「希望が丘の人」中尾正樹

 4月、毎日通勤で乗り降りしている横浜郊外の希望が丘駅前商店街に数日前から張り出されている告知ポスターが次朗には気になっていた。『チョイ飲みラリー』という3件の飲食店をはしご酒できる商店街のイベントがあるらしい。20年近くこの駅に毎日通いながらこの街に住むという意識はあまりなかったし、まして飲み会はいつも横浜駅界隈で地元の飲食店などほとんど知らない。
 「そろそろ地元に足をむけてもいいかな」、結婚して20年、共働きの妻は女子会やらダイエットでジム通い、一人娘も大学に入学して好きにやっている、今年50歳を迎えた次朗はちょっと思っていた。 次朗は地方公務員になって28年、4月に職場異動して保土ケ谷区の星川にある区役所の区民相談係長になった。消費者相談から行政相談や市民のクレーム対応が係長のもっぱらの仕事である。
 『チョイ飲みラリー』の当日は幸いクレーマーなく仕事が予定通り片付き定時で職場を出た。希望が丘の駅前ではテントが張られ、いつもは静かな商店街に呼び込みの声が出ている。若い女性からチラシを受け取って「どうしようかな」と少し考えた。このまま帰って最近始めたランニングをやってもいいかなとも迷った。チラシをみると焼き鳥や居酒屋だけでなくイタリアンやフレンチ、ブラジルパブ、なども紹介されている。
 『へーこんなにいろんな店があるんだ』いつも降りるだけの街に妙に感心した。その流れでチケットを買い、気になった小さなリヨン風フランス家庭料理という店に足を向けてみることにした。商店街の路地奥にある、本当に小さなフレンチは横浜の姉妹都市リヨンの郷土料理の店というふれこみだ。ドアを開けるとカウンターは一杯、「今日は合い席でお願いしていまーす」という店の男性の差配で奥のテーブル席に案内された。
 見ると4人掛けのテーブル席にはすでにアラフォー風の女性が座っていた。次朗は「すみません合い席で」と声をかけた。彼女は次朗に気がつき顔を見ると「あれ?」とつぶやいた。次朗も彼女を改めて見て「あれ?」と思わず声を出した。「たしか福祉課の方ですよね」「ええどうも、友達が遅れてきますけど大丈夫ですよ」同じ区役所の隣の課にいる女性であった。異動したばかりの次朗は席を離れトイレに行く時くらいしか顔会わせしないし、名前もまだ知らない。小顔だけど大きな目で背筋がいつもピンとしてヒールで歩く姿のバランスがいいなという印象はあった。
 「係長さん、クレーマーにいつもつかまってますよね」と痛いところを見られていた。「まー仕事ですから」次朗は受け流した。
「ラリーチケットで料理1品とワインが出ます 料理は牛シチューかエスカルゴが選べます」店のスタッフが声をかけた。「それじゃエスカルゴと白ワインで」今日は仕込み済みのようで、ほどなくワインと料理が運ばれた次朗がグラスを手にすると「私も」と彼女がグラスをあげた。「山崎紀子です。クレーマー係長はいつも胸の名札見てるんですが、なんてお読みするのかしら」次朗の名字は白州という。「しろすではなく、しらすです」「そう読めばいいのね、釜揚げね」「はー? 名前は次朗です。ちなみにこの時期は生しらすがいけますよ」「ふふっごめんなさい、私人の名前覚えないから、とりあえずクレーマー係長にしちゃいますよ」すでにワインがほとんど空いている紀子の舌はなめらかだった
 紀子のスマホの着信がなった。「あれー奈々子の乗った電車がお客様対応中で止まっているって何かしら」「急病人ですかね、お友達まだだめですか」「ええ、いつも遅刻気味の人なんだけどね」またラインの着信がなった。「対応が長引き今日はいけそうにない ゴメン、だって、どういうことかしら?しょうがないなあ、あと2軒回んなきゃいけないしー」急に彼女は次朗を大きな目で見上げクレーマーの顔になっていた。「クレーマー係長どこか行きたい店決まっています?もしなければ私のチョイスで回ってみません?」「特に決めてはいないけど、その前に僕はクレーマーじゃなくて被害にあっている方だよ」と次朗はつぶやいたが、流れ的には既に巻き込まれていた。
