「帰郷」円山未唯

 ぼくは、久しぶりにこの街に帰ってきた。とはいっても、妻と子の三人で名古屋に転勤しているだけなので、横浜はそう遠くはない。名古屋駅から新横浜駅までは新幹線で一時間半もすれば着くし、実家のマンションも横浜駅から相鉄線に乗れば二十分で着く。今年の正月も家族で帰って来たばかりだった。父の見舞いもかねて。
 父はここ数年患っていて、病気は徐々に進行していた。ぼくは転勤族なので数年ごとに職場が変わり、やがて家族ができた。そして子供が生まれたのと父の病気の発覚はほぼ同時で、ぼくはなるべく横浜に帰ってきて孫の顔を見せるようにしていた。
 横浜線で新横浜駅から横浜駅まで移動した。横浜駅も長らく工事をしていたが、ようやく落ち着いたが、しばらくの間はたまに帰ってくるぼくにとっては、毎回どこかが変わっている駅構内に戸惑いを感じたこともあった。
 名古屋を含めていくつかの地方都市に住んできたぼくにとって、やっぱり横浜駅に来ると帰って来たという感じがする。それは東京本社勤務時代からだ。
 単に実家に近いから、というより、やはり横浜という街が持っている独特の雰囲気というか、カラーのせいだと思う。学生の頃はそれほど感じなかったのだが、東京は、日本中・世界中の人やモノや情報が集まる都会、そのせいでどこか何かが薄まっていしまっているような雰囲気もある街、という捉え方をするならば、横浜は、人もモノも情報もそれなりにいろいろなところから集まっているのだが、ある種独特な空気をすでにまとっていて、もうやっぱり東京とは違う街なのだなと、実感するようになった。なんというか、他の地方都市と同じような、空気の濃さ、人の逞しさを感じるのだ。土地で育った人間としては、あまりうまく言えないが、例えばよく言われる、新しいものを受け入れる気風とか。着るものの傾向とか。やっぱり独特だし、そこに安心を感じてしまう。
 そんな“帰って来たぞ感”も、今回の虚ろな心を抱えた帰郷では、それほど感じないまま、帰巣本能の赴くままに相鉄線の改札を通り抜け、各駅停車に乗り込む。
 一度ご家族を呼んでって、お医者様が。
 自宅で過ごすことを選択し、介護を続けてきた母から連絡があったのは、昨日だった。平日だったので仕事を片付け、妻と子供を置いてとりあえず先に帰ってきた。
 母からは今のところ連絡はない。便りのないのは、よい便り、か…とふわっと考えながら、乗り込んだ電車のドアの横にもたれかかった。
 外はもう暗くなり始めている。電車の外の見慣れた風景を目でなぞっているのだが、いつものような街の営みや暮らす人々への思いなどは思いが至らず、ただ無味乾燥に景色が流れてくだけだ。電車はあっという間に平沼橋駅を過ぎていく。
 ぼくはふと、車内に目を移した。そして、ハッと息をのんだ。
 少し離れたところに、一人の少女が立っていた。十代後半くらいだろうか。ショートカットのその横顔に見覚えがあった。
 ぼくが二十年前に学生だった頃、まさにこの車両で出会った少女だ。そのときも彼女は、何か道具を持っていた。金属製の棒の先に、網のようなものがついている、野球のバットより少し長いようなもの。ラクロスで使う、クロスという道具だ。
 二十年前の半ば忘れかけていた記憶が、一気によみがえってきた。
*    *    *
 その日、ぼくはバイト帰りだった。
 乗りなれた相鉄線では、決まった車両の決まったドアから乗ってしまう。その日もぼくはそうして、いつものように流れていく風景をぼんやりと見ていた。
 そして何かが気になって、ふと、車内に目を移した。もたれたドアの反対側に、ショートカットの少女が立っていた。今にも泣きそうなのを必死にこらえるような表情で。その傍らに、金属棒の先に網のようなもののついた、ラクロスのクロスという道具が立てかけてあった。
 二十年前、当時はまだラクロスは珍しかったが、ぼくの通う大学の学生が始めたとかで、ぼく自身はその競技について知っていた。サッカーとほぼ同じ大きさのグランドの上で、クロスでテニスボール大のボールをパス/キャッチしながらキーパーの守るゴールを狙う、いわば空中ホッケーともいうようなスポーツだ。男女で一チームの構成人数やルールが違うのも特徴だ。大学スポーツとして、新しく定着しつつあったが、世間的な認知度はまだ低かったはずである。
 ぼくは、とにかくその少女の表情が気になった。思いつめた表情で、大きな瞳は必死に涙をこらえているようで、服装はラクロスの練習帰りなのか、運動部のそれなのだが、何とも心細く頼りなく、大丈夫かなこの子、という気にさせる。
 電車は和田町駅に着いた。ドアが開くと、その少女は降りて行った。クロスはドア横に立てかけたままだ。
「あ」
 思わずぼくは、クロスを手にして、和田町で降りてしまった。もちろん忘れ物を届けたいという気持ちもあるが、彼女の様子と自分のやっている競技の道具を忘れる心境を思うと、なんだか居ても立ってもいられない気がしたからだ。なんというか、大丈夫かなと。ほんとに。外は暗くなり始めているし、女の子が一人で歩くのも危ないかもしれない。
