「川獺」反町浦島大夫

『相州里談巷説集』
     (秋月崑崙庵松陽、安政六年)
「九十段 弥三郎獺の事」(現代語訳)
 「鎌倉郡和泉村に流れる和泉川には弥三郎と称す獺が棲んでおり、人を惑わし水に落とすなど悪戯を働いていた。村の橋本源之介という人が、自分は決して化かされることはないと勇んである晩川の方へ出ると、大山道の橋の上に娘が一人いた。源之介これを怪しく思い、まさしくこの娘が獺の弥三郎に違いないと思うと、お前は獺だろうと問い詰めた。化けの皮のはがれた獺は川に逃げようとしたが、源之介に取り押さえられた。獺は許しを乞って、見逃して頂けるなら、獺の一族に伝わる万病の秘薬を差し出しましょうと言い出し、源之介はこれはしめたりと、獺の差し出す薬包を持ち帰りその場は放免したが、翌朝開けてみれば中身は魚の骨混じりの獺の糞であった。その後また弥三郎に誑かされる者が出てきたので、源之介は再び橋の方へ向かうと、今度は子供の姿が見えた。先の者と悟られぬよう、源之介はわざと間の抜けた声音で、心配だから家まで送ってやろうと言うと、子供に化けた弥三郎は源之介とは気づかぬ様子で、立場の方に家があると言うと、源之介が差し出した背中に負ぶさった。源之介は己と弥三郎を縄で縛りつけると、そのまま自分の家へ連れ帰った。図られたと気付いた弥三郎が逃げる間もなく、源之介は尻尾を巻く獺を桶の中に閉じ込めてしまった。弥三郎は散々懇願して許しを求め、今度こそは本島に獺の妙薬を呉れてやるからと言うと、丁度源之介の妻が臥せっていた折で、源之介は、糞を飲ませたら、お前の皮を剥いで捨ててやる言いつけ、弥三郎の言う材料を集めてきた。果たしてできた薬を呑ませると、源之介の妻はたちまちに恢復した。憔悴した弥三郎は、これに懲りて俺は和泉川を離れることにする、あなたの名前を聞く所では再び人を化かすことはしないと約束し、源之介によって境川へ放されたという。天保年間の事と聞く。

『鎌倉郡史資料(増補編)』
   (矢矧慈眼・編、明治二十四年)
「禽獣部・獺」(現代語訳)
 「(前略)又中和田村に流れる境川の支流和泉川にも泉九郎と称す獺の人を化かすという伝承がある。親の弥三郎と並んで付近の獺の棟梁であったという。現在和泉の獺は大分撮り尽くされてしまったが、二ツ橋村や下飯田の辺には未だ棲息しているという話もある。(中略)中和田村和泉の橋本津南、諱を秋成と言う人は郡役所の吏員であったが、弥三郎獺の伝承にある橋本源之介沼垂の末であるということだった。この人のある晩川端に出かけたところ、和泉川に架かる橋の上で釣り糸を垂らしている子供がいた。津南氏が釣れるかと訊くと、子供は魚籠を見せてこんなに釣れたと言う。魚籠には鮠などの川魚が一杯に詰まっていたが、その子供は、俺はこんなに要らないからとそれを津南氏に勧めた。怪しく思った津南氏はこの子供は泉九郎獺ではないかと疑い、獺はその尾で魚を釣るという話を思い出してその釣竿を奪い取れば、子供はきゃあと声を上げ獺の姿を現した。津南氏はこれを取り押さえ、塵芥流木の詰っていた魚籠の中へ伏せ籠めてしまった。獺は魚籠の中で泣き始めると、ああ口惜しい、我が父和泉の弥三郎が生地を追われ、片瀬の浜に客死してから、俺はその無念を晴らし、再びこの川で獺の棟梁となるべく四十年を頑張ってきたというのに、この俺すらも人の手に捕まり凌辱を受けては父に向ける顔がないと津南氏に訴えた。津南氏はこの獺に同情し、俺はお前を恨む所もないから勘弁してやってもよい、しかし以後人を誑かさないと約せと言えば、泉九郎獺はこれを承知し、その代わりこの事は大恥であるから外の者に吹聴しないで呉れと言って川に戻っていった。その後泉九郎が人を化かすことはなくなったが、津南氏は酒の席で約束を破り、泉九郎は俺が退治したと話したところ、翌朝になっても帰らず、やがて川下の四ツ谷の方に浮かんでいるのを発見されたという。十年ばかり前の事件と聞く。

