「帷子川伝説」島田 勝

 私の生家は横浜の峰岡町である。
 その名の通り小高い丘の一帯にあり、上に登ると西の空には富士山が見えて、住むには良い環境だった。
 しかし、生まれた年の昭和19年はそれどころではない。戦争の真っただ中だったから、
父の生家のある群馬県桐生市に疎開した。
 3才に成って戻ったのだが、幸運なことにこの一帯は昔のままだった、と思う。
 と言うのは、戦前の写真とほぼ変わらぬ状態だったからだ。
 横浜は空襲により大被害を受けた。
 峰岡町の隣町である星川から天王町は、工業地帯だったらしく(今は面影も無いが)、壊滅的状態だった。
 小学校に上がるまでは、そうした状況は分かる訳がない。毎日遊びまわり、そして空腹だった。
 小学校は同じ町の下の方にあった。降りて行く事を固く禁じられていたので、通うようになって、この一帯がどうなっているのかを初めて知った。
 正門を出て10メートル程に広くて真っ直ぐな道路が横切っていて、灰色の車が猛スピードで走っていた。その向こうには壊れたコンクリートの建物が見え、やはり灰色の色々な車が沢山止まっている。
 戦争が有って、負けて、アメリカの軍隊が駐留しているのだと聞かされけれど、意味は分からない。それでも道路に近づくことも、渡ることも禁止であることを、先生から強く言われていたから肯いただけだ。
 その米軍が、何時の間にか居なくなったのは高学年に成ってからである。
 子供にとっては夢のような出来事だった。それまでは、向こう側には何があるのか、渡った人の話から想像するしかなかった。
 ある日、友達三人で勇気を出して、16号線と名前を付けられた道路を渡ってみた。
 そこには驚くような景色が在った。大きくは無いが川が流れていて、対岸には電車の線路が引かれていたからだ。
 10メートル程の小さな橋が架かっている。それを渡って川辺に下りて見た。
 この頃の帷子川は清流だった。上流に捺染工場が出来、流れで染めた布を洗ったほどだから、魚や虫など豊かな自然が残っていた。
 夏の日を受けて水面がキラキラひかり、目を開けられない。石ころだらけの川辺は歩きづらかった。石を投げるとドボンと音がして輪が浮き上がり、広がって行った。それを見て私達は笑い声を上げたのだった。
 それから毎日の様に帷子川に行った。
 時々、電車が走って来てこの近くからスピードを落とす。星川駅は目の前だ。
 この電車が相鉄線と言うのは母から聞いたが、一年に数えるほどしか乗らない。何故なら市電の復興の方が早く、20分も歩くと乗ることができて横浜駅は勿論、伊勢佐木町や本牧などに簡単に行けたからだ。
 それでも遊び場としての、線路は飽きなかった。今では入ることもできないその場所で、遊ばなかった男の子は居ないだろう。
 レールを歩いたり、石を車輪で砕かせたり、釘を置いて尖らせるなど次々と遊びを考えて、近くを電車が通っても気にしなかった。
 今より遥かに遅い速度で走っていたから、運転手や車掌が叱ってくるけれど、手を振ったりして知らん顔だった。
 その日は、橋の上に中学生が5,6人いて、飛び込んでいた。川面まで3メートル位しかないので、ちょっと勇気を出せば落ちて行ける。しかし、川の曲がり角なので深みに飛び込むと危険であった。
 大きく婉曲しているから川底が抉られ、深い澱みが出来ている。台風などで増水し流されたりすると、ここから抜け出せなくなるそうだ。だから、私達は飛び込みを一度もした事は無かった。
 橋の手前で、彼らの飛び込みを見ていたら、
 「お前たちも飛び込めよ。」
 と、一番背の高い子が言った。
