「帰る夕暮」奴川際 【相鉄賞受賞作品】

「いやあ、楽しみだね絵美ちゃん」
 そう言いながら桃子はあたりをきょろきょろと見渡した。大きなキャリーバッグを持った彼女は、明らかに通行人の邪魔になっている。ほぼ駆け足で過ぎ去っていくスーツ姿の人々のうち、一人がこちらに露骨に舌打ちをしたので、私は慌てて桃子の服の裾を引っ張った。
「桃子ちゃん、邪魔になってるからあそこの太い柱のとこに移動しよう」
「やっぱり横浜駅は凄いねえ、人がいっぱいだ! みんな忙しそう」
 自分が舌打ちされているのに気づいているのかいないのか、桃子はやたらと晴れやかな笑顔を浮かべていた。それに、私の皮肉も全く気に留めていないらしい。痺れを切らした私が彼女のキャリーバッグを掴み歩きだすと、「ちょっと待ってってば!」と叫びながら後ろをついてくる気配がする。どうも大きい荷物だし、どうせならホームまで運んでやろうと思いつつ、私は彼女の気配と一定の距離を保って進んだ。

 横浜駅。最近は使っていないとはいえ、この世に生を受けてから大学入学を機に他県に行くまでのおよそ二十年間、日常的に利用していた駅だ。だから当然迷わずホームに行けるはず、と思ったのだが、いつも使っていた通路が封鎖されていた。これでは桃子が私に追いついてしまう。別に追いついたっていいのはそうなのだけれど、これでは私が間抜けみたいだ。
「もう、絵美ちゃん歩くの速いってば」
 案の定桃子の気配は近づいてきて、『工事中につき迂回して下さい』という張り紙の前で立ち止まっている私の横に並ぼうとした。
「横には並ばないで、ただでさえキャリーバッグが大きいんだから」
「別にここには人いないって。絵美ちゃん意地になってるでしょ」
 図星だ。桃子を振り切ろうにもここは行き止まり。情けなくなって私が黙り込んでいると、桃子は行き止まりに貼ってある張り紙に気づいた。
「あれ、工事中だって。ここからはソーテツ、乗れないの?」
「乗れなくなったみたいね……」
 勝手知ったるといった体で突き進んでいた私は馬鹿だ。大馬鹿だ。そういえばこの駅は私が小学生の時分から、延々と工事を続けているのを忘れていた。
「おー、日本のサグラダファミリア! 二年前までここに住んでいたガールすら迷子になるとは、洗礼だね」
 そんな軽口を叩きながら、桃子はキャリーバッグから私の手を丁寧にはがした。「あ」と私が気の抜けた声を発すると、彼女は可笑しそうに、しかしこちらの目をみてきっぱりと言った。
「荷物持っててくれてありがとう。歩き慣れてないから助かったよ」
 もうここから先は自分で持つよ、という意思表示であるらしい。一人で意地になっている自分が酷く矮小で、そんなことは分かってはいるが少々虚しくなった。
「……どういたしまして。まあこの案内の通り迂回すればいいはず、一緒に行きましょうか」
「うん、了解。じゃ、しゅっぱーつ」
 桃子はそう言って、私を先導して歩き始めた。

