「大池ラブの四季 ─こども自然公園・頌」みかんふたつ

           春

 浦上夫妻は4月、毎年恒例にしている『こども自然公園』にての花見をするために二俣川駅に降りたった。ホーム周辺は何だかわさわさと落ち着かない。ここ数年、大規模な二俣川駅・南口開発プロジェクトが進行中で、いたるところに臨時の囲いが巡らされており、その内側から建設の槌音がぐゎん、ぐゎん響き、改札口付近にもヘルメットと安全服を装着した作業員の姿がちらほら見られる。
「ずいぶん大規模な工事だけれど、いったいいつごろ何ができるの?」
目的地方面の階段を上りながら夫の次郎が妻の加寿子に尋ねた。
「平成30年3月あたりに高さ99m、29階建のタワーマンションと15階建の商業、業務施設棟ができるらしいわよ。ほら、あれがそうよ」
「ああ、ノッポマンションだね。もうできてきているね。すごいじゃん、まるで都会みたいで。君が半世紀以上まえに10歳で越してきたころと比べたらまさに隔世の感があるねぇ。
僕は関内の生まれだけど、何しろ二俣川といったら大田舎だったな」
「失礼だけど本当だわ。当時、二俣川という駅はどういう事情だか、横浜から切符が買えず、鶴ヶ峰まで買って、二俣川に着いたら5円(当時のこども料金)払うのよ。ホームの端についている梯子のような階段を数段下りたところにある改札口でね。
私の両親はちょうど東京オリンピックの年に相鉄不動産が媒介する二俣川の分譲住宅を買ったのよ。本当に、何にもないところだったわ。今大型スーパーの西友の横を歩いているけど、これが影も形もなくってね。荒野と窪地と森林。よく探検に行ったわよ」
とりとめのないおしゃべりを続ける夫妻の背中にうららかな陽があたる。
絶好な花見日和だった。公園内の有名な桜山の千本桜はまさに今日あたりが見ごろなのだろう。平日とはいえ、かなりの数の花見客がこども自然公園通りをぞろぞろと歩いてゆく。

「それにしても、君の大池ラブは半端でないね。少女時代から夢中になって、僕と結婚してからは少し遠のいたけど、外国で暮らしていた時は夢にまでみていたし。何だかんだ言って、結局は隣の希望ヶ丘に家を建てたし。還暦過ぎた今でも毎年、最低2回は来ているよね。梅と桜を観に」
そうだ。地元の人は、誰も『こども自然公園』などとは言わない。通称「大池公園」、いや、『大池』で通る。加寿子は10歳で川崎市からこちらに越して来て、自宅から歩いて行ける大池が大好きになってしまった。川崎市では、煤煙の被害にこそ遭わなかったものの、近所には狭い原っぱ、ドブ川くらいしかなく、緑が少なかった。ところが、この大池ときたら!満々と水をたたえ、ゆったりと広がっている。陽の踊る水面にはなんと水鳥がすいすい泳いでいるではないか!当時は、誰のものともわからぬ、朽ちたボートなども浮かび、ちょっぴり不気味で、ミステリアスな雰囲気もあった。周辺の丘、森、林、小川、湿地など変化に富んだ自然は加寿子にとっては限りなく新鮮だった。奥の方は丈高い草が深々と生い茂り、ひと気もなく、子どもだけで行くのは怖いくらいだった。(今はすっかり整備がすすみ、皆に愛されるファミリーランドになっているが。)
緑やわらかな芝山も加寿子のお気に入りのひとつとなった。今の桜山のことだが、当時は桜の植樹が進んでおらず、芝草のみが植えられており、通称『芝山。』お菓子を持って友達と駆けあがり、寝ころんで、いつまでもおしゃべりしていた。
中学、高校、大学と進学し、勤めに出た後も友人らを誘って遊ぶのはもちろん、苦しいとき、辛いとき、哀しいときもよく1人で訪れていた。大池に来れば癒される気がした。
恋人となった次郎も連れていったが、加寿子ほどには感動してくれなかった。

