「尾行」篠塚宇山

                               
 ある夏の朝のことである。均一は、通勤のために家の近く元住吉駅から東横線に乗り、横浜駅でJRに乗り換えようとしていた。
 そんな時である。東横線の改札口からエレベーターを上がってきた付近で、前を歩く一人の女性に目をとめた。昨日も見かけた女性だ。年齢は、均一と同じ二十五歳くらいであろうか。背は女性としては高いほうだ。一メートル六十五くらいだろう。髪の毛はショートにして、黒髪である。背中にはリュックを背負っている。通勤途中のOLにちがいない。
 実を言うと、昨日は、その女性に魅かれてしまい、相鉄線の改札口まで付けていったのだ。だが、昨日は、仕事があるので、相鉄線のホームに入らず、その尾行を中断したのだった。
 付けていったのは、顔が均一のタイプだったのかもしれない。今田舎から出てきたばかりの純朴そうな顔をしていたのである。色白だが、決して派手な顔つきではない。その都会的ではない雰囲気がよかったのだ。
 勿論、今までも電車に乗っていて、ちょっと魅かれる女性を見かけたことは何度もあった。だが、後を付けるなどということは一度もなかった。その時は、どうにかしていたのだろう。普段の自分ではなかった。
  今日は、下はグレイのパンツで上は紺色のブラウスと昨日とは違っていたが、後は間違いなく同じ女性だ。女性は目の前を歩いていた。均一は、彼女の後を歩いていた。均一は、相鉄線の改札口から同じように入り、海老名行の電車に乗った。今日は、途中で引き戻ることなく、彼女がどこに勤めているか突き止めてやろうと思ったのだ。昨日、魅かれた女性にまた会うなんて、こんなことは何かこの二人の間には、運命的なものがあると感じたせいかもしれない。
 女性の方を見ると、ぼんやりと窓から外を見ている。車中は、混むのとは逆の方なので、乗客は少ないが、座れるほどではない。
 均一も窓から外を見るふりをして、彼女にも注意を払っていた。彼女は、さがみ野駅で降りた。均一も続いた。その駅は、朝の通勤ラッシュとは言え、そんなに降りる客はいない。ここからは下手をすると彼女につけていることを察せられるかもしれないので、気をつけて歩くようにしなければならない。
 彼女は、駅前の商店街を歩いていく。通勤で急いでいるせいか、後ろにつけている均一に注意を払う様子もない。そんな風に彼女の後ろを歩いていくと途中から商店街は終わり、住宅地になる。急に人通りが少なくなる。女性との間隔は、五メートルほどである。他に歩いている人がいないということは、彼女は、均一がつけていることに気が付いているかもしれない。
 駅の改札から降りて、五分ほど経った。時計を見ると八時二十分になっていることに気付いた。いつもだと会社へ到着している時間である。立ち止まり、職場には遅れるとケイタイから連絡をした。
 電話をしながらも彼女の行方には、気をつけていた。彼女が、住宅街をまっすぐ歩き、途中で右に曲がったことを確かめていた。そんな均一を追い抜いて歩く女性が一人、目に入った。
 電話を終え、その女性の後ろについて歩いて行った。小柄な女性である。年齢は二十歳くらいと若い。学生かもしれない。他にも人がいると彼女を付けているということがまぎれるので、幸いだと感じた。そのあとから来た女性も同じように右に曲がったので、均一も曲がった。だがそこには、ぼんやりとたたずむその小柄な女性がいた。そこからどういったらいいか迷っている様子である。
 均一は、最初から尾行している女性の姿が見えなくなったので、その小柄な女性を追い越して、また歩き始めた。だが、彼女がどこにいるのか、もうわからない。すっかり、見失ってしまったようである。また道を戻ってくるとさっきの小柄な女性がまだいた。
「ああ、ここで見失ってしまった」
 と独り言のように言っているのが聞こえた。どういうことだろう。これって、この小柄な女性もあの女性を追いかけていたということなのだろうか。何だか、この小柄な女性が同じ女性に魅かれた、同志のように思えて、声を掛けていた。
「道に迷ったんですか」
 突然の男性の問いかけに一瞬、その小柄な女性は、警戒の様子を見せた。
 無言のまま元来た道を駅の方へその小柄な女性は、速足で歩き出した。
 均一の問いかけをナンパとでも思ったのだろう。当然かもしれない。若い男性が他に誰もいない道で、声を掛けてきたのだから。
