「天王町の涼み台」古性清乃

 あれ、外に出るのにこんなに歩いたかな、と僕は工事の終わっていない駅舎の天井を見上げた。天王町に来たのは、ずいぶん久しぶりだ。思えば学生時代以来じゃないだろうか。
 階段を下りてすぐに高架下の改札口があったはずなのに。懐かしい風景に出会えなかったことに軽く失望しながら、僕は街へと歩き出す。駅前の飲食店も、以前とは少し変わっている気がした。ただ、天王町商店街のメイン通りに抜ける橋と帷子川はそのままだった。大きな翼を広げ、アオサギが川端に降り立っている。
 僕が休日を利用してこの街に来たのは、叔父に会うためだった。叔父の茂明はタナカ家具店という店を経営していて、74才になった今も店に立ち続けている。連絡はしなかったが、行けば会えるはずだ。
 商店街のメイン通りに入って右に曲がり、洪福寺寄りの方に店がある。ただ何かが違う気がして僕は一瞬立ち止まった。そうだ、アーケードだ。商店街のアーケードがなくなっている。だから、タナカ家具店の古ぼけた看板がよく見えるのだ。
 見晴らしが良くなってしまったことに何か居心地の悪さを感じながらも、僕は再度歩き出す。これからの用事──叔父に会うことも同じように居心地の悪い用件だ。
 少々の後ろめたさを、溜め息とともに吐き出して。僕はゆっくりと歩き出す。
 店の間口は家具屋らしく広い。道に接する面はすべてガラス張りで、店内に大型家具が並んでいるのがよく見える。それを背にする格好で、古ぼけたベンチが置いてある。商店街を行く人たちがちょっと休憩できるようにと、昔から外に置いてあるものだ。
 ここは変わらないな、と思いながら僕は重たいガラス戸を押してタナカ家具店へと足を踏み入れた。
 壁ぎわの小さなレジコーナーで、新聞を広げている眼鏡の男性がいる。僕は叔父さん、と声を掛けた。
「……なんだ、直樹か」
 顔を上げ、ややあって叔父は僕に気が付いた。この来訪が唐突だったからだろう。立ち上がり、しげしげと僕を見る。
「久しぶりだな。どうしたんだ、突然」
「ああ、うん。ちょっと近くに寄ったのと、それと……これ」
 僕は用意しておいた手提げ袋を持ち上げてみせる。
「こないだ出張で長野に行ったんだ。そばの土産」
「なんだよ」
僕が差し出した紙袋を受け取り、叔父は渋面をつくった。「こんな気遣い要らねえのに」
 叔父は寡黙な男だ。手土産を渡せば、それ以上のことを聞いてはこなかった。僕は軽く安堵しながら、母から頼まれたことを思い出す。叔父に変わった様子はないようだ。
 学生時代、ここに下宿させてもらっていた時のことを思い出せば、会話の糸口には困らなかった。
「アーケード、なくなっちゃったんだね」
「いつの話してるんだよ、ずいぶん前の話だぞ」
 叔父は僕に椅子をすすめ──家具屋で椅子に困ることはない──少しだけ微笑んだ。
「家具屋だって、もう二軒ぐらいしか残ってねえさ。うちと矢野さんとこだけだ。他、みんな閉めちまった」
「へえ、そうなんだ。あんなに沢山あったのに?」
 以前、聞いたことがある。天王町商店街には家具店が何軒も並んでいた。大型スーパーから真っ直ぐ伸びるメイン通りに四軒も五軒も家具店が並んでいたのだ。昔はなんだか特別なニーズがあったらしい。
「みんなイケアだかニトリに行くんだろ? うちらの出番じゃねえさ」
「そういや、前に話してたよね。今、イオンがあるところに、大きな工場があって。そこの人がお客さんになってくれたとか何とか」
「紡績工場だよ、富士瓦斯紡績。戦前の話だけどさ。若い女工さんがいっぱい働いてて、そりゃ街も華やかだったらしい」
 叔父は何故だか自分のことのように得意気になって続ける。
「昔は映画館やあんみつ屋もあったし、いつも女工さんで溢れてたんだってさ。でも、おれたち家具屋の出番は一番最後さ。彼女たちが結婚するって時に、一式揃えるってんでまとめ買いだよ。おれはまだ生まれてなかったけど、親父がいつもそんな話してたなあ」
 叔父は、そう言いながら店頭に目をやり、
「あの涼み台はさ、その頃からずっとあるんだよ。いつもあそこに女工さんが座って──」
 と、唐突に彼は口をつぐんだ。僕はその視線を追う。店の外にある涼み台──ベンチに誰かが座っていたのかと思いきや、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
