「大輝」川本敬

 大輝は、漠然とした期待と不安を胸にしていた。
 四月も半ばに入った朝、大輝が駆け込んだ相鉄線急行横浜行き電車は、定刻通りに二俣川駅を出発し、その深く艶やかなネイビーブルーの車体は朝の光を浴び、風を切って進行する。
 昨晩は、大学の新歓コンパに参加し、今春から大学生になった開放感を伴いながら、新しく出会った同級生、先輩と調子に乗って終電になるまで騒いでいた。
 なんとかして帰宅できたものの、昨晩の興奮もさめないうちに目が覚め、今朝は自宅最寄り駅の希望ヶ丘駅から急行電車に滑り込んだのだった。
 相鉄線の急行電車は、隣駅の二俣川駅を出発すれば、途中駅の鶴ヶ峰駅から平沼橋駅まで八個の駅をかっ飛ばし、終点の横浜駅まで停まることがない。横浜駅に着いたら、JR線に乗り換えて東京方面へ、都の西北を謳う大学を目指して、行く先々で色を変える車輪の付いた鉄製の箱で粛々と運ばれて行く。地方から進学して大学近くに下宿する同級生には理解し難いであろう長時間の電車通学の中で、大輝は、始まったばかりの大学生活へ期待する一方、大学での学業、卒業後の就職といった将来への不安をなんとなく感じるのである。
 大輝の乗る電車は、後続の各駅停車を待つ乗客の列が見える鶴ヶ峰駅を通過し、続く西谷駅の島式ホームを目掛けて進む。
 大輝の目に、今日も西谷駅の周辺の、都心直通に向けた大規模な工事が進行している様子が入ってきた。
 相鉄線を運行する相模鉄道は、一応、大手私鉄に分類されるとはいえども神奈川県内に収まる鉄道会社である。昨日知り合った宮崎県出身だという同級生には相鉄線を認知すらされていなかった。そして、都心直通の営業運転開始は、当初計画より遅れていた。延期は致し方ないものであったが、当初計画では大輝が大学進学する頃には、相鉄線で乗り換えなく東京方面へ向かうことができていたはずであったのだ。
 普段、鉄道には大して興味を持たない大輝であるが、進行中の工事の行方への不安と、自身の将来に対する漠然とした不安とを無意識に重ねるのであった。本当に相鉄線は都心に直通するのだろうか……。
 
 ネイビーブルーの急行電車は、構うことなく大輝を無機質に運んでいく。
 
 

 「あっ、『そうにゃん』」
 不意に、甲高い少女の声が響いた。
 人々が右往左往する横浜駅相鉄口コンコースである。「そうにゃん」とは、相模鉄道のマスコットキャラクターの、同社の制服を身にまとうネコである。
 大輝がやおら振り返ると、すぐ後ろにいたセーラー服の中高校生の少女が掲げる手に、満面の笑みを浮かべる「そうにゃん」が摘まれていたのに気が付いた。大輝は、その瞬間呆気にとられたが、すぐにハッと気が付いた。その「そうにゃん」は、自分のスマートフォンのストラップに付いていた小さなフィギュアの「そうにゃん」であることを。
 「すみません、ありがとう」
 大輝は、気恥ずかしくお礼を少女に言うと、少女から「そうにゃん」を受け取った。なんらかの物理的影響を受けて地面に転がったと思われる、この満面の笑みを浮かべるネコは、大輝のポケットに入れていたスマートフォンにつながるストラップから意を決して外の世界へ飛び出したのかもしれない。
 拾ってくれた少女は、利発そうな笑顔を向けた後、JR線の改札方面の人混みに消えていった。紺色に臙脂色のラインが入ったセーラー服を着ていた彼女は、艶やかなセミロングの黒髪で、右目に泣きぼくろがあった。彼女の制服は、横浜市民には有名な、山手にある名門女子校の制服であることにはすぐに気がついた。
 相鉄線から乗り換え、東京へと向かう電車の中で、大輝は無意識に記憶を喚起していた。正確にいえば、少女の中に「モエ」を見出していた。
 モエ。漢字は素直に、「萌」。苗字は「三上」。すなわち、氏名は「三上萌」。小学校まで一緒だった女子だった。