しばし思い出に浸っていたら、大池の森が見えてきた。ああ、桜の独特なつめたい、淡いピンク色が森の緑の中にかなり大きな部分を占めている。満開なのだろう。思わず夫妻の足が早まってくる。
正面入り口に着いた。まず楠の大木、それからフラワーポットにあふれそうなパンジー、チューリップたちが迎えてくれる。かなり大きな、桜の木もすぐ近くに幾本もあり、もうここだけでも満足できるくらいだ。いやいや、やはりまだ早い。春爛漫の大池はこんなものではない。
ほとりに着くと、周りを縁取るように植えられている真っ白な雪柳の向こうに、釣り人や野鳥撮影のためにカメラを構える人、カンバスを立てて絵筆を走らせている人々が見える。
「おお、池の中島で亀たちが甲羅干しをしているぞ。オタマジャクシはもうでているかな?弁当の後で、中池、蓮池にも行ってみよう。いるぞ、きっと」
 小動物の好きな次郎はこころなしか、はしゃいでいるように見える。

 さて、いよいよ桜山に登る。ほんの少し上っただけで後ろをふりかえりたくなる。
ふもとから植えられた夥しい桜の花々が広がって、まるでふんわりと全身を包んでくれるように思えてくるのだ。頂上に着いても、枝をいっぱいに広げた桜の巨木がそこ、ここに。
 どの桜の下にしようか、としばし思い悩み、議論?を重ね、ようやく決め、花見席とする。
風が吹くと加寿子手製のお弁当に花びらが落ちてくる。おむすび、卵焼き、唐揚げは早目に平らげざるをえなかった。夫妻はどちらからともなく大きく伸びをした。
「わあ、気持ちいいなあ」
これも二人、同時だったので、ぷうっとふきだしてしまった。

ここから北に下りてゆくと、バーベキュー広場がある。昔、子どもたちと何度か楽しんだ。大池ラブが遺伝したのか、今では、結婚し、独立した娘は家族ぐるみで親しくしている友人一家と毎年のようにここ、大池でバーベキューを楽しんでいる、と聞く。
 南方面に歩けば、『とりでの森』。カラフルな、大型の遊具が揃っており、特に長い滑り台は、娘や息子のお気に入りだったが、これも孫たちまで伝わった。
「孫といえば、真由美は最近、ずいぶんよく我が家に来るけど、大丈夫なのかい?6年生にもなって。塾はきちんと行っているのか?」
「真由美ちゃん、私の作るご飯が好きなんですって。お母さんがいつもいないからかな?塾は行っているから大丈夫よ。でも、私立中学受験なんて、おっとりしたあの子に向くのかしら。ウチの子は公立だったのに」
「加寿子、なつかれているからって、デレデレするなよ。それに、子育てのことは一切、口を出しちゃいけない。娘夫婦に失礼だぞ」
「わかっているわ。それより、そろそろ歩かない?淡い紫のタチツボスミレが夢みてるみたいに、たくさん咲いているところがあるのよ。それに、忘れな草に似た、水色の花……キュウリ草も教えてあげるわ」
「あいかわらず、お花大好きオバサンだな。オタマジャクシも忘れないでくれよ」
「本当はオバアサンと言いたいんでしょう?」
 夫妻は立ち上がった。