「まあ、なんだ。直樹、何の話だったっけ」
 取り繕うためだろうか。叔父は話を変えた。
「お前、用事があって来たんだろ。登美子がなんか言ってたのか」
 おっと、うまく誤魔化せると思ったのに。話が戻ってしまった。僕は思わず苦笑いする。母から託された話をするしかない。僕は腹を決めた。
「いや……叔父さん、こないだ手術したじゃない? だから様子はどうかなって。母さんちょっと心配してるんだ。それで」
「なんだ。やっぱりそれか。様子見てこいって言われたんだろ」
 うなづく僕。叔父は全て察したのだろう。同じように苦笑いを浮かべてみせた。
「手術って、もうそろそろ一年経つだろ。大丈夫だよ。転移だってしてねえし」
「でもさ、叔父さんも70超えてるだろ? 叔母さんもいないのにさ、独りで店に立つのもあれじゃないかって」
「あれって何だよ」
「危ないってことだよ。急に具合が悪くなったりさ、何か事件に巻き込まれたりとかさ」
「ここは商店街だぞ、そんなことあったらすぐに周りの連中が駆けつけてくるさ」
「まあ、そうなんだろうけど」
 僕は口をつぐむ。
 その周りの店の知り合いから、母が連絡をもらったのだ。どうも叔父の様子がおかしい、と。彼が独りで店頭をぶらぶらしていたり、ベンチに座って、まるで誰かと話しているように笑顔で話していたりするのだという。少々の奇行である。
 この家具店を継ぐ人間はいない。母は叔父に連絡をし、さりげなく廃業を勧めたようなのだが、埒が明かない。それで僕が派遣されたというわけだ。
 だが、さすがに僕の身分で、叔父に店を畳んだらどうかと切り出せるわけがない。椅子の袖についていたピカピカの握りを撫でながら、僕は何と言ったらいいものか思案する。
「……ちょっと待ってろ」
 会話が途切れたからだろうか、叔父がゆっくりと席を立つ。
「お茶、淹れてくるわ」
「あ、うん」
 助かった。どうしたものかと思案していた僕は生返事を返した。
 いそいそと店の奥に姿を消した叔父は、すぐに盆に二つの茶碗をのせて戻ってきた。自分と僕の分と思いきや、叔父はそのまま店頭に向かった。
 えっ、と僕は腰を浮かせた。
 どう見ても誰もいないベンチに、叔父は茶托を置き、笑顔で何か話している。まるでそこに誰かが座っているかのように。
 嘘だろ。立ち上がった僕は、店の外に出るべきかどうするか戸惑った。意を決して、外に出ようと店の外へと向かえば、ちょうどガラス戸を開けて叔父が戻ってくる。
「叔父さん、誰にお茶を──」
「誰って、いつものお客さんだよ」
 叔父は親指で背後を指さし、僕に店内に戻るように促した。追い立てられながら、僕は振り返り彼が指した方を見やる。
 すると、一人の老婦人が立ち去っていくのが見えた。かなりの高齢らしく、ゆっくりゆっくり地面を確かめるように歩いていく。
「ほら、帰っちゃったよ」
「ああ、うん」
 僕は目を瞬かせた。見間違いだろうか。確かにベンチには誰もいないように見えたのだが……。店内からは見えなかっただけかもしれない。僕は腑に落ちない思いを抱きながら、先ほど座っていた椅子に戻る。
 もう一つの茶碗は僕の分だった。
「たまに来るお客さんなんだよ」
 聞かずとも、叔父は上機嫌で話しだした。
「いつもああやって、あの涼み台に腰かけてるんだ。上品な雰囲気の人だよな」
「お客さん?」
 自分が変な表情をしていないか、僕は細心の注意を払いながら、小さく聞き返す。
「聞いたら、若い頃に天王町で働いてたんだってさ。まさに、例の紡績工場だったみたいなんだよ」
 と、いうことはやはりあの老婦人のことか。背中しか見なかったが。
 ふんふんと相槌をうちながら、叔父の顔を見上げる。
「背筋はシャンとしてるけど、どう見てもおれより年上だろ? なんか、気になっちゃって。つい話しかけちまうんだ」
 照れくさそうに笑う叔父。僕は茶に手を伸ばしかけていた手を戻し、思わず、彼の顔をじっと見つめてしまった。
「昔、うちの家具買ってくれたんだってさ。親父の代の話だぞ。すごいことだと思わないか?」
 叔父は叔父で、例のベンチの方を見やっている。嬉しそうに微笑みながら、目尻を下げて。優しげな視線を店の外へと送っている。
「へえ、それはすごいね」
 一転、僕も微笑んでいた。