 「いいです。怒られるから。」
 後ずさりした私の手を取って、橋の欄干に押し付けて来た。
 「早くしろよ。」
 友達二人は、座り込んでしまった。
 私を押した力は予想外に強く、欄干に片手で捕まったのだが、体は既に宙に浮いていた。欄干から手はあっという間に離れてしまったのだった。
 足から水面に落ちたのが良かったのかも知れない。ドボンの音と、汚れた水の中に沸き立つ泡が見えたことまでは覚えている。
 夢の中なのかと思った。物凄いスピードで、下へ下へと落ちて行く。周りは薄茶けたような暗い壁で、限りなく落ち続けて底に着かないのである。
 こんな事が何時まで、続くのだろう。死ぬと言う事は、この事なのだろうか?地獄に落ちるとはこの事かと思った時、誰かが呼んだような気がした。
 すると、ぬっと顔のような物が目の前に現れた。悲鳴を上げようにも声が出ない。
 ようやくそれが、男の顔であることに気付いた。濃いひげに覆われた顔でギョロっと見た目は、射すくめるようだった。
 何だか変な帽子のような物を被っている。
そう言えば、疎開先の祖父から貰った武者人形が同じ物を付けていた。
 じっと、私を見て、
 「お館様に無念を伝えてくれ!」
 と、大声で叫んでふっと消えたのだった。
 その時、私を呼ぶ声が聞こえた。段々大きくなり母の声だと思い出した時、視界が急に明るくなった。
 母の覗き込んだ顔があった。
 通りがかった男の人が助けてくれたらしい。その後、高熱に魘されたのだ。
 私は一人息子だったので、母は父から強く怒られたらしい。それ以来、16号線を渡ることを禁じられたので、また川と電車の遊びは出来なくなってしまった。
 
 中学、高校と青春期は激動だった。
 安保闘争に揺れたけど、高度成長の波に乗り豊かさが浸透し始めた。ビートルズの出現や反戦運動などは新しい価値観を創って行って、敗戦を忘れようとする社会ムードの背中を押した。
 横浜は急速に復興し賑わいを取り戻していたと共に、大都市化への兆しが見えていた。
 その引き金となったのは横浜駅西口の開発だろう。国体が開催され、高島屋が出来て、あっという間に賑やかな街が出現した。それと共に相鉄線の沿線開発が進んで行き、それまでどちらかと言うと、伊勢佐木町界隈に譲っていた横浜の中心街に成って行った。
 高校からは電車通学に成り星川駅から乗降した。あの米軍の車両置き場の跡地には、戦前の様に工場が建ち、そのお陰で一家は生活できた訳だが、商店街も復興し瞬く間に賑わいを取り戻して居た。星川駅も乗降客が増えて朝晩は結構な混雑だった。当時の改札口は峰岡町側には無かったから、あの橋を渡り、更に、工場を半周したので家から二十分も掛かった。
 毎日、渡って居るのに、その橋の近くに来るとやはり思い出して嫌な気分に成った。
 ある日、この話を鶴ヶ峰駅から通学している友達に話したところ、その友は、
 「畠山重忠の事じゃないか?」
 と、笑いながら言った。
 この時に初めて、重忠が帷子川の上流で討死したのを知ったのである。その故事を伝えようと記念碑が駅前に建ったとのことだった。数年前の事で地元の友達でさえ、その時初めて重忠のゆかりの地と知ったらしいから埋もれていた話なのだろう。
 重忠については「源平合戦」の中でしか知らなかった。有名なのはヒヨドリ越えで義経と共に戦った逸話である、馬が可哀想と背負って急峻な崖を降りたことは、伝説に成っている。
 そんな豪傑の最後の話は驚きだった。
 母に話すと、
 「そう言えば、帷子川と言うのは重忠が合戦の汚れを川の水で落としたことから、付いた名前だと聞いたことがある。」