「ところでさあ桃子ちゃん」
 その後はすんなりと辿り着いた相鉄線のホームで電車を待つ私は、桃子に話しかけた。
「私の故郷なんて訪ねてどうするの」
「んー」
 私の質問に答える気がないのか、桃子はそれだけいってぐぐっと腕を上に伸ばした。何時間もの間夜行バスの狭い座席で縮こまっていたのだ。体もそろそろ限界なのだろう。私だって家に帰ってさっさと寝たい。
「絵美ちゃん、向こう側に快速ってやつが来たよ。あれに乗っちゃ駄目?」
「私の家の最寄り、各駅電車しか停まらないから。それより、人の話を聞いてってば」
 気の短い私の声には、すでに苛立ちが混じり始めていた。しかし桃子はそれを意に介さず、のんびりとした様子で続ける。
「だって夏休みの課題があるじゃない。『わたしたちのまち』のモデル授業、早いとこ終わらせたかったんだもの」
 いや、実際のところ、桃子は私に色々と気を使っているのかも知れなかった。彼女ののんびりとした喋り方は、事を急きがちな私を落ち着けてくれることもあったから。
「『わたしたちのまち』ね」
 私は桃子の言葉を復唱した。講義で発表になってから今まで、頭で何度も反芻した言葉。実際に唱えてみても、胸には乾いた砂のようなものが溜まっていくだけだ。
「絵美ちゃん、この課題が発表になってからずっとそんな顔だよね。渋い顔して渋い声。よくある授業でしょう、小学生が自分のまちについて調べ学習するなんてさ。面白いと思うけど?」
 つまり私たちは教育学部の学生で、小学校における課外活動のモデル作りをしている最中なのだった。自分の出身地でもなんでもいいから、ある町を舞台にした課外活動を組み立てる。そしてその課外活動を、自分が小学生になったつもりで実行してくるよう言われていた。
 クラスのみんなは大抵里帰りの時に調べ物すると言っていたし、私もそのつもりだった。問題は今となりにいる桃子である。なぜかこの女の子は、私のふるさとで課題をやる気らしい。
 私は腕時計をちらりと見た。電車が来るまでにはあと少しだけ時間がある。少しは桃子の質問に答えるべきなのかもしれない。
「いや、あのさ。私たちが小学生の頃からこの手の授業ってあったじゃん」
「出た、『じゃん』。横浜出身ぶっちゃってえ」
「話の腰を折らないでよ。『じゃん』なんて皆も使ってるじゃん」
 口に出した後で気づいたが後の祭りだ。桃子はふ、と吹き出して私の顔を指差した。正直な所、もはや方言でもなんでもない語尾だと思うのだが、流石にこれは酷い。
「そんなに執拗に使うのは絵美ちゃんくらいのもんだよ、ホント面白いわあ」
 桃子は高く、しかし人を全く不快にさせない軽やかな声で笑った。私も自分の顔が熱くなってきているのが分かる。私がひとしきり赤面したあと、ひとしきり笑い終えた桃子は続けた。
「……んで、なんの話だっけ」
「私たちが小学生の頃からこういう授業あったよねって。そこまでいって、桃子ちゃんが私の話の腰を折った」
 多少調子は落ちていたが、相変わらずからかいのニュアンスが含まれた桃子の声に、私はすこし憮然としながらそう返答した。
「いやいや今のはわたし悪くないよ、絵美ちゃんが面白すぎるのが悪いよ。ごめんごめん怒んないで。続きをどうぞ」
 別にこんな風にもったいぶってする話でもなかったのだが、こうなってしまったからには仕方ない。絶対に『じゃん』を語尾につけないでやると決意しながら、私は先程の話を再開した。
「つまりこの手の授業に意味ってあるのかなって話。自分の地元について調べて、と言った所で、もう日本中どこもかしこも同じ風景しか広がってないように思うんだよね。特産物とかあるところは別なんだろうけど」
 私は自分の故郷を思い浮かべながら言った。すると桃子は少しむくれた顔をした。
「えー、絵美ちゃんがそれを言う? 大都会ヨコハマ星人が」
 演習クラス初回の時の自己紹介で『横浜から来ました』と言ってから、桃子はずっと私を『ヨコハマ星人』呼ばわりしてきた。曰く、自分とは相容れない人種であるそうだ。
「いや前から言ってるでしょ、別にそんなに都会じゃないんだって、私の実家」
「嘘吐き。横浜にはランドマークタワーがあるもん」
「だから別にランドマークに住んでる訳じゃないし。いやほんと、私の住んでいたあたりはそんなに面白いまちでもないの」
 それに、そもそもランドマークタワーに居住フロアはない。あの中にあるのは基本的にオフィスとホテルだ。そう言い返そうとした所で、ようやく電車がやって来た。
「真っ青でかっこいい! 横浜はやっぱりなんでも青だね!」
 まだ塗りたてなのだろう、汚れの殆どついていないつややかな藍色の車体を背景に、桃子は私の方を振り返った。
 おや、相鉄の電車は青だっただろうか? 確か前は違ったような気がする。でも桃子は楽しそうだし、横浜っぽくていいのかもしれない。何にしても、変化は良いことだ。横浜っぽい、っていうのがいまいちよく分からないけれど、それでうきうき出来る人がいるのならば十分だ。私は桃子に向かって頷いて、電車の中に足を踏み入れた。