「あの、これ」
 彼女はものすごい勢いで、歩いていたので、ぼくが声をかけられたのは彼女が改札を出てしまってからだった。
「はい?あ、わたし…」
 振り返った彼女の目からは、すでに涙がいくつも落ちていた。
 女の子の涙…それはもう、男としては苦手なものである。男、なのか、ぼくだけなのか。
「大事なものだよね、クロス」
 ぼくは改札を出てしまった。
「すみません、わざわざ。ありがとうございます。…知ってるんですか。クロスって…」
 彼女は、ぼくがクロスを知っていたのがうれしかったらしく、泣き顔の向こうでちょっとだけ目が笑ってくれた。ぼくは、一瞬ドキリとする。
「うん、ぼくの大学の友人がやってて」
 友人の名前を出すと、どうやらラクロス界ではちょっとした有名人らしく彼女もその名を知っていて、ちょっとほっとしたようだった。
「あの、急いでいるの?何かあったの?大丈夫ですか?」
 ぼくは、思い切って聞いてみた。この時点で和田町駅から帷子川を渡り、もうだいぶ国道のほうまで出てきてしまった。
 共通の人間を知っていたことで、彼女はぼくに少し気を許してくれたらしく、和田町にある国立大学に通う学生であること、大学の近くに一人暮らしをしているということ、そして涙の理由、お母さんが長くないこと、を教えてくれた。
「わかっていたことなんだけど。でも連絡を受けて、動揺してしまって。クロスを忘れるなんてね。これから実家に帰るんです」
 ぼくは、やっぱり彼女が心配だった。そろそろ暗くなりかけていたし、そういうときは、人は慎重に行動しなくてはいけない、とぼくの母はよく言っていた。車の運転はダメとか。まして彼女は大切な”商売道具”を忘れるほど動揺している。
 ぼくは、できるだけ紳士的に聞こえるよう、家の近くまで送るよと申し出て、彼女も了承してくれた。そして、国道を渡りきると在学生は「登山」というらしい、つづら折りのような坂道を上っていった。登り切ってもなお大きな公園があって鬱蒼と木が立ち並んでおり、運動不足のぼくは息を切らせながらも、一帯は静かな住宅地とはいえ、やっぱり送ってきてよかったなと思った。
 しばらく行くとコンビニが明るい光を放っていた。ありがとう、ここからすぐだから、と彼女は精一杯の笑顔を、無理やりつくってくれた。
*    *    *
 たったそれだけのすれ違いだった。ちゃんと名前も聞かなかった。そのあと、彼女のお母さんはきっと亡くなられたに違いない。ただ、涙をたたえた大きな瞳と、心細げな、でも逞しさを感じる、そのたたずまいをよく覚えている。その少女とそっくりな少女が、二十年の時を経て、今、ぼくの前にいる。どういうことだ?
 電車は和田町駅に近づいている。二十年前のように、少女は和田町駅で降りてしまうのではと気が急いて、ぼくは声をかけてしまった。
 「…それは、ラクロスというスポーツですよね?」
 少女は、急に声をかけてきた不惑過ぎの男に怪訝な表情で振り向いた。
 「…あ…の、友人が昔やっていて」
 振り向いたその顔は、二十年前の彼女と瓜二つだった。ただし、少しあどけない気もする。まだ高校生なのかもしれない。
 少女は怪訝な表情をほどいて、にっこりと笑った。そういうことを聞かれることに慣れているのかもしれない。
 「そうです。ラクロスです。うちは母がやっていたんですよ。あ、ちょうどこの駅にある大学」
 と、電車は和田町駅を過ぎていく。そうだ、ぼくは急行に乗ったんだった。和田町駅には停車しない。急いで声をかけなくても大丈夫だったじゃないか。
「そうですか、お母さんが…」
「母が始めたころは、まだ珍しくて、よく街で“それは何?楽器”なんて声をかけられたそうです。たまに競技を知ってる人がいるとうれしかった、って」
「…じゃあ、お母さんはちょうどぼくと同じくらいの年かな。同じくらいの年の方に、こんなに大きなお子さんがいるんだね。ぼくの子供はまだ小さくて…」
 そんなたわいもないことを話しているうちに、二俣川駅に着いた。
 「あ、じゃぼくはここで」
 少女は、軽く会釈をしてくれた。
 時を超えた、再会といえるのだろうか?二度目のすれ違い。
 ホームに降り立ったぼくは、ふと立ち止まって、大きく息を吐いた。さっきの少女はほぼ間違いなく二十年前の彼女の娘だったのだろう。おそらく彼女は結婚をし、子供をもうけ、幸せに暮らしているに違いない。二十年前の答え合わせがひとつ、できたような気がする。
 そして、ぼくはなぜここにいるかを、改めて意識した。
 父に会いに行くのだ。ぼくは、間に合うのだろうか。母からは未だ連絡はない。
 二十年前の彼女は、あのとき、間に合ったのだろうか。でも、それがどうだったにせよ、彼女は強く、時を重ねたはずだ。
 ぼくは再び、家路への一歩を踏み出した。
               (終わり)

著者

円山未唯