 と言った。更に、
 「そうだ、お前が川から助けられた時、手にこれを持っていたよ。」
 物入れから出してきたのは、武者人形に付いているような小物だった。古びている上に、川に長く浸かっていたからか、周りはボロボロに成っていた。
 次の日曜日。鶴ヶ峰に行って見ようと初めて、相鉄線下りに乗ったのである。
 下り線に乗る必要が無かった上に、やや抵抗感もあった。開発の進む沿岸部に比べ魅力を感じなかったからである。
 兎に角、下り線に乗ると想像通り和田町駅を過ぎる辺りから、急に人家がまばらに成って行く。
 この電車が如何に、帷子川と共存しているかが良く分かる。和田町、上星川、西谷そして鶴ヶ峰まで、ずっと左手に見え隠れする。
 夏の終わりの太陽が川面に光り、木々の間から見え隠れしたのが印象的だった。この時の車窓の映像は強く心に残って、相鉄線下りと聞くと必ず思い浮かんだ。
 鶴ヶ峰駅は想像より大きく、人家も多く意外だった。近くに、笹山、左近山と言った団地が出来始めたからかも知れない。
 重忠の記念碑は駅の近くに建っていた。持ってきたあの日の拾い物を碑の根元に埋めて手を合わせたら、何故かほっとした。
 その近くに区役所があり、パンフレットが置いてあった。それによると、頼朝亡き後、北条氏は旧臣の排除に掛かったらしい。それが重忠にも及び、僅か135騎で言い開きに鎌倉に向かった重忠一行を数万の軍勢をもって、この地で殲滅したと言う。「二俣川の戦い」と呼ぶそうだ。
 帰りの電車で疑問が湧いて来た。
 母の教えと剣道の修練の影響で、日本人の心の底にある「武士道的誠実さ」に共感していた私には、その真逆のような出来事が、あの時代にあったとは信じ難かったのである。
 しかし、私にとってそれ以上の興味は引かなく、人並みに人生の荒波の中へ入って行った。
 そして40年後の正月、その年も鎌倉八幡宮に初詣に行った。前年に八幡宮名物の銀杏の大木が折れたとのニュースが話題になっていた。あの公暁が実朝を討った場所とされる大木である。
 本殿を見上げる石段に来て驚いたことに、全く風景が変わってしまった。あの銀杏が如何にこの八幡宮の風景を演出していたかはっきり分かる。
 神社を取り巻く景色から荘厳さが欠けてしまっていた。あるべき物が無くなると、それを取り巻く全てが色褪せてしまうようだ。
 ふと、その時、あの「二俣川の戦い」を思い出した。そして、銀杏の存在があの事件の答えではないかと閃いた。
 この時代に「武士道」の概念は定着していた。遣唐使などで運ばれた侍のあるべき姿は、
武士社会には必要不可欠だったからである。
 その武士社会の基礎を北条一族は無視した事が、鎌倉の時代を終わらせ、戦国へ導いてしまった。それはどの時代にも共通の矛盾である。重忠はそんな矛盾へ抵抗して見せたのだろうか?

 「私説」
 鎌倉で可笑しなことが起きていると聞いていた重忠は、次に伝えられた4男、重保が討たれたとの報告で腹を決めたのである。
 盟友である梶原景時が騙し討ちの様に滅ぼされたときに、こうした事態も予想していた。
 それ程にお館様亡き後、幕府内は混乱してしまった。北条一族の目に余る所業は腹に据えかねる時もあり、重忠は深谷の領地に居ることが多く成った。
 そして、「その時」にはどう対処するか考えに考えて腹を決めていた。我が身だけでなく一族郎党を考えて出した答えだから、自分が動じてはならない。
 直ぐに、本田、榛沢を呼んだ。
 「重保が討たれた。」
 二人に声は無い。不穏な動きはあったが、ここまでとは?