 2軒目は絶対女性一人じゃ入れないからと ブラジリアンパブの黒いガラスドアを開けてみた。リオのカーニバル見たいな羽をつけた半裸のおねえさんが出迎えるのかと思ったら、以外にムーディーな雰囲気、大画面テレビではサッカーの試合が流されている。ブラジルのポピュラーなアルコールのカイピリーニャとこれも名物のカリッと焼いたチキンが出てきた。店には昔ブラジルの移民船の航海士だったという年配の客がいて昔話で盛り上がっていた。
 3軒目はラリーの仕掛け人が経営する焼き鳥屋に入った。ここは地元でも焼き鳥とメンチカツが有名で持ち帰りもあるので次朗も知っていた。紀子は時々来るらしく慣れた様子でカウンター席に収まった。地元保土ケ谷のジャガイモでつくった名物のホドジャガ焼酎と焼き鳥を頼んだがすぐにカラになった。
 「山崎さんはお酒結構強そうだね」「あらそうでもないけれど弱くはないかな」「山崎さんの家は近いの」「高校のそば、でも今は近いけどそのうち引っ越すから、旦那の家を出て、それから名字ももうじき変えるから山崎っておぼえなくていいわよ、紀子で」「職場でいきなり紀子って呼べないでしょ」次朗は苦笑いした。
 結局その店で焼酎のボトルも空けて腰を落ち着けてしまい家に帰ったのは11時を回っていた。次朗は何を話したわけではないが、紀子の次々繰り出すトークに合いの手を打っていただけのような気がした。クレーマー対応で終わったようなチョイ飲みであったが、彼女と目が合った時、少しドキドキしたのを感じながら眠りについた。 
 翌日昼休み、トイレの前で紀子とはち合わせた。「昨日はどうも」と切り出す前に「ちょっと奈々子の話聞いてびっくりよ」と慌ただしく声がかかった。「今お客さん来るから 夕方向かいのマリオットで話しする、びっくりよー」と余韻を残して小走りで席へ戻って行った。そう言われると次朗は続きが当然聞きたくて、仕事が終わるとマリオットに向かった、星川では評判のケーキ店である、次朗の隠れた一押しは4種のベリータルトである。あまり冷やしていない黒ビールと一緒に味わうのが好みのスタイルでもあった。店の奥が小さなカフェになっていてタルトをオーダーし席に座った。ほどなくチャリーンとドアベルが鳴りベージュ色の少し胸の空いたトップスに黒のパンツ姿の紀子が足早に入ってきた。
「実は昨日のお客様対応って友達の奈々子のことだったのよ」座るまもなく、紀子はしゃべりだした。ことの顛末はこうだった。奈々子は野毛山にある図書館の司書で紀子とは同年代だが独身、いつも優雅な雰囲気でピンク系のワンピースを着ている事が多いとか。そういう日は痴漢に合う確率が高いらしい。
 昨日もやや短めのスカートで横浜駅から急行に乗車すると隣の30位のメガネをかけグレーのニットキャップをかぶった男性の様子がおかしい。混雑していると体が触れるのは仕方ないとして明らかに距離が近く、偶然そうにスカートの脇に手を下し奈々子の太ももを触り始めたという、体をずらしてもまた繰り返す、そのうちスカートの中に堅い物が、なんとスマホを差し込んできたという。ここまできて奈々子はびっくりして、男の手をつかみ「やめてください盗撮は痴漢です!」と声をあげた。痴漢男はその声にあわてて振りほどこうとしたら、別の30代位の男性が反応して「何この男か」と後ろから抑え込み、その勢いで混んだ車内の他の乗客が転倒したりして大騒動になったらしい。
 通報で電車は途中駅で緊急停車。奈々子と痴漢男そして証人として正義感の男は駅の事務所で事情聴取となった。奈々子が「スカートにこうして」と状況を説明しだすと、正義感男は「女性の敵」「社会人として人間として失格」と痴漢男を大罵倒し男は真っ青になり気を失いそうにしょげていたようである。