              夏

 6月下旬、夏至に近いある日の夕刻、こども自然公園入り口広場にはかなりの数の人の姿が見られた。浦上夫妻の孫・河村真由美もその1人だった。幼なじみの並木翔太との待ち合わせ場所は中池の端のベンチである。迎えるように咲いている紫陽花、ホタルブクロの花を横目で見ながら急いだ。
 陽は落ちたが、空にはまだ薄いバラ色が残っていて、ほの明るい。真由美は身長165センチ、6年生としては長身で、手足が長く、全体的にほっそりしていた。顔だちはまあ、普通でしょう。なんとか約束時間に間に合ったが、翔太の姿はない。なあんだ、と思ったとたんにデイバッグ姿の眼鏡をかけた小柄な少年が走ってきた。
「ごめん、真由美ちゃん、待った?」息せききって尋ねる。
 並木翔太は真由美と同じ6年生だが、小学校は別々だった。母親同士が親友で、もう何年も前から毎年、大池・桜山にあるバーベキュー広場で心愉しいアウトドア・クッキングを共に楽しみ、家族ぐるみで交流を重ねていた。
真由美には3年生の妹が一人、翔太には4年生、2年生の弟が2人あった。子ども同士、公園中を走り回って遊ぶうち、真由美と翔太はお互いにかなり気が合うことがわかってきた。共通点は2人ともども大人顔負けの読書家で、マセていたこと。
 高学年になって、同じ進学塾に入ると時々、スマホでメール交換をしたり、2人で会っておしゃべりするようになった。とはいっても、真由美の方が10センチも背が高く、お互いに異性、とは意識していなかった。実際、よく姉弟に間違えられた。
今日はこれから一緒にゲンジボタルを見に行くのだ。 この公園内のすぐ近くに、有名な横浜市指定の天然記念物(文化財)・ゲンジボタルの自然発生地がある。色気のないカップルは、教育水田に向かって歩きだす。この周辺は『谷戸』とよばれる地形で、湧水、クヌギ、コナラの林、水田,尾根などで構成されゲンジボタルの生育環境としては理想的、という。
『文化財保護のため、入らないでください』の四角柱が立ち,柵がきっちりと渡っている。
この柵の内側の湿地こそが、自然発生地なのだ。既にゲンジボタル見物目的の人が大勢,つめかけている。
「柵の内側は、人が入れないから、動植物が元気なんだよ。昼間なんか、台湾リスが柵の上をするする走っているし、野鳥はうるさいくらい鳴くんだ。ヨシ、とかオモダカなんかもすっごい、2メートル超すくらい伸びているよ」
 翔太が真由美によく話しかけてくる。もう7時半を回っており、かなり暗い。周りには防犯灯ひとつないので、人々は手持ちの懐中電灯で足許を照らしていた。
「あれ?」
「お?」
「いたぞ、いたぞ!」
お、お、おーっとどよめきがあがり、人々が注視する。
透明な黄色に、つめたい翡翠の色を混ぜてつくったガラスのような何ともいえない美しい色の灯りがぽつん、ぽつんと湧きいずるように現われ、その中の幾つかはすうう、すううとまるで短い流れ星のように滑らかに動いてゆく。注視していると、ときどき点滅をくりかえしている。イルミネーションではない。正真正銘の昆虫である。暗闇の中からこの灯りが奇跡のように次々と生まれでて自在に浮遊する。人々の感動と興奮はすさまじかった。
真由美にはゲンジボタルが、えもいわれぬ、かすかな、小さな小さないのちの灯りをともして、ガラスのリボンのような軌跡を残して、『ぼくは今、ここに生きているんだよ』、と知らせてくれているように思えた。万物のなかでゲンジボタルだけが、こんなに可憐でめずらかな灯りをともして自己アピールできるのだろうか……自然の摩訶不思議さの一端に触れた気がした。
 午後8時すぎにはピークを過ぎ、神秘的な灯りは徐々に消滅してゆき、暗闇がもどってきた。ずいぶんたくさんいたように思えたが、周りの大人の弁によると40匹程度だが、ここにしては多いほう、ということだった。

