「工事中」今田 嶺次

 
 一

 猫が道端の日陰でモモンガみたいに伸びている。大きな腹が膨れるよりも涼しい方を優先させて、今日は中々近寄ってこない。だが目が合うと、久しぶりに見る顔を覚えていたのか、ゆっくりと風格のある煉瓦色の体を起こしてくれた。ジャケットのボタンを右手で開け、左手に持っている一切れの食パンをちぎって丸め、猫に向けて転がした。猫が両手両足を広げていた時には、ミュラー・リヤー錯視を表す銅製のオブジェのようであったが、起き上がるといつも通りの猫であった。陽の光に照らされてオレンジ色になった猫が、白い食パンを食べる姿を眺めながら、裏地のない紺色のジャケットを脱いだ。
 車の通りが少ないこの道で、自分の足元に猫が来てくれると、実家に戻り、家族に会えたような安心感が周囲を丸く覆ってくれる。暗く先の見えない蜃気楼でさえ、親指くらいに丸まって猫が消化してくれる、そんな気分であった。猫に餌やり禁止!!と張り紙が真横で叫ぶ煩さに、鼓膜がチクチクと痛むが、それすらも蜃気楼が奏でる幻聴のようで、パンを丸め続けた。

餌やりが習慣になったのは大学を卒業してからであった。大学卒業までに親交のあった友人達は全員、名高い企業への就職が決まり、自分だけが仕事を決められなかった。しかも自分は入社を志望しないだろうと考えていたような、名前すら聞いたことがない企業でさえも就職活動の末期には何社も落とされた。大学卒業の年に入った日には、不必要だと告げる企業と、必要とされたい自分との摩擦で生じる金属音で、ゴム風船のような自尊心は破裂し、黒い空気が自身の周りを包み込んだ。結局、大学を卒業するまでには一社も受からなかった。就職活動が再度本格化するまでには時間があったため、大学卒業後の生活は家で一人資格と英語の勉強をするだけであった。夜になると、いないはずの周囲の人間が、自分という球体を内側からも黒く塗りつぶすような感覚から逃げ切れずに、眠ることができない日々を過ごしていた。
 そんな卒業後の日々の中で、お昼ご飯を食べようと冷蔵庫を開いてみると、ジーという音があるだけで食べ物が何もないという日があった。そのため、お昼ご飯を買いに行こうと家から二俣川へと向かった。着替えることすら億劫なのでパジャマの上からモッズコートを着て、人の少ない道をぼんやりと歩いていた。何を食べようかも考えず、錆びついたガードレールの匂いと共に灰色のアスファルトの上をただ歩いた。そうすると道の端の方で目つきの悪い茶色の猫がどてっと自分を見つめ、濁った空気を纏っていることに気がついた。自分も猫も同じ目をしていたのだろう、スーパーでお昼ご飯と食パンを買った帰りに自分は猫に食パンを与えた。暗闇の中では猫でさえも近寄ってくれさえすれば、自分の全てをそうだよねと肯定してくれているような気がした。猫の方でも近づく人に暗闇から引っ張ってもらえる気がしたのかもしれない。煉瓦色をしている猫と群青色のスニーカーとの間の道では陽の光が細かく反射し、白くスポットライトが当てられているように錯覚させた。ライトに照らされて、つんとした風の中には見えない花びらが流れていた。それから季節が動き始めたこの日まで、不安を感じた時には猫に餌やりをしている。