『中和田村誌・民俗部』
    (橘牧之・編、明治四十五年)
「鳥獣の伝承・狐狸貂獺の事」
 「(前略)獺の人を化かす事は和泉に於ても変わる事無く、江戸の昔より明治の今迄其の話の五、六十はあるならん。殊に弥三郎・泉九郎と称する獺の父子の名を多く聞く。和泉・境両川の獺の棟梁なりしと聞くも、明治の初め橋本某なる人に捕まりて後は其の勢いも衰へたると聞く。橋本氏は後に泥酔して和泉川に転落溺死したるも、村の人は之を獺の報復ならんと恐れ、爾来獺を捕らざるが故に、その姿を見る事の稀少と為りたる今日にも川端に獺の見ゆると聞く。(中略)橋本松代君は村役場の同輩なり。帷子川に近き和田の生れなるが、先の戦役に召集せられし折、川端に一人の女の松代君を呼び止めて曰く、先の大陸での戦では病に斃れた者の多き故、この万病の秘薬を持つて行け、と。松代君気を良くし女の差出した薬包を懐に収め出征せしが、果して松代君満洲にて脚気を患いしが、女の渡せし薬を飲めば忽ち恢復したり。復員の際再び川端を通れば復た女が居りしに、松代君薬の事を深謝すれば、女は代りに一つ言ふ事を聞いて呉れと云ひ、松代君感佩して之を受けるに女の曰く、自分は帷子川の獺なるが、和泉川の泉九郎と云ふ獺は嘗て人を恨みて、和泉の村に祟りを為す事年久しければ、社に祀りその神霊を鎮めて呉れ、お前は外の者と違つて獺を苛めずに遊んで呉れたから、と。松代君承服すれば、獺は川に泳ぎ去りしと。松代君は明治三十九年和泉へ移り、庭に泉九郎を祀る祠を建て、爾来毎朝欠かさず礼拝す。御神体は村人より請けし獺の髑髏を用ひたりと云ふ。松代君曰く其の霊験未だ灼かならず。然れども毎日川魚を供へたるに、魚を目当に時折獺の見ゆると云へり。近年獺の数も減ると聞くに、此れは面白ひと松代君笑ひたり。