「よかったねえ、いいものが見られて。小学校最後の思い出になるわね」
「本当だよ。大池のことはたいてい知っているつもりだったけど、ゲンジボタルだけは、見たことなかったからな」
 真由美と翔太が肩を並べて帰途をたどっていると、少し後ろにいた3人の少年たちが彼らの存在に気づいた。
「おい、あれ、並木だろう。ずいぶんデカい女と一緒にいるぞ。お姉さんか?」
「違うよ、塾の別のクラスの河村って女だよ。ほら、国語でいつも5番以内の」
 彼らは翔太と同じ塾のトップクラスに在籍する3人組だった。ともにE学園を目指していたが、優秀な翔太には常に水をあけられており、どの科目でも勝てたためしがなかった。
 翔太はかなり変わっており、模擬試験の問題で存在を知った明治時代の政治家・田中正造に心酔していた。関連図書をただちに5~6冊読破したのだ。
「先生、僕、田中正造みたいなカッコいい政治家になりたいんです」
と塾教師に明言していた。
塾教師は目を細め、『お前のような変わったやつこそE学園に向いているぞ、政治家を目指すならやはりT大に行け、ブランドがいいほど有利だからな』、と露骨に期待していた。
 塾の厳しい学習についてゆくだけで精一杯な他の小学生らは面白いはずがなかった。
フン、生意気な奴。今にみてろよ、という思いが共通して鬱積した。

 3人は顔を見合わせた。からかってやろうぜ。
「おーい、並木─デートかよー」
 驚いて振り向いた2人に容赦ない憎まれ口をあびせる。
「ゲー、すごいブスと一緒。趣味わるーい」
「でかーい、身長差なんセンチー?」
 翔太は、真由美の目に涙がにじむのを見た。これは許せないぞ!
つかつかと歩み寄り、睨みつける。
「なんだ、失礼な。この子に謝れ。僕らはただの幼なじみだ」
3人はせせら笑った。
「ブサメン同士、お似合いだよ」
その瞬間、翔太のパンチが顔面にとんだ。
うわ、いてて!悲鳴があがる。6つの拳が一斉に翔太を襲う。
「やめなさいよ、卑怯よ、3対1だなんて」
 真由美は叫びながら履いていたスニーカーを片方脱ぎ、3人の頭に次々と思いっきり振り下ろしていった。
「お前ら何やってるんだ、やめろ!」
通りすがりの大人の男性の大声が聞こえ、3人がひるんだ瞬間に、真由美と翔太は手をつなぎ、全力で逃げ出した。

     秋

10月下旬の、二俣川駅のこども自然公園通りのイチョウ並木は、まだ緑色のままだ。
公園の中も、それほど紅葉はすすんでいない。中島のイロハカエデが数本、黄を含んだ紅色に染まりつつあるくらいだ。だが、大池の秋は確実に深まっている。池周りのクヌギ、コナラ、マテバシイなどの豊富な樹木が無数の木の実を落とす。子どもたちの歓声が響きわたる。
「わあい、ここってドングリだらけー!踏むとこりんこりんするよ」
真由美の母、河村弘江は我ながら不思議だ。見事な紅葉が見られるわけでもないのに、どうしてこんなに秋の大池のバーベキューは楽しいのだろう。もうこれで10年以上続けているだろうか。幼いころからなじんでいる大池の森や丘だが、全く飽きがこないのだ。
来ているのは自分の家族と、親友である翔太の母・並木陽子の家族だからかもしれない。
もっとも、今年は真由美と翔太は中学受験の模擬試験があるので来られず、弘江の夫は出張で来られなかった。したがって今、ブースのテーブルを囲んでいるのは、弘江と真由美の小3の妹のみどり、陽子夫婦、翔太の弟である小4の涼太、小2の浩太の計6人であった。
「おじちゃまぁ、焼きおにぎり、もうないんですかぁ?お肉乗せるとすっごくおいしい。家のママのよりもずうっと」
「みどりちゃん、そんなことは言ってはいけませんよ。おじさんのお料理はただの趣味なの。1年に数えるほどしか作らないの」
 焦げ目のついた、平らに握ったおにぎりをトングで器用に返しながら、陽子の夫の伸二は優しくみどりに注意した。肉や野菜の焼ける匂いがたまらない。
「あら、伸二さん、いいのよ。本当だもの。私、普段はごはん、手抜きだもの」
「そうよね、弘江。お互い、フルタイムで働いているとお料理まで気にしてられないわよ」
「陽子、シアワセよ。伸二さんは炭火をおこすのも、お料理もお上手だし。お話も楽しいし」
「涼太兄ちゃん、でかい肉ばっかり取らないでよ」
「うるさい。俺がずっと担当していたから、いいんだ」
「ずるぅい。箸でひっくり返しただけじゃぁん!」
「これ、これ、ケンカをしている子にはマシュマロは焼いてあげないわよ」
「え?マシュマロあるの?早く食べたぁい」
賑やかで楽しいバーベキュー。11月近いのにコオロギなどの鳴き声がうるさいくらいに響く。すぐ上の丘にはススキ、キリンソウ、チカラシバ、野菊、赤ママなどが乱れ咲く。
 腹いっぱいになった後も、子どもたちは大人しくしていられない。
「おうい、みどり。草地広場に行こうぜ。浩太も行くだろう?」
「オッケー!ふれあい桜橋渡ったら、オバケの森抜けるんだよね」
「涼太、浩太のこと頼んだわよ。3人とも遠くに行かないのよ!」
 母親らの呼びかけにろくに返事もせず、3人の子どもたちは飛ぶように丘を登ってゆく。