 三

 数秒前までモモンガであった猫の食事を眺めながら、今までに何回餌をあげたのかなと考える。考えると最初に餌をあげた日と変わらぬ自分の姿が浮かび、視界が奪われていく気がした。大きな球体の中で歩いていると、その場の景色はくるくると変わり、不安が褪せていくような気がする。だけれども、また同じ色彩に包まれて、何も変わってはいないことに気がつくだけであった。しかし今日は同時に、外へと久しぶりに出かける自分には初夏の空気が注がれていく気がしていた。猫との会話は球体に強い回転をも生み出し、回し過ぎた滑車から鼠が飛び出るように、ここ最近は殻をもう少しで破れるかもしれないという感覚にも触れることができた。だが一方で、回転だけでは何かが足りないことにも気がついていた。
 滑車の回転スピードが増してきた先週、大学の授業で知り合った吉村さんから日曜日に会いませんかと誘いを受けた。人と会うことで何かが変わるかもしれないと思えたが、就職できなかったという後ろめたさを脱ぎ去ることが難しかった。それは、雨に濡れて重くなった服を着て人に会うようなものであった。見られたくない、相手にも迷惑だろう。今の自分には最低限の支柱しかなく今日が来るまでに何度も流れそうになったが、猫に丸めた言い訳を消化してもらい何とか吉村さんと会う今日まで滑車を走った。
 少しの汗も乾いたところで、両手で細かい食パンを払い、ジャケットに袖を通し、ボタンを閉め、左腕の時計に目をやった。すると予想以上に時針が進んでいて、これはまずいとすぐに二俣川へと走りだす。マラソンランナーを応援するように猫が並走し、走る姿を眺めている。スピードを上げ、転がるように走り、息が切れ始めた頃には、駅が見えてきた。踏切がカンカンと鳴らされ、ゴールまで近い距離であることを告げる。駐輪場を通り過ぎる右手には、銀色の相鉄車両がいずみ野線を走っている。駅に続く階段を登りきり、二俣川駅に着いた。そして、約束の場所である改札内のコンビニで立ち止まり、息を整える。しかし、あたりを見回しても、誰も待っている人はいない。腕時計を見てみると、時針が十一時十分の方向に、参りましたと両手を挙げている。
 「帰っちゃったのかな。」
 と独り言を呟きながらポケットの携帯電話を手に持ち画面を見てみると、暗くて見づらい。しかし、目を凝らして画面を見ると、
 「出かける準備が終わらないので、待ち合わせを十二時にしてもらえません?」
 と吉村さんからの連絡が入っていた。すぐに画面を明るくし、
 「了解です。」
 と連絡を流した。ゆっくりと改札を出ながら、少し時間があるなと、二俣川の銀座商店街フォルテへと向かった。

 四

 商店街の入り口付近に到着し、古本屋を見つけた。店の外から日焼けした本の名前を眺めてみると”仕事をしない生活”という橙色の本が目に入った。自分のような生活を目指す人もいるのかと思いながら、古本屋の店長から本を購入し店から出た。キャンバス生地のトートバッグに買った本を入れ、軽くなった足取りで商店街を散策する。するとお腹が空いてきたからか、焼肉屋や、沖縄料理屋など、営業時間外にも関わらず様々な料理屋が目に入る。最近は家の中で大半を過ごす生活であったが、外に出る日を増やしてもいいのかもしれないと思えるほどに街は豊かな彩りを見せてくれる。見慣れた景色の中に強弱記号見つけ、それを五線の下に添えただけで、回転するオルゴールの曲調が強くなったことを感じた。
実家の両親や友人に、失敗など気にせずに明るくなりなさいと言われても、ますます暗く俯くだけであった。自分自身の問題を誰かに解こうとされても正解にたどり着くことは困難である。他の人は自分とは違う角度から自分を見てくれる。だけれども、それは一方向に伸びていく灯台の視線に照らされるだけで自分の全てを光らせることはできない。誰も自分を理解してくれないからといって自分だけで霧を晴らそうとしたところで、サングラスをして自分を見るのと同じように結局は全ての色を溶かされてしまう。今までは誰かと話しても一人で熟考しても、きっかけを添えられずにいた。しかし、ありふれた街並みに自分の内側が触れた際に、転調する勇気が湧いてきた。そうか、他人任せ、自分一人で霧を晴らすのではなく、街にあるもの、人、一つ一つを自分と結びつけて自分を見つめれば見たことのない自分が光る。それは一見すると錯視のようだが、見る角度が違うだけで全てが自分なのだろう。周囲に触れながら一人で進むことが必要なのかもしれない。そのような、くるくると回る発電機によって生じた考えが球体の壁を叩き、温度を上げる音を感じた。