『関東の伝承と説話 巻六・神奈川県』
      (井上炳五、昭和十四年)
「戸塚区・和泉川のかわうそ」
 「私が子供の時分など、かわうそは付近の大小の川に見る事の出来たものだが、日清日露の戦役に際し毛皮を狩られ其の数を大きく減じてしまった。然し戸塚区瀬谷の森に発する境川支流の和泉川は其の流域僅かに二里余り乍らかわうその密に棲む川である。此の川には弥三郎・泉九郎と称すかわうその棟梁の伝承が多くあり、『鎌倉郡史拾遺』や『中和田村誌』にも其の名が見える。(中略)川端の和泉町には退職官吏の橋本長生と云う人が庭の社にかわうそを祀って居る。此の人の叔父に当る四郎丸松代と云う人の建てた新しい社であり、周囲の人は和泉泉九郎を祀ると云って居るが、長生氏は之に異を唱え、本来狩られたかわうその塚を作る当地の伝統を氏の叔父が引継いだに過ぎず、昔話の弥三郎泉九郎と云うのも人間の側に源之介だの津南だの名前が付いて居る事の逆算であると云う。本来漠然とかわうその怪異と認識されて居た物が妖怪退治の御伽噺と為り、かわうその方も戯画化されて行ったという事であり、私も同じ様に思う。(中略)長生氏の以前感冒に罹り臥せて居た折、庭に面した縁の方から頭の偏平で目付の怪しい子供が上って来た。氏が此れはかわうその変化であると不思議にも直覚すると、子供の方も其れは承知の様で、親爺さん面白い物を見せて遣ろうかと氏を誘った。長生氏はかわうそに付いて床を抜け、和泉川東の土手まで来るとかわうそはソレと向う岸を指した。見れば西岸の土手を上流側からジーゼル列車が走って来たが、外の村人は全く気が付かぬ様で在った。長生氏は此れもかわうその化けた物で在ろうと承知すると、傍のかわうそに上手い物だと誉めて遣った。かわうそは自前の軌道を以て大八洲を縦横に交通するのだと傍のかわうそは誇って云い、やがて次の列車が来ると、俺はもう去くから、親爺さんも帰って寝て居ろと云うと、厚木街道の橋を渡ってその列車に乗り南方に去って終った。長生氏は仕方無く復た寝て居る事にしたが、次に起きた時にはもう恢復して居た。家族にもう治ったから薬はいいと云うと、家族は先程飲ませた獺肝がもう効いたと云った。長生氏はたと心付き、感冒は恢復するも暫く煩ったと云う。

『鎌倉の街道とその伝承 巻三・周縁地』
       (坂口円、昭和三十五年)
「四章・鎌倉道 四-一 戸塚区の伝承」
 「和泉川の川獺
 
鎌倉道と環状四号線の中間にある和泉川には二三年前まで川獺の姿が見えていたという。厚木街道の和泉橋から南に入った橋本新穂という人の家には川獺の社があり、明治の頃に乱獲された川獺を祀るという。和泉には『相州巷説集』にも見える弥三郎・泉九郎という川獺の話があり、当地における川獺に関しての文化は周辺と異なる物が見受けられる。橋本氏の宅には川獺の標本や絵図草子等多くの川獺関連資料があり、それについてもいつか稿を改めて調査研究したいと思う。(中略)新穂氏が先の戦争の折召集を受け出征する前夜、氏の父橋本臥龍長生翁は雨戸の外から何者かの頻りに自分を呼ぶ声を聞いた。開ければ偏平な頭をして眼の色の妙に怪しい子供がいて、橋本長生の親爺の長男が今度『にゅうぎにあ』へ征くと聞いたから、薬の一つでも渡しておこうと言った。臥龍翁これを川獺の仕業と心得て、心付けは有難いが、お前は川獺であろうと訊けば、川獺の方は如何にも川獺だが、俺が渡すのだと思っちゃいけない、組長の和泉八郎兵衛殿から獺祭の翁への寸志であるという事だと答えた。何の薬かと訊けば、橋本四郎丸を満洲より連れ帰った薬であると言った。橋本四郎丸松代氏は長生氏の叔父に当り、日露戦争出征時旧満州にて重篤な脚気に罹るも、川獺から貰った薬で回復したと吹聴していた人であると長生氏は言う。そういう事ならと長生氏はそれを受取り、家にあった鯵を遣ると川獺は大変喜んで帰ったという。果して新穂氏はニューギニアの雨林中でマラリヤに罹りながら、川獺の薬を食んで生還するに到ったというが、復員の折横浜で中国人と食糧と交換に薬の残りを渡してしまったという。黒く長細い何かの木の根の様な物であったという。(中略)新穂氏の復員の後、先の川獺の言った川獺の組長和泉八郎兵衛が橋本家を訪れることが幾度かあった。その度に酒や魚を勧めてやったということであるが、二三年前のある晩改まった様子で両氏の下を訪れ、この辺りの名のある知り合いも橋本の家だけになってしまったから俺は四国に移ろうと思う、再び会うこともないかも知れないから形見を置いていくと言うと、上衣を脱いでいった。両氏が見送りに行くと、和泉川の右岸に幽霊の様に静かな電車がやって来て、どこから現れたのか、多くの川獺がその電車に乗り込み、最後に八郎兵衛も乗り込んだ。新穂氏がどこまで行くのかと訊くと、境川に出て藤沢まで下りますと答え、扉を閉めてしまうと、電車は下流の方へ走り去ってしまった。御蔵橋の曲がりを抜けて山鼻に見えなくなる際、短く警笛を鳴らしたという。夢とも現ともつかず、再び気付いた時は床に就いていたと言うが、周囲の人々も鉄道の無い和泉に電車の走る音を聞いていたという。以来和泉川に川獺の姿を見なくなったという。和泉八郎兵衛の形見は人の外套程もある一枚物の川獺の毛皮と化しており、橋本家の家宝である。頼んで見せて貰った事があるが継ぎ目の無い確かな一枚物であり、当に神奇の品である。

