「巡りあわせ」山もよう

 
 本当に巡りあわせとは不思議なものだ。
 私が社会人となったのは、オイル・ショックも落ち着いた昭和五十年だった。その頃は初任給が毎年四十パーセントも上がるような時期で、預金金利も高かった。
 大阪本社に四年いて東京に転勤となった。元々埼玉県で生まれ育ち、のんびり屋の私が生き馬の目を抜く大都会東京でサラリーマンとしてやっていけるのか自信もなかった。そんな私だから、大学も東京都心を通らずに通学できる郊外を選んだくらいだし、会社も関西の文化に触れてみるかと大義名分を立てて、大阪本社の企業にしたのだった。実家から通勤できる環境とは裏腹に、心は穏やかではなかった。
 そんな東京勤務になって初めてのボーナスの時だった。隣の大手都銀から女性行員が定期預金の勧誘にオフィス内にやってきていた。独身、遊び盛りの私の、大した額でもないボーナスからは、いかに金利が良いといっても捻出できる余裕はなかった。それでも一生懸命にセールスに回っている彼女と自席で話を聞き、パンフレットやティッシュを貰うと、単純な性格で入ってあげようかという気持ちになる。結局最低金額で一口付き合った。別に何か下心があったわけではない。取り立てて美人ということでもない。薬指に指輪をした同年代の彼女が話しやすかったというだけのことである。冷やかし半分で住まいや趣味を聞いてみると、「三ツ境」から通っているという。聞いたことのない地名だった。東京を挟んで北と南、ずいぶん遠いところのように思われた。どんな所かと尋ねれば、横浜から相鉄に乗っていくのだという。「みつきょう」もどう書くの?と質問したほどであるから「そーてつ」と言われてもなんだか判らない。相模鉄道の略だと教えてもらって、そうか相模の国へと繋がっているのか。それは判ったが、頭の中で神奈川県の地図を思い浮かべても、海沿いの東海道線以外は、山好きの私が行ったことのある丹沢に小田急に乗ったことが思い出されるだけで、全くイメージが湧かない。私にとっては空白地帯であった。
 五年の東京勤務の後、再び大阪勤務となった。会社は一度は営業現場を経験させる主義であった。大阪で四年が過ぎようという時、上司から現場へ転勤との内示を貰った。全国転勤ありと判って入社したので、あるとすれば埼玉から北の方だと思っていた。ところが何と横浜の保土ヶ谷区にある営業所で、最寄り駅は相鉄の「天王町」だという。これには少なからず驚いた。
 赴任直前、ある週刊誌のグラビア写真に保土ヶ谷区上星川の斜行式エレベーターのあるマンションが出ていた。近くかもしれないと思って切り抜いておいた。いろいろ情報をもらうと、営業所は横浜支社の管轄下にあり、支社の所管エリアは鶴見川以南の東横線沿線から相鉄線沿線の広大な人口急増の住宅地で、京浜工業地帯や官公庁のある横浜市街地は含まれてなかった。相鉄線の駅のほとんどに営業所があり、三ツ境にもあった。そうか、彼女は今でもそこに住んでいるのだろうか。八年前のことが思い出された。
 赴任して判ったのは、横浜は結構山坂が多いということだった。天王町もビール坂と言われる急な坂を登ると桜ケ丘で、これは丘どころではないと感じたものだった。下り電車に乗れば徐々に伸びやかな風景が広がる。斜行式のエレベーターとはこういうことだったのだとうなづけた。コンプレックスはないとは言いながら、こうしたエリアで良かった、山好きの自分には向いているなどと思ったりもした。そしてまた本社の管理部門よりも、営業の現場が合っているとも気づかされたのだった。
 実は横浜との縁がなかったわけではなかった。父は俳句を嗜んでいたが、所属の結社は横浜が本拠地で、月に一度の句会には三時間近くかけて通っていたのである。まだ私が幼い頃の晩秋だったろうか、吟行として海上保安庁の船で横浜港を一周するというので連れて行ってもらったことがある。それとは別に外人墓地には家族で行った記憶がある。これも俳句がらみだったのかもしれない。
そんな記憶に残る場所も営業で通るし、市内にも詳しくなっていった。あれほどにコンプレックスがあった横浜が好きになって来たのだった。なかでも営業所のある天王町界隈が気分も落ち着くのだった。
 巡りあわせとは不思議なものだ。
 二年目に入って半年が経った頃のことだった。新たに開拓して得意先となった企業のある女性が気になりだした。先方企業から、なんでそんなに来るのかと訝しがられるくらい顔を出すようになった。ところが翌年移動内示を貰った。会社に知られたかと思ったが、幸い権太坂を越えた戸塚の営業所で、支社も異なっていた。これを機に彼女と連絡を取って会うようになった。
 話してみると育った環境というのだろうか、共通するところが多かった。好きになるとお互いのふるさと訪ねてみたくなるものだ。といっても私のふるさとは埼玉だから、もっぱら彼女の生まれ育った二俣川や、高校などだ。彼女の高校は希望が丘高校だという。初めて希望が丘駅に下りて案内してもらう。坂を上って下りて、これが高校かと思うようなエントランスの樹間を登ると校舎だった。一段下がった広大なグラウンドに目を見張った。さすがに神中と言われるだけの高校だと思った。相鉄も昔は神中鉄道と言ったのよ、彼女はそう教えてくれた。もちろんデートはそんな場所ばかりではなかったが。
 その彼女がカミさんというわけだ。
 あれから三十年近く。駅舎が大きく変わった駅もあれば、町自体が変貌しているところもある。電車もヨコハママリンブルーの新型が颯爽と走っている。娘たちも嫁ぎ、二人だけの生活となっている。でも彼女の両親の墓参りで相鉄に乗れば、車窓からの景色にはあまり変化がないように思う。ふたり並んで乗っている時は、お互い敢えて口には出さないが私にはわかる。あの頃の巡り会いや二人で行ったあちこちの思い出に浸っているに違いいないのだ。

著者

山もよう