 五

 商店街を一周すると、お昼までに何かを少し食べたくなりコンビニに入った。桃とミルクのソフトクリームを購入し、カップをテーブルに持って行き店内で食べた。二色の雪山の横に古本屋で買った橙色の本を置き、空の青さを見つめていた。いつもは友人と共に座るため一人だと何だか気まずくて、誰も見ていないのに外の視線とソフトクリームの冷たさで暖まっていた身体が少しずつ冷やされた。そんな時、店の外にあるアメリカンな古着屋が目に付き、何が売っているのかをじっと眺めてみる。こういう服を着こなせたら吉村さんは今後も何度か会ってくれるかもしれない、そんなことを考えていると、何だか少し桃の風味が強く感じられた。すると中村が古着屋から出て来た。中村は赤いチェックのシャツに、色褪せたジーンズと白いスニーカーを履いていた。中村はチェックの洋服を多用するので、すぐに古着屋から出てきた人が中村だと分かった。高校時代よりも顔が薄くなっている気がするが本物の中村だろう。気がつくか、気がつかなくてもいいが、気がついて欲しいな。そんな風にしっかりと中村の顔を見ていると、中村も視線に気がついて、驚きながら店内に入ってきた。
 「大学の時は一度も会っていないのに、こんなところで偶然会えるなんてな。丸は一人で何をしているの?」
 「友達との待ち合わせ時間が伸びてね、中村は何をしているの?」
 「免許の更新が終わって、商店街を見ていたんだよ。今から帰るところ。じゃ、少し話すか。」
 自然と中村も桃とミルクのソフトクリームを買って、二人でテーブルに座り話すことになった。中村とは高校のサッカー部で一緒になり仲が良かったが、高校を卒業してからは遠くにいるわけでもないが今まで一度も会わなかった。中村との会話では仕事や大学の話をしないようにして、高校時代の話を中心に話をした。
 「やっぱり海老名のラーメン処にあるラーメン屋を丸と全店制覇したのは今でもいい思い出だな。」
 「たしかに。海老名だったらラーメン処以外のラーメン屋にも沢山行ったよね。」
 「名前は似ているのに、俺には似合わないような、あっさりしたラーメン屋とかも行ったな。また行きたいな。」
 「毎日部活をやっていて色が黒かったから、中村はあっさりとはしていなかったね。また行こうか。」
 部活をしていた頃の話になると、毎日部活をしていたなんて自分じゃないように感じたが、こうして話していると確かに努力を重ねた自分の姿に触れることができた。
 中村は嬉しそうに、映画についても話を広げてきた。
 「そういえば、海老名は二つの映画館があって、空いている方に行っていたよな。」
 「二人で映画を見ることになって事前にチケットを別々に買った後、集合してチケットを確認したら二人のチケットが違う映画館のチケットで焦ったこともあったよね。」
 「そんなこともあったな。初めて一人で映画を見たの、あの日が初めてだった。」
 「でも、映画の後には二人で遠くの蕎麦屋に行けたからいいでしょ。」
 「遠くの蕎麦屋か。海老名駅から、かしわ台駅方向に歩くと見つかる蕎麦屋だな。確かに美味しかった。案外、一人映画も楽しかったけどな。」
 「そういえば海老名、他にも色々と出来たらしいね。」
 「そうなんだよ。でも、工事している時には何度も横を通ったけど、実際に入ったことはないな。一緒に今度行こうか。」
 「そうしようか。」
 自分も中村と同じで、工事中の時は気に留めずに建物の横を通り過ぎるだけであった。でも今は同じ場所なのに、その場所のために出かけようとしている。工事中の時は素晴らしい場所でも中々注目はされないが、気にしないながらも完成するまで待たれていたのかと思い、ガラスの外に浮かぶ空に目を向けて自分自身を見つめた。
 「そろそろ待ち合わせの時間だから行くね。また連絡するよ。」
 「それじゃ、またな。」
 溶けきったソフトクリームが入ったカップをゴミ箱にすっと入れ、駅へと向かった。