 残された親たちは、どちらともなく長男と長女が直面している中学受験の話になった。
「翔太君、楽しみね。塾の模擬テストでいつも1番なんですってね。田中正造みたいな政治家になりたいんですって?私、恥ずかしながらよく知らないんですが」
 羨望と、かすかな嫉妬をこめて、弘江は陽子夫婦に問うた。最近、真由美の成績が下降気味であることが少し気になっていた。さすがに口にできなかったが。
夫婦は一瞬顔を見合わせ、どう反応したものか戸惑っている様子を見せたが、やはり嬉しさは隠しきれない。夫の伸二が、こそばゆそうに口を開いた。
「あいつには困ったものです。つい最近の衆院選のとき、こんな生意気をぬかしました。
『お父さん、今の政治家って、卑怯でバカみたいな人、少なくないんだね。議員のバッジさえつけられればいいのかな。自分の主義や主張なんかかなぐり捨てて、勢いのある政党に移っていっちゃうなんて、信じられないよ。田中正造なんか、足尾鉱毒事件の被害農民を救済するために、衆議員を辞職して、殺される覚悟で天皇に直訴したんだよ。自分の家屋敷すべて売り払って、被害住民のために使っちまったし。今の政治家なんて、田中正造の爪の垢にも及ばないんじゃん』
 私は苦しまぎれにこう答えました。
『残念ながら、お前の言うとおりだ。レベルの低い政治家もいる。でも、お前はまだ12歳だからそれだけ純粋でいられるんだ。20歳になったらもう一度考えてみろ。T大に進んだ人の中にも、億万長者になって女性にモテまくりたい人が何人もいるぞ。』
『でも、そういうのってカッコいいとは思わないな。金の亡者みたいじゃないか。田中正造みたいに民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ、法ヲ蔑ニスルハ国家ヲ蔑スルナリ……なんて、僕も言ってみたいよ』
 まあ、これからあいつがどう変わってゆくのか最近は親の僕らでもわかりませんよ」
弘江は恥をしのんで質問した。
「伸二さん、足尾鉱毒事件と田中正造についてざっくりと教えてくださいませんか?」
「僕もよく知らないんですけどね、1870年代の後半から日光市の足尾銅山で発生した日本で最初の、深刻な公害事件です。銅を精錬するときに発生する、猛毒の亜硫酸ガス、カドミウムなどが渡良瀬川に入りこんだ結果、魚は死に絶える、米や麦、野菜は枯れてしまう、沿岸流域の農民は大打撃を受け生活が破たんに追い込まれた。農民たちは大挙、請願活動をして果敢に戦ったが、権力側に蹴散らされました。国会議員であった田中正造は幾度も国会にて救済を訴えたが、相手にされなかった。正造は死ぬ覚悟で天皇に直訴を試みたが、失敗に終わる。が、世論が喚起され、明治政府も解決策を講じ、川の流れを変えて毒水を貯める湖を谷中村に作ることを決めてしまう。谷中村を湖に沈めて無くしてしまうのです。保証金も移転先もひどい条件で、ですよ。銅山の操業停止以外に根本的な解決策はない、と信じていた正造と農民は残留して抵抗する…」
ここまで話した時、声変わりしつつある少年の声がさえぎった。
「そうして、正造は72歳で死ぬまで農民のために奔走するんです」
思いがけず、欠席だったはずの翔太と真由美が立っていた。
「なんだ、2人とも。模擬試験終わったんか?」
「ええ、そうです。おいしいものが残ってるかと思って。それから弘江おばさん、あとで真由美ちゃんが大切なお話があるそうです。感情的にならないで聞いてあげてください。僕からもお願いします」
小学生とは思えない、ませた口調で翔太は弘江に告げた。