 モエの右目には目立つ泣きぼくろがあって、印象的だった。よく隣の机になったモエ。学校の勉強が嫌いではなかった大輝は、よくモエから勉強の質問をされただけでなく、流行りのゲームやマンガ、図書室で借りた児童書の話や家族の話をして盛り上がった。
 モエは、賢そうな雰囲気を持っていて、誰が見てもいわゆる美少女だった。
 クラスの男子連中は、嫉妬からか、モエとよく話している大輝をいつも冷やかし、よくからかった。大輝はその都度、照れ隠しでモエを貶すことでごまかしていた。そんな大輝に、モエはいつも苦笑いしていた。大輝にとって、その苦笑いは、心の中を見透かされているようで、むず痒かった。
 育ちの良さそうだったモエは、中学校から山手にある名門女子校を受験し、進学したようだった。大輝がその噂を聞いたのは中学生になってからで、進学した地元の公立中学校で一緒になることはなかった。それから、モエと話す機会はおろか、その姿を見かける機会すらなくなってしまった。何度か小学校の同級生で集まる機会はあった。しかし、モエは来なかった。いつの間にかモエの家の電話は繋がらず、モエの自宅は空き家になっていたそうだ。モエの女友達だった女子たちにも連絡のすべがなかった。
 大輝には、小学校の卒業前に、なんとかしてモエとの絆を保っておく手段はあったはずであった。
 しかし、大輝にその勇気はなかった。
 モエと同じ、山手の名門女子校のセーラー服に、泣きぼくろの少女……。
 大学生になった大輝にとっては、懐かしくも苦い記憶であった。

 「日本国憲法第三章の表題は、国民の権利及び義務としていることから、外国人の人権保障性は、日本国民と同程度の保障を予定しておらず――」
 白髪混じりの頭をした、初老の教授の声がスピーカーを通して大教室に響く。
 一時限目の憲法の講義に、大輝は間に合っていた。
 学校での勉強を苦にしていなかった大輝は、大学受験も苦にせず、私学の雄であることを自他ともに認めるという都の西北を謳う大学の法学部に進学している。
 大学での憲法の講義は、当然ながら中学社会科の公民や、高校の現代社会で勉強したそれよりも深く事案を突き詰め、単に概念や用語を頭に入れるだけでは足りず、専門的な概念や用語を使った論理的な思考をすることを要求する。
 「――本事件における判例は、法律をもって、外国人の地方公共団体について選挙の権利を付与する措置を講ずることは憲法上、禁止されていないとしています」
 憲法の教授は抑揚ない声で続ける。禁止されていないのは講義中の居眠りなのではないか、と大輝はぼんやりとしつつある意識の中で思った。
 「したがって、外国人の地方公共団体における選挙権を肯定することも理論上可能であり、挑戦的な立法政策がなされれば――」
 大輝は、ぼんやりとしつつも、挑戦と聞いて他の学生の姿を思い浮かべる。先日、大学の図書館で見かけた、分厚い六法と教科書の連合軍と睨み合っている、司法試験のために法科大学院か予備試験の受験を目指しているのだろう学生の姿だった。野暮ったい野郎どもに混じって、艶やかな黒髪をした、いかにも美人そうな女子学生もいたのは驚いたが。
 他方で、大輝が法学部に進学したのは、正直なところ、法律を専攻しておけば、なんとなく就職や公務員試験を受けるとしても有利になりそうであったからである。
 大輝の漠然とした不安はここにあった。大学で目にした挑戦的な学生達。彼ら彼女らに対して、モラトリアムから抜け出せない自分への焦りのような得体の知れない不安。
 思考停止に陥った大輝の意識は、昨晩の寝不足もあり、深い闇の中に落ちていった。
 