 六

 改札内のコンビニ前には、すでに吉村さんがいた。吉村さんは茶色でやや高いヒールの革靴に、水色のスカートを合わせ、白い襟つきのシャツの上から白い花柄のレースブラウスを着ている。待ち合わせ時間を変更したことを謝られ、二人でホームへと降り、横浜に向かう相鉄車両の前方に乗ろうと電車を待った。
 前方車両は少しでも早く横浜駅に着きたい人が乗るからか、周囲の人は全くの他人にも関わらず妙な高揚感と緊張感によって協力の雰囲気が走る。紺色の電車が到着し、ドアが開くと乗客が流れ出し、最後に降りる人が片足をドアから出した瞬間に、乗客が電車に乗り込む。自分と吉村さんの二人もやや遅れながらではあったが、うまく乗り込めた。吉村さんがつり革を両手で掴みながら、今日はどこに行こうかと相談してきた。
 「そういえば私、紺色のポロシャツが欲しいんだけど、一緒に見てもらってもいい?」
 「それなら、百貨店を何店舗か見てみようか。」
 「ありがとう。最初に見た服が気に入ったら戻ったりしてくれる?」
 「お店は歩ける距離にあるから、全く問題ないよ。」
 「そういえば私、横浜駅から歩いてすぐの鯛焼き、あれも一回くらい食べたいな。今まで中々食べる勇気がなくて。」
 「じゃ鯛焼きを買ってから、横浜を一周しようか。」
 「ありがとう。そうしましょう。まだ何も見てないのに楽しい気がする。丸くんを誘って良かった。」 
 そのような会話は心地よかった。しかし自分は、手に刺さった棘が中々取れないように、自分が本当に聞ききたいことを聞けずにいた。
 吉村さんとの会話を続けていると、つり革がこちらを向いていることに気がついた。猫の顔の形をしたオレンジ色のつり革が、食パンを欲しそうにしてこちらを見つめている。棘を気にしながら一日を過ごすよりは、棘を取れるならすぐに取るべきだなと思い、つり革から左手を離した。上げていたことで冷え切った手には鼓動が響きだしている。吉村さんも何かを感じたのか、右手をつり革から離し、自分の方へと体を向けた。
 「吉村さんはどう思っている?就職できなかったこと、どんな風に思っている?」
 「丸くんが就職できなかったこと?工事中だなとしか思わないよ。」
 「どういうこと?」
 「深い意味はないけど、どんな建物でも完成するためには工事中の期間があるでしょう。だから、丸くんが就職できなかった今も、就職した後には、不可欠で大切な工事期間だったって思えるだろうなって。」
 「そういうものか。」
 そんな会話をしている間に、電車は鶴ヶ峰、西谷、上星川、和田町の駅を止まらずにスピードを上げて通り過ぎる。車内では駅を過ぎる度に、さらさらと空気が入れ替わっていく。
 「そういえば私、上星川に降りたことないかも。降りたら面白いかな。」
 「行ったことないんだね。美味しい珈琲屋さんがあるから、一緒に今度行こうよ。」
 「そうしましょうか。」
 「どうして上星川に降りたことないの?」
 「近くにないからかな。行きたいとは思っていたんだけどね。丸くんも降りたことない駅あるでしょ?」
 「たしかに、西横浜は降りたことないかもしれない。友達が住んでいるから、今度行ってみようかな。」
 そこで、ふと気がついた。自分や吉村さんが普段は使わない駅でも毎日その駅を利用し、必要としている人がいる。また一方で、自分が毎日利用する二俣川の駅でも降りたことがない人もいるだろう。人によって家からの近さや利用したい場所によって降りるべき駅が異なるだけなのだ。自分の存在もそうであったのではないだろうか。就職活動で採用されなかった理由は自分と企業が合っていないため、その企業にとっては降りる駅ではなかっただけかもしれない。そのように、ぼんやりと考えながらも、はっきりとガラスに反射した自分の姿を見つめていた。つり革の猫に目を戻すと、そうだよと肯定してくれている気がした。
 「吉村さん、上星川に行った後は西横浜にも一緒に行かない?」
 「いいかもしれない。それじゃ、一日一駅に降りて、何日かをかけて全駅を散策してみない?」
 「面白そうだね。そうしよう。」
 「相鉄線が渋谷に繋がったら、散策しなきゃいけない駅が増えるね。その方が楽しみは増えて嬉しいけど。」
 その会話が終わる頃には、帷子川が見え始め、そろそろ横浜駅に着く頃であった。その時には丸みを帯びていた両手は、きりと伸びていた。吉村さんと横浜で過ごす自分はどんな自分なのだろう。新たに吉村さんと降りた駅では、どんな自分が見られるのだろう。様々な角度から光を当てられ暖められた球体は、工事が終われば空を目指せるのかもしれない。

著者

今田 嶺次