真由美の話とは私立中学受験は自信がないから取りやめにしてほしい、塾も即やめたいということだった。
『算数が伸びない、翔太君のような閃きがこない。算数ばかり時間をかけていたら、他の科目に手が回らない。落ちたらすごく傷つく。どうしても許してもらえないのなら、私はばぁばの家に行く』
 いくら両親で説得しても無駄だった。弘江はがっかりした。

           冬
 2月初旬。真由美は祖母の加寿子とこども自然公園の梅林を歩いていた。風は刺すように冷たいが、地面は濡れたように黒々として、ほんの時おり明るい陽ざしがのぞく。暖冬なのか、今年の梅の開花は1月末、とやや早く、ちょうど今が見ごろである。梅林の作り方もなかなか凝っている。
里山と湿地を挟んで東側と西側に分かれ、木橋のような遊歩道に導かれてぐるりと一巡できるようになっている。しかも里山の低い道と高い道にそれぞれ梅の木が植えられ、遠くから見ると、山全体が梅の温かい色に満ちているようだ。変化に富んだ地形を生かしているのだろう。
「いい香りねえ。ばぁばはね、梅が咲くとホッとするわ。百花の先駆け、といってね、どんなに厳しい冬でも、一番最初に咲くのが梅なのよ。梅が咲けば、必ず春が来るって、ほっとするの」
色は白やアイボリー、ピンクや濃い赤などバラエテイー豊かで、花びらの形も微妙に違う。往きあう人々はそれぞれ梅を愛で、愉し気にそぞろ歩きしている。
真由美はうつむき、黙っている。
「どうしたの?何かイヤなことでもあるの?ひょっとして中学受験しなかったこと、後悔しているの?」
 翔太は見事にE学園に受かった。塾からは3人だけだった。真由美がかつて目指していたF女子学院には、なんと5人も受かったのだった。
その中には明らかに真由美より成績が下だった生徒も含まれていた。
「ううん、全然。公立中学で頑張るって決めたから。ただ、翔太君が…」
真由美は加寿子かかつて見たことのないような愁いを含んだ表情を見せた。ああ、そうか。この子は男の子のことを想っていたのか。
「パパにもママにも絶対に言わないで。私、翔太君のことが好きだったの。夏に一緒にホタルを見に行ってからずうっと。塾の意地悪男子がひどいことを言ってからかってきたとき、この子に失礼だから謝れ、ってケンカまでしてくれたの。手をつないで、逃げてくれたの。それ以来、何だか自分で自分の気持ちがどうにもコントロールできなくなっちゃって。気がついたら翔太君のことを思い出しているの。私に算数のセンスがないのは事実だけれど、本当は全く勉強が手につかなくなってしまって。このままでは失敗するのは明らかだと思った。落ちた生徒がどれだけ惨めかは、知っていたし。パパやママを悲しませるのもイヤだったから……」
 加寿子は無言で真由美の腕をとった。肩を抱きたかったのだが、何しろ真由美の方が10センチ近くも背が高かったので、不可能だったのだ。
身体の小刻みな震えが伝わってくる。真由美は泣いていた。
「……でもね、翔太君は、全然私のこと、そんなふうには思ってくれないの。ただの幼なじみで、何でも話せるお姉さん、みたいにしか思ってくれないの。それに、頭がよすぎちゃって。田中正造の評伝小説を2冊勧めてきてね。城山三郎の『辛酸』と立松和平の『毒』だけど、私が読んでも全然わからなくて、途中でやめちゃったわ。翔太君、E学園に受かってからは、体力をつけるために大池でジョギング始めたし、大きな図書館に通って、何冊も分厚い本を借りまくっているのよ。日本の歴史、世界の歴史、思想史みたいな。私はせいぜい、少年少女世界名作文学全集どまり、なのに。とにかく翔太君の目には、全然私のことは映っていないのよ」
 ベンチに座り、加寿子は真由美の頬を両手で挟んだ。
「人を好きになるのは素敵なことよ。どうなるかは神さまにオ・マ・カ・セ。あとね、パパにもママにも言わないからね。はい、げんまんしよう」
 真由美は目を濡らしたまま小指を出した。
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーますっ!ゆびきった!」