 「鎌倉に討って出るぞ!」
 そうゆう決断もあるだろうと考えていたのだろう二人は肯いた。
 重忠は作戦を話して聞かせた。二人は途中で、矛盾点を意見する。それは初夏の太陽が、中天に懸かる6月19日だった。
 選りすぐりの家臣と、足の速い馬とを134名選んで時を置かず出立した。鎧兜を身に着けず争いの為の上洛でない事を印象付けたが、一時も置かず荷馬車が後を追った。
 更に、翌日には榛沢成清が率いる家臣軍3千が出立し、ほとんどが歩兵だが走るように後を追った。
 菅谷館を出ていつもの様に、鎌倉街道上道を走りながら次々と物見を放した。
 鎌倉は大混乱しているらしく、物見の持ち帰る情報も錯綜していた。敵の物見も当然動いているから、重忠が僅かな手勢で向かったことは直ぐに知らされたが、その意味を知ろうとする前に討伐は決まったようだ。
 しかし、まだ、時政と義時の間で意見が合わず揉めていた。梶原を討って重忠までと、義時は諫めたが討つことに決まった。その頃、重忠は既に多摩川まで来ていた。
 時政は可能な限りの軍勢を集めるだろう。何故なら、権勢を見せつけて、旧臣たちの幕府は終わりであることを印象づけたいに違いない。
 21日に成って、鎌倉勢の先陣がやっと出立したと報告が来た。
 重忠軍は上道から中道に入り、22日の朝には町田に居た。思惑通りに事態は進んでいる。皆を前にして、
 「鎌倉は謀反の疑いで、我らを討ち果たすことに決めたらしい。我らはこの理不尽な事態に関東武士の意地を見せて戦う。皆の者、我に命をくれ。」
 詳細を聞かずとも理解しただろう。俯いて、目を潤ませる者がほとんどだった。
 重忠と一緒に戦ってきた同士だった。重忠が平家方に属した父に反しても、筋を通して頼朝に従い、各地を転戦し、鎌倉幕府を打ち立てた歴史も見ている。こんな事態に無念さを感じない者は居ない。
 更に馬を進めると中山里で、敵の物見が居ないことを確かめ、左に折れ小机に向かったのである。鴨居付近で馬を降り、山道に分け入った時は流石に家臣たちも驚いた。もう少し行けば下道に続く道もあったからである。
 二人が歩けるほどの道は狭く、滑って、歩き難かった。それでも一刻ほどすると丘の上に出た。
 小机の里が遠望できる。
 街道と呼ばれなくとも、これも「鎌倉道」
であり商人などは好んで歩くそうだ。
 更に一刻進むと前が開けた。
 盆地が広がり、中央に細い川が流れている。
 「川島の里だよ。」
 下ったところに川に沿って街道があり、ちらほらと村人の姿が見えた。街道を右に行けば中道であるが、重忠は何故か左に馬を進めた。10分も歩いたろうか左手に社が見えて来た。
 一画は木々に囲まれ涼しげだった。
 入って行った重忠を見て、流石に一団はほっとした。慣れない山道を、馬を引きながら歩いたのだから休息は有難い。
 神社は小さなものだったが、木漏れ日の中で幻想的に見え、重忠が社に跪くのを待ちかねたように全員が頭を垂れたのだった。
 沈黙の後、重忠が語った。
 「ここは杉山神社と言って、この地方だけで70を超える祠があるそうだ。頼朝公は大いに保護した。」
 「言い伝えでは、日本武尊命がこの一帯の部族に手を焼いて敗走しそうになった時、突然雷雨が襲って勝利したそうだ。」
 「神に感謝して神社を建てた。雷の落ちた数だけ建てたそうだが、本当かどうかは分からん。」
 何処からか力が降ってくるようで、皆、気持ちが軽くなる思いがしたのである。