 「それでこのつづきがあるのよ」紀子はこの騒動に明らかに前のめりだ。痴漢男は申し訳ないと手がふれてしまったことは素直に認めたけれど、写真は撮影していなかったため、男の住所氏名を確認して警察に通報した所、犯歴はないということで昨日はとりあえず終了したようだ。
 「それで警察からは男を説諭し反省する旨の調書をとったけれど事件として告訴するかどうか紀子に確認したいって連絡が来たんだって」「なるほどね、痴漢は犯罪行為だけど事件とするには被害の実害も軽微だしね」「何言ってるのよ女性の人権が踏みにじられているのよ」「いやいやごめん、今はストーカーや痴漢には警察も敏感だからね」「それでストーカー係長」「違うよ昨日はクレーマー係長だったよ」「あっそうねクレーマーさんあなた法学部出身って昨日言っていたでしょ」「一応ね」「こういうケースどうしたらいいか相談にのってくれる?」紀子はいきなり次朗に無茶ぶりする。
 「今無料の弁護士法律相談があるから行ってみたら」「それは薬局に薬飲まなくていいか相談にいくようなものよ、今の弁護士は仕事探しているんだから事件にするか示談で被害者からも高額な報酬を取るのよ、チョイ飲みの縁で作戦会議に入ってもらえません?」
 5月、結局次朗はこの痴漢騒動作戦会議にからまるはめとなった。ところがその作戦会議は一向に日程調整もなく、紀子とは時々廊下ですれ違うがあいさつ程度だった。次朗は積極的に関わる気はなかったが気にはなっていた。3週間ほど過ぎた金曜日夕方、月に2回区民活動センターで行っている出張相談会が終わる頃、ふいに紀子が現れた。今日も黒系のパンツとハイヒールだ。
 「それがどうも風向きが変なのよ」主語なしに唐突に次朗にささやいた。「変って?」「クレーマーさんに頼んでいて申し訳ないんだけれど、あれから彼女どうも証人だった正義感男に相談しているみたいなのよ」「正義感男?」「今年35で紀子より10歳年下だけど司法試験の勉強中でもちろん法律詳しいらしいの、どうも彼女彼のこと気に行っちゃったみたいなのよ」
 アラフォー独身の図書館司書奈々子は旅行好きでかつほれやすいたちで、ダイビングやスキーにいけばインストラクターとカフェに入れば若いマスターと、この前は京都で寺の修行中のお坊さんにほれて一騒動やらかしたとか。一方冷めやすいのも併せ持っていて未だに独身のわけとなっている。
 「彼女にとって恋は旅の本みたいなのよね、旅の最中はのめりこむけど、読み終わったら本を閉じて切り替えちゃう。そうやって自分を守ってきたのよね」紀子は振り返るように語る。「よくわからないけれど、何を守ってるのかね、自分に自信がないか、人を振り回しても気にならないかどっちかだね」次朗はまだ会ってもいない奈々子に自分も振り回されかけていることに少しいらついた。
 「ごめんね クレーマーさん 私から勝手に頼んでおいて」「いいや気にしなくていいよ紀子さん」次朗は名前で呼んでみた。
「ところで私の方から情報提供があるの」と紀子がチラシを出した。大きな篝火の写真の真ん中に大和薪能と書かれている。「大和にいる私の母は茶道の教室をやっているの、今年は大和市の文化協会で薪能の世話人なのよ一度観てみません?」
 薪能は野外で行う能狂言だ、鎌倉の大塔宮が有名だったが近年では横浜の称名寺、掃部山などに広がり大和でも最近始まった幽玄なイベントだった。「梅雨時で天候不順なのでお客さんが満員にならないの、奈々子にも声かけているけど協力していただけるとうれしいわ、チケットは大和市民の私が確保していますから」「大和市民?」「そう、とりあえず夫の家から大和の実家に戻りました、母も高齢ですので」
 7月、紀子から誘われた薪能の日となった
 大和駅の改札を出るとすぐ脇に観光案内所がある、大きな『大和薪能」のポスターが貼られていた、その前に和服姿の女性が2人立っていた。黒っぽい格子柄の着物は紀子だった。    