 孫が少しだけ笑顔を見せたので、加寿子はほっとする。
「中学に入ったら何かやりたいことはないの?」
「ばあばみたいに美味しいお料理やお菓子が作れるようになりたい。あと、ダンス部に入ろうか、と思っているの。本、たくさん読みたい」
「ダンス部?いいじゃない!真由美ちゃん、スタイルいいよ。顔小さくて脚、すごく長いし」
「え?本当?」
 思いがけず、容姿をほめられて孫は頬を染める。
「モテるようになるよ、きっと。ばあばは信じているよ。ねぇ、真由美ちゃんのこれからの人生はこの公園と同じだよ」
「え?なんで?」
「ばぁばは、50年以上通っていてよく知っているんだけど、ほら、この公園って小道がいっぱいあるでしょう?どの小道も行ってみたくならない?どんなに魅力的なところにゆきつくか、試してみたくならない?ね、興味あることは何でもやってみなさいよ。人生に楽しいことって、いっぱい、いっぱいあるんだよ。」
「そうだといいけど。でも、苦しいことや思いどおりにならないこともあるよね」
「残念だけど、そのとおりね。どうしても我慢できないことがあったら、いつでもばぁばのところにおいで。一緒に又、ここに来ようよ。草花や水鳥を見て、森を抜けて、丘の上で風に吹かれよう。イヤな思いが薄くなってゆくから。ばぁばもね、苦しいとき、よく1人でここに来たのよ。親にバカにされたり、試験がうまくいかなかったり、片思いしていた男の子に恋人ができたりして、深く深く傷ついたときにね」
「え、ばぁばもあるの?片思いしていたこと。ね、ね、いつごろ?教えて、教えて」
「高校生のときよ。小学生の頃は、男の子なんて大嫌いだった。乱暴だし、意地悪だし」
 祖母と孫、というよりは親しい女友達のように、いつまでもおしゃべりが止まらない。
真由美は、ばぁばすごく好き。でも、いつまでも甘えてばかりいてはダメだ、幼いままではダメだ、と自分に言い聞かせた。

梅林を抜け、大池に出た。池なかのクイに、何やら大きな鳥が止まったまま、じっと動かない。青みがかった灰色の羽をたたんでいる。
「アオサギだ!」バードウオッチャーたちが興奮している。
 注目の的のアオサギは黒いハチマキをなびかせたようなユーモラスな飾り羽のついた頭を下げ、突然、首をいっぱいに伸ばし、黄色く長いクチバシを池に差しこんだと思ったら、大きな魚をくわえ取った。これからひとのみにするのだ。アオサギの捕食!絶好のシャッターチャンス到来だ。

「あれは、青い鳥。真由美ちゃんの青い鳥よ」
「ばぁば、ひどい。あの鳥、デカくて色気ないじゃない!私、カワセミのほうがいい」
「いいの!アオサギのほうが断然、存在感があるし、縁起だっていいのよ」
「私、デカいのはイヤ、かわいいのがいい!」
 祖母と孫のコミカルなやりとりを聞いてバードウオッチャーのおじさんは望遠レンズをのぞきながら、思わず噴き出した。足許には浅緑のヨモギが萌えている。
春は、もう、すぐそこに来ているのだろう。
                               了

著者

みかんふたつ