 既に、日差しは中天に近い。
 重忠は待っていた。この場所は中道と下道の中間点である。ここで、これからの戦い方を決める覚悟だった。
 敵の物見を避けるため、山道を来たのだが、
後から来た武具を運ぶ荷車は、小机から下の道を来ても気付かれなかったようだった。早速、武具を着けている所に次々と知らせが入って来る。
 榛沢隊は中山に着いたとのこと。予想より早い。そして、下道を来る鎌倉勢は五千、既に下永谷まで来ていると。
 「思った通りか?」
 鎌倉勢がこれ程、動くとは意外だった。中道を大軍で来て一気に菅谷まで攻め入ると想ったのだが、それ以上の数と陣容で向かった裏には、重忠への大きな警戒感があったのだろう。
 それ程に、鎌倉幕府にとっての功労者だった。同情して立ち上がる家臣が出るのを恐れたのかも知れない。だから、下道からも兵を出し万全を期したのである。
 それでも、下道の方が有利だろうと重忠は考えていたのだが、この道には欠点がある。帷子川の下流故、海に近く、潮が満ちると渡れなくなるのだ。現在の天王町駅はこの時代に海辺だったから、その北側にある渡河場所は汐待しなければ進めなかった。この時もやはり潮は満ちていた。
 重忠は決めた。
 「皆、よく聞け。これより二俣川に向かう。そこで後続隊と合流し、北条軍を待ち受ける。」
 再び日本武尊に武運を祈願して騎乗した。
 
 二俣川までは、半時も掛からない。
 今では鶴ヶ峰と呼ばれている帷子川と二俣川が合流する地点に、渡河場所がある。天然の堀の役目を持つから橋は無い。川の合流で水量は多いが騎乗すれば渡れるし、肩まで浸かって徒歩で渡る旅人もいる。
 帷子川は厄介な川で、蛇の様に曲がっているから、上流で雨が降れば忽ち水嵩が上がってしまう。騎馬は兎に角、歩兵が渡れなければ軍を成さないから運任せに成ってしまう。
 この時は、通常の水嵩だった。
 重忠は急いで、この一帯に大量にある太い竹を集めさせて、「竹垣」を造らせた。組み合わせた竹の先端は鋭利に尖らせて、容易に超えられないようにした。
 次に竹を割り並べて縛り上げ、畳一畳ほどの竹戸を造らせた。竹梯子も用意した。
 里長には大金を渡して協力を得た。村人たちは進んで竹を切り、縄を提供し、中には造るのを手伝う者も居たのだった。
 余談だが、戦闘後に重忠隊の遺体埋葬をしたのは村人だったのである。
 竹の武具が三十ほど出来上がった頃、大きな歓声と共に榛沢隊が到着した。
 駆けに駆けて来た3千は流石に疲れ切っていたが、暫しの休息の後、竹武具造りを手伝った。忽ち、三百を超える出来たこれらを組み合わせて竹垣を造り、川岸は勿論、川の底やここに通じる三方向の道に置いた時、この一角が小さな城塞に成ったのだった。
 備えが終わると主だったものを集め、最後の指示を出した。そして重忠は言った。
 「よいか、勝って、鎌倉に攻め込むぞ!」
 「おー」と歓声が木霊した。
 重忠が川の後ろの丘に陣取るのを待っていたように、敵の先鋒、三浦隊は近いとの知らせが入った。
 半時もすると、対岸に土埃が高く上がった。
 「やはりな。」
 重忠は微笑んだ。
 土埃の幅は狭く、大軍なのに広がって進軍できないことが見て取れる。対岸は木立と鬱蒼とした草で覆われているからだ。
 騎馬隊が姿を見せ、現れたのは三浦義村であった。
 「重忠殿、恭順なされよ。取り計らうに。」
 「長き付き合いなのに、お主が来るとは?