 しばらく時間をおいてから、均一も駅の方へ向けて歩き始めた。
 
 その日の午後は、得意先へ出張した。得意先は、彼女が乗っていた相鉄線沿線にあった。五時に得意先を出てから、彼女の降りたさがみ野駅で彼女を待とうと思った。朝にまた遭遇するような偶然は、もうあり得ないように思えて、夕方に彼女が勤め先から駅に来るのを待って、彼女の家まで尾行しようと思ったのだ。彼女が朝降りたさがみ野駅に着いたのは、五時二十分くらいだった。まだ職場からは出てきていないだろうと考えた。駅の改札口の付近で彼女が来るのを待った。自分の会社へは、取引先の打ち合わせがちょっと遅くなったので、直帰しますと伝えた。均一の会社では、得意先へ行って、遅くなった場合は、職場に戻らなくてもいいことになっていたのだ。
 三十分ほど待っていたが、彼女の姿は見ることはなかった。どういう勤め先かは、わからない。残業が多い職場だとかなりこの駅で待たなければならない。均一は、二時間くらいは待とうと考えていた。だから、コンビニで買ってきたパンを食べながら、彼女が通りかかるのを待った。
 待ち始めて一時間ほどしたころだろうか。時計を見ると六時半くらいになっていた。
 改札口を一人の女性が抜けてきて、均一の隣に立った。その女性は、朝、彼女を一緒に追いかけていた小柄な女性だった。その小柄な女性は、まさかあの時の男性が、また同じ駅の改札口近くにいるとは思わず、立ったようである。
「朝に会いましたね」
 と均一は声を掛けた。
 突然の声掛けにその小柄な女性は、「あ!」と驚いたようであった。その小柄な女性は、すぐに改札口の方へ歩いて行った。突然、朝会ったナンパ男にまた声を掛けられたので、怖くなって、均一から離れたくなったのだろうか。改札口の中へ入ったまま、姿が見えなくなった。次に来た電車に乗って、どこかへ姿を消したのかもしれない。均一は、声を掛けないで、いればよかったかな、と思った。さっきの小柄な女性が改札付近で立っていたというのは、本当は、用事があったのではないか。その用事を断念させてしまったのだから。声を掛けなければ、お互いに知らないふりをできたかもしれない。
 そんなことがあって、三十分ほどしたころだろうか。目の前に均一が追い求めていた女性が通りかかった。朝と同じ服装である。グレイのパンツに紺色のブラウスだ。彼女で間違いない。均一は、「やった!」と思い、彼女を追って、改札口の中へ入った。すぐに上りの電車が来て、二人とも乗った。
 そんな時である。さっき声を掛けた小柄な女性も同じ電車に乗り込んだことが分かった。ホームでずっと彼女のことを待っていたようなのだ。
 均一は、その小柄な女性のことも気になった。均一と同じ女性を追いかけている。どういうことなのだろうか。女性が女性を追いかける。均一の行為は、一種のストーカーのような行為だが、その小柄な女性の行為も同じだ。どう理解したらいいのだろう。女性だが、彼女に魅かれているのか。確かに彼女は、同性からも好かれる要素があるのかもしれない。背が高く、歩き方が速足でキレイだ。何か宝塚の男役を思わせるものがある。だから、その小柄な若い女性も憧れているのかもしれない。だが、ストーカーのようなことまでするだろうか。
 そんなことを考えながら、均一は、横浜駅まで行き、そこで降りた。その女性も小柄な女性も一緒である。均一の利用している東横線に乗った。あの女性は、今まで気づかなかったが、均一と同じ路線に住んでいるのかもしれない。
 電車は、急行であった。途中、均一の住む元住吉駅を通りすぎた。武蔵小杉駅で降りた。そこでまたJRの改札まで歩いていく。均一も小柄な女性も一緒についていく。ここまでつけていれば、気が付かれそうだが、女性は相変わらず、自分のペースで足早に歩いていく。
 七分ほどでJRの改札口に到着した。女性はその中へ入っていく。均一も、小柄な女性も続く。女性は、そこでトイレに入った。女子用トイレなので、さすがに均一は入れず、入り口の前で待っていた。小柄な女性も同じように待っている。
 十分経った。ちょっと長い。ただ女子用は、個室だから回転が悪いのはわかっているので、やむを得ないと待っていた。また十分経った。さすがに長い。どうしたのだろう。女子用トイレとは言え、こんなに長いとは。二十分もかかるはずはない。