「絵美ちゃんの最寄りってなんだっけ、ナントカ町?」
 車窓の外の景色に釘付けになりながら、桃子は私に話しかけた。
「そんなに面白いものもないと思うけどね、外の景色」
「いや、面白いよ。それよりもだから、ナニ町だっけ?」
「天王町。荷物くらいホテルに置いとけばよかったでしょ、もう夕方なのになんでこっちまでついてくるの」
 私の故郷で課題をやるのは分かった。納得が出来ないような気もするが、もう諦めた。でも別に今日じゃなくても良いだろう。彼女は観光も兼ねて、横浜に一泊すると言っていたのだから。
「中華街とか行きたいなら、明日連れてくよ。こっち側は観光するもの、全然ないよ」
「うーん、中華街も行きたいけどね」
 返事になっていない返事をしながら、やはり桃子の視線は窓に張り付いているのだった。
「そんなに見てても、面白いものないと思う」
 私が再びつぶやくと、桃子もまたぼそりと返すのだった。
「自分のふるさとなんでしょう、酷いなあ」

 横浜駅から天王町駅までは本当に一瞬だ。だから窓に張り付いていた桃子が『もう着いたの?』と目を丸くするのも当然だった。高校の通学で使っていた時には、音楽を一曲聞き終わる前に到着してしまってちょっと残念な気持ちになったこともあるくらいだ。
「横浜駅からこんなに近いなんて、やっぱり絵美ちゃんはヨコハマ星人でしょ」
 そんな訳のわからないことを言いながら、桃子は天王町駅の改札を抜けた。
「スマホ、新しいのにしたんだ」
 スマホを改札の読取機にかざしていたのを見て、私がそんなことを言うと、桃子は「そうそう」と軽く返事をした。そして出たところの柱のあたりに立ち止まり、きょろきょろとしている。とはいえこの辺りにはマンションくらいしかないし、桃子を満たすような何かがあるとも思えなかったけれど。
「それで、どこに行くの? この辺、ローカルな神社くらいしか見るもの無いよ」
 やはり、私の実家近くをモデルに『わたしたちのまち』をやるのは無謀だったのではないだろうか。
「ローカルな神社、いいね。行ってみたい」
「なら歩いて五分もかからないかな」
 そう言って桃子を先導しようとした私の背中に、桃子が「待って」と声を投げかけた。どうしたのだと振り返ると、彼女はキャリーバッグとは別に持ってきていた肩かけかばんをごそごそといじっている。
「もうそろそろ夕方だってのに、暑すぎでしょ。そこの自販機で飲み物買いたい」
「今日は三十五度まで上がるらしいからね」
 そんな話をしている間も、桃子はかばんをいじり続けていた。当初はいつもどおりの、無邪気な子どものような笑顔がくっついていたはずの顔が、少しずつ怪訝そうなものになっていく。
「あれ」
 その様子から、桃子が次に何を言うかは予想がついた。そしてその通りに桃子は、眉を下げて悲痛な声を上げるのだった。
「財布落としたっぽい……」
 そう言いながらも、桃子はかばんを探り続けていた。そんなに大きいかばんでもないし、どんなに頑張った所で目的のものが見つかることはないだろう。
「ホテルのお金は」
「それはだいじょうぶ、もうお金は払ってあるし」
 ついに捜索を諦めた桃子は、額に手をあてながらううんと小さく唸った。
「財布、何入ってたの」
「ほぼ現金だけ。クレカとかは入ってなかった。スマホとかは服に入ってるから無事」
 不幸中の幸いかな、と桃子は弱った顔をしながら言った。それでも口の端が少し上がっているあたり、彼女はもともとどんな時でも、笑っているような顔をしている人間なのかもしれない。
「それなら三千円くらい貸しとくよ。横浜駅のホテルに行く交通費と夕飯代、とりあえずそんなもんでいいでしょ。明日銀行で自分のお金おろしなよ」
「助かる。あーあまじか、駅の中で落としたのかな」
 桃子がそう嘆いたところで、私のデニムのポケットに無造作に突っ込まれていたスマホの着信音が鳴った。桃子に「ちょっとごめん」と断りを入れて、耳にスマホを押し当てる。すると即座に、あまりにも明朗な声が私の耳元で流れ出した。私は顔をしかめながら、電話の向こうの彼女に返事をした。
「……うん、今天王町に着いたところだよ。いやちょっと待って、今友達と一緒にいるから無理無理。は? いや何言ってんの」
 私は桃子をちらりと見やった。そもそも私が誰と話しているのかも知らない彼女は、きょとんとした顔でこちらを観察している。財布をなくしてしまったという引け目からか、普段よりはかなり控えめな様子だった。いつもならもっと、不躾に見てくるような女の子だ。
「うん、分かった。でも本人に聞いてみてからね。分かったって、もう小学生じゃないんだから。もう切るよ」
 私はこちらから通話を切ると、スマホをポケットにしまい直した。今電話していたのは誰か、と問われる前に、私はすぐに桃子に言う。
「お母さんから」
「そっか。絵美ちゃんにとっては帰省だもんね。にしても絵美ちゃん、やたらと顔が渋くない?」
 どうも桃子は、困っている私の顔を「渋い」と表現するのが好きらしい。前も言われたことがあるような気がする。要は険しい顔に見えているのだと思うが、どちらかというと今の顔はおっかなびっくり、これからどうしようと思案している顔のつもりだった。
「いや、実は困っていて」
「それ困ってる顔なんだ。お母さんと仲が悪いとか?」
 やはり困っている顔には見えないらしい。もう少し自然な表情を作れるようになれたらと思いながら、私は桃子に返答した。
「いや、悪くないと思うよ。久しぶりに話したけど。そうじゃなくて、友達をうちの夕飯に誘ったら? って言われたんだよね」
 どう思う、という意味をもたせた視線を、私は桃子に投げかけた。大学生にもなって、他人の家の親のご飯に誘われるというのはどうなのだろうか。まさか私も友達を実家に連れていくつもりなんてなかったから、適当に天王町駅周辺の飲食店で夕食を済ませようと思っていたところだったのである。
 しかしそんな心配は無用だった。
「本当? 今一文無しなわけだしありがたいな」
 桃子がそう、心底嬉しそうな顔で言うものだから、なんだかこちらまで嬉しくなるような錯覚を起こした。素直に喜べる人間は、それだけで十分周囲の人間を喜ばせることが出来るらしい。
「でも、タダ飯は申し訳ないな。何か手伝えることはある?」
「ああ。それなら買い物を手伝えばいいと思う。荷物持ちして」
 先程の母からの電話はそれについての連絡だったのだ。母は電話口で、もう横浜に着いているなら夕飯の買い物してくれないかと言っていた。そもそももてなし好きの母のことだ、客人に手伝いなど求めていないのだけれど。
「とりあえず私の家に、荷物を置きに行こう。私もリュックが重たくなってきたし」
「うん、ところでさ。どこに買い物に行くの? あっちの方に見えるスーパー?」
 桃子は右腕を上げて私の背後を指差した。実際、このあたりに住んでいた時はよく使っているスーパーマーケットだった。しかし、今日はそこに行くつもりではなかった。
「それでもいいけど、商店街かなあ。久々に行ってみたいしね」
「商店街?」
 桃子は私の言葉を鸚鵡返しした。そして桃子はまるで喋る犬でも見ているかのような、驚愕の表情でこちらを見ている。大きく黒い目が幾度も瞬いた。何度も目を瞑れば、そのうちに私の言葉が取り消されるとでも言うように。
「うん、商店街。……桃子ちゃん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 桃子は私からするりと視線を外した。思えばここまで露骨に彼女から目を逸らされたのは初めてだった。桃子はいつも、まっすぐ私の方を見ている女の子だったから。

