「帰還(前進)」阿木アキ

 上司が後ろからさりげなく、しかし確実に私の作業を見ているのが分かる。緊張で文字を打つ手が震える。
「……あのさ。」
「は、はい!何でしょうか?」
 話し掛けられる心の準備をしていたはずなのに、思わず声が裏返ってしまう。
「悪いんだけど、昨日も一昨日も同じこと注意してるから、そろそろ覚えてほしい。注意されたこと、メモとってる?」
「はい!付箋に書いて、ここに貼ってあります!」
「書くだけじゃ意味ないから、ちゃんと読み返して。この付箋もう一回読んで、ここよく見てみて、間違えてるところはちゃんと直して。」
「す、すみません!すぐに直します!ご指摘ありがとうございます!」
 ああ、またやってしまった。ついつい自分のできなさ加減に落ち込みそうになるが、今は勤務中なのでそんなことをしている場合ではない。癖で猫背になってしまう背筋を無理やり伸ばして、注意された箇所を訂正する作業を始める。

 *

 結局、残業記録をつけずに自分の尻拭いの作業をした。自分のミスなのだから仕方がない。とはいえ、疲れる。目につくところに注意されたことを書いた付箋を張り、何度も読み返して気にするようにしているのに、どうして同じことを繰り返してしまうのだろう。馬鹿にも程がある。今回もまた上司が私の間違いに気付いて指摘してくださったからよかったものの、気付いてもらえなければ私の不注意で他の人の仕事を増やしてしまったり、会社の信用を失ったり、周りに大きな迷惑を掛けてしまう可能性があったわけで。社会人一年目だとはいえ、そんなことは許されない。
 私は、今年度から社会人になった。そして、これからの人生は、社会人として過ごしていかなければならない。それなのにこんなにもポンコツで、先行きが不安になる。同期は会社の力になり始めているというのに、私は未だにこんなくだらないことで注意を受けている。もう入社して半年経つのだから、私もそろそろ会社の力にならなければ。私は馬鹿でのろまで要領も悪いのだから、誰よりも努力しないと。こんな私なんかでも働くことができる場所があることはとても有難いし、嬉しい。でも、何でうちの会社は私なんかを採用したのだろう。そりゃあまあ面接は人並みに上手くこなせたとは思うけれど。その程度で入社できてしまうなんて、社会ってやつは怖い。社会人としてやっていくのって、仕事をするのって、とても大変だし、とても辛い。でも、お金がなくちゃ生きていけない。だから働くしかない。これから何年、何十年とこうして生きていくのだとしたら、私は生きていける自信がない……。
 帰りの電車でごとごとと揺られながらそんなことを考えてしまう。どうしようもなく不安な気持ちになり、胸が苦しくなる。それを緩和するために、周りの乗客にばれないように小さく小さく深呼吸を繰り返す。深く吸って、深く吐いて、深く吸って、深く吐いて……。
 そうしてどうにか心を落ち着かせようとしている間に、乗り換え駅に着いていたようで、気付いて慌てて電車から降りた。そして、前に見える人の波を追うようにして乗り換えのホームまで歩いていく。
 ホームに着いたが、まだ電車は来ていなかった。いつものところでいつもと同じように電車を待つことにする。ふう、と溜め息をついて俯くと、線路が目に入る。そのままぼんやりと線路を見つめ続けていると、ごおお、という音がして、電車が来た。ゆっくりと顔を上げて見てみると、それは紺色のまだ新しい電車だった。確か、相鉄の新デザインの電車。何度か見掛けてはいたけれど、実際に乗るのは初めてだ。乗ってきた人達が降りてくるのを待ってから、不安感による具合の悪さが少し残ったまま、ゆらりとその電車に乗り込む。グレーの座席や内装がとても軽やかでおしゃれで、なんだか落ち着かない気持ちになった。でも、座席に腰を下ろしてみるとなんだかとても心地がよく、ほっとした気持ちになった。
 そこでふと先週の金曜日に取引先の男性に何気なく言われた言葉を思い出した。
「君は真面目でいい子だねえ。君がここに来る前に来てた子も君みたいに真面目ないい子だったんだよ。でもねえ、真面目でいい子すぎて辛くなって辞めちゃったみたい。あのねえ、肩の力を少し抜いても、案外大丈夫なもんなんだよ。君は君らしく君なりに一生懸命頑張ればいいんだからね。」
 あたたかな言葉と同時に彼の柔らかな表情も思い出し、胸がじんわりと満たされる。
 電車の窓から外を見る。横浜だというのに、山が多くて海のイメージが湧かない、田舎っぽい風景。この風景を見ると、やっと地元に帰ってきた感じがする。
 電車を降り、改札を抜けて駅から出ると、ふわりとキンモクセイのいい香りがした。もうそんな時期になっていたのか。全く気付いていなかった。キンモクセイを見上げると、空に浮かぶ大きな三日月が目に入った。ああ、とても綺麗だ。
 とりあえず、明日も私なりに一生懸命頑張れたならいい。どうしても上手くできないことは、上司に相談してみよう。それでも上手くできなかったら、友達に愚痴を聞いてもらおう。今日はもう帰ってお母さんのつくってくれたおいしいごはんを食べて、早めに眠ろう。
 軽くなった体を自転車に乗せ、少しひんやりとした夜風を受けながら帰る。
 ただいま。大好きな町。

著者

阿木アキ