換をした。
「お待たせしました。鮫島経営研究所の鮫島です」
(やっぱりこの人が鮫島さんか・・・・・)迫田は今日の予想外がまた一つ増えた。
5.天王町 秋 鮫島経営研究所
鮫島はこの二階建ての店舗兼事務所を父親から引き継いだ。父は長年ここで喫茶店を開いていたが、闘病生活の末五年前に他界した。鮫島は大学卒業後は公認会計士として広く海外まで飛び回っていた。この場所は会計事務所としてはどうかと思う立地だったが、ちょうどその時期に鮫島の大学の先輩であり横浜国大経営学部教授の滝沢から、ゼミ生の実務訓練を打診された。母校と先輩のためならと軽い気持ちで引き受けたのが、「鮫島経営研究所」の始まりだ。それが徐々に規模が大きくなり、現在の学生もメンバーとしたコンサルティング体制となった。病院で例えるなら大学の附属病院で、学生やインターンが手術に立ち会うのと同じ事だ。学生は実務経験はないが、純粋な消費者の目を持っている。意外とこれが鋭い。
案件ごとの打ち合わせが進んでいく。鮫島を中心に学生が五人と会計士が二人に主婦が二人。この主婦二人も子育て中でバリバリ働くのは望んでいないだけで、実は税理士資格を持っている。全員が横浜国大の滝沢ゼミ出身者だ。
「次は新規のお客様で『迫田建設』です。」
具体的な依頼の内容や会社概要・資産状況を鮫島が説明する。一通り説明した後鮫島は美也子に迫田社長を接客した感想を聞いた。
「三十分前に現地に来られていますので真面目な方だと思います。また情報収集や数字については相応の知識がおありかと思われます。」
「どうしてそう思ったの?」
「はい。来店されてから店内をよく観察されていました。またコーヒーの飲み方も付け合わせと交互に口に運ばれたので観察力はおありかと。あと日経新聞とスポーツ新聞をお出ししたのですがスポーツ新聞を手に取られました。すでに日経は読まれた後だったようです」
「日経に興味がないだけじゃないのかな?」
「いえ、経営相談に来られている方です。もし普段読まなくてもその場は日経を手に取るでしょう。スポーツ紙を手に取ったということは、日経は既読であったと思います。よって情報収集力や会計への関心は相応と判断しました」
「美也ちゃんすごい洞察力だね。大学の学祭では準ミスだし、スキルが加われば怖いものなしだよ」
一学年先輩の高木健太が突っ込んできた。
「ここでその話ですか!だからあのミスコンは頼まれて出ただけですって!」
昨年の大学祭で美也子はミスコンに出る羽目になった。これは「出れば大本命」と言われていた1学年先輩の田中彩(あや)音(ね)がエントリーするのが分かって、真剣にミスを狙っている他の子がみんなエントリー見送ってしまい、学祭の実行委員の友人に「ミスコンが成立しないから出てくれ!」って頼み込まれたためだ。実際に彩音は入学当初から「横国の奇跡」と言われおり、ミスコンも順当に一位になった。
「でも聞いた話だと、結構一位の彩音ちゃんと競っていたらしいじゃない」
「だから同情票ですよ、同情票!」
いつもこの会議は脱線しながら進んでいく。鮫島もそれを容認している。楽しくなければ発想は浮かんでこない。学生も交えたディスカッションの中に本当のヒントがある。
「社長、今度ゲイシャ種を入れましょうよ。それから皆で試飲しましょう。そうだ!真ちゃんに入れてもらおうよ。真ちゃんのドリップ最高だよね」
もう一人の脱線担当の山本直樹が変化球を投げてきた。ここに集まる人は経営に関してもうるさいが、喫茶店の二階という場所柄かコーヒーについてもうるさい人が多い。
「うちの店で高い豆を扱って費用対効果はどうなの?直樹!ちゃんと計算して示せ!」
確かに真ちゃんのドリップの技術はすごい。そもそも真ちゃんは、障害者雇用の一環でNPOを運営している友人に頼まれたので雇用した。自閉症という障害があり話をすることができない。人混みや大きな音も苦手だが記憶力は抜群だそうだ。コーヒーは好きらしいので簡単なドリップでも覚えられればと思い、はじめはそれこそ手取り足取り教えた。ところが一度覚えてしまうと嗅覚が常人離れしているのか、気温・湿度や豆の状態を総合的に組み合わせて完璧な状態でドリップするようになった。そして誰が飲んでも旨いと言う。こんなすごい才能が見つかるとは思いもしなかった。友人に言わせると、障害者は健常者には歯が立たない凄いものを何か一つ持っているらしいが、現状はそれがなかなか見つからないそうだ。真ちゃんのドリップは正にそれで、今ではいてもらわないと困る存在だ。