畠山武士の意地をお見せいたす。」
 三浦義村と言う武将は、鎌倉幕府を衰退させた一人である。自分と競い合う立場の武将を次々と排除して、鎌倉幕府の中を上手く生き抜いた。梶原景時を滅亡させたことへも関与し、北条の間を上手く泳いでいる彼への政時達の警戒は強くなる一方だった。
 この時も畠山を討つ中で、義村も上手くすれば消えてもらいたいと考えた。その為、物見が持ち帰る情報を十分に伝えなかった。
 この川岸に着くまで、重忠は僅かな手勢で向かっていると思っていたのである。当然、戦支度も十分でなく、行軍も急がなかった。
 畠山軍が鶴ヶ峰に着いてからは、物見は帰ってこなくなるから、益々、状況が分からなくなり、重忠軍に出城造りを許してしまったことに成る。
 義村は畠山軍になかなか遭遇しないことの意味を考えていた。19日に出立したら鎌倉近くまで来ているはずであり、その方が有利である。下道を来た時の為に軍勢を出しているが、遭遇したという知らせは無い。
 そんな時に、この光景が出現した。
 鎧兜の重忠を見て驚いただけでなく、敵が出城を造り対岸を埋め尽くしていたから、冷静さを失ってしまった。
 堀を挟んでいるようなこの状況での戦闘の常識からすると、三浦隊は矢の雨を降らせて、戦力を削いでから突撃するのだが、騎馬隊が先頭で進んできたこともあり、焦った義村は叫ぶように突撃命令を叫んだのだった。
 川に下りる細い坂道を数10騎が突進した。次の瞬間、騎乗の武士は高々と舞って水中に没した。
 馬の嘶きと人の叫び声で川面が埋め尽くされた後、一瞬の静寂が覆いつくした。誰もが、次の場面を見たくなかったからだ。
 川底に埋められた先の尖った竹垣に引っ掛かり刺された馬は、狂ったように跳ねて脱出しようとする。そして、武者をふるい落とし嘶いた。
 川面は真っ赤に染まり、馬の嘶きで武者の断末魔はかき消されて行く。そして、川から這い出た者はその場でこと切れた。
 三浦軍の悲劇は数が多かったために、前で何が起きているのか分からなかったことだ。川辺は一段高いので押さて落ちるように次々と騎馬が突進し血を流して、川の中や岸辺に横たわったのだった。
 突撃を止めた時には、100騎以上が犠牲に成っていた。その瞬間を待っていたかのように、新たな竹垣が犠牲になった武士や馬の間に沈められた。
 三浦軍の愚かさはそれではと歩兵を攻め込ませたことだ。流石に、騎馬隊が沈んでいるところを迂回して攻め込んだが、水没する者が多くこれも上手く行かなかった。
 この地点は大軍の攻撃には向いていない。川は一段と低い所にあるから、昇り降りが危険な上に二俣川の上流の水嵩の少ない地点で渡河しても、更に帷子川を渡らなければならなかったからだ。
 軍勢で劣る戦い方を教えてくれたのは九郎義経だった。幼少期に預けられた鞍馬山の寺で中国から伝わった戦略書を読んだと言う。
 彼と共に西国まで転戦した時、それまでの力押しの戦いを改めたのだった。
 この戦いに勝利は無い。万が一、鎌倉に攻め入れば、こちらに大義があっても逆賊に成ってしまうからだ。大軍を敗走させることが出来れば、「武士らしく戦った」ことの意義が心あるものは分かるはずだ。
 「戦略」で言う小軍が大軍との戦い方は、
地の利を得ることと奇襲である。その条件を整えて、ここに布陣出来たまでは計画のまま進んでいる。
 鎌倉方が大軍を次々と出したのは、百三十五騎が出立した後を追って三千の兵が出たとの報告を受けたからだ。しかもその時点で重忠が消えてしまったから、中道、下道の二つに軍隊を出すことに成った。
 鎌倉で待っていれば畠山一族を滅ぼす言い訳が出来たろうに、出陣したのが間違えだ。