「ピンク」
 松原商店街に来るなり桃子がそんなことを言うので、私は首を傾げた。高校生のころの記憶と違わない姿の門には、『やすさ』『来やすさ』とある。小学生のころは独特のフォントで書かれた『さ』がどうしても読めなくて、『やすれ』『来やすれ』と思い込んでいたのだっけ。
「ピンクが何。好きな色?」
「違う。変」
 いや、だからなんで突然。そんな言葉が口をつきそうになったが、桃子の視線の先を辿っていくと合点がいった。どうも、商店街中に張り巡らされた旗のことを言っているらしい。
「変かな、子供の頃から見てたからよく分からないや」
 そういえばテレビなんかで見かける商店街には、こんなものは張り巡らされていなかったような気もした。十八年もこの商店街のそばに住んでいたから、そんなことは考えたことがなかったけれど。
「少なくともわたしは知らないよこんなの」
 桃子はうきうきとした足取りで門をくぐり抜けていった。何かに吸い寄せられるように突き進んでしまうものだから、私は慌ててそのあとをついて行った。
「桃子ちゃん」
 桃子は周囲を見渡しながら、しかししっかりとした足取りで商店街を進んでいった。そして少し進んだ所の分かれ道で、桃子は足を止めた。
「桃子ちゃん?」
 桃子は私の声を聞いて我に返ったようだった。ちょうど道の突き当りのところで、私の方を振り返る。その瞳に少し涙が浮かんでいるようにも見えて、私は少し慌ててしまった。
「絵美ちゃん、商店街に人がたくさんいるよ」
 しかしそう言って笑っている彼女は、泣いているようには見えないのだった。私の思い過ごしだったのか、傾き始めた日がそう見せかけただけだったのか。とにかく桃子はいつも通り、屈託のない笑顔を浮かべているのみだった。
「そりゃあ、商店街だからいるよ」
「今の時代、商店街に人がいるのは普通じゃないんだよ」
 そう言う彼女はやはりいつもどおりの表情だった。でももしかして、普段は奥底にしまわれている彼女の内側の何かを、この景色が引きずり出してしまったのかもしれない。そんなことを考えながら、私は彼女の眼前に広がっているであろう景色をもう一度じっくりと見た。