 「クレーマーさん、日本の伝統芸能に合わせて和装にしました、こちらは和田奈々子さん」「はじめまして」黄色の格子柄の着物を着ている女性が笑顔を向けた。二人の着物は黄八丈で揃えているようだった。「クレーマーの相手役の白州次朗です、いや二人とも素敵だよ、お似合いです、着物の事はよくわからないけど、時間かかって大変でしょ」と次朗はどきまぎするあまりつまらない発言をしていた。「本物の黄八丈は帯だけだから、他は文化協会の和装部門からの借り物でーす」紀子は種明かししたが、アースカラーの地色と大きな格子柄の着物はアラフォー女性の落ち着きと二人のあでやかな雰囲気に良く合っていた。
 会場の泉の森は相模原台地が落ち込むくぼ地の湧水を利用した公園で大和市の水源にもなっている。緑道から広場に入ると普段は大きな池のある場所に水上舞台がおかれていて、まさに水上に篝火が映し出される幻想的な舞台がしつらえてあった。演目はまず小舞という踊りがあり狂言をはさみ能の本編となる。演者はテレビ・映画にもよく出る旬の人、野ノ村北斎であった。
 道すがら奈々子と紀子は最近入ったランチの店、芝居の話、旅行、急に生命保険の話やらころころネタの代わるアラフォー女子トークを続けていた。次朗は女性から誘われる事などあまりないので、少し居心地の悪さも感じていた。案内された席に座ると、そんな気配も感じたか紀子は「クレーマーさんビールも飲めるから楽しんでね」と声をかけ買いに出かけた。
「今日は有名な演者がでますね 能は時々観るんですか」次朗が場つなぎで奈々子に話しかけた。「職場が横浜能楽堂に近いので時々足運びますよ。でも薪能は雰囲気が違うわね、それからチョイ飲みの時はご迷惑かけました  
「いや僕は何も迷惑していませんよ和田さん」「そういえばそうね、紀子女史とデートできたしね」「いや僕はそんなつもりじゃ」次朗は下心がないと反応する自分が不自然なのを感じた。「お待たせ最新オリジナルビールよ」紀子が大和の隣町、瀬谷特産の小麦ビールとつまみをもってきた。
 薪能の演目は「船弁慶」だった。船の上で平家一門の亡霊(あやかし)にさいなまれる義経弁慶の主従、義経役の野ノ村北斎が平知盛と相対して闇と火の中で切り結び、弁慶はひたすら読経し『あやかし』を退散させる、水上の舞台の上で漆黒の闇に舞う装束、篝火に照らされる面、水と周囲の森に響いて伝わる謡と鼓、聴衆をくぎ付けにするには十分なスペクタクルであった。3人でその余韻に浸るべく、帰り道のファミレスで食事にした。ひとしきり感動やら感想で盛り上がったころ合いに紀子が話題を変えた。「奈々子、今日消費者相談の係長に来てもらっているんだから話聞いてもらいなさいよ痴漢騒動の話」「紀子、もうそれはいいって言ったじゃない」「よくないわよ」2人はもめだした。「それじゃ私が言うわよ」紀子が話し始めた。「実はその後の話だけど、正義感男に奈々子が警察の話を相談したそうなの、そうしたら正義感男は{この事案だと起訴は難しい、また被害者も事情聴取に何度も時間をさかれ仕事も休まないといけない。本人に反省文を書かせて示談するのが一番被害者にとっても負担が少ない}ということで彼に交渉をまかせたんですって。そうしたら反省文とお詫び料5万円でけりをつけてくれたんですって」。紀子は続けた。「それからが問題なのよ、その中からお礼として2万円を差し上げようとしたら彼は受け取らなかったらしいの、奈々子がどうしてもと言ったら、『実はアルバイトしていた学習塾がつぶれて給料が遅延になっている。謝礼は受け取れないけれど、夏の司法試験のセミナー参加費の50万円を一時的に貸してもらえないか』って話があり貸したそうなの。その上その上よ、最近になって小さなスーパーを経営している群馬の実家のサラダからO157が出て客が激減し倒産しそうとかで回転資金500万が必要だからと借金の申し出があったっていうの。おかしくない?」紀子が状況を赤裸々に説明した。