『<民俗と文藝>誌、一九八九年十月号』
          (村上考古堂書店)
「『読者投稿』」
「先月号の特集『狸と鉄道』楽しく読ませて頂きました。(中略)我が家の近くに流れる和泉川は、今は開発されコンクリートの護岸で固められた用水の如く為っていますが、昔は川獺も多く棲んでいた川で、その伝承も数多く、特に弥三郎・泉九郎という親子がこの辺りの川獺の親分であったと伝わります。今日川獺は四国にもその姿を見ないように為ってしまいましたが、丁度二三ヶ月程前久々に川獺の話を聞きましたのでご報告致します。というのもそれは川獺が電車に化けて出るという話であるのです。昭和五一年に二俣川駅~いずみ野駅間の開通したいずみ野線は平成元年八月現在和泉橋の西側に新駅を建設・延伸する途上ですが、建設途中の高架の上に深夜、八両に近い編成の旅客電車の走るのを見聞きしたという、こればかりならよくある幽霊電車の話が周辺に広まっていますのを、それは川獺の化けた和泉川軌道であると解決する世間話が、付近の中高年以上の間に広まっているのです。と言いますのも、この辺りでは昭和三十年代半ばに川獺の消滅したことが『金元家文書』や『小林家文書』等の資料により遡れるのですが、それにまつわる逸話として、ある晩和泉の川獺は皆和泉川の西岸土手上を走る、川獺の運転する列車に乗って南へ逃げてしまったというものが存在し、またその列車の走るのを見聞きしたと証言する老人も少なからず存在するのです。私の父も八十に近くなって頭の呆けも進んで参りましたが、川獺の列車についてはそれが四扉の四両編成、機関車の無い電車であったなど詳しく語るのであります。『遠野物語』にも狼の絶滅について集団で北方に去って行ったという話がありますが、川獺に付いても同様の、またどこか独特ユーモラスな方式での集団移動の逸話のあることは他所に類を見ないものと思います。今日の幽霊列車の話と昭和の川獺軌道の逸話に直接の連関があるとは思われませんが、これは川獺が戻ってきたのかも知れないと笑う私の父の如く、折に触れ過去の川獺の事を回想する機となり、また別の伝承と関連付けられ新たな伝承の創作誕生の機となるのを見て、和泉の人々に愛され、記憶される川獺には感謝愛情の念が湧くものであります。四国新荘川に最後に目撃されて以来彼等の姿を隠すことももう十年となりましたが、かつて隣にあった獣として、彼等との再びの共存の可能性は無いものか、その為にも人の責務として、かつて人と川獺との関係の現在より濃密であった時代の昔話を発掘・保存・伝承することの必要であると考えます。読者諸兄諸姉の方々にも、現実の川獺の存在の希薄となった現在にこそ、今一度川獺伝承に目を向けて頂きたいと願う次第であります。(神奈川県横浜市・橋本弥彦 昭和二二年生)