 その時である。均一から五メートルほど離れて待っていた小柄な女性が、声を掛けてきた。
「心配です。トイレの中に入って、見てきて」
 と突然、言った。
「え?」
 と均一は、驚いてしまった。今までの彼女の態度と全く異なっていたからだ。均一のことは、ストーカーでも見るように避けていたはずなのに、急に声を掛けてくるなんて。
「カオルさんのことが、心配です。こんなにトイレが長いなんて」
 均一は、その小柄な女性が、その女性のトイレ長いことが心配なら、なぜ自分が行かないのだ。女子用トイレなのになぜ、男の均一に入れと言うのだ。それに小柄な女性がその女性の名を知っているのも意外だった。カオルというのか。
「でも、女子用トイレだ」
 と均一が言うと、
「男子用トイレですよ。よく見て」
 とその小柄な女性は、言った。
 そういわれて、均一がよく見るとトイレの前のマークが黒字で書かれて男性のマークだった。均一はすっかり、女性のマークだと思いこんでいた。
 それにしてもなぜ、彼女は、男性用トイレに入るのだ。女性が男性用のトイレに入るなんて、考えられない。均一の頭の中は混乱してしまった。
「どうしたんです」
 とその小柄な女性は、戸惑っている均一の様子を見ている。
「それだったら、あたしが入ってきます」
 と言ったので、
「じゃ、おれが入るよ」
 と均一は、女性に男性用トイレに入らせるわけにはいかないと、中に入った。男性用トレイに彼女がいるはずもないとは思ったが、様子を見ると、それらしい女性は無論いるはずもなかった。個室が二つあって、使用中で閉まっていたから、様子はわからなかったが、女性が男性用トイレの個室を使うはずもない。念のためにドアをたたいてみた。両方とも「入ってます」という男の声がした。女性の声ではない。トイレの外に出てくると小柄な女性が待っていた。
「いなかったよ」
「どうしたのだろう。出てくるところは、見なかったわ」
 と小柄な女性は、不思議がった。トイレの中でその女性は消えてしまったのか。それにしてもなぜ、彼女は、男子用トイレに入ったのだろうか。そして、小柄な女性はそれを当然のように考えているのか。均一の頭の中は、相変わらず混乱したままで、どう考えたらいいのかわからなかった。均一は、これからどうするか、ぼんやりしていた。
「あなたは、どうしてカオルさんを付けていたのですか。カオルさんは、男性なのに。あなたは、刑事か何かですか。カオルさんは、犯罪者ではないですよ」
 とそんな混乱した様子の均一の行動が理解できない様子で、その小柄な女性は聞いてきた。
「刑事だって?」
 と言ったが、均一は、その小柄な女性の発言の意味がよくわからない。均一を、犯罪者を尾行する刑事とでも思ったのか。
「それに、カオルさんが、男性ってどういうこと。女性でしょ」
 と均一は、続けて尋ねた。
「カオルさんは、男性よ。何言っているの」
 と小柄な女性は、均一の言っていることがわからず、ちょっと興奮してきている。
 ここまで来て、均一の頭は少し整理されてきたようだ。ひょっとしたら、均一が女性だと思っていた、カオルという人物はこの小柄な女性にとっては、男性に思えていたのではないか。それぞれ別の性だと思って追いかけてきたのではないか。
 だが、均一にとって、あの女性は、あくまでも女性だった。どこが男性だというのだろう。よくおかまを見かけることがあるが、女装していても男だとはっきりわかる。だが、あの女性は、女性で間違いない。
 その小柄な女性こそおかしいではないか。そんな女性を男性だと思うなんて。
 そう思って、その小柄な女性をまた見た。華奢な体つきで短い紺色のスカートに黄色のTシャツを身につけている。顔はと言えば、目鼻立ちははっきりしているから美人の方かもしれない。普通に男性と付き合っていて当然そうなのに、なぜカオルという、彼女には、男性に見える人物を追いかけているのだろう。そんなその女性に興味を持った。彼女と話せば、カオルのことがもっとわかるかもしれない。
「ちょっとあなたの言っていることがよくわからないんだ。おれが女性だと思っているカオルという人物をあなたは、女性だと思っている。どういうことなんだ。ちょっと教えてくれないか。ここは暑いから外の喫茶店でも話さないか」
 と均一は、その小柄な女性を誘っていた。
「そうね」