 無口であまり表情の動かない叔父だと思っていた。その彼がこんな表情を浮かべるなんて。
 骨ばった皺だらけの指を足の上で軽く組むと、彼は照れくさそうに無言で俯いた。
 普通だったら、ここでさらに聞き出すところなのだろう。僕の見た老婦人と、叔父が見ているお客が一致しているかどうかも分からない。叔父が誰もいないベンチにお茶を出している可能性だって残されている。何しろ、商店街の人たちの証言がある。僕はここで叔父を問いつめるべきなのかもしれなかった。
 だが、僕はそうしなかった。
 叔父の話を聞きたいと思ったのだ。ただ純粋に。彼の笑顔のせいだろう。あの表情が僕の強い興味をかきたてたのだ。おかしいとか、変だのと断じる前に、彼の話をもっと聞いてみたいと。
「他にはどんな話をしたの?」
 休日の昼下がり。そうして、僕は叔父とその不思議なお客とのエピソードに耳を傾ける。

 富士瓦斯紡績の工場が出来たのは、明治41年のことだ。関東大震災で建物が崩壊する被害にもあったが再建され、操業を続けていた。天王町商店街はその城下町として繁栄した。戦前から戦中にかけて、この街は伊勢佐木町とも並ぶほどの、横浜有数の繁華街だったそうだ。
 タナカ家具店の創業は昭和3年。僕の曾祖父が現在とほぼ同じ場所で家具店を開いた。従って、叔父は三代目となる。この街を選んだ理由は前に聞いたとおりで、当時の天王町は工場に勤務する人たちで賑わう街であり、そのお客を見込んでのことだった。
 太平洋戦争が始まると、紡績工場は軍需工場となった。働く人の数は変わらなかったが、商店街の賑わいは徐々に戦争の影響を受けていく。配給制が始まり、商売を継続できる店も少なくなっていったが、街自体はそのまま存続した。そして戦後を迎えるとこの界隈は米軍に接収されてしまう。別の場所で商売を続けていた叔父が店と土地を取り戻すのは昭和33年、米軍の接収が解除になってからのことだ。
 つまりタナカ家具店は、一度天王町を去り、もう一度ここに戻ってきたというわけだ。
 叔父が──茂明少年が、その女性に会ったのは、戦時中のことだったという。
 天王町の街には多くの商店が並んでいたが、戦争が長引くにつれ、配給制度が始まってしまう。米穀店など、行政の許可を得て商品の販売ができる店は良かったが、それ以外の店は物不足もあって商売が立ちいかなくなった。
 タナカ家具店も、ただ在庫の家具を店に並べただけの開店休業状態。祖父はもっぱら家具や調度品の修理を請け負って、なんとか食いつないでいたらしい。
 そんなある日のこと。茂明少年が尋常小学校から戻った時、店頭にある涼み台に一人の若い女性が腰かけていた。最初は素通りしたものの、彼が外に遊びに行こうとした時にもまだ座っている。それも俯いたまま。不思議に思い、茂明少年は声を掛けた。
 どうしたの、お姉さん。うちのお店になんか用なの?
 子どもらしい無邪気な聞き方である。女性は顔を上げ、少年が家具店の子だと気付くと理由を話してくれた。曰く、戸棚の修理を頼みたいのだが、店に先客がいるので待っている、とのこと。白くほっそりとした指を足の上でそっと組んで、彼女は言った。
 蝶番がね。あなたのお店で買った戸棚の蝶番が壊れてしまったの。
 茂明少年は、なら僕が父ちゃんを呼んできてあげる、と気軽に言った。
 だが、女性は首を横に振る。
 いいの。時間がかかるなら、その方がいいの。
 彼女はぽつりぽつりと話しだす。戦争が始まる前、紡績工場で働いていた。この街で、友達と映画を見たりカフェで甘いものを食べたり、とても楽しい日々だった。やがて縁談がまとまり、富士瓦斯紡績でもそれなりの地位にある男性と結婚した。タナカ家具店でタンスや大きなテーブルを買った。今の暮らしは比較的裕福な方だと思う。戦争が始まったが不自由なことは特にない。けれど──。
 家に帰りたくないの。
 女性は言う。幸せな結婚をしたはずなのに。自分は根性なしで、どうしようもない意気地なしだ。日本国民が一丸となって戦争に勝たなきゃいけない時に。みんな頑張ってるのに、自分は頑張れない。頑張らなきゃいけないのに、こんなところで油を売って……。きっといつかバチが当たる。
 最後に女性は言った。まるで少年に念を押すように。
 わたしって、駄目な人間だよね。ねえそう思わない?