6.西横浜 冬 駅伝
鶴見中継所でタスキを受けてから応援の波が途切れることがない。さすが「花の二区」だ。優太は夏ごろから急に記録が伸び出した。故障者が出たこともあり、作戦上自分がこのエース区間を走ることになった。準備は整えたつもりだったが責任の重さのためか、目標だった箱根駅伝に出場しているのに地に足がつかないまま走り出したような妙な感覚だ。どうも調子が上がらないまま横浜東口に差し掛かった。生まれ育った相鉄沿線だ。ふと子供の頃よく二つ上の兄の真ちゃんと西横浜や平沼橋のホームで電車を見ていたことを思い出す。真ちゃんは自閉症で会話ができないが、僕達はお互いの気持ちが分かりあえる。さらに真ちゃんは普通の人にはないすごいパワーを持っている。真ちゃんが応援してくれると何故かいつも僕のパワーが倍増される。高校の時インターハイに出られたのも真ちゃんの応援のおかげだ。
「真ちゃんこっちだよ」グループホームの市川さんに連れられて、いつもの天王町より一駅先の西横浜駅を降りた。もっと電車が見たいなぁと思うが、今日は人混みのほうに行かなくてはならない。駅からすぐの国道に出るとそこには昔テレビで見たことがある風景が広がっていた。駅伝だ。今日は優君が走る。夏に優君が久々に家に帰ってきたときに僕に駅伝の話をしてくれた。「もしかすると出られるかもしれないんだ、出られるといいな」って言っていた。僕はそれから優君の夢が叶うように「お願い」をしていた。
僕は人がまとっている光が見える。人はいろんな光を放っている。暗い色や明るい色、虹色のような人もいる。まぶしいから僕は人の目を見るのが苦手だ。今働いている喫茶店では、お客さんの光の色を見てそれに合うコーヒーを淹れている。その人の光の色とコーヒーから出る光の色が合うと、その人は元気になる。優君の光はとても気持ちの良い色をしている。僕は優君の光が大好きだ。まだ駅伝の走者は見えてこないが僕にはわかる。姿は見えなくても優君の光が遠くから見えてくる。光がだんだん強くなってきた。
沿道の応援は止むことなく続いている。たくさんの応援の旗が振られ、声援が送られてくる。たくさんの目線がこちらに向けられている。スッと体を突き抜けるような視線を優太は感じた。(真ちゃんだ!)その瞬間音が消える。景色がモノクロームになり観衆の中で真ちゃんだけが浮かび上がる。目が合う。一瞬にして二人だけの世界になる。無音の中で真ちゃんのパワーを感じる。すれ違う。踵から突き上げるような感触。地球の重力と体重と蹴る力が無駄なく調和した。これだ!この感触だ!
体が軽くなった。他の大学の猛者が相手だがもう負ける気がしない。難所と言われる権太坂も気にならない。だって僕は今二人力だ。
7.いずみ野 春 夢の散歩道
授業が終わり今日は部活のない美南(みなみ)は、いずみ野駅に向かって歩いていた。三人の姉も同じ高校に通っていたがその姉たちに言わすと、駅舎は建て替えられ、昔とは雰囲気がガラッと変わったそうだ。日差しが傾きつつあるホームで待っていると程なく横浜行きが入線してきた。乗客もまばらな車両には日を浴びた太陽の匂いがほんのりする。
「なみ!なみ!」
幼児の声の方を見ると、姉の和泉と娘の夢の親子がいた。夢が最初に美南に気づいたらしくこちらを指さして母親の和泉に教えている。美南は思わず姉親子に歩み寄った。
「夢ちゃんじゃない!どうしたの!」
「美南、久しぶり。学校帰り?」
「そうそう。今日は部活無いし、体育祭も終わって一段落ってところ。お姉ちゃんは?」
「今日はねえ、夢と冒険に行ったんだよね」
「そうにゃんだい!そうにゃんだい!」
ベビーカーからぶら下がったゆるキャラを握って夢が一生懸命言う。覚えた駅名とゆるキャラが混同していて思わず吹き出してしまう。
「しょうなんだい、湘南台に行ったんだよね」
絵本作家の姉は創作活動のためか、よく娘の夢を連れて出かけている。本人は自称“小説家”だが、絵本の方がよく売れているらしい。一番上の姉の和泉は一〇歳以上離れていて大学を卒業したら直ぐに家を出て独立したため、末っ子の美南はあまり一緒に生活した感じがしない。和泉親子の横に座ったが、あまり共通の話題がなくちょっと困った。
「美南、知っている?この路線結構ドラマや映画で使われているんだよ」
妹の気持ちを察してか姉が話題を振ってきた。やっぱり姉は大人だ。
「知っているよ。プロモーションビデオにもよく使われているよね」
夕日が高架の鉄道に差し込み、遠くに富士山が浮かび上がる。夢が「そうにゃんつり革」を見つけた。美南は夢を抱き上げてつり革につかまらせてあげた。夢は大喜びだ。