 と彼女は、同じ人物を別の性だとして追いかけている奇妙な男性に興味を持ったようだ。
 ホームを出て、駅の近くにあったセルフサービスの喫茶店に入った。冷房が効いていて、気持ちよかった。それぞれ飲み物を頼んで、席に座った。セルフサービスの店とはいえ、比較的広くて、席もすぐに見つかった。
「まず、おれの方から」
 と均一は、誘った手前、自分の名前を名乗った。そしてなぜカオルと言う女性を追いかけるようになったかも話した。
「あなたは、カオルさんをずっと女性だと思っていたのね」
 と小柄な女性は、均一に話に納得したようだった。
「ああ、そうなんだ。でも、どうしてあなたはカオルさんを男性だと思っていたんだ?」
 と均一は、疑問に思っていたことを尋ねた。
「まずあたしのことから言うわ。れい子っていうの。最初にカオルさんに会ったのは、三日前よ。あたしは、学校へ通うので電車に乗って、横浜駅で地下鉄からJRに乗り換えようとした。その時だった。カオルさんを見かけたのは。理想の男性に会ったと思ったわ。高校に時に付き合っていた男の子に似ていたの。一瞬、その子かと思ったけど、よく見ると違っていた。だけど、魅かれるものがあって、カオルさんを追いかけていたの」
「カオルさんっていう名前は、どうしてわかったの」
 均一は、れい子がどうして追いかけている人物の名前をわかるのか、不思議に思ってきいた。
「彼女に聞いたわけじゃないわ。あたしが勝手につけた名前よ。高校のときに付き合っていた男の子の名前なの。その子にちょっと似ていたから」
「そうか。本当の名前はわからないんだね」
 やっとカオルという名前の謎がわかったが、均一は、ちょっと意外だった。たまたま高校の時の彼氏と同じ名前とは。
「カオルさんのことは、追いかけているけど、声を掛けることはできなかったの。一度は話したいと思っていたんだ。今日は、チャンスだと思ったけど、トイレの中で消えてしまった」
 れい子は、ちょっと残念そうな顔になった。
 均一は、本当のカオルのことを考えていた。二人の男女から違った性を持つ人物として追いかけられている。本当のところはどうなんだろう。朝の道で消えてしまったのは、ともかく、夕方のトイレで消えてしまったのは、理解できなかった。何かあの時の消え方と言うのは、カオルが最初から存在しなかったかのようであった。
 明日また横浜駅で会えるかどうかはわからない。もう会えないようにも思えた。それは、カオルが最初から存在しなかったからという考えがふと思い浮かんだからだ。
「明日もカオルさんに会えるかな」
と均一は、自分の不安を口にした。会えたのも今日が最後になるかもしれないように思えたのだ。
「会えるとあたしは、信じている。朝会えなかったら、夕方さがみ野駅で待つわ。カオルさんは、絶対来る」
「そうか。俺もさがみ野駅へ行くよ。残業がなければ」
 そういったが、今日はたまたま出張があって、職場に戻らなくてもよかったのだが、普段は今は忙しい時期である。明日は、今日早く帰った分、残業をして、仕事をこなさなければならない。
「均一さん、あたしは、カオルさんのことを待つわ」
「会えていろいろわかったら、教えてくれないか。カオルさんのことを」
と均一は、れい子にお願いしていた。同じ人物を違う性として追いかけていることで何か連帯感がわいてきたのかもしれない。
「ああ、いいわ」
 とれい子は言った。メールアドレスを交換した。
 それで均一は、れい子とは別れた。

 その日以降、均一は、横浜駅でカオルを見かけることはなくなった。
週末に均一は、お盆で田舎へ帰った。両親と妹と墓参りに行った。妹は、大学生で夏休みでしばらく田舎にいるようである。
 夕食が済んで、以前自分が使っていた部屋でぼんやりしていると妹が入ってきた。
「兄さん、この前、部屋を片付けていたら、昔の写真を見つけたよ。兄さんもちょっと見ておいて」と言って、古いアルバムを置いて行った。
 それは、均一が子供のころの写真であった。赤ん坊のころからの均一が写っている。一人だけでなく、妹と写っているものもある。均一は、長男なので、父が自分の息子の写真を撮るのに熱中していたようだ。
 そんな中に一枚知らない女性が写っているものがあった。均一が五歳くらいのものだろうか。当時二十五歳くらいの女性が均一の手を引いて、今の家の前で写っている。誰だろう。均一が気になったのは、その女性がカオルに似ていたからだったのだ。ちょうど夏のころの写真で半ズボン姿にTシャツ姿の均一と紺色のタイトスカートにブラウス姿の女性が写っている。