 「だって急な風評被害で困っているのだから彼の実家、利子もいらないし利用されてもいいのよ、いつか戻ってくればいいのよ」奈々子は言う。「だから戻ってこないわよ、利用されているのでなくて、だまされているのだから」紀子は再度言い放った。「どういうこと?紀子」「家族を助けてなんて、今時子供にも通用しない言いわけでしょ、そう思うでしょクレーマー係長」「状況からいうとそう考えた方がいいかもしれないですね」次朗は求められままあいづちした。実際、消費者相談で一番多いのは、この手の身の上話から虎の子のへそくりが帰ってこないっていうパターンであった。帰ってきたのが御礼の手紙と羽毛布団と領収書、結局法外な値段で買わされただけだったりする。次朗はそんな実例も少し紹介した。
 「お二人の話はよくわかりました、でもこういう話も世の中にはあるんです。偶然に出会ったあの人はとても真摯な人ですしまだ若いのに紳士です。司法試験の合格という夢を私は応援したいんです。」と奈々子は話をきり「ああっいけない本屋さん閉まるわ明日の打ち合わせに使う資料買わなくては、お二人ごゆっくり」奈々子はそそくさと店を出た。「逃げたな、応援とかいってお茶を濁したな」紀子が次朗に顔を向けた。「うーんその前に、この騒動はもしかしたらやらせかもね」次朗はずっと思っていたことを口にした「やらせって?」「最初から痴漢男と正義感男はコンビじゃないか?」「えーっ!」紀子は絶句した。
 8月、1日夜は毎年横浜の花火大会、夕方星川駅のホームにまだ一編成しかないネイビーブルーの相鉄線の最新車輌がすべりこんできた。次朗はこのシックな色合いでスタイリッシュな雰囲気が好きでラッキーと一人でつぶやいていた。車内には浴衣姿の女性が目立った。次朗は天王町駅からほど近いビジネスパークにあるレストランに薪能の御礼にと言って紀子に声をかけていた。隠れ家レストランというネットのふれこみで予約をした。内装がチャコールカラーで茶系のロールスクリーンに仕切られたボックス席の店内はモダンジャズが流れていた。ほどなく紀子もやってきた、ネイビーブルーのの少しミニのスタイリッシュなワンピースで決めていた。次朗が思わず「一緒だ」とつぶやいてしまうと「相鉄の電車でしょ」と紀子笑いながら驚異的直感力を表した。
 クラフトビールで乾杯してから「ちょっと内緒で調べてみたんだけれど」と次朗は紙を紀子に見せた。「痴漢・詐欺、のキーワードで過去の消費者相談を検索したらこんなのがあったよ」それは女性が車内で痴漢にあい助けてくれた男性からお金を貸してくれと頼まれ困っているという内容だった。「それでどうなったの」「相談があったという記録なのでその後はわからないけれど、助けてくれた男性は30代で公認会計士をめざしていたという話」次朗は紙を読み上げた。「司法試験じゃないのね、5万が50万そして5百万に化けて出ていったわけか」紀子がつぶやく。「えっ?もう貸しちゃったの?」「今日奈々子メールがあったわよ、私はあの人を信じるってね、とにかく奈々子には言っておいたわ借用証くらいはとりなさいよって」紀子は来る前に奈々子に問いただした様子を伝えた。
 「あっそうなのか出しちゃったか、まあ彼女が決めたことだからね、これ以上彼女が貸さないようこれからも話を聞いてあげたら」次朗は奈々子の実家が資産家だというので今後を心配した。
 しかし次朗としては今日の本題はこれからだった。やや緊張しながらも切り出した。「ところで、紀子さん8月生まれで今日が誕生日だよね、帰ったら開けてください、ささやかながらお祝いです。」次朗はバックからラッピングしたワインを出した。「あれえどうして知っているの、やだけど四捨五入で50よ私、でも・・ありがと」次朗は薪能の夜、女子トークの中で花火大会と誕生日の話が出ていたのを聞いていた。「これ信州の個人ワイナリーが育てたナイヤガラでつくった限定物です。甘口でないから料理に合いますよ」ワインは塩尻に住む学生時代の友人のお勧めで送ってもらっていた。
