「小さく、大きな、一歩」あんず

 相模鉄道いずみ野線のいずみ中央駅のホームに降り立ち、咲子はベビーカーの中にいる裕也をのぞき込んだ。
 一才五ヶ月の裕也は、最近、やっと歩けるようになったばかりだ。まだまだ、おぼつかない歩みで、外出先はもっぱらベビーカーのお世話になっている。
「裕ちゃん、着いたよ。」
裕也は、嬉しそうに足をバタバタさせた。
「来られて、良かった。」咲子はつぶやいた。裕也にではなく、自分自身に対して。

 改札を出てから、きょろきょろしてみる。そんなに大きな駅では無いが、こぢんまりとした町の印象を持った。駅に直結してスーパーがあり、近くにファーストフード店など子連れでも入り易そうなお店も見える。実際にベビーカーを押した母親が、吸い込まれるかのように入っていく。

 咲子が初めてこの駅に来た目的は、駅のすぐそばにある地域子育て支援拠点の施設『すきっぷ』へ裕也を連れてくるためだった。場所を確認しようと、スマートフォンを取り出そうとしたとき、子供の元気な声が聞こえてきた。駅の隣のビルへ向かうようだ。まるで「こっちだよ!」と誘っているかのように。幼児連れの母親たちが、続々と2階に向かっている。咲子はほっとして、スマートフォンをバックに入れた。

 『すきっぷ』の引き戸を開けると、賑やかな幼児の声や足音、ママたちの笑い声が飛び込んできた。 咲子は、たくさんの子供たちや玩具に圧倒され、周囲をおろおろと見回すのがやっとだった。
 すると突然、裕也は咲子の手を振り払うと、ミニカーの入ったカゴを見つけて、とたとたと突進していった。「裕ちゃん、待って!」咲子は思わず、周囲が一瞬、振り返るくらいの大声を出した。オムツや昼食など大量の物が入っているママバックを持っているため、咲子はすぐに追いつけない。慌てて裕也を捕まえようとしたときに声をかけられた。

 「落としましたよ。」
振り向くとショートヘアの小柄な女性が、にこにこしながら、裕也の小さな帽子を渡してくれた。
「あ、すみません。」
咲子は、帽子を落としたことも気づかず、到着して早々の自分の慌てぶりが恥ずかしくなり、顔を赤らめた。

 スタッフの人から利用の説明を聞き、ロッカーに荷物を置いて身軽になると、高ぶっていた気持ちも落ちつき、裕也と遊ぶ余裕が出てきた。 裕也よりも少し大きい子、小さい子が、自分の好きなおもちゃで思い思いに遊んでいる。乳児が寝られるベビーベッドまである。 子供を気にかけながらも、顔見知りのママたちはおしゃべりに花を咲かせている。
 裕也は遊ぶというより、たくさんのおもちゃや自分と同じくらいのたくさんの子供を目の前にして、興奮していた。目を輝かせ、あちらこちら夢中になって動き回っていた。

 「いつも私とばかりいて、行くのはいつも同じ所。それに比べたら、ずっと楽しいよね。」
咲子は心の中で裕也に語りかけて、久しぶりに優しい気持ちで頭をなでた。やっと訪れた親子の平和な時間。咲子は自分にそういう日が来たことが嬉しくてたまらなかった。それと同時に、あの辛く苦しい嵐のような日々を思い返していた。

 咲子がちょっと遠出してみようと思えるようになったのは、ほんのつい最近のことだ。
裕也が歩けるようになり、少し行動範囲が広くなれたためである。しかし、電車に乗って二人で見知らぬ町に来たことは、咲子にとってとてつもない大冒険だったのだ。自宅近くの公園や地区センターのプレイルームには行ったりしていたものの、裕也を連れて、電車に乗って出かけるなどとは、到底考える余裕はなかった。

 理由はただ一つ。裕也の成長が他の子に比べて遅かったからである。
 寝返りもハイハイも声を出すのも、何もかも、裕也は後に生まれた子にどんどん抜かされていった。そんな姿を目の当たりするのは、咲子には耐えがたいことだった。だんだんと咲子の足は、乳幼児が集まる場所から遠のいていった。

 焦りと不安にかられ、病院へ相談に行ったこともある。先生は一言、
 「問題はありませんよ。少し慎重なお子さんなのかもしれませんね。」
その場では安心するものの、また他の子供を見ると咲子の心がかき乱された。夫はのんびりとした性格で、咲子のイライラや不安を理解してくれなかった。それが一層、咲子を孤独にさせた。

 夕暮れせまる公園で、なかなか歩かない裕也をベビーカーに乗せ、散歩をしていた日々が蘇ってきた。
 公園で遊ぶ、裕也くらいの子供は、笑顔いっぱいのママに向かって歩いている姿を見かけて、ひきつった顔の咲子は、その時、鬼の形相だったかもしれない。いらいらしながら裕也をベビーカーから出すと、抱っこしながら、無理矢理、歩いている子供の姿を裕也に見せた。
「早く歩きなさいよ、焦りなさいよ!」
と心の中で罵倒しながら。