 カオルと同一人物だとも言えなくもない。しかし、二十年前である。同じ人物のはずがない。その女性が誰だかは、思い出せなかった。女性が写っているのは、その写真だけである。親戚ではない。近所に住んでいた女性だろうか。だが、少なくとも今は住んでいない。
…母か父に聞けばわかるにちがいない…
 と均一は、そのアルバムを持っていって、居間でテレビを見ていた母や父に聞いてみた。だが両親は二人ともその女性のことを知らなかった。
 アルバムを持って、自分の部屋に戻った均一は、その女性のことを思い出そうと努めた。だが、記憶にはない。五歳のころのことだ。たまたま通りかかった女性かもしれない。そんなことは、思い出せるはずもない。
 だが、それにしてもなぜその女性とカオルとが似ているのだろうか。男には、タイプの顔があると言うが、五歳のころ、写真にいっしょに写った女性の顔が、いまだに均一の中の女性像に影響を与えているだろうか。その女性に似た人物を均一とれい子が違う性を持つものとして追いかけている。 
 この写真を見て、いろいろと考えるとカオルの存在が怪しくなった。本当に存在したのだろうか。ひょっとしたら、五歳の時に撮った写真の女性のイメージが、均一の深層心理の中にとどめ置かれて、今になって登場したのに過ぎないのではないか。だから、れい子のいう男性にしか過ぎない人物が理想の女性に見えたのではないか。だが、そう理屈づけても二度に渡って会った女性がいたことは間違いない。確かにあの記憶はある。決して夢の中の存在ではない。しかし、れい子とのやり取りを思い出すと均一自身は、混乱するばかりであった。

 翌日の夕方、均一は、実家から東京のアパートへ帰った。あの女性の写真の写ったアルバムは、カバンの中に入れて持ち帰った。自分の部屋でまた見返すと思い出すことがあるように思えたのだ。途中の電車の中でぼんやりと景色を眺めていた。目に浮かぶのは、カオルの顔である。そうするとれい子とのいろいろなやり取りがまた思い出された。
 れい子と会ってみたくなった。彼女が結構かわいいと思えてきたのである。カオルの擦れていない、純朴そうな顔からすると、れい子はいかにも都会的な容姿である。二人を比較すると可愛いというのは、れい子の方だろう。そう考えると、今までれい子に魅かれなかったのが、ちょっと不思議だった。幸い、手元には二十年前の女性の写った写真がある。
 早速こんなメールを送った。
「実家に帰ったらカオルさんに似た女性の写真がありました。二十年前の人物の写真なので、カオルさんに似ているのが、不思議ですが、それを実際に見てもらえないですか。都合のいい日に写真を持っていくので会えませんか」
 冷静に読んだら、とても信じられない内容である。二十年前の女性がカオルと似ていて、二十年間年をとらずに現在も存在しているようにも読めるのだから。
 それ以降、れい子からは、メールは返ってこなかった。均一のこのメールの意図がわからず、均一に何か危ういものを感じて、れい子は、均一との間に持っていた同志的気持ちが薄れたのかもしれない。あるいは、もう会えないカオルへの気持ちが薄れてきて、すでに別の男性に夢中になっているようにも思えた。

 一週間後の土曜日、均一は、夕方カオルを待ったさがみ野駅まで行った。カオルに会えるかもしれないということがあったが、れい子にも、という気持ちもあった。二時間改札口のそばで待った。だが、カオルもれい子も通りかからなかった。もう帰ろうかと思ったら、れい子が通りかかった。
「ああ、れい子さん」
 と均一が声を掛けると、
「ああ」
 とれい子は、均一に気が付いて、一瞬躊躇したようだが、均一の方へ近づいてきた。メールのことで返事をしていなかったことで、れい子には気まずい思いが少しあったのかもしれない。
「カオルさんを待っていたの?」
 とれい子が聞くと、
「来るかもしれないと思って。でも、来なかったよ」
 と均一は、答えていた。
「あたしも。ちょっと前に見失ったあたりで探してみたんだけど、結局見つけられなかった」
 れい子は、ちょっと残念そうな顔をしていた。大分長い間探したにも関わらず、カオルに会えないせいだろう。