「夢ちゃん大きくなったね、重いよー」
そう言いながら自分がつり革につかまれるようになったのは何時からか考えた。初めて一人で電車に乗った時、背が伸びてつり革に届くようになった時、鉄道には大人になっていくバロメーターがいくつもあり、その数だけ思い出を乗せて日々走っている。
「・・あのさあ・・お姉ちゃんはさあ、進路ってどうやって決めたの?」
聞いたのは自分なのにちょっと後悔した。この姉は早々に文学系に進路を定め猛勉強の末に現役で大学に行った。大学時代から創作活動を始め、結婚や出産をしても両立させている。美南から見るとブレないし強い女性だ。自分の悩みなんか理解不能なのではないか。
「そうか、美南はもう二年生だもんね。進路を考える時期か」
「なんとなく国立志望にはしたのだけど、ちょっと迷っている」
「美南、ここで降りよう」
姉に言われるがまま家の最寄りの一つ手前の南万騎が原駅で降りた。住宅地を抜けて大池公園に入る。夢がベビーカーの中から身を乗り出してご機嫌だ。
「やっぱり森は気持ちいいね。美南、このまま公園抜けていくと家まで意外と近いよ。知ってた?」
「こっち側は久しぶりに来たよ」
「私も高校生の頃に悩んだときは一駅手前で降りて、ここを歩きながらいろいろと考えたんだ」
「えっ、お姉ちゃんも悩みがあったの?」
「あんた人に聞いといて『悩んだの?』はないでしょう。そんなに私は能天気に見えるか?」
「あっ!いやいや!そ、そうじゃなくて、お姉ちゃんてさ、すごくしっかりしているから・・・・・」
「よーく分かった。覚えときなさいよ」
「やだやだ、私の悩みなんか小説の題材にしないでよね」
「残念ながら、かわいい妹をさらし者にするほどネタには困っていませんよ~」
そう言いつつも和泉は三女美也子のミスコン話をネタにした前科がある。あの時は美也子に肖像権代として時計を買ってチャラにしていた。そもそも美也子は家族の中ではいじられキャラでネタにはもってこいだ。美也子ネタで盛り上がった二人の笑い声が、夕方の公園に広がる。しっかりしていると思った姉もいろいろと悩んでいたと聞いて、美南はちょっと気分が軽くなった。
「ねえ、お姉ちゃん、実(う)家(ち)に寄って行きなよ。せっかくだし」
「うーん」
「お母さんも待っているよ。ちょっと寄っていきなよー」
「分かった、分かった、ちょっとだけね。主婦は忙しいんだから」
「やった!お母さん喜ぶよ。夢ちゃんも行こうね」
美南の笑顔がはじける。和泉は美南の透き通る笑顔を見て、姉妹ながらちょっと見とれてしまう。美也子も美南も二人とも美人だ。自分にはないものを持っている。(しょうがないよな。血は半分しか繋がってないし)
長女の和泉と次女の真(ま)希(き)の母親は物心を付いたらいなかった。父が今の母親の里(り)香(か)さんと再婚し、美也子と美南が生まれた。母親が違うことを美也子と美南は気付いていないだろう。無理に教えることでもない。里香さんには不満があるわけではない。むしろ四人とも分け隔てなく育ててくれたことに感謝している。ただちょっとだけ里香さんに気を使ってしまうのだ。そんな自分が嫌で、実家がからつい足が遠のいてしまう。
美南は自分の家がちょっと特殊だと感じている。上の姉二人は母を「お母さん」ではなく「里香さん」と呼んでいる。疑問に思い美也子に聞いたことがある。「女が五人もいる家庭だからその方が便利じゃない」とさらっとかわされた。きっと美也子も何か感じているのだ。でもそんなことはどうでもいいと思えてきた。全員が私の大切な家族なんだ。公園を抜けて住宅地の坂を登っていく。三人は賑やかに玄関を開けた。
「ただいま!」
7.鶴ヶ峰 初夏再び 登れ!
戦は終わった。北条義時は坂を見下ろしていた。ここから重忠は百四十騎足らずの小勢で三万の大軍に向かって駆け下りていったのだ。改めて重忠の凄さを実感した。義時は大切な心の支えを失うと同時に、自分に課せられた使命を感じずにはいられない。
「これより鎌倉に戻る。支度せい!」
坂の上から重忠が最後に見たであろう風景を目に焼き付けながら、義時は父時政の追放を心に誓った。
健司は一日の疲れを感じながら坂を登った。足元だけを見ていると一日の出来事がぐるぐる思い出されてくる。でも坂を登り切り振り返って鶴ヶ峰の街並みを見渡すと、明日はいい日になりそうな気がする。空を見上げると満天の星空だ。坂のある生活もいいなと思える。和泉と夢の待つ家はもうすぐだ。

著者

赤羽宥興