「──でもさ、おれは言葉を返せなかった。ただ聞き役になるしかできなかったんだ」
 叔父はそう切り上げて、丸めた背中をゆっくり伸ばし、こちらを見た。僕は戦時中の天王町から現実に戻り、目を瞬く。
 あれから一週間が経っていた。僕はまた休日を利用して叔父を訪ねている。母への報告は適当に済ませ、まずは叔父の話をよくよく聞いてみることにしたのだ。
「それから、彼女はうちの店に何度も来てくれたんだけど。その時はとにかく本当に悲しそうでなあ。だから、ものすごく心に残ったんだよ」
「結婚生活がうまくいかなかったのかな?」
「だろうな。子どもがいる気配がなかったからな。たぶんそれだよ。昔のことだからさ」
 叔父はしたり顔で言う。確かに”産めよ増やせよ”の時代に、子どもが居ないことが負い目になるのは十分考えられる。そしてそれが一方的に女性のせいにされてしまうことも。
「でも、真っ白な肌の綺麗な人だったなあ。今でもはっきり覚えてるよ」
「ふうん」
 わざわざ確認しなかったが、これが叔父の初恋なのかもしれなかった。生家の店頭にやってくる年上の綺麗な女の人。たった数回しか会っていないのに、叔父の心にこれだけ強い印象を残したのだから。
「それでさ、最近よく来てるお客さんが、その人に似てるって話だよ」
 僕は敢えて話題を進める。店の中から店頭のベンチ──涼み台に横目を送りながら、叔父の様子をうかがう。
「何だよ、話そこに戻すのかよ」
 ばつが悪そうに叔父は視線をそらした。
 僕は確かめたかった。叔父が一体何と話をしているのか、誰もいないはずの涼み台に何を見ているのかを。それとも勘違いをしているのは僕の方で、そのお客さんが実在しているのだったら何の問題もない。
「聞いてみたの?」
「何をさ」
「昔、工場で働いてた、までは聞いたんでしょ?」
「まあ」
「昔、うちで家具を買ったってのも聞いたんでしょ?」
「うん」
「じゃあなんで、その話をしないのさ。子どもの時に会った人かもしれないわけでしょ」
 問い詰める僕。叔父はたじたじだ。
「いやあ、そんなの聞けないよ。だってあこがれの人だぞ」
「でもさ──」
 そんな話をしていた時、叔父がふいに顔を上げて、店頭に目をやった。僕もつられて視線を送る。
 驚いた。涼み台に本当に人が座っている。背筋を伸ばした老婦人らしき人物が、僕にも見えたのだ。一週間前に見た人と同じなのかどうか、遠目に見るだけでは分からない。
 それでも、目をぎゅっとつぶって、また開いても、そこに女の人は座っていた。確かにあれは幻覚ではない。
「あれ、あの人は?」
「うん」
「いつもの人?」
「だと思う」
 叔父はじっとその姿を見ている。彼の目にも同じ老婦人が見えているのだろう。
 なんだ、そうだったのか……。
 僕はとても安堵してしまって、大きく息を吐いた。見えるじゃないか。老婦人が一人、あそこに座っている。僕の方が勘違いをしていただけだ。現実にいる人なら、声を掛けることができる。話をすることだって出来て当たり前だ。
 そう、本当に現実に存在する人ならば、確かめなければならない。僕は席を立った。
「おい」
 たしなめるような声をかけられる。が、僕はそれを無視してずかずかと店頭へと歩を進める。さらに叔父がよせよ、と止めるのも聞かなかった。大きな食器棚の間をすり抜けながら外へと向かう中で、脳裏を彼女が話していたという言葉がよぎった。
 蝶番が。蝶番が壊れてしまったの。
 僕は応える。
 ──蝶番なんて、ただの部品だ。壊れた部分を交換すれば直る。
 僕は店のガラス戸を大きく開いて、外へ出た。涼み台には、誰も座っていなかった。おや、と思った時。先ほど見た老婦人の背中が天王町商店街のメイン通りにぽつんと見えた。イオンがある方角へゆっくり歩いている。僕は迷わずそれを追いかけた。
 途中で整骨院の角を右へ曲がるが、僕は相手の姿をしっかり捉えている。老婦人はゆっくり歩いていたので、やがて僕は彼女に追いつくことができた。
 僕は、すみません、と老婦人を後ろから呼び止めた。その声が大きかったからか。脇を通りかかった親子が、びっくりたようにこちらを見た。
 しかし驚いたのは彼らだけではなかった。当の老婦人もこちらを振り返っていた。
「わたし、ですか?」
 いぶかしげな視線をこちらに向けてくる。