「そうか。残念だったね」
「ああ、そうそう。送ってもらったメールに返事をしなくて、ゴメンね」
 とれい子は、メールの返事をしないことを謝った。
「ああ、それと、カオルさんのことで思い出したことがある。以前、大学の先輩が言っていたけど、フランスのバルザックの小説に「セラフィータ」という両性具有のような人物が登場するって。男には、少女に見え、女には、少年に見えるっているらしい。先輩が言うには、セラフィータは、自分自身を映し出す鏡で、自分の望むものをあらわすんだって」
「自分自身を映し出す鏡か。面白い。と言うことは、おれたちにとっては、カオルさんがそのセラフィータか」
「そうね。つまりカオルさんは、自分自身を映し出す鏡で自分の望むものをあらわすのかもね」
 そうれい子が言った時である。均一たちの目の前を一人の女性が通りかかった。カオルだと思った。
「カオルさんだ」
 と隣にいたれい子にささやいた。
「いや、違うわ」
 とれい子は、否定した。
「おれは、付いていく」
 と均一は、カオルの後を尾行し始めた。ホームに出て、間もなく来た電車に乗った。
 だが、れい子には、まったく違う人に感じられたようで関心を示さなかった。れい子は、立ったまま、そんな均一の姿を眺めている。そういえば、そのカオルは、今までの彼女とちょっと雰囲気が違う。それは、これまでの二回のパンツ姿とは違って、紺色のタイトなスカートであるせいかもしれない。顔はと言えば、カオルというより、実家にあった二十年前の自分と一緒に写っていた女性に似ているような気がした。服装もあの時の写真と同じだ。
 電車は、横浜駅に着いた。東横線に乗った。各駅停車である。夕方のラッシュ時なので、電車の中は人でいっぱいだ。見失わないようにつけて行く。元住吉駅で降りた。均一の利用している駅である。改札口を抜けて、商店街を歩いていく。いつも均一が利用する道である。途中から住宅街に入る。その女性は、振り向くこともなく目的地へまっすぐ歩いていく。
…おれのアパートの近くに住んでいるようだ。なんという奇遇だろうか。彼女の住まいを知ることができるなんて…
 だが、不思議なことに彼女の目的地は、均一のアパートだった。
…同じアパートに住んでいたのか。だが、今まで彼女の姿を見たことはなかった…
 均一は、アパートの二階の部屋である。十メートルほど間隔をあけて歩いていく。普通だったら、付けていることを気付いてもいいはずだが、わからないようだ。
 その女性は、アパートに着くと二階に上がり、均一の部屋の前まで行く。
…おれに何の用があるのだ…
 均一は、ちょっとその女性に不審を持ち始めていた。均一の部屋の前に来ると鍵がかかっているはずなのに、彼女がドアノブを回すと、均一の部屋のドアは開いた。そして、その部屋の中へ入っていた。
 均一の頭の中は、混乱し始めていた。
…どういうことだ。カギをかけて出てきたはずなのに、おれの部屋の中へ入っていくというのは…
 均一も自分の部屋の前に着き、ドアノブを回した。開かない。カギはやはりかかっていた。だが、どうしてあの女性は、均一の部屋の中に入れたのだろう。
 カギを出して、均一は、開錠して、部屋の中に入った。中には誰もいなかった。確かに女性が部屋の中に入ったはずだったのに。狐につままれるというのは、こういうことを言うのだろう。確かに女性は部屋に入ったはずなのに、誰もいない。どこへ消えてしまったのだろうか。均一は、ワンルームの部屋の中にぼんやりとたたずんでいた。
…そうだ、あの時の写真を見てみよう。今の女性が二十年前の女性と似ているかどうか…
 そう考えて、カラーボックスの上に置いたままのアルバムを手に取った。
 均一は、それをめくって、あの女性と五歳の自分が写っている写真を探した。
 その写真は、あった。
 だが、そこには、五歳の自分しか写っていなかった。実家で見たときには、しっかり写っていた若い女性の姿がなかった。すっかり消えてしまっていた。
 まるでさっき見た女性が均一のアパートの入ったのは、彼女の写っている写真から自分の存在を消すためかのようであった。
 そんな時に、れい子が言った言葉を思い出した。
「カオルさんは、自分自身を映し出す鏡で自分が望むものをあらわすのかもね」
 この言葉が均一の今の思いを、一番よく表現しているように感じられた。

著者

篠塚宇山