『第五回いずみ文学賞・選外作品』
   「かわうそ」
               橋本 燕
 「 1
 大港都横浜の西縁においてその美妙なる輪郭を形成し、大和藤沢両市をその対岸に隔絶するを以て県央・湘南・横浜という県内三地方を分かち定める非常重大な役割を担う偉大なる二級河川境川の名は道志川、帷子川と共に市民にはよく知られた所である。しかしながらその支流に関しては戸塚大船の駅裏に絶大な存在感を誇る柏尾川の外に大した話題を以て語られる物は無く、しかもその実態として青年の志より底が浅く中学生の見識より狭隘な卑々小々たるせせらぎであるとすればその扱いは精々が児童の遊水公園、悪ければ暗渠の憂き目に遭うことは到って残念ながらもまた悲しからずといった所である。
  今我が家の裏手にその流れを湛えるはその名も偉大な和泉川、春の桜に夏の草、秋は鈴虫冬の雪と四季に鋭敏なること老婆の如く、その流れには鯉や鮠など魚も泳ぎ、昭和のかつてはカワウソも住んでいたことは泉区役所の広報にも明らかである。殊にカワウソの伝承は泉小次郎親衡のそれに匹敵し、和泉弥三郎・泉九郎なるかわうその棟梁二代に関する昔話を小学生の頃に泉図書館の読み聞かせで聞いたという人も少なくはなかろう。惜しむらくは泉小次郎に比べ和泉の人々が彼らの遺跡を残さぬ内に、和泉川から彼らの姿の消えてしまった事である。
   
   2
  カワウソの人を化かすという事は少なくとも今日において世の人の認める能わざる事象であろう。しかし和泉の人にとってカワウソはその姿を消した半世紀前まで化かしの業を働かせるものであったらしい。近辺のカワウソが姿を消した昭和三十年代半ば、軌道の無かった時代にもかかわらず和泉川の土手に列車が走り、カワウソはそれに乗って四国に去ってしまったというのは祖父の世代やその少し上の人々の伝えるところである。カワウソなら泳げというのは後世の感想だが、カワウソの運行するカワウソ向けの旅客列車というのも映画版『銀河鉄道の夜』の様である。
  その『川獺鉄道の夜』に際して、私の高祖父が懇意のカワウソから形見に貰ったという毛皮が四代を経て今日の私の下まで伝わっている。大きさは丈が法被と羽織の中間程、袖は筒袖で太く短く仕上がり、カワウソらしく内毛と外毛が密に生え、袖を通したら中々暖かそうである。奇怪なことにこれ程の大きさにもかかわらず何十匹の毛皮を繋ぎ合わせた後がなく、正真正銘の一枚物であるらしい。
  父や祖父から聞いた話によれば、カワウソのいた頃の我が家は周りから『獺祭の老翁』と言われ、明治に乱獲されたカワウソの供養を行っていたという。勿論昔のカワウソは盛んに化けていた頃であり、代々のカワウソの親分と我が家とは懇意にしていたと聞く。件の毛皮は『川獺鉄道の夜』に際し、当時の和泉八郎兵衛という親分から直々に手渡された品だという。真偽の程は検証の程もないが、確かに神奇の一品である。
  カワウソがいなくなれば獺祭の翁も役目を失い、今日において父や祖父から私に伝承される事も無くなってしまったようである。しかし我が家の庭には未だ和泉川の見える所に小さな祠が鎮座しており、父や祖父は毎朝礼拝を欠かさぬ様子である。