 「なんか、急に私たち、リア充な感じじゃない?」紀子が次朗にわからない用語を使った。「えっどういう意味?」「まあなんというか、私たち二人が仲のいい・・・」「アベックみたいに見えるとか」次朗の表現に紀子は吹き出した。「古いなあ・・せめてカップルって言ってよ、私だって無理してリア充とか言ってるんだから」紀子は口では辛口だが、頬を赤らめていた。次朗も彼女の眼と唇が甘口になっているのを見てうれしくなった。
 店を出ると蒸し暑さの残る風が吹いていた。向かいの高層のビジネスパークの建物の間からいきなり大きなスターマイン花火が飛び出し二人の顔を照らした。「まだ花火やっていたんだあ、みなとみらいの花火も意外に近いのねえ」紀子が空を見上げた。「この特大スターマインが今夜のトリかなあ」次朗はこの後のことを少し考えた。
 「私ね、あの時びっくりしたの」天王町駅まで歩きながら紀子がつぶやいた。「あの時ってチョイ飲みで鉢合わせした時? 僕も同じ区役所の人だったから驚いたよ」「それだけじゃなくて・・・少し説明長くなるかな」紀子は花火の出ていない空を見上げた。「ちょっと座って話そうか」次朗はビジネスパークの水の広場にベンチがあるのを思い出した。ビジネスビルの空間なのに円形の人工池の周りをレンガの回廊が囲む水の広場は教会や寺院のような静寂さがある。回廊にしつらえられたベンチに二人は腰掛けた。
 「昔ねえ、若い頃よ、旦那と結婚する前によく遊んでくれていた人がいるの、10歳年上でその人アート系が好きで美術館めぐりやコンサートに連れて行ってくれたの。今考えてみると恋人づきあいみたいだけれど、そんなアプローチもなくて一緒に出かけていただけだった。
 そうしたらある日、4月の異動で隣の課に来たばかりの旦那がいきなりデートに誘ってきてプロポーズしてきたの、いきなりよ、不思議なもので不意打ちを食らった感じで、次のデートでは自宅に送ってきて両親にあいさつされちゃってことわりきれなくなったのよ」と今の紀子には想像もつかない話だ。「結婚はいずれするものと思い込んでいたのよね、あこがれもあったかも、両親も旦那の真面目な態度と安定した仕事とかを知ってこれで良しとしちゃったのよ。
 それからしばらくして、私年上のアートさんに「結婚する」ってある喫茶店で打ち明けたの。「それで?」「目をパチクリしていたわアートさん、その時を思い出したのよ、あの時クレーマーさんの顔を見て」紀子が次朗に顔を向けた。「顔が似ていたのかな」「それよりも雰囲気かな?似ていたのは」「それでそのアートさんはどうしたの」「結婚してからすぐ子供ができたのでしばらく合う時間もなかったんだけれど、少し子供の手が離れてから前と変わらない感じで連絡してきて時々二人で出かけたわ。まったく変わらない感じで二人で美術展や話題のアーティストのコンサートにお出かけしたわ。
 実は旦那は外面いいんだけれど、ゴルフ以外は無趣味で家の中では結構な関白男なの、些細なことで殴られ怪我したこともあった。その時は旦那に行き先も言わずに二人で信州の上田までいった、学徒出陣して亡くなった画学生の遺作を集めた美術館だった。生きてもっと絵を描きたいって言う声が聞こえた。美術館を出ると夕方になっていてこのまま泊まってもいいと私は思っていた。だけれど、アートさんは帰りの電車の時間を書いた紙を見せて、『これで帰れるよ』と言ったの」紀子は話した。「旦那さんはどうしたの」「自分が悪いから何も言わないそのうち、デパートでスイーツを買って下手に出てくるの、それで和解、その繰り返しね。あきれるわね」
 「そのアートさんは今どうしているの」次朗は続きを聞いてみたくなった。「ずーっと独身だったわ5年前まではね、死んじゃった5年前に、すい臓ガンで。亡くなる前は夜12時頃に私の携帯に着信があるの、ワンギリで生きているって連絡の、痛くてしゃべれなかったかもしれない。メールしてもあまり返事もしてくれないのに亡くなる数日前になって段ボールを私あてに送ってきたのよ」紀子は水の広場の水面に目をやりながら語った。