 確かめなくては。僕はごくりとつばを飲み込み、覚悟を決めた。
「あのう、僕はあそこのタナカ家具店の者なんですが」
 意を決して、僕は話を切り出した。

「どうだった?」
 叔父は店頭のガラス戸のところで待っていた。
 息を弾ませながら僕は、とりあえず待ってくれと手を軽く挙げ、呼吸が落ち着くまで待ってもらうことにした。
 向かいの化粧品店の店主がふらりと通りかかる。軽く会釈を済ませると、叔父は件の涼み台の方へ僕を誘うようにして腰かけた。茶托を少し脇に寄せて、じれったそうにまた口を開く。
「追いつけたのか?」
「いや、ごめん。実は──見失っちゃったんだ」
 ぽかん、と口を開く叔父。
「松原商店街の方にでも行ったのかな? 途中で姿が見えなくなって」
 帰る途中に考えておいた言葉を並べながら、叔父の反応を注意深く見守る。
 しばらくして彼は長い溜息のようなものを吐いた。そうかあ、と呟いて、背中を伸ばし両手を涼み台に置く。その様子に、密かに僕は安堵した。
 叔父は僕が嘘を吐いていることに気付いていない。
「ごめんね」
「いや、別にいいよ」
 若い頃に天王町で働いていたのは本当ですけれど、とあの老婦人は言った。戦時中には、あの工場は紡績ではなくなっていたのよ。
 老婦人は品のいい言葉遣いの素敵な人だった。いきなり街頭で話しかけてきた若造である僕にも、丁寧に説明をしてくれた。
 タナカ家具店でタンスを買ったこともある。工場で働いていたこともある。だがそれは戦時中のこと。
 老婦人は、事情も聞くこともなく、ただにこやかに話してくれた。
 だって、あなた。考えてもごらんなさいな。紡績工場だったのは、戦前のことよ。その頃に働いてたってことは、今、90歳以上の人ってことになるわ。わたしよりも10歳は年上よ。そんな人が、元気に歩けるわけないじゃない。そんな人がいるはずがないわ。
 ──そんな人がいるはずがない。
 僕は、彼女に言われた言葉を心中で反芻した。その通りだ。そんな人がいるはずがない。この老婦人は叔父が見ている人の一端を担っていたのかもしれない。けれど、叔父が想った人はもうここには存在しないのだ。 
「直樹にはびっくりしたよ、いきなり走っていくもんだからさ」
 ごめんね、と僕はもう一度謝る。叔父は微かに笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。
「いいんだ」
 手持ち無沙汰に、脇に置いてあった茶托に手を触れる。その叔父の横顔は安らかなものだった。一週間前、初めて僕に憧れの人の話をしてくれた時と同じ、幸福そうな表情だった。
 僕はそれを見て悟った。
 捕まえられるはずがなかったんだ、と。
 叔父の大切な思い出は、その胸の中にだけ存在している。だから僕がいくら追いかけたって、捕まえられるはずがない。ただそれだけの話だったんだ。
 僕も自然に頬を綻ばせる。叔父と同じように涼み台に両手を置いて身体をもたせかけてみると、視線が上向いて青い空が目に入る。何だか気持ちの良い光景だった。
「ここ、座りやすいね」
「だろ? だから、ずっとここにあるんだ」
 子どもの頭を撫でるように、涼み台の表面を撫でる叔父。
「あのさ、叔父さんはいつまでお店続けるつもりなの?」
 少しの間のあと、そんな言葉が僕の口から滑り出た。先週からずっと聞きたかったことを、何の気なしに自然に尋ねることができたのだ。
 叔父は眉をひょいと上げて、こちらを見る。
「ん、まあ、もうちょっとな。身体が動く限りはさ」
「そうだね」
 うなづいてみせる僕。
「僕も、それがいいと思う」
 青い空には、整然と並んだイワシ雲が浮かんでいた。
 タナカ家具店のために、がむしゃらに働いてきた叔父。戦後のごたごたを乗り越え、彼はこの涼み台のようにこの街で長い時を過ごし、家具店を営んできた。
 そんな叔父が見ているのは、人の形をした夢のようなものだ。夢と現実の間の、とてもあやふやな、すぐに消えてしまう儚い夢かもしれない。でも、それは彼にとって何よりも大切な思い出なのだ。無理に目覚めさせることなんかない。
 僕や母のような回りの人間ができることだってたくさんあるのだから。
「また、来るよ」
 そう言って、僕は涼み台から腰を浮かせた。

(了)

著者

古性清乃