 否、時政は重忠に同情して兵を挙げる武将が出ることを恐れたのかも知れない。その為に次々と兵を出し、鎌倉に置かずに早く重忠軍を討伐したかったのだろう。
 重忠が予想した通り、中道から進軍して来たが、下道からも5千もの数が来るとは思いも拠らなかった。中道から来る軍の進みが早く、しかも大軍なのを知って鶴ヶ峰に決めたのは、背後から大軍に攻められるのを避けたからだ。

 攻め手に困ったか暫く静まり返って、今度は大量の矢が撃ち込まれた。まさに、雨の様に矢は降り注いだ。流石に重忠軍は竹の盾に隠れて身を伏せたのだった。
 また攻撃が始まった。歩兵が川を渡り人と馬の死体を取り除きながら進んで来る。その間も矢が雨の様に降ってくる。流石に物量は十分のようだ。
 騎馬隊が次々と走り下りた。
 重忠が手を上げると後方の高台に位置した、弓隊が一斉に騎馬隊へ矢を放った。そのほとんどは、鎌倉軍が撃ち寄こした矢である。
 ハリネズミの様に成った多くの武者は落馬し、馬と共に川を赤く染めながら沈んで行った。それでも大軍の戦法はこれだけとばかり同じことが繰り返され、中には渡河する武者もいたが、土手を登る坂道で繰り出された槍に突き落とされた。
 川谷に死体の山が出来て攻撃が止んだ。攻め手に悩んでいるのだろうか?重忠軍も攻撃を止めた時、太陽は西に傾き始めていた。
 思いがけず、静寂が流れた。
 重忠は嫌な予感がした。すると、
 「殿、下道方向から敵軍が近づいて来ています。」
 やはりか。敵方もそれを知り到着を待って、挟み撃ちを図っているのだろう。
 敵兵を3千近く倒したはずだが、こちらも五百近くを失った。そのほとんどが飛んでくる矢によるものだ。
 重忠は高みに登ると声高に言った。
 「敵は後方からも来た。これから打って出て、一気に鎌倉を目指す。皆の者、後れをとるな!」
 殿を願い出た本田に全ての矢を残し、騎馬五百と徒士兵千五百は対岸に向かって突進した。
 ここでも活躍したのは竹である。
 竹板の繋ぎ目に沈めた柱の尖った先端を差し込み橋にした。更に崖は梯子で登ったから、あっという間に対岸に登り切ったのである。
 敵が渡河して来ると想像しなかった三浦軍は混乱に陥った。下道からの味方が到着すれば挟み撃ちが出来、決着は付くと誰もが思っていたから、不意打ちを受けたような状態になった。
 中には長い戦闘に疲れ、横に成っている者も少なくなかったから混乱状態になり誰かの一言で来た道を逃げ始めたのである。
 「援軍が来たぞ、追いかけろ!」
 重忠は敵の援軍を、見方の様に叫ばせたのだった。
 万に近い敵軍は半分以上が戦闘に参加してないし状況が分からない。逃げ来る先鋒部隊と、様子を見ようとする後方がぶつかり合い大混乱に成った。
 それを追う重忠軍は進んでも退いても「死」
を覚悟しているから、なぎ倒す様に敵に襲い掛かり、万の大軍を数千の軍が追うという不思議な展開になった。
 重忠にとっては久々の戦であった。
 馬を走らせながら若きあの頃の日々が思い出された。戦いに勝てば、何かまた新しいことが起こるような熱い日々だった。
 「私は、戦うのが好きなのですかね。お館様?」
 押されに押された鎌倉軍は広い野原まで下がった。後に万騎が原と名付けられたここで横に広がった時、初めて重忠軍を迎え撃つ状況が作れたと言える。
 「皆の者、礼を言うぞ。さあ、いざ、鎌倉へ!」
 重忠を乗せた騎馬は踊る様に、敵軍の真っただ中に突っ込んでいった。その空は夕日で赤く染まっていた。

 小学校の裏に斜めに登る道があり、登った先に現在は横浜国大がある。
 この道が鎌倉街道下道だと初めて知った。子供の頃遊んだ所にも、時代の名残があるのだろう。
 

著者

島田 勝