 裕也を連れて、『すきっぷ』で遊べている今は、新しい一歩を踏み出せたような、心地よい気持ちだった。そんなことを考えながら、裕也を少し離れた所で見守っていた時だった。裕也が積み木で遊んでいた親子に近づいた。
「あっ」と思った一瞬の出来事だった。咲子は叫んだ。
「裕也、ダメ!」
遅かった。裕也は積み木の家を触り、上手に出来ていた家は、見事に崩れ落ちた。
その瞬間、崩された男の子は火がついたように泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんね。」
咲子は慌てて親子のもとへ行き、裕也の頭を下げさせた。自分が悪いことをしたと分かったのか、突然の出来事に驚いたのか、裕也も半泣きだ。 泣いた男の子をあやしながら、その子の母親は言った。
「大丈夫ですよ。気にしないで。」
咲子はその母親が、先ほど裕也の帽子を拾ってくれた女性だと気付いた。
「ほら、洋太郎。もうすぐ来るよ。窓へ行こう!」
洋太郎と呼ばれた男の子は、泣いていたのが嘘のように、窓に向かって駆けだした。
咲子が当惑顔をしていると、洋太郎の母親は、にこっと笑って
「うちは、これが目当てで来ているんです。だから、気にしないで。」
と大きな窓を指さした。

「わぁ!」
幼児の歓声があがった。たくさんの幼児たちが、『すきっぷ』の大きな窓に張り付いている。幼児たちにはとてつもなく大きく見える電車が、ホームに滑り込むように入り、やがて、ゆっくりと止まった。『すきっぷ』の大きな窓からは、ちょうどホームが見えるようになっていた。子供たちを喜ばせるためなのか、たまたま、この造りだったのか。
いつの間に裕也も他の子供たちと同じように、窓にぴったりと張り付いて、電車をじっと見ている。
「うちの子、最近、電車にすごい興味を持ち始めて。おいくつですか?」
洋太郎と呼ばれた子のママは、人懐っこそうな笑顔で咲子に話かけてきた。咲子も久しぶりに他のママと話す嬉しさで、照れながらも今日ここに初めて来たこと、裕也のこと、つぎつぎと話し始めた。

 洋太郎くんは一才九ヶ月だという。裕也と四ヶ月の差はあるとはいえ、だいぶしっかりしているように見えた。 洋太郎くんママが誘ってくれて、『すきっぷ』が用意してくれたテーブルで一緒にお昼をとった。 最初は遠慮がちに、たわいのない話をしていた二人だが、お互い初めての子育て、同じ学年だと分かると打ち解けてきた。洋太郎くんママも、まだママ友と呼べる人が少ないことも分かった。毎日の育児、予防接種の話、イクメンではない夫への不満、話は尽きなかった。

 裕也と洋太郎くんは、自分たちの相手をしないママたちを見限り、おもちゃで遊んでいた。 甘えん坊の裕也も、少しお兄さんの洋太郎くんに興味を持ったようだ。咲子に目もくれず、2人で夢中になってブロックで遊んでいる。洋太郎くんママが、
「ねえ、まだ時間があるなら、外へお散歩に行かない?駅の近くに和泉川っていう川があるの。」
「行きたい!」
咲子は即答した。

 「洋太郎、裕也くん、お外行くよ!」洋太郎くんママが二人に声をかけると、洋太郎くんが裕也の手を取り、お兄ちゃん面して戻って来る。そんな二人の姿を見て、咲子と洋太郎くんママは顔を見合わせ、くすっと笑った。

 「わぁ、広い!」
大きな川を前にして、咲子は思わず声を出した。和泉川は、『すきっぷ』と駅をまたいで反対側にあった。駅に到着した時は、『すきっぷ』を探すのに夢中になっていて、川の存在を気にもとめなかった。
 秋まっただ中ではあるが、今日は日差しがあるせいか、少し汗ばむくらいの陽気である。裕也よりも少し上の子供たちのグループが何組か遊んでいた。水を触ったり、石を川に投げたりして大騒ぎしている。水面は午後の日差しを浴び、キラキラ輝いていた。トンボの姿もちらほら見えて、秋ならではの風情だった。ここが駅のすぐ前にいるということを忘れてしまいそうだ。
 裕也と洋太郎は、川よりも虫に興味があるようで、アリの列を見つけては追いかけている。二人の後をついて行く。
「ここは、夏になると水着を着せて、水遊び出来るの。来年は、洋太郎もデビューかなぁ。」
洋太郎くんママは、大騒ぎしている子供たちと自分の子を重ねているようだった。
 咲子も想像をしてみた。来年、海水パンツをはいて、元気よく遊んでいる裕也の姿を。
日焼けをして、大きな声で「ママ!」と叫ぶ裕也の姿を。一人で抱えていた、辛く大変だった今までの記憶が、ほんの少しだけれど、川の流れとともに遠くへ行ったような気がした。

 そろそろ帰る時刻が近付いてきた。二人は連絡先を交換することになった。咲子は、ママ友と呼べる存在が初めて出来たことに舞い上がりながら、スマートフォンを取り出した時だった。洋太郎くんママは、咲子に伺うように言った。
「あの、私…河野ともみって言うの。〇〇くんママって言われるの、実は苦手で…。
名前で呼んでもらいたくて。私も名前で呼んでいいかな?」
 咲子は胸が熱くなった。一人の人間として名前を呼んでもらいたいと、咲子もずっと思っていたからだ。誰かのママではなく。裕也を産んでから、夫もずっと「ママ」だった。

 これから子育てを通じて、裕也を通じて、何人と出会うのだろう。いずみ中央の駅に降り立つ前には、想像もしなかったわくわく感で咲子は胸がいっぱいだった。午後のまったりとした、優しい日差しが二人のママに注ぐ。咲子は、ともみの目をまっすぐに見つめて言った。
「ともみさん、私の名前は…。」
                                 (完)

著者

あんず