 野菜の入った袋を手押し車に積んだおばあちゃんや、子供連れのお母さんたち。子どものうちの一人は、抹茶味のソフトクリームを実に満足げに食べていた。きっと、あそこの店のソフトクリームだ。子どもにはちょっと苦いんじゃないかと思うくらいに抹茶の味が濃くて、でもそれが子どもにとっては『おとな』な感じがして嬉しいのだ。
「商店街に人がいるよ」
 桃子は私に、言い聞かせるように言った。それでもまだ彼女の言葉の意味が汲み取りきれなくて、私はなんとも返せずにいた。そうやって二人、無言で佇んでいると、「あれ、絵美ちゃんじゃない」という声がした。
 少々甲高い、しかし力強さをもったその声のした方を向くと、なんだか見たことがあるおじさんがこちらに手を振っているのだった。
「知り合い?」
 桃子がそう聞いてきたので、私はおじさんに手を振りながら答えた。
「いや、お祭りとかでお世話になってたおじさん。この辺のお祭り、都会の割に派手なんだよ。町ごとにお神輿を担いだりするの」
 なんだか自慢するような口調になってしまって、言ったそばからなんだか恥ずかしくなってしまった。桃子の方をみると、してやったりというふうな表情を浮かべている。
「なーんだ絵美ちゃん、クールぶっときながら、自分のまちのことが大好きんだね。商店街におすすめの店はあるの?」
「抹茶の」
 そこまで言いかけて、また桃子に乗せられているのに気がついた。そうして黙ってしまった私を指差して、桃子は心底愉快そうに笑った。

 横浜駅への交通の便が良いからか、天王町駅周辺にはたくさんのマンションが並んでいる。私の実家も多分に漏れずそのうちの一部屋だった。買い物を済ませた私たちは商店街にほど近い中層マンションに入り、階段で五階まで上がっている最中だ。
「あ」
 五階まで上がり切る直前の踊り場で、桃子は足を止めた。並んで歩いていた私が同様に足を止めると、桃子はゆっくりとマンションの外の景色を指差した。
「あれ、ランドマークタワーか。違和感なくて気が付かなかった」
「ああ、そうだね」
「ほんと不思議なまちだなあ」
 桃子はぐぐっと伸びをしながら、しみじみとした様子で言った。
「不思議?」
「変、でもいいけど」
 どこが変だと言うのだろう。少しむっとしたのが顔に出ていたのか、桃子は「悪い意味じゃないよ」とフォローを入れてから続けた。
「あんな都会! って感じの駅からめっちゃ近いのにさ、古き良き、って感じの商店街があって。今でもお祭りしてるんだよ、なんて言うもんだからあれれ? と思って遠くを見てみるとでっかいビルが見えるんだよ。不思議なまち。すごく変なまち」
「そんなもんかな」
 ずっと住んできた私には、よく分からないけれど。
「でも、すごくすてきなまち!」
 桃子は弾かれたビー玉のように跳ね上がって、残りの階段を駆け上がっていった。私も慌ててその姿を追う。結局桃子があれだけ商店街に拘る理由はわからなかった。もしかしたら夕飯を食べながら話してくれるかもしれないし、一生話してくれないのかもしれない。
 とにかく、彼女はとても大切なことを思い起こさせてくれた。そうだ、なんだかんだ言って、私はこのまちが大好きだったのだ。

著者

奴川際