   3
  現状私の所属する社会階級を何と表現したものであろうか。統計的には無職の二字に還元されてしまうそれを私の矮小な自尊心は潔しとせず、中等遊民、自由市民など色々の語彙を弄して実態の粉飾を行うことで、勤労に足る社会的才覚も進学に足る教養的才覚も身に着けることなく漫然とただ生きてきた二十年余りへの直面を避けることに全力を消耗している。その為か今や社会的恥辱に対する自尊心の感応は当初の千万分の一も無く、昨日と今日と、恐らく明日の区別も付かずまたそれを善しとする寿命の消費をただ続けるばかりとなってしまった。私の毎日は辛うじて生活に保たれているだろうか。しかし今となってはその熟語から活の字を取り去っても構わないような気さえしている。
  我が家に残る獺祭の老翁達の遺物を漁るのは現在私の行う積極的な活動としては唯一のものである。カワウソの幸せというものを私は分からないが、人に接近し、人に擬せられることでカワウソの本来から逸脱した者たちは愉快には違いなかったであろう。生物としてのカワウソの秋津洲より消滅した後も彼らの集団は川獺軌道に揺られどこか高次の果てに永住しているのだろうと考えると、私は人間を超越して何になれば楽しく暮らせるだろうかと考えてみることがあった。
  堂巡目眩・戸惑面喰の妖術を使うのは年長のカワウソと考えるのが自然である。なぜ年少ではいけないかというならそれは前提条件としてのカワウソの逸脱に足らぬからである。とするなら、妖術を用いるにはまずカワウソを逸脱せねばならず、その最易行が寿命の超越ということは、楽しい暮らしとは結局旧の生活を延長敷衍していった先の老後の楽しみということか。私の自尊心はその回答に直面することを拒絶反応的に回避し、結局は生の果ての悦か、或は自己意識に支えられた神霊の解放かというなんとも締まらない結果に収束した。

   4
  夜の夢を他人に話すというのは即ち心性の恥部を露出する大変破廉恥な行為であることは重々承知している。しかし私の久々に覚えたこの尊大な羞恥心を超克し、精神的破廉恥漢の汚名を甘んじて語るに到った経緯を汲んでどうか暫くお付き合い頂きたい。
  ある朝我が家に封書で手紙が来た。なんでも半世紀前に毛皮を預けたカワウソの八郎兵衛が子孫からで、今度一族の儀式に大川獺の化けの皮が必要だから暫く貸して呉れという用件である。言われた時間に動ける者が外にいないという事で私が行くことになり、いずみ中央の駅で待ち合わせることになった。
  畳紙に包んで風呂敷に包んだ毛皮を持って私はホーム上に待っていた。暫くすると上り線に11000系の各停が止まり、丁度私の前に背の小さいカワウソが降りて私に丁寧に挨拶をしてきた。カワウソが人の顔をしていたかカワウソの顔であったかは定かでないが、その着衣や振舞いは全く人間の物であった。
  彼は形見に置いた品を拝借する非礼を詫び、棟梁の血統が八郎兵衛から変わることとなって、その新しい棟梁の就任の儀で引き継いだ証を示すのに使うのだと説明すると、真に御迷惑後足労をお掛けしまして云々と言って、懐の内から金封を私に差し出してきた。私もいえそんな云々と社交辞令を述べたのちそれを懐に収めると、彼はホームの椅子の上で風呂敷包みの内容を検めたのち、私はすぐに戻らないといけない、あなたも寄り道をせずにまっすぐ帰るといいと私に言った。
  やがて下り線の方にいかにも古めかしい緑色の電車がやってきた。カワウソは再び礼を述べると、乗車してまた向き直り頭を下げた。どこへ向かう列車ですかと尋ねると、境川に抜けて藤沢に出ますと応えた。
 私は乗ってはいけないのかと聞くと、私は南に帰らなくてはいけないが、あなたは北に帰らなければいけないと応えた。やがて扉が閉まり四両編成の電車がカーブの向こうに見えなくなってしまうと、私はどうホームを下り、どう改札を抜けたのか知らないが、和泉橋の上で金封の開封に掛かっていた。しかし中身は金などではなく、何か乾燥した黒い木の根のようなものだったので、落胆した私はそれを川に放り棄て、ざまをみろと思いながらその南に流されてゆくのを眺めていた。すると川に入っていた一人の少年がそれを拾い上げ、川上と、橋上の私の方とをちらと見、そして私の投げ捨てた物をズボンのポケットに入れて川を上がった。私はそこまで見ると、家に帰る為曙橋の方へと下って行った。

著者

反町浦島大夫