 その中にはアートさんと紀子が出かけた先で撮った写真、コンサートや美術館のチケット、紀子が伝言に書いたメモやハガキなどが入っていた。『荷物整理をしていましたが、これは自分では捨てられません。遺品整理の人の目にふれないよう紀子が処分してください』と書いてあったという。
 10月、秋になった土曜日の朝、次朗は自宅から二俣川の大池然公園の林間コースを走っていた。48ヘクタールを越える里山を生かした公園の中央には大池があり周りの木々はいつの間にか紅葉を始めていた。春に始めたランニングはようやく20キロを走りきれるようになった。運良く当選した横浜マラソンのある来春には完走するのが目標だ。
 2キロのコースを2周したところで、モノトーンのウエアとスポーツグラスに赤ピンクのキャップとシューズが目立つ女子ランナーが近づいてきた。女子力高めの雰囲気は紀子だった。
 「おはようクレーマーさん」「おはようやっぱり君だったか、一応お知らせはしたけれど来てくれるとは思わなかったよ」次朗は素直に喜んだ。「だって私中学まで陸上部って言ったじゃない。出勤の朝に駅くらいしか最近走らないけれど準備すれば出来るのよ。」
 二人は池の周りのフラットコースを並んでゆっくり二周しながら話をした。「ねえ、また驚いちゃた」「今度はどうしたの」「奈々子が貸したお金戻ってきたんだって」予想外の流れに次朗は正直疑った。奈々子の話によると群馬の実家のスーパーがサラダの代わりに地元名物の豚肉を使ってとんかつバーガーを売り出したら大ヒット、製造機械の金額と運転資金を銀行が融資してくれて一挙に負債が精算されたそうだ。「世間にはこんなにうまくいく話もあるのね、私は世間では言うこと聞かないきつい女に見えるらしいけど」紀子のつぶやきに次朗は思わず頷いていた。
 「頷かないでよ、家の中では大人しいのよ私。共働きで時間がないから家の中はしっかりやらないといけないと思うし、夫を立てるのが家庭だと親からは教育されてきたし。でもそれ私には無理だったのね。あの頃は今思うとアートさんがいたから頑張れたんだと思う。だから、彼がいなくなってからは家の中のことは自分にきつかった、旦那のことだけじゃないあの家で暮らす事全体が、あの夜クレーマーさんに会った時、私やっとアートさんがいなくなった事を認められたのかも知れない。だから私、ずっときつかった理由が呑み込めたの、それであの家を出ることにしたの、もう自分の選んだペースで暮らしていこうと」
 いつのまにかランニングは速歩きくらいのゆっくりしたペースになっていた。
 アップダウンの激しい外周の入り口で次朗はスピードを少し上げた。「僕は、チョイ飲みの夜、今の自分に必要な場を探していたんだと思う。家や職場が不満とかではないけれど自分だけの第三の場を。青春時代の自分に戻れるような少し胸がキュンとなる場かな。でもそれは場所じゃなかった、人との出会いだなって思った。時々会ってだべり合って食べたり飲んだり、話題スポットを訪ねたり、時にはときめく大人の青春時代ってどうなのかな」
 そう言うと次朗は少しスピードを上げた。上り坂だったが後ろから紀子は離れず追ってきた、森の中の登りをぬけ前が開けると急な下り坂に入った。道は砂利道になり次朗の靴が蹴った小石が後ろを走る紀子に当った。「ごめん」次朗が言うと互いの息が上がっているのがわかった。紀子が急に宣言をした。「私、クレーマーさんの呼び方変えることにする。アートさんから一字もらってハートさん。私のハートさんにします。私の心の心拍数をわかってくれる人だから」と次朗の目を覗いた。「それじゃハートドキドキの大人の青春時代もあってもいいのかな?」と次朗は茶化した風に紀子を見るとスポーツグラスの中の大きな目が笑った。全身からは急に大きな汗が吹き出していた。でもとても気持ち良い風も吹いているのに次朗は気がついた。

著者

中尾正樹