 
 
 四
 
 「あっ、『そうにゃん』」
 不意に、甲高い女の声が響いた。
 講義を終えた学生達が撤退中の大教室である。「そうにゃん」とは、相模鉄道のマスコットキャラクターの、同社の制服を身にまとうネコである。
 寝落ちしていた大輝は、やおら顔を上げると、目の前にいる女子学生が掲げる手に、満面の笑みを浮かべている「そうにゃん」が摘まれていたのに気が付いた。大輝は、その瞬間呆気にとられたが、すぐにハッと気が付いた。その「そうにゃん」は、自分のスマートフォンのストラップに付いていた小さなフィギュアの「そうにゃん」であることを。
 「すみません」
 と、言いかけて大輝は気付いた。
 拾ってくれたのは、最近、図書館で見かけた、いかにも美人そうに見えた女子学生だった。整った鼻立ちで、はっきりした目元の彼女と間近に目が合ってしまい、不意打ちの胸の苦しさを感じた。
 「あ、ありがとう」
 大輝は思わず上ずった声でお礼をいった。明らかに動揺していた。目の前の彼女は大輝の様子に、口元を歪めて苦笑いをした。
 
 大輝の記憶の片隅にある、見覚えのある苦笑いだった。
 
 彼女の右目の下には、泣きぼくろがあった。
 
 
 
 五

 四月も半ばに入った朝、大輝が乗った相鉄線急行横浜行き電車は、定刻通りに二俣川駅を出発し、その深く艶やかなネイビーブルーの車体は朝の光を浴び、風を切って進行する。
 
 大輝は昨日の出来事を思い出す。
 モエ、すなわち三上萌は、大輝と同じ大学で同じ法学部に所属していた。
 萌も大輝を憶えており、二人は同時にお互いに気付いたのであった。
 結局、萌は山手の名門女子校に進学したのは事実であったが、その後、両親が離婚することになり、母方の祖父母の家がある品川区西大井に移り、大輝の地元から離れていた。それでも、萌は、相鉄線の沿線から離れても、ゆるキャラグランプリで奮闘する「そうにゃん」を知っていた。東京の大学で「そうにゃん」をみかけるとはまさか思わず、驚いたそうだ。
 萌は、両親の問題でお世話になった女性弁護士に憧れ、弁護士を目指して法学部に進学してきたという。同じ大学になるという全くの偶然にも二人で驚いた。
 およそ六年ぶりの再会となった二人は、昨日、大学のキャンパスで、時間が許すまでそれまでの二人のことを語り合い、連絡先を交換して別れた――。
 
 大輝の乗る電車は、後続の各駅停車を待つ乗客の列が見える鶴ヶ峰駅を通過し、続く西谷駅の島式ホームを目掛けて進む。
 大輝の目に、今日も西谷駅の周辺の、都心直通に向けた大規模な工事が進行している様子が入ってきた。都心直通工事が進めば、萌が住む西大井まで相鉄線が直通するのだろう。
 今日の大輝には、その様子は昨日と違って見えた。
 
 当初計画の延期はあっても、相鉄は着実に前進しようとしている。
 「Thinking of the next century.」を掲げる相模鉄道は、次の百年に向けてブランドイメージの向上に挑戦していくそうだ。日本では人口減少時代が始まっていて、横浜市も人口減少が始まっている。将来を悲観する声も多く聞こえる中、勇ましいじゃないか。
 俺も勇気を持たねば。
 今の大輝には、萌のように司法試験に挑戦するといった目標はない。しかし、いつか目標を見つけることができた時には、着実に、果敢に、挑戦していこうじゃないか。大輝は、身近な存在であった、相鉄に鼓舞された気がしたのだ。
 まずは、勇気を出して、今週末、萌をデートに誘ってみようか。
 
 ネイビーブルーの急行電車は、大輝を乗せて力強く